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「食べ物を粗末にするな」の話

2020-12-01 09:08:36 | 昔の話
突然だけど俺、BMIは21で体脂肪率が普段7~10%くらいのスーパーアスリートな体型なのよ。数値で言われて解らない人も多いと思うけど、単純に言うと「一般の人とはもはや異なる領域のスポーツ体型」って感じだと思ってもらえると解りやすいかも。たまーに見るマラソン選手とか水泳選手の身体みたいなのを想像して貰えれば解りやすいかな。

色んなトコを旅したり山に登ったり歩いたりするから、こういう身体をしてると体力的に不安も全く無いし、適度に筋肉あるから怪我とか腰痛とかにもなりにくくて凄く良いから、普段からその辺りを維持してんのね。だから、ある程度栄養とか健康のことは勉強したし、そういう話には詳しいつもりではいるのよ。

で、話は変わって食い物の話なんだけど、巷に溢れている「食べ物を粗末にするな」「出された物は残さず食べろ」「米は一粒も残さず食べろ」っていう、なんていうかマナーというか「食い物粗末にするな教」的な”教え”についてなんだけど、個人的意見ではあるけど、この宗教の「せいで」健康を害した人が世の中には多くいるってのはもう間違いないと俺は思ってるのね。

自分がかなり厳しい摂生をしてるだけに人の身体はもう着衣で見ただけでも健康かそうでないかはそれなりに判断つくくらいの目になってるんだけどさ、今、正直言って世の中の人を見れば10人中に9人は大抵「体脂肪が多くて、運動不足な人」のレベルで、これは何も体型だけに限らず例えば手の血管の見えやすさとかでもすぐ分かるんだけど、多くの人が「そんなに太ってないと思う」ような人でも体脂肪率は結構高くて、見て分かる15%(適正値付近、女性は基礎が違うから+10%くらいで考えてね)近辺の人なんて殆どいないってのが現実なのよ。実際、ココ見てる人がどんだけいるか知らないけど、自分のBMIを知ってる人がまず限られてくるだろうし、BMIが22辺りの人はもっと限られてくると思う。

そんで話を戻すけど、人はそれぞれ人生において色々な意味で担っている負荷が違っていて、仕事内容も当然違っていて、筋肉量や基礎代謝が違っていて、趣味嗜好が違っていて、それで世の中が成り立って行くんだけど、非力なお婆さんがデカいトランクケースを持てないってのは見て誰でも分かることだけど、こと”個人の飲食の限界量”や”その飲食物の含む栄養の量”ってのは誰でも見てすぐ分かるものじゃないから、例えば飲食店にしかり、人の家にお呼ばれした時にしかり、お母さんの作るご飯にしかり、自分で作ったもんじゃない食事の量とカロリー等が自分にとって適切である場合って、正直に言って殆ど無いのよ。お母さんが作るご飯ですら、お母さんが栄養士であるとか特別な能力の人でも無い限りはまず有り得ないし、栄養士であっても本人でない限り子が日々どのくらい動いているかとか間食してるかなんかは知らない場合があるから、もうハッキリ言ってこれは「(本人に適当な知識がある上で)本人じゃないと絶対解らない話」なのね。

でも、上で言った「食い物を粗末にするな教」の信者の人達ってのは、人間よりも食い物を崇めるから「食い物は残してはならない、頼んで出てきた物は全部食べるのが礼儀だ」っていう主張を自分のみならず他の人にもしたりするんだけど、これは上で言った「非力なお婆さんがデカいトランクケースを持てない」のに「持たせようとする行為」と同じなのよ。これを無理にさせると当然ながら身体を壊す訳だけど、本人のキャパシティを知らない人が「出されたんだから食べて当然だ」という理屈を振りかざして当人に食う事を励行するってのは、結局これもじわじわと身体を壊させて行ってる行為なのよ。(もっと言うと、これは結局最終的に食べるかどうか決めるのは本人だ、と言い訳出来る分だけ質が悪いしね。無理矢理重い物を持たせて人を怪我させるよりも、ね)

