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婆さんのスカーフの話

2021-06-15 21:39:55 | 思う事があってさ
 地元が大変な田舎というだけあって、いつも通り隣町のスーパーに食材を買いに行くと、来ている客の大半は高齢者だ。土日となれば若い人もそれなりに居るが、平日はだいたい60歳以上が殆どで、その殆ど以外の人も40歳以上というような有様なのが我が地元。

 特に何を見るという事も無く視線を流していても、店に並んでいる物なんてのはそんなに変わり映えもしないので、必要な物を買い物かごに入れた後は、何となく、別にこれという意味もなく、他の客をチラりと見てしまう。頭のハゲた爺さんや腹の出た中年のおっさん、しわしわ顔で腰ががっつり曲がった農家育ちのおばあさんに、最初から最後までずーっと喋ってる地元のおばさん二人組やら、きっと、いつも見ている人と同じ人ではないのだろうけれども、きっといつも見ている人と同じ様な人達ばかりだ。

 そんな人たちの”服装”の中で、俺がいっつも目に留めては内心うれしくなるのが「おばあさんが頭や首元に巻いているスカーフ」だ。何やら変な趣味があるのではないかと思われそうなので最初に言っておくが、おばあさんのつけてるスカーフが好きなんじゃない。「何歳であろうと、顔や手足が皺だらけであろうと、外出する時に身だしなみを整えるその姿勢」が好きなんだ。

 俺は別に男だから男の味方だとか女が好きだから女の味方だとか、そういう事を言うつもりは無いんだけど、インターネットの色んなサイトを見ていると、その中には結構「男or女のこういうトコが嫌いだ」(これでもかなり優しい表現だが)というような記事があるけれど、女性の身だしなみに掛かる費用や時間についての苦言を見たりすると「ちょっと浅はかな考え方じゃないかな?」という気がしないでもない。

 俺自身、正直ちょっと男としては結構気を付けている方だと自分でも思うくらい鏡を見て眉毛剃ったり髭の剃り残しチェックしたり、髪のサイドが膨らんでないかとか、鼻毛出てないかとか、そういうのをチェックする癖がついてて朝晩10分くらいかける事もあるくらい神経質で、散髪も2~3週間に1回はほぼ必ず行く。出掛ける時に服の合わせ方が気に入らない(同じ組み合わせでも日によって変かな? と思う日があったりする)と何回か着替えることもある。これは、女性だと当たり前じゃね? と思うかもしれないけど、男だとかなりシビアな方だ。そんな俺から見ても、世の中を当たり前に歩いている女の人の殆どは「間違いなく身だしなみに俺よりも遥かに時間が掛かっている」のは、自分がやってるだけによく分かる。

 それを分かるだけに、上で書いたような記事というかサイトの中身を見た時に「女は勝手に化粧して勝手に金と時間を使ってるだけ」というような内容の書き込みを見ると「この書き込みをしてるやつの姿は中々見れたもんじゃないだろうなあ」と思ってしまう。こういう事に気付けない人っていうのはやっぱり、自分のそれにも気付いていないのは、まず、間違いないと思う。

 こういう”身だしなみ”ってのは通り一遍の意味がある訳じゃなく「自分が良くなる気持ちよさから毎日行う」という部分もあれば「人に自分のみっともない所を見せない最低限の礼儀」という部分もあり、どっちか一方だけの理由で行うものじゃない。それは正直「女性は大変」とは言うものの「100%損だと思ってやってはいないでしょ?」という気持ちもある。自分が磨かれるあの感覚はやっぱり面倒臭さはあるものの、やっていればそれなりに自分に自信が出るものだ。だからこそ、身だしなみを「服の選び方だけのこと」と捉えている様なちょっと残念な”男たち”の「毎日風呂に入ってりゃ良いというような考え」にはちょっと賛同出来ない。大事なのは本質的な清潔さじゃない、清潔感なのだ。

