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ただ文章を書くだけのブログ

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猫の島の話

2020-06-10 23:21:38 | 昔の話
 俺の住んでる宮城県には田代島っていう、いわゆる”猫の島”があってさ、島民が70人くらいに対して猫200匹くらいいる島で、今でこそそれなりに知られた島だけど俺が言った7年位前はまだマイナーな島だったのよ。何となくだけどネットで発見して、行ってみようかなってある時思ったのよ。

 仕事終わって次の日の朝に石巻のフェリー乗り場にいって、フェリーで40分くらいだったかな、それなりに人は乗ってたんだけど皆田代島で降りて(次の島は網地島)さ、皆散り散りに猫を触りに行くのよ。

 実際行くとやることないからとりあえず猫を追い求めるんだけど別に猫って1時間も触ってて面白いもんでもないからすぐ飽きてさ、次のフェリーの時間まで海岸で寝てたのよ。そしたらなんか寝てる俺の上に猫がみんな乗っかってきて猫布団みたいな状態になって、それが面白いのか他の客に写真撮られたりしてさ。

 んでね、それは別に良いんだけど、田代島の猫の中にも「触れる猫」と「近づけるけど触る距離まで行くと逃げる猫」と「全く近づけない猫」がいて、これらは大抵同じ様な猫なんだけど「自分から近付いてきて懐く猫」も一定数いるのよ。そんで、その、自分から近付いてくる猫ってのは殆どが「どっかに古い傷がある」猫なのよ。例えば目が片方潰れてたり、耳がちょっと欠けてたり、足が少しびっこになってたり、とかさ。

 あの、美しいと感じる物のバランスの、比率で黄金比ってのがあるけど、こういう色んな効率に優れたものに共通する数をフィボナッチ数列っていうんだけどさ、自然が総じて美しい構造というか完璧な構造を保ってるのは「完璧な効率を求めないと競争相手の多すぎる自然の中で生き残っていけないから、完璧な姿のモノが残るだけに、自然は大抵完璧な美しさを持ってる」っていう考え方があるのよ。

 で何が言いたいのかっていうとさ「欠損のある猫は人懐っこい」っていうのは、何となく上で書いた「完璧な姿で無いと生き残っていけない」に共通するんじゃないかなって俺は何となく思うのよ。植物は動物じゃないから容易に動いたりしないし感情なんてもんがあるのかどうかも見えないけど、猫は動物だからさ、それなりに何を考えているのかとかは分かりやすいよね。それにこの田代島の猫は島の人から餌を貰ってるから生きる事に必死にならなくてもいいっていう点もある。それを踏まえた上で「欠損のある猫は人懐っこい」ってのは本来野生の植物なら「欠損がある植物は生き残っていけないから淘汰される」筈だけど、ここの猫はそれがない。でも「欠損があるってことは完璧な姿のヤツよりも非効率的な状態で、弱い」ってことであって、その弱い奴らが人懐っこいってのは「同じ猫から相手にされないから」なんじゃないのかな、って。

 そう思った時にさ、寂しかったり悲しかったり、嬉しかったり楽しかったりするのは何も人間の特許じゃないんだろうって漠然と思ったのよね。そんなのはさ、犬猫なら解りやすいけど、例えば蛇、蜂、蚊とかトカゲとかそういう生き物だってそうなんじゃないかって。多くの人が苦手としたり嫌ったりするこういう生き物も、食べる物がいっぱいあれば安心するし、それを奪いに来る奴がいれば戦うし、自分の子が生まれた時には嬉しいし、それを失いたくないから不安になるし、結局の所、皆が皆「死ぬのが怖いから、死にたくないから生きてる」んじゃないかって。人間だって変な理屈をつけなきゃ、純粋な状態においてはそうだろうよ。

 そういう事を、まあ田代島に行った時に思ってさ、今でもたまーにそれを考える時があるのよ。んで、それを考える様になってから何が変わったかっていうと「基本的に生き物を殺さなくなった」んだよね。それはアブだの蚊だの、人間にとって害虫ってされるような生き物でもそうでさ、家に入ってきたなら、出来る事なら外に逃がしてやりたいし、殺すってのは自分の為だけの行為だから最終手段ってことにしてさ。

 アリを踏んで殺すのは可哀想だからアリを避けて歩くようにしようとか、そういう非現実的な話じゃなくてさ、自分に負担にならない程度で、なるべく何かを殺さない人間でいようと思うようになったのは、なんだか、田代島のお陰だったような気が今でもすんのよね。