多分、俺の今してる話がしっかり理解出来る人ってホントに一握りだと思うんだけど、人が出来る事って例えば時間だけで見ても総量は必ず定められていて一日24時間の内、何かを追加して行うとすれば何かの時間を犠牲にしなきゃならない筈なのよ。毎日全く同じ事をしていてその予定を崩すことなく何かを1時間しようとしたら、例えば睡眠時間を1時間割かないとどうしようもなくなったり、飯を30分掛けて食ってたのを10分に短縮して3回で60分節約したり、とかね。そしてこれは何も時間だけじゃなく、人の行動、思想、何から何においても「ある力なりをある方に注ぐ時には、またある方の割合はその分不足するのが当たり前」だと思うのよ。

そうした考え方をした時、上で書いたとある人の主張である「食い物を粗末にするな」って考えは、ハッキリと逆の事を言えば「食い物を粗末にしない為にそれを摂取する身体を粗末に扱ってるだけ」の事だと思うのよ。でも、これはさっきも言った通り、無用な量の食べ物を食べる事が害であるっていう事のその害の大きさを知らないと絶対ついてこれない話だから、結構軽く見られてると思うんだよね。でも正直、今の時代の食べ物の考え方は”過ぎたるは猶及ばざるが如し”だと思う。過ぎたる場合、が多すぎるのよ。

俺らの身体ってのは水と食べ物で出来てるんだから「俺らの身体にとって食べ物ってもんが重要な要素」になるんだからこそ、食べ物には「遠慮なく要不要の区別をつけるべき」だと思うのよ。”食べ物様”に遠慮して自分の身体を壊す選択肢を取るべきじゃないと思うのよ。

俺自身が一部農家の出だから特に思うけど、農家が丹精込めて作った米を残すなんて、なんて主張はハッキリ言って「東日本大震災の時に、そんなに関係ない東京とか大阪の人達が『被災地の人達の事を考えてバラエティー番組放送するのやめろ!』ってテレビ局に抗議したのと同じ」で、正直そん時おれら停電でテレビ見れなかったしさ、飯にしても残されてるとこライブで見てる訳じゃないしどうでもいいのよ。いただきます、と言って食べて、ごちそうさまって言って食事を終えたって、俺ら農家に別にその声は聞こえてないしね。

だから、決して勘違いしないで欲しい。そういうのは「自分の礼節や高貴さを高める為に行うべきことであって、誰かのためにやってるなんて都合付けしないで欲しい」んだ。自分がそう思って自分の身体を犠牲にしてでも食べ物様を粗末にしないようにするんだ、っていう考え、信念を持って生きていくなら何もそれを否定するつもりはないけど、上で言った様に余計な量の食べ物は害だって考える健康志向も少しは認めて「そのマナーで人の身体を傷つけないで欲しい」んだ。

なんか乱文になってしまったけど、そういう話。

甘味で感性が乏しくなっていく気がする話

2020-10-19 19:17:44 | 昔の話
 見出し画像にあるリンゴ、なんてことの無いリンゴに見えるけど実は結構探して手に入れた大昔からある品種の「紅玉(こうぎょく)」っていうリンゴなのよ。別にリンゴに詳しいって程じゃないけど以前に果樹園でバイトしてた事があって、その時に教えて貰ったのが「日本のリンゴは昔は国光(こっこう)と紅玉(こうぎょく)以外は殆ど無かった」って話を思い出して、ちょっと探して買ってみたのよね。

 実際に手に入れてそのまま食べてみたら、これが何とも、甘味がかなり少なくて酸味が強くて、とても美味しいのよ。メジャーな品種の”ふじ”とかみたいに「単純に甘味が強いから旨い」っていうんじゃなくて「甘くない変わりに”旨味の酸(アミノ酸的な?)”が強い」っていう感覚なのよね。正直な話、今まで食べたリンゴの中で生食で一番美味しいと思う。(紅玉は本来、デザートなんかに加工するのに優れたリンゴと言われてるらしいけど)