 話を戻すが、おばあさんのスカーフというのは何のために付けているのだろうか? と昔思った事があったので何人かの地元の婆さんにそれとなく聞いたことがある(今思えばなんと不躾なガキだ)が、みんながみんな言うのは「首が皺だらけだから隠す為に」という理由だった。この理由も上述した2つの意味で「自分の醜い所を見せないという自分の為の理由」と「人に不快な部分を見せない相手の為の理由」が両立している。俺は何というか、そこに「人の美しさ」を感じる。100%自分の為でもなく100%人の為でもなく、しかし、どっちにも不利益は無く、悪意なんて全く無く、ちょっとの自己満足もある、そんな健気さを感じるんだ。

 色んな店で色んな人を見ていると、誰しもひとりふたりくらいは「お前、外はお前の家の中じゃないんだぞ」と言いたくなるような不体裁な格好の人を見たことがあるだろう。もっさりした訳の分からない髪型の頭から落ちたフケが肩や首回りに乗っている様なヤツとか、今しがた布団から出てきたままに店に来たかの様な毛玉だらけの上下スウェットに醜い体型のヤツとか、垢でも塗りこんだのかと思う様な小汚いスニーカーにダルダルのソックスを履いたヤツとか、奴らは年齢はさまざまであるが、総じて「男」だ。悲しいことに、男だ。女でそんくらい酷いのは殆ど見たことが無い。(世の中にはいるのかもしれないけどね)デブは男にも女にもいるけどさ。

 どうしても男っていうのは「みっともいいと感じるのはまず第一に顔の造形だろう」という考え方をしがちだけど、これは俺は間違いだと思っている。いや、間違っている、という訳じゃないんだけど、これは「まず身だしなみが出来ていないことにはその判断をする領域にすら立てない」のだと思う。これを解せずに「どうせ俺は顔が悪いから」と、それをあたかも色々な手間を惜しむ体のいい言い訳の様に使う男を見ると、見苦しい、と思ってしまう。なんでもそうだが、卑屈になる前に少しは試してみろよ、と。

 なにはともあれ、あの「おばあさんがスカーフを巻く気持ち」は何気に大事な事だと思う。たかがおばあさん、されどおばあさん、気を抜くと若い俺らも「おばあさんのオシャレ」に負けてしまうよ。

 (ちなみに、今回書かなかったけど、田舎特有の”フォーマルなジャケットとスラックスで農作業をする爺さん”とかも好きだ。都会の人だと見たことないんだろうけど)

山菜採りに行って死ぬジジイババアへの誤解と、でもやっぱりジジイババアも悪いの話

2021-05-31 21:26:01 | 登山
 唐突だけど俺はアウトドアが好きだから野草や山菜、キノコ採りなんかを結構すんだけどさ、そういう身からするとやっぱりヤフーニュースなんかで「遭難」っていう文字を見るとどこの地域であってもとりあえず読んじゃうんだよね。例えば80代の老人が山菜採りに出たまま連絡無く3日過ぎたけどまだ見つかってないとかさ。事実、ちょうど1年前の話をすれば、俺の町の、とある沼へ行く林道で山菜採りに出た老夫婦が遭難して、爺さんの方が低体温症で死んで、全国ニュースにもなったし。

 で、そういうニュースを見るとヤフーのコメント欄では「命を懸けてまで山菜なんて欲しいのか」とか「勝手に山に行って死んで、人に迷惑を掛けるな」とか、そういうコメントばっかりなんだけど、これはやっぱりやってる本人じゃないと分からない話だから批判が的外れなのは仕方ないにしても、正直「俺は迷惑を掛けてない側だから、山菜についてはよく知らないけど、上から物を言っても良いんだ」っていう姿勢はあんまり好きじゃないのよね。こういうコメントを見てると、中島みゆきのファイトを思い出すよ。「戦う君の歌を戦わない奴らが笑うだろう」ってね。

 まあそれはちょっと本筋からズレるから良いとして、まず「命を懸けてまで山菜が欲しいか」って内容についてはハッキリ言うとね、採ってる側からしても「山菜そのものが死ぬほど欲しいんじゃない」のよ。これは採ってる側の人は皆、誰もが誰も本心を言いさえすれば、間違いなくそうだと俺は確信してるけど、山菜採りをやる人が一番欲しいのは「こんなに山菜が採れる私(俺なり儂なりアタクシなり、なんでもいいが)」という誇りと見栄だよ。これはもうやる側だからこそ分かるけど、絶対、老若男女誰しもが、間違いなくそうだと俺は思ってる。決して山菜そのものが彼らを殺すんじゃない、彼らを殺すのは「見栄」なんだ。山菜採りに限らず、これが多くの人を殺す結果になっているのと同じようにね。