 なんかいい人と思われたくて言ってる話みたいになっちゃったけど、思ったそのままのことだから仕方ない。

知らん婆さんと孫の話

2020-06-10 22:21:42 | 昔の話

 3年位前に真夏に北海道にキャンプツーリング(キャンプ主体じゃなくて温泉と登山の為の旅だけどさ)に行った時の話なんだけど、宮城から三陸方面を通って青森の大間まで行って大間からフェリーで函館に行って、んでその日の内に函館恵山の道の駅、たしか、なとわえさんとか言う名前だったと思ったんだけどこの道の駅のすぐ横に何にもないキャンプ場があってそこにテント張って泊まって、んで次の日に恵山に登ってから降りてきて、少しまた海岸方面に戻って、今多分検索しても出てこないんじゃないかと思うけど御崎海浜温泉っていう知らないとちょっと入れない様な温泉が近くにあってそこに入ってからぐるっと恵山を周って、向かい側の水無海浜温泉っていうフナムシだらけの温泉に入って、そっから少し北に行った辺りでちょっと疲れたからバイクを降りて縁石に座って休憩してたのよ。

 その辺りは確か南茅部(みなみかやべ)っていう地名で、大き目の橋を目の前にした脇の縁石に座ってたらその縁石のすぐ前にある民家(なんか昔個人商店やってた様な造りの家)から80歳くらいの婆さんが出てきて「そんなとこさ座ってたら日射病さなるから、うちさあがってお茶飲まいん」(記憶違いじゃなければ北海道のこの辺の方言ってこんな感じで東北の方言に似てた気がする)って声掛けられたのよ。

 俺は元々愛想が悪い人間だけど、親切心で言ってくれる人や特に歳行った人からの善意はホントに断れない人間だから愛想よく家に入れて貰って、缶の冷たいお茶を貰って30分くらい話を聞いてたんだけど、そん時に聞いたので覚えてるのが「この辺りで採れる昆布は白口浜って言って、利尻や羅臼昆布に比べてあんまり知られていないけど高級料亭で使われるような本当に凄い昆布だ」とか「もう少し北に行って鹿部の道の駅に行くと、道の駅の施設の中に間欠泉が湧いてる」とか「南に行った所に虫だらけの汚い露天風呂があるけど、あそこに入る奴はキ〇ガイだけだ」とか、そんな具合の事を覚えてるけど、多分まあもっと色々な話をして貰ったのよ。

 そんで大体話終わったかなって時に「孫がオートバイに乗ってたからね、オートバイで旅してる人見るとね、声掛けちゃうのよ」って言われてさ、何の気無しに「お孫さんは今は?」って聞いたら「遠くさ行ってしまったからねえ……」って言われて話が切れたのよ。

 これはもしかして、死にまつわるタイプの、あんまり聞いては良くない話だったんではないか? と思ってそのまま黙ってたんだけど、またあっちから喋り出して「おっきなバイクで今ね、熊本の大学さ行ったから、1年に1回くらいしか帰ってこないのよ」って。

 まあつまらないオチの話だけど、旅してて色々なんか貰ったり親切にされたりする事ってそれなりにあるけどさ、まあ、凄い正直な言い方すると「その、親切にされた時は別にそこまで嬉しいとは思わない」んだけど、何故か親切にされたその出来事ってのはいつまでも覚えてんだよね。別に詳しくは書かないけど、納沙布(のさっぷ)岬近くで昆布くれたおっさんとか、興部(おこっぺ)でチーズくれたジジイとか、北海道じゃないけど宮城の気仙沼大島のキャンプ場でコーヒーくれた一家とか、後全然親切でもなんでもないけど音威子府(おといねっぷ)の道の駅で、俺のバイクの宮城ナンバーを見てなのか、急に「私の親戚皆ねえ、石巻(いしのまき)で津波で死んじゃったの!」って笑顔で言ってきたお姉さんとか。

 旅の思い出ってなんかこう、変なんだよな。テレビとかなんかで言う様な美談的なものってのは少ないしあっても別にそこまで覚えてないんだけど、ふとした時にホントに大した事ない思い出がふっと頭に出てきて、なんか忘れられなくなるんだよね。そんな時に、たまに思うんだ。あの人はいま何してんだろうなあ、って。別に俺に何の関係も無いし、知る方法も無いけど、何となく、あの時あったあの顔をもう一度よく見て見たいな、とか、もうちょっとちゃんと覚えておけば良かったな、とか。

 いや、ホント、こんな程度の話だったら腐る程あるわさ。