 で、それが何? って話なんだけど、俺はこう個人的にコーヒーが好きでコーヒーには結構詳しいって自負があんだけど、コーヒーにも重要な要素はそれぞれあって具体的には「酸味と苦味」が重要になると思うんだけど、誰しも、最初ハマり出す頃ってのは「コーヒーは苦い物」っていう考えで大抵「マンデリン」とかの苦味が強くて酸味が少ないタイプの豆を選ぶ事が多いってのを聞いた事があるし実際自分でもそうだったのよ。んで、段々苦味に慣れてくると今度は酸味のある豆にも挑戦してみようかなんて思って例えばキリマンジャロの方の豆だったりコナだったりを試してみると舌が苦味にもう慣れてるからズバっと酸味が感じられる様になって、この酸味が物凄く美味しいものに感じるようになるのよ。次第にもう酸味が適量ないコーヒーなんて飲めない、って思うくらいにね。(そんで最終的にはコナ辺りを自家焙煎で浅煎りにして物凄く酸っぱいコーヒーを作って懲りる、まで、ね)

 そんでね、こういう旨味というか酸味の旨味ってのが解るようになってくると、単純に「甘味」が邪魔になってくる様になるのよ。これは単純明快な話なんだけど味の要素で甘味って物凄く強い要素だから甘味が強いと簡単に酸味って隠れてしまうもんで、実際甘酸っぱいって味の領域の食べ物ってのは甘みを抜くともはや単体で食べられないくらい酸っぱいもんなのよ。これはまあ当然酸味だけに限らず苦味でもそうだけど、ちゃんとしたコーヒーをブラックで飲むなんてのは通っぽく見られがちだけど全然そんなことはなくて「鮮度が良くて入れ方もしっかりしてるコーヒーは大抵の人はブラックで飲んだ方が美味しいと解るくらい酸味、苦味がしっかりしている」ってだけで、逆に言えば砂糖を入れてそれがハッキリ解る人の方がもしかしたら通なんじゃないか、ってくらいの話なのよ。(まあ、砂糖山ほど入れる人はそうでない場合が多いだろうけどね)

 で、果物なりなんなりの話に戻るけど、昔の品種ってのは今になって色々探して食べてみると大抵のもんが「甘味が少ない分だけ野生味が強い」もんなのよね。例えば今の夏ミカンと昔の夏ミカンとかなら今のに慣れてればほぼ昔のは酸っぱすぎて食えないし、今のメロンに対してマクワウリなんかはマジで「ほんの僅かに甘いキュウリ」に近い味だし、でも、昔は甘味ってもんがそんなに溢れていない時代だったからそれでも食べたんだろうと思う。

 今の野菜にしても果物にしても、多くの人がそう望んだから甘味の強いモノが流通しそれがメインになってきたっていう時代の流れがあるんだろうけど、よくよく覚えて置いて欲しいのは「甘味ってのは実はそんなに複雑なモノじゃなくて、一様に皆似たようなもんだから、多くの野菜や果物が品種改良されて甘味を強くしていったら、最後はきっと全部似たような味になるだろうよ」ってこと。

 「甘いから美味しい」は誰にでもわかるだけに誰にでも受け入れられる。でもそれが全ての食べ物に共通して必要な要素と考えられるようになっていけば一つ一つの些細な個性は失われて、次第に人はその個性を感じる舌も持たなくなって、そして、感性の乏しい人になっていくんじゃないかなあ、ってちょっと思うんだ。最近ね。



猫の島の話

2020-06-10 23:21:38 | 昔の話
 俺の住んでる宮城県には田代島っていう、いわゆる”猫の島”があってさ、島民が70人くらいに対して猫200匹くらいいる島で、今でこそそれなりに知られた島だけど俺が言った7年位前はまだマイナーな島だったのよ。何となくだけどネットで発見して、行ってみようかなってある時思ったのよ。