 ちょっとズラした話をするとさ、Youtubeなんかで自給自足のキャンプ的な動画で山菜採ったりキノコ採ったりしてクッカーで調理して食べたりしてる動画ってあるじゃない? まあ、見てる人じゃないと分からないけどね。 あれってハッキリ言うと「山菜やキノコそのものっていうのはカロリー的にはほぼ何も食ってないに等しいくらい人にとってエネルギーにならないものばっかりだから、探すカロリー収支を考えたら山菜採りやキノコ採りは100%マイナスになる」のよ。あれを栄養的にプラスに出来るのは、例えばコシアブラの”天ぷら”とかフキの”煮物”とかみたいに「結局それ調味料や他の材料のカロリーでしょ」っていう所で補ってるだけなのよ。だから逆を言えば「天ぷらにする為の小麦粉や卵があればそれを食えばいい話」であって全然自給自足じゃないのよね。どうやっても長い目で見れば山菜やキノコだけでは生きてはいけないのよ。そういう意味でも「山菜を食料と見做して本当に実質的な理由だけで欲しがる人はまずいない」ってのは理解してもらえると思う。この場合の実質的ってのは「単純に山菜の味が好きだから」って方向だけに限られてくることになる、ってことも含めてね。

まあその、だからって訳じゃないけど、結局こういうのはやってない人には本当に本当の意味で「なんで死ぬような思いをしてまでそんなことをするのか」ってのは分からないのが常だし、いい歳になった辺りでそんなこと(自分の理解の及ばない範囲というものが誰にでもある、という現実)には気付かなきゃいけないことだと思うんだ。いつまーでも人のやることなすことにどうのこうのと言ってないで、ね。

ほんで、こっからはまた逆の話になるけど「でも、そうはいっても」の話として「爺さん婆さん、あんたらもちょっと正直、己の能力を弁えろよ」という内容になるんだけど、山菜採りとかキノコ採りって正直に言ってアウトドアの範疇で言ったら「最上位クラスの難易度の高さの趣味」だと俺は実感してるのよ。具体的に言えば「藪山登山+探し物+植物知識」くらいが一度に必要になるからね。これは例えば普通の登山をしてる時に山菜を探すと分かるんだけど、何かを探しながら山を登ったり降りたりするのって結構難しくて山道は木の根に足を取られやすいからちゃんと前見てないとかなり危ないのよ。こういう点や、キノコや山菜は何気に間違えると簡単に死ねるってのも併せて危険度はかなり高い趣味だと思うのよ。

んでもね、そういう趣味な筈なんだけど、山菜採りで遭難して死ぬ老人ってのは「俺みたいな若くて体力がある人間ですら万全に装備を調えて臨んでいるっていうのに、体力的に劣る自分らが雨具も食料も用意しないで臨んでたりする」もんなのよ。これはね、さすがにね、俺もどうかと思うよ。人ってさ、例えば快調に山の中を歩いていたと思ってても、ちょっと足の指の爪が剥がれたりしたらもう途端に地獄の山歩きになる様に「自然の中では、ほんのちょっとの事で大きく状況が変わる」ものでさ、例えば上で書いた俺の町で死んだ年寄りの事を言えば、そのジジイが「雨具と食料を少しでも持っていれば低体温症で死ぬことはなかったかもしれない」のよ。(基本、雨具はかなり上等な防寒具になる)もちろん、持っていたとしても死ぬケースが無い訳ではないけど、助かる確率がぐっと上がるのは間違いないのよ。でも、死んだ彼らは大抵そういうものは持って行っていない。そうなったら、やっぱり「でもお前らもどうかしてるよ」って言われても仕方ないんじゃない? とも思うのよね。

