京都を代表する紅葉スポット 神護寺
京都