 仕事終わって次の日の朝に石巻のフェリー乗り場にいって、フェリーで40分くらいだったかな、それなりに人は乗ってたんだけど皆田代島で降りて(次の島は網地島)さ、皆散り散りに猫を触りに行くのよ。

 実際行くとやることないからとりあえず猫を追い求めるんだけど別に猫って1時間も触ってて面白いもんでもないからすぐ飽きてさ、次のフェリーの時間まで海岸で寝てたのよ。そしたらなんか寝てる俺の上に猫がみんな乗っかってきて猫布団みたいな状態になって、それが面白いのか他の客に写真撮られたりしてさ。

 んでね、それは別に良いんだけど、田代島の猫の中にも「触れる猫」と「近づけるけど触る距離まで行くと逃げる猫」と「全く近づけない猫」がいて、これらは大抵同じ様な猫なんだけど「自分から近付いてきて懐く猫」も一定数いるのよ。そんで、その、自分から近付いてくる猫ってのは殆どが「どっかに古い傷がある」猫なのよ。例えば目が片方潰れてたり、耳がちょっと欠けてたり、足が少しびっこになってたり、とかさ。

 あの、美しいと感じる物のバランスの、比率で黄金比ってのがあるけど、こういう色んな効率に優れたものに共通する数をフィボナッチ数列っていうんだけどさ、自然が総じて美しい構造というか完璧な構造を保ってるのは「完璧な効率を求めないと競争相手の多すぎる自然の中で生き残っていけないから、完璧な姿のモノが残るだけに、自然は大抵完璧な美しさを持ってる」っていう考え方があるのよ。

 で何が言いたいのかっていうとさ「欠損のある猫は人懐っこい」っていうのは、何となく上で書いた「完璧な姿で無いと生き残っていけない」に共通するんじゃないかなって俺は何となく思うのよ。植物は動物じゃないから容易に動いたりしないし感情なんてもんがあるのかどうかも見えないけど、猫は動物だからさ、それなりに何を考えているのかとかは分かりやすいよね。それにこの田代島の猫は島の人から餌を貰ってるから生きる事に必死にならなくてもいいっていう点もある。それを踏まえた上で「欠損のある猫は人懐っこい」ってのは本来野生の植物なら「欠損がある植物は生き残っていけないから淘汰される」筈だけど、ここの猫はそれがない。でも「欠損があるってことは完璧な姿のヤツよりも非効率的な状態で、弱い」ってことであって、その弱い奴らが人懐っこいってのは「同じ猫から相手にされないから」なんじゃないのかな、って。

 そう思った時にさ、寂しかったり悲しかったり、嬉しかったり楽しかったりするのは何も人間の特許じゃないんだろうって漠然と思ったのよね。そんなのはさ、犬猫なら解りやすいけど、例えば蛇、蜂、蚊とかトカゲとかそういう生き物だってそうなんじゃないかって。多くの人が苦手としたり嫌ったりするこういう生き物も、食べる物がいっぱいあれば安心するし、それを奪いに来る奴がいれば戦うし、自分の子が生まれた時には嬉しいし、それを失いたくないから不安になるし、結局の所、皆が皆「死ぬのが怖いから、死にたくないから生きてる」んじゃないかって。人間だって変な理屈をつけなきゃ、純粋な状態においてはそうだろうよ。

 そういう事を、まあ田代島に行った時に思ってさ、今でもたまーにそれを考える時があるのよ。んで、それを考える様になってから何が変わったかっていうと「基本的に生き物を殺さなくなった」んだよね。それはアブだの蚊だの、人間にとって害虫ってされるような生き物でもそうでさ、家に入ってきたなら、出来る事なら外に逃がしてやりたいし、殺すってのは自分の為だけの行為だから最終手段ってことにしてさ。