 どうやっても必ず危険を伴う趣味である以上、完璧な万全というのは有り得ないもので、もしそれがあるとすれば「家から出ないこと」になるだろうからそんなのは除くとしても、やっぱりどうしても「己が他の人より劣ることは認めてそれを補うものは最大限に活用すべき」だと思うし、そもそれが「劣るならばそういうことをしなければ罵られても仕方ない」とさえ言えると思う。

趣味に殉じて死ぬこともあるだろう、それが本望な人生もあるだろう。でも、その自分の「不慮の死」を聞かされる身近な人の気持ちは、やっぱり、考えなきゃいけない。自由奔放に生きる事を許容してくれているそんな人たちには、俺らみたいな自由人であってもそれを開き直ったりせずに、その「ニュースを聞かせない為の最低限の努力」はするべきだ。

「食べ物を粗末にするな」の話

2020-12-01 09:08:36 | 昔の話
突然だけど俺、BMIは21で体脂肪率が普段7~10%くらいのスーパーアスリートな体型なのよ。数値で言われて解らない人も多いと思うけど、単純に言うと「一般の人とはもはや異なる領域のスポーツ体型」って感じだと思ってもらえると解りやすいかも。たまーに見るマラソン選手とか水泳選手の身体みたいなのを想像して貰えれば解りやすいかな。

色んなトコを旅したり山に登ったり歩いたりするから、こういう身体をしてると体力的に不安も全く無いし、適度に筋肉あるから怪我とか腰痛とかにもなりにくくて凄く良いから、普段からその辺りを維持してんのね。だから、ある程度栄養とか健康のことは勉強したし、そういう話には詳しいつもりではいるのよ。

で、話は変わって食い物の話なんだけど、巷に溢れている「食べ物を粗末にするな」「出された物は残さず食べろ」「米は一粒も残さず食べろ」っていう、なんていうかマナーというか「食い物粗末にするな教」的な”教え”についてなんだけど、個人的意見ではあるけど、この宗教の「せいで」健康を害した人が世の中には多くいるってのはもう間違いないと俺は思ってるのね。

自分がかなり厳しい摂生をしてるだけに人の身体はもう着衣で見ただけでも健康かそうでないかはそれなりに判断つくくらいの目になってるんだけどさ、今、正直言って世の中の人を見れば10人中に9人は大抵「体脂肪が多くて、運動不足な人」のレベルで、これは何も体型だけに限らず例えば手の血管の見えやすさとかでもすぐ分かるんだけど、多くの人が「そんなに太ってないと思う」ような人でも体脂肪率は結構高くて、見て分かる15%(適正値付近、女性は基礎が違うから+10%くらいで考えてね)近辺の人なんて殆どいないってのが現実なのよ。実際、ココ見てる人がどんだけいるか知らないけど、自分のBMIを知ってる人がまず限られてくるだろうし、BMIが22辺りの人はもっと限られてくると思う。

そんで話を戻すけど、人はそれぞれ人生において色々な意味で担っている負荷が違っていて、仕事内容も当然違っていて、筋肉量や基礎代謝が違っていて、趣味嗜好が違っていて、それで世の中が成り立って行くんだけど、非力なお婆さんがデカいトランクケースを持てないってのは見て誰でも分かることだけど、こと”個人の飲食の限界量”や”その飲食物の含む栄養の量”ってのは誰でも見てすぐ分かるものじゃないから、例えば飲食店にしかり、人の家にお呼ばれした時にしかり、お母さんの作るご飯にしかり、自分で作ったもんじゃない食事の量とカロリー等が自分にとって適切である場合って、正直に言って殆ど無いのよ。お母さんが作るご飯ですら、お母さんが栄養士であるとか特別な能力の人でも無い限りはまず有り得ないし、栄養士であっても本人でない限り子が日々どのくらい動いているかとか間食してるかなんかは知らない場合があるから、もうハッキリ言ってこれは「(本人に適当な知識がある上で)本人じゃないと絶対解らない話」なのね。

