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山菜採りに行って死ぬジジイババアへの誤解と、でもやっぱりジジイババアも悪いの話

2021-05-31 21:26:01 | 登山
 唐突だけど俺はアウトドアが好きだから野草や山菜、キノコ採りなんかを結構すんだけどさ、そういう身からするとやっぱりヤフーニュースなんかで「遭難」っていう文字を見るとどこの地域であってもとりあえず読んじゃうんだよね。例えば80代の老人が山菜採りに出たまま連絡無く3日過ぎたけどまだ見つかってないとかさ。事実、ちょうど1年前の話をすれば、俺の町の、とある沼へ行く林道で山菜採りに出た老夫婦が遭難して、爺さんの方が低体温症で死んで、全国ニュースにもなったし。

 で、そういうニュースを見るとヤフーのコメント欄では「命を懸けてまで山菜なんて欲しいのか」とか「勝手に山に行って死んで、人に迷惑を掛けるな」とか、そういうコメントばっかりなんだけど、これはやっぱりやってる本人じゃないと分からない話だから批判が的外れなのは仕方ないにしても、正直「俺は迷惑を掛けてない側だから、山菜についてはよく知らないけど、上から物を言っても良いんだ」っていう姿勢はあんまり好きじゃないのよね。こういうコメントを見てると、中島みゆきのファイトを思い出すよ。「戦う君の歌を戦わない奴らが笑うだろう」ってね。

 まあそれはちょっと本筋からズレるから良いとして、まず「命を懸けてまで山菜が欲しいか」って内容についてはハッキリ言うとね、採ってる側からしても「山菜そのものが死ぬほど欲しいんじゃない」のよ。これは採ってる側の人は皆、誰もが誰も本心を言いさえすれば、間違いなくそうだと俺は確信してるけど、山菜採りをやる人が一番欲しいのは「こんなに山菜が採れる私(俺なり儂なりアタクシなり、なんでもいいが)」という誇りと見栄だよ。これはもうやる側だからこそ分かるけど、絶対、老若男女誰しもが、間違いなくそうだと俺は思ってる。決して山菜そのものが彼らを殺すんじゃない、彼らを殺すのは「見栄」なんだ。山菜採りに限らず、これが多くの人を殺す結果になっているのと同じようにね。

 ちょっとズラした話をするとさ、Youtubeなんかで自給自足のキャンプ的な動画で山菜採ったりキノコ採ったりしてクッカーで調理して食べたりしてる動画ってあるじゃない? まあ、見てる人じゃないと分からないけどね。 あれってハッキリ言うと「山菜やキノコそのものっていうのはカロリー的にはほぼ何も食ってないに等しいくらい人にとってエネルギーにならないものばっかりだから、探すカロリー収支を考えたら山菜採りやキノコ採りは100%マイナスになる」のよ。あれを栄養的にプラスに出来るのは、例えばコシアブラの”天ぷら”とかフキの”煮物”とかみたいに「結局それ調味料や他の材料のカロリーでしょ」っていう所で補ってるだけなのよ。だから逆を言えば「天ぷらにする為の小麦粉や卵があればそれを食えばいい話」であって全然自給自足じゃないのよね。どうやっても長い目で見れば山菜やキノコだけでは生きてはいけないのよ。そういう意味でも「山菜を食料と見做して本当に実質的な理由だけで欲しがる人はまずいない」ってのは理解してもらえると思う。この場合の実質的ってのは「単純に山菜の味が好きだから」って方向だけに限られてくることになる、ってことも含めてね。

まあその、だからって訳じゃないけど、結局こういうのはやってない人には本当に本当の意味で「なんで死ぬような思いをしてまでそんなことをするのか」ってのは分からないのが常だし、いい歳になった辺りでそんなこと(自分の理解の及ばない範囲というものが誰にでもある、という現実)には気付かなきゃいけないことだと思うんだ。いつまーでも人のやることなすことにどうのこうのと言ってないで、ね。

ほんで、こっからはまた逆の話になるけど「でも、そうはいっても」の話として「爺さん婆さん、あんたらもちょっと正直、己の能力を弁えろよ」という内容になるんだけど、山菜採りとかキノコ採りって正直に言ってアウトドアの範疇で言ったら「最上位クラスの難易度の高さの趣味」だと俺は実感してるのよ。具体的に言えば「藪山登山+探し物+植物知識」くらいが一度に必要になるからね。これは例えば普通の登山をしてる時に山菜を探すと分かるんだけど、何かを探しながら山を登ったり降りたりするのって結構難しくて山道は木の根に足を取られやすいからちゃんと前見てないとかなり危ないのよ。こういう点や、キノコや山菜は何気に間違えると簡単に死ねるってのも併せて危険度はかなり高い趣味だと思うのよ。

んでもね、そういう趣味な筈なんだけど、山菜採りで遭難して死ぬ老人ってのは「俺みたいな若くて体力がある人間ですら万全に装備を調えて臨んでいるっていうのに、体力的に劣る自分らが雨具も食料も用意しないで臨んでたりする」もんなのよ。これはね、さすがにね、俺もどうかと思うよ。人ってさ、例えば快調に山の中を歩いていたと思ってても、ちょっと足の指の爪が剥がれたりしたらもう途端に地獄の山歩きになる様に「自然の中では、ほんのちょっとの事で大きく状況が変わる」ものでさ、例えば上で書いた俺の町で死んだ年寄りの事を言えば、そのジジイが「雨具と食料を少しでも持っていれば低体温症で死ぬことはなかったかもしれない」のよ。(基本、雨具はかなり上等な防寒具になる)もちろん、持っていたとしても死ぬケースが無い訳ではないけど、助かる確率がぐっと上がるのは間違いないのよ。でも、死んだ彼らは大抵そういうものは持って行っていない。そうなったら、やっぱり「でもお前らもどうかしてるよ」って言われても仕方ないんじゃない? とも思うのよね。

 どうやっても必ず危険を伴う趣味である以上、完璧な万全というのは有り得ないもので、もしそれがあるとすれば「家から出ないこと」になるだろうからそんなのは除くとしても、やっぱりどうしても「己が他の人より劣ることは認めてそれを補うものは最大限に活用すべき」だと思うし、そもそれが「劣るならばそういうことをしなければ罵られても仕方ない」とさえ言えると思う。

趣味に殉じて死ぬこともあるだろう、それが本望な人生もあるだろう。でも、その自分の「不慮の死」を聞かされる身近な人の気持ちは、やっぱり、考えなきゃいけない。自由奔放に生きる事を許容してくれているそんな人たちには、俺らみたいな自由人であってもそれを開き直ったりせずに、その「ニュースを聞かせない為の最低限の努力」はするべきだ。