週一寺社めぐり

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浅古の石造宝塔 九頭神社 2012.05.30

2012-05-31 10:26:27 | インポート
浅古  桜井市浅古 

県道37号線の談山道から国道166号線忍坂(おっさか)付近に抜ける道沿い、浅古集落の辻に立つ石造物。

<o:p>(安土桃山時代 文禄三年 1594年 庚申(重要美術品、南北朝時代前期 暦応四年 1341浅古集会所の西側に立っている 宝塔は相輪上部を欠損しているが精巧に造られている。南北朝時代前期の暦応4年(1341)のもの 花崗岩製で、高さは155cm 国指定の重要美術品</o:p>

<o:p>  集会所より少し離れたところにある 赤鳥居から下ったところ 
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<o:p>九頭神社 桜井市下字九頭子 崇峻天皇陵に車を停めて神社まで歩く10分弱

九頭龍神社を男神、九頭神社を女神とする。旧無格社。社殿はない。楠の木を神体とし、磐座がある。

南面する小さい森に鎮座、長径130cm、短径90cm、高さ60cmの鎮護石を置き、背後の橿の木を神木とする。 俗に忍穂耳夫婦神を祀ると言う。<o:p></o:p>

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<o:p>  鎮護石


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相撲神社 大兵主神社 2012.05.22

2012-05-23 04:13:25 | インポート

相撲神社 桜井市穴師1065    ナビに載ってなかったので迷ってしまった

     社殿 土俵 この土地の名は、カタヤケシといいカタヤは方屋(片屋)土俵場、あるいは東西力士の控え場所という意味をもつので、ここを相撲発祥の地と定めたということらしい。

穴師坐兵主神社 あなしにいますひょうずじんじゃ  相撲神社の奥 PK-あり

崇神天皇60年の頃に建てられたと言われる古社 元は穴師坐兵主神社(名神大社)、巻向坐若御魂神社(式内大社)、穴師大兵主神社(式内小社)の3社 室町時代に合祀され、現鎮座地は穴師大兵主神社のあった場所 

「穴師(あなし)」とは、第11代垂仁天皇(すいにんてんのう)がいろいろな技術を持つ部族に与えた10個の品部の1つ、穴を掘り、採掘して鉄を得る部族である大穴磯部(おおあなしべ)をさすと考えられる。つまり、この地に居住していた武器などを作る鍛冶の技術に熟達した「穴師」たちが、その守護神として祀ったのが穴師坐兵主神社と考えられる。神殿はいずれも三つ屋根造り  御朱印が手書きでないのが残念、神主さんは書が苦手なのかもね

      本殿手水社 神木


週一菜園 笠山荒神へゆく

2012-05-22 20:25:25 | インポート

本日の作業

・全野菜---灌水 ・春菊、キヌサヤ、イチゴ(去年からほったらかしにしていた株に、たくさん実がなっていた)---収穫  ・ヒマワリ---3株植えつけ ・トマト---行燈外し、支柱立てる12本 ・トウモロコシ---液肥

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<o:p>笠山荒神社  桜井市笠2415  笠そば処にPK-あり</o:p>

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 日本三荒神のひとつ、かまど(台所)の神様としてしられる 

 笠山三宝荒神は9888躰の眷属と倶に、3千年の昔より笠山の鷲ヶ峯に奉祀て7袖7谷の峯谷(ぶこく)を神躰山として、人々は入山することなく、千古の昔よりの大木が生茂る
  <縁起より抜粋>

            閼伽井不動まで10個の鳥居があるここで山かけそばを食べる\650

天満神社 笠山荒神の南

   神社を下ったところ なにを祀っているのかよくわからない    ネットで調べたところ

大倭姫宮とは、「渟名城入姫(ぬなきいりひめ)」、第 11代垂仁天皇の皇女                                    姫弥呼女とは、「豊耜入姫命(とよすきいりひめ)」                                                                 倭姫宮とは、紀元前4年に伊勢神宮を再建された「倭姫」

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旧岩床神社

2012-05-05 20:31:08 | インポート

旧岩床神社 岩床神社より50M 下ったところ 社殿のない神社で、磐座の前に鳥居のみの原始信仰の社。
 作物の豊穣を祈る原始信仰の巨石(高さ6m・幅10m超)があり この裂け目を性崇拝の対象としていた。
 現在の神社は大正13年に素戔嗚命を祀っていた境外摂社の消渇神社の所在地の現地に遷された。

       
 


消渇神社

2012-05-05 20:26:36 | インポート

消渇神社  生駒郡平群町越木塚字井戸ノ上  石床神社の南                                           江戸時代には社名から女性の病気や性病に効果があるとして京都祇園からの参拝者もあり、参道に茶店が出るほど賑わったそうだ 願掛けには境内階段下の屋形で土の団子を12個作り、供えて祈願 願いが叶うとお礼に米の団子を12個お供えするという

七社神社 (消渇神社の左上丘陵上に鎮座する)<o:p></o:p>

土塀に囲まれた広庭の奥にかつて七社山の祭神であったのをここへ遷座されたと伝えられる。石燈籠に「七社大明神天明八年(1788)申十二月越木塚村座中」とある。神殿は素木の春日造。