でも、上で言った「食い物を粗末にするな教」の信者の人達ってのは、人間よりも食い物を崇めるから「食い物は残してはならない、頼んで出てきた物は全部食べるのが礼儀だ」っていう主張を自分のみならず他の人にもしたりするんだけど、これは上で言った「非力なお婆さんがデカいトランクケースを持てない」のに「持たせようとする行為」と同じなのよ。これを無理にさせると当然ながら身体を壊す訳だけど、本人のキャパシティを知らない人が「出されたんだから食べて当然だ」という理屈を振りかざして当人に食う事を励行するってのは、結局これもじわじわと身体を壊させて行ってる行為なのよ。(もっと言うと、これは結局最終的に食べるかどうか決めるのは本人だ、と言い訳出来る分だけ質が悪いしね。無理矢理重い物を持たせて人を怪我させるよりも、ね)

多分、俺の今してる話がしっかり理解出来る人ってホントに一握りだと思うんだけど、人が出来る事って例えば時間だけで見ても総量は必ず定められていて一日24時間の内、何かを追加して行うとすれば何かの時間を犠牲にしなきゃならない筈なのよ。毎日全く同じ事をしていてその予定を崩すことなく何かを1時間しようとしたら、例えば睡眠時間を1時間割かないとどうしようもなくなったり、飯を30分掛けて食ってたのを10分に短縮して3回で60分節約したり、とかね。そしてこれは何も時間だけじゃなく、人の行動、思想、何から何においても「ある力なりをある方に注ぐ時には、またある方の割合はその分不足するのが当たり前」だと思うのよ。

そうした考え方をした時、上で書いたとある人の主張である「食い物を粗末にするな」って考えは、ハッキリと逆の事を言えば「食い物を粗末にしない為にそれを摂取する身体を粗末に扱ってるだけ」の事だと思うのよ。でも、これはさっきも言った通り、無用な量の食べ物を食べる事が害であるっていう事のその害の大きさを知らないと絶対ついてこれない話だから、結構軽く見られてると思うんだよね。でも正直、今の時代の食べ物の考え方は”過ぎたるは猶及ばざるが如し”だと思う。過ぎたる場合、が多すぎるのよ。

俺らの身体ってのは水と食べ物で出来てるんだから「俺らの身体にとって食べ物ってもんが重要な要素」になるんだからこそ、食べ物には「遠慮なく要不要の区別をつけるべき」だと思うのよ。”食べ物様”に遠慮して自分の身体を壊す選択肢を取るべきじゃないと思うのよ。

俺自身が一部農家の出だから特に思うけど、農家が丹精込めて作った米を残すなんて、なんて主張はハッキリ言って「東日本大震災の時に、そんなに関係ない東京とか大阪の人達が『被災地の人達の事を考えてバラエティー番組放送するのやめろ!』ってテレビ局に抗議したのと同じ」で、正直そん時おれら停電でテレビ見れなかったしさ、飯にしても残されてるとこライブで見てる訳じゃないしどうでもいいのよ。いただきます、と言って食べて、ごちそうさまって言って食事を終えたって、俺ら農家に別にその声は聞こえてないしね。

だから、決して勘違いしないで欲しい。そういうのは「自分の礼節や高貴さを高める為に行うべきことであって、誰かのためにやってるなんて都合付けしないで欲しい」んだ。自分がそう思って自分の身体を犠牲にしてでも食べ物様を粗末にしないようにするんだ、っていう考え、信念を持って生きていくなら何もそれを否定するつもりはないけど、上で言った様に余計な量の食べ物は害だって考える健康志向も少しは認めて「そのマナーで人の身体を傷つけないで欲しい」んだ。

なんか乱文になってしまったけど、そういう話。

甘味で感性が乏しくなっていく気がする話

2020-10-19 19:17:44 | 昔の話
 見出し画像にあるリンゴ、なんてことの無いリンゴに見えるけど実は結構探して手に入れた大昔からある品種の「紅玉(こうぎょく)」っていうリンゴなのよ。別にリンゴに詳しいって程じゃないけど以前に果樹園でバイトしてた事があって、その時に教えて貰ったのが「日本のリンゴは昔は国光(こっこう)と紅玉(こうぎょく)以外は殆ど無かった」って話を思い出して、ちょっと探して買ってみたのよね。