 アリを踏んで殺すのは可哀想だからアリを避けて歩くようにしようとか、そういう非現実的な話じゃなくてさ、自分に負担にならない程度で、なるべく何かを殺さない人間でいようと思うようになったのは、なんだか、田代島のお陰だったような気が今でもすんのよね。

 なんかいい人と思われたくて言ってる話みたいになっちゃったけど、思ったそのままのことだから仕方ない。

知らん婆さんと孫の話

2020-06-10 22:21:42 | 昔の話

 3年位前に真夏に北海道にキャンプツーリング(キャンプ主体じゃなくて温泉と登山の為の旅だけどさ)に行った時の話なんだけど、宮城から三陸方面を通って青森の大間まで行って大間からフェリーで函館に行って、んでその日の内に函館恵山の道の駅、たしか、なとわえさんとか言う名前だったと思ったんだけどこの道の駅のすぐ横に何にもないキャンプ場があってそこにテント張って泊まって、んで次の日に恵山に登ってから降りてきて、少しまた海岸方面に戻って、今多分検索しても出てこないんじゃないかと思うけど御崎海浜温泉っていう知らないとちょっと入れない様な温泉が近くにあってそこに入ってからぐるっと恵山を周って、向かい側の水無海浜温泉っていうフナムシだらけの温泉に入って、そっから少し北に行った辺りでちょっと疲れたからバイクを降りて縁石に座って休憩してたのよ。

 その辺りは確か南茅部(みなみかやべ)っていう地名で、大き目の橋を目の前にした脇の縁石に座ってたらその縁石のすぐ前にある民家(なんか昔個人商店やってた様な造りの家)から80歳くらいの婆さんが出てきて「そんなとこさ座ってたら日射病さなるから、うちさあがってお茶飲まいん」(記憶違いじゃなければ北海道のこの辺の方言ってこんな感じで東北の方言に似てた気がする)って声掛けられたのよ。

 俺は元々愛想が悪い人間だけど、親切心で言ってくれる人や特に歳行った人からの善意はホントに断れない人間だから愛想よく家に入れて貰って、缶の冷たいお茶を貰って30分くらい話を聞いてたんだけど、そん時に聞いたので覚えてるのが「この辺りで採れる昆布は白口浜って言って、利尻や羅臼昆布に比べてあんまり知られていないけど高級料亭で使われるような本当に凄い昆布だ」とか「もう少し北に行って鹿部の道の駅に行くと、道の駅の施設の中に間欠泉が湧いてる」とか「南に行った所に虫だらけの汚い露天風呂があるけど、あそこに入る奴はキ〇ガイだけだ」とか、そんな具合の事を覚えてるけど、多分まあもっと色々な話をして貰ったのよ。

 そんで大体話終わったかなって時に「孫がオートバイに乗ってたからね、オートバイで旅してる人見るとね、声掛けちゃうのよ」って言われてさ、何の気無しに「お孫さんは今は?」って聞いたら「遠くさ行ってしまったからねえ……」って言われて話が切れたのよ。

 これはもしかして、死にまつわるタイプの、あんまり聞いては良くない話だったんではないか? と思ってそのまま黙ってたんだけど、またあっちから喋り出して「おっきなバイクで今ね、熊本の大学さ行ったから、1年に1回くらいしか帰ってこないのよ」って。

 まあつまらないオチの話だけど、旅してて色々なんか貰ったり親切にされたりする事ってそれなりにあるけどさ、まあ、凄い正直な言い方すると「その、親切にされた時は別にそこまで嬉しいとは思わない」んだけど、何故か親切にされたその出来事ってのはいつまでも覚えてんだよね。別に詳しくは書かないけど、納沙布(のさっぷ)岬近くで昆布くれたおっさんとか、興部(おこっぺ)でチーズくれたジジイとか、北海道じゃないけど宮城の気仙沼大島のキャンプ場でコーヒーくれた一家とか、後全然親切でもなんでもないけど音威子府(おといねっぷ)の道の駅で、俺のバイクの宮城ナンバーを見てなのか、急に「私の親戚皆ねえ、石巻(いしのまき)で津波で死んじゃったの!」って笑顔で言ってきたお姉さんとか。