 実際に手に入れてそのまま食べてみたら、これが何とも、甘味がかなり少なくて酸味が強くて、とても美味しいのよ。メジャーな品種の”ふじ”とかみたいに「単純に甘味が強いから旨い」っていうんじゃなくて「甘くない変わりに”旨味の酸(アミノ酸的な?)”が強い」っていう感覚なのよね。正直な話、今まで食べたリンゴの中で生食で一番美味しいと思う。(紅玉は本来、デザートなんかに加工するのに優れたリンゴと言われてるらしいけど)

 で、それが何? って話なんだけど、俺はこう個人的にコーヒーが好きでコーヒーには結構詳しいって自負があんだけど、コーヒーにも重要な要素はそれぞれあって具体的には「酸味と苦味」が重要になると思うんだけど、誰しも、最初ハマり出す頃ってのは「コーヒーは苦い物」っていう考えで大抵「マンデリン」とかの苦味が強くて酸味が少ないタイプの豆を選ぶ事が多いってのを聞いた事があるし実際自分でもそうだったのよ。んで、段々苦味に慣れてくると今度は酸味のある豆にも挑戦してみようかなんて思って例えばキリマンジャロの方の豆だったりコナだったりを試してみると舌が苦味にもう慣れてるからズバっと酸味が感じられる様になって、この酸味が物凄く美味しいものに感じるようになるのよ。次第にもう酸味が適量ないコーヒーなんて飲めない、って思うくらいにね。(そんで最終的にはコナ辺りを自家焙煎で浅煎りにして物凄く酸っぱいコーヒーを作って懲りる、まで、ね)

 そんでね、こういう旨味というか酸味の旨味ってのが解るようになってくると、単純に「甘味」が邪魔になってくる様になるのよ。これは単純明快な話なんだけど味の要素で甘味って物凄く強い要素だから甘味が強いと簡単に酸味って隠れてしまうもんで、実際甘酸っぱいって味の領域の食べ物ってのは甘みを抜くともはや単体で食べられないくらい酸っぱいもんなのよ。これはまあ当然酸味だけに限らず苦味でもそうだけど、ちゃんとしたコーヒーをブラックで飲むなんてのは通っぽく見られがちだけど全然そんなことはなくて「鮮度が良くて入れ方もしっかりしてるコーヒーは大抵の人はブラックで飲んだ方が美味しいと解るくらい酸味、苦味がしっかりしている」ってだけで、逆に言えば砂糖を入れてそれがハッキリ解る人の方がもしかしたら通なんじゃないか、ってくらいの話なのよ。(まあ、砂糖山ほど入れる人はそうでない場合が多いだろうけどね)

 で、果物なりなんなりの話に戻るけど、昔の品種ってのは今になって色々探して食べてみると大抵のもんが「甘味が少ない分だけ野生味が強い」もんなのよね。例えば今の夏ミカンと昔の夏ミカンとかなら今のに慣れてればほぼ昔のは酸っぱすぎて食えないし、今のメロンに対してマクワウリなんかはマジで「ほんの僅かに甘いキュウリ」に近い味だし、でも、昔は甘味ってもんがそんなに溢れていない時代だったからそれでも食べたんだろうと思う。

 今の野菜にしても果物にしても、多くの人がそう望んだから甘味の強いモノが流通しそれがメインになってきたっていう時代の流れがあるんだろうけど、よくよく覚えて置いて欲しいのは「甘味ってのは実はそんなに複雑なモノじゃなくて、一様に皆似たようなもんだから、多くの野菜や果物が品種改良されて甘味を強くしていったら、最後はきっと全部似たような味になるだろうよ」ってこと。

 「甘いから美味しい」は誰にでもわかるだけに誰にでも受け入れられる。でもそれが全ての食べ物に共通して必要な要素と考えられるようになっていけば一つ一つの些細な個性は失われて、次第に人はその個性を感じる舌も持たなくなって、そして、感性の乏しい人になっていくんじゃないかなあ、ってちょっと思うんだ。最近ね。



猫の島の話

2020-06-10 23:21:38 | 昔の話
 俺の住んでる宮城県には田代島っていう、いわゆる”猫の島”があってさ、島民が70人くらいに対して猫200匹くらいいる島で、今でこそそれなりに知られた島だけど俺が言った7年位前はまだマイナーな島だったのよ。何となくだけどネットで発見して、行ってみようかなってある時思ったのよ。

 仕事終わって次の日の朝に石巻のフェリー乗り場にいって、フェリーで40分くらいだったかな、それなりに人は乗ってたんだけど皆田代島で降りて(次の島は網地島)さ、皆散り散りに猫を触りに行くのよ。

 実際行くとやることないからとりあえず猫を追い求めるんだけど別に猫って1時間も触ってて面白いもんでもないからすぐ飽きてさ、次のフェリーの時間まで海岸で寝てたのよ。そしたらなんか寝てる俺の上に猫がみんな乗っかってきて猫布団みたいな状態になって、それが面白いのか他の客に写真撮られたりしてさ。

 んでね、それは別に良いんだけど、田代島の猫の中にも「触れる猫」と「近づけるけど触る距離まで行くと逃げる猫」と「全く近づけない猫」がいて、これらは大抵同じ様な猫なんだけど「自分から近付いてきて懐く猫」も一定数いるのよ。そんで、その、自分から近付いてくる猫ってのは殆どが「どっかに古い傷がある」猫なのよ。例えば目が片方潰れてたり、耳がちょっと欠けてたり、足が少しびっこになってたり、とかさ。

 あの、美しいと感じる物のバランスの、比率で黄金比ってのがあるけど、こういう色んな効率に優れたものに共通する数をフィボナッチ数列っていうんだけどさ、自然が総じて美しい構造というか完璧な構造を保ってるのは「完璧な効率を求めないと競争相手の多すぎる自然の中で生き残っていけないから、完璧な姿のモノが残るだけに、自然は大抵完璧な美しさを持ってる」っていう考え方があるのよ。

 で何が言いたいのかっていうとさ「欠損のある猫は人懐っこい」っていうのは、何となく上で書いた「完璧な姿で無いと生き残っていけない」に共通するんじゃないかなって俺は何となく思うのよ。植物は動物じゃないから容易に動いたりしないし感情なんてもんがあるのかどうかも見えないけど、猫は動物だからさ、それなりに何を考えているのかとかは分かりやすいよね。それにこの田代島の猫は島の人から餌を貰ってるから生きる事に必死にならなくてもいいっていう点もある。それを踏まえた上で「欠損のある猫は人懐っこい」ってのは本来野生の植物なら「欠損がある植物は生き残っていけないから淘汰される」筈だけど、ここの猫はそれがない。でも「欠損があるってことは完璧な姿のヤツよりも非効率的な状態で、弱い」ってことであって、その弱い奴らが人懐っこいってのは「同じ猫から相手にされないから」なんじゃないのかな、って。

 そう思った時にさ、寂しかったり悲しかったり、嬉しかったり楽しかったりするのは何も人間の特許じゃないんだろうって漠然と思ったのよね。そんなのはさ、犬猫なら解りやすいけど、例えば蛇、蜂、蚊とかトカゲとかそういう生き物だってそうなんじゃないかって。多くの人が苦手としたり嫌ったりするこういう生き物も、食べる物がいっぱいあれば安心するし、それを奪いに来る奴がいれば戦うし、自分の子が生まれた時には嬉しいし、それを失いたくないから不安になるし、結局の所、皆が皆「死ぬのが怖いから、死にたくないから生きてる」んじゃないかって。人間だって変な理屈をつけなきゃ、純粋な状態においてはそうだろうよ。

 そういう事を、まあ田代島に行った時に思ってさ、今でもたまーにそれを考える時があるのよ。んで、それを考える様になってから何が変わったかっていうと「基本的に生き物を殺さなくなった」んだよね。それはアブだの蚊だの、人間にとって害虫ってされるような生き物でもそうでさ、家に入ってきたなら、出来る事なら外に逃がしてやりたいし、殺すってのは自分の為だけの行為だから最終手段ってことにしてさ。

 アリを踏んで殺すのは可哀想だからアリを避けて歩くようにしようとか、そういう非現実的な話じゃなくてさ、自分に負担にならない程度で、なるべく何かを殺さない人間でいようと思うようになったのは、なんだか、田代島のお陰だったような気が今でもすんのよね。

 なんかいい人と思われたくて言ってる話みたいになっちゃったけど、思ったそのままのことだから仕方ない。