 旅の思い出ってなんかこう、変なんだよな。テレビとかなんかで言う様な美談的なものってのは少ないしあっても別にそこまで覚えてないんだけど、ふとした時にホントに大した事ない思い出がふっと頭に出てきて、なんか忘れられなくなるんだよね。そんな時に、たまに思うんだ。あの人はいま何してんだろうなあ、って。別に俺に何の関係も無いし、知る方法も無いけど、何となく、あの時あったあの顔をもう一度よく見て見たいな、とか、もうちょっとちゃんと覚えておけば良かったな、とか。

 いや、ホント、こんな程度の話だったら腐る程あるわさ。

ちょっとマジでビビった話

2020-06-08 10:27:52 | 昔の話
 宮城県と山形県の境に船形山(ふながたやま)っていう山があってさ、俺は登山をやるから登ったことがあるんだ。

 この船形山には色んなトコから入れるコースがあるんだけども一番楽なのが色麻町っていう所から入る大滝コースっていうコースなんだけど、直線距離も標高差も一番小さい代わりに登山口まで「かなり酷い未舗装の林道を20㎞」移動してこなきゃならないっていう欠点があるんだ。その林道ってのは正直言って本当に酷くて、路肩に車のアンダーカバーが転がってるような酷いとこなんだ。

 2年位前の6月頃に船形に登ったんだけど、オフロードバイク(セロー250)に乗ってるだけに林道は経験があるからセローで登山口まで行って、登って降りて、登山口の無人のキャンプ場についた時に確か午後4時くらいだったんだよね。平日だったしあんまり多くの人が登る山って程有名な山じゃないしアクセスが悪いから、その時間帯にはもう誰一人もいなくて空もやや暗くなってきてて、いやはや、こっから20kmの未舗装林道走って帰るのか、気が重いなあと思ってたんだ。

 んで、腕時計とかしてないからとりあえず時間を確認しようと思ってスマホを見たら、ふっと手が画面に触れて「電話」のアイコンを押してしまって、電話番号を入力する画面になったのよ。あららと思って見てたら急にその画面のままダイヤルが無茶苦茶に押されて「78120849684024156」みたいに数字が入力されたのよ。怖いとかどうこうとかじゃなく急になったから、何だ何だと思って一回ホームボタン押したらまた電話のダイヤルキーの画面になってまた「94713872048210864」って、ぐちゃぐちゃにタップされ続けるのよ。

 なんかバグってるんだなと思って電源一回落としてもう一回起動したら、何も起こらなくなって治まったんだけど、その時までは単にスマートフォンの問題だからと思ってスマートフォンばっかり見てたから夢中になってて何とも思ってなかったんだけど、ふと自分のいる場所に気付いて周りを見たら「夕闇時の、誰一人も居ない山奥の林道終点で、1時間くらいかけて未舗装を走って帰らなきゃならない自分」がいるのに気付いて、その瞬間になんか凄くゾッとしたのよね。

 結局は怖い怖いと思いながらも無事走り切って家に帰ったんだけどさ、それ自体何だったのかは解らないながらもなんかこう幽霊的な事とかそういう事じゃなくて、あの、なんていったらいいか「本屋で立ち読みしてて夢中になって『へへっ』って笑った瞬間に周りに気付いて恥ずかしくなる」っていうのの怖いバージョンみたいな状態を経験して、なんつったらいいのか解らないけど、とにかくアレはなんか、今まで生きてきて何番目かくらいに入るくらい「怖い」と思った状態だったなあ。

 登山だけじゃなく廃道歩きをやったりするから、滑落しそうな道を歩いたり、クマと遭遇するってのもそれなりに経験あるけど、なんかそういう突発的な恐怖と違って精神やられる感じの怖さだったなあ、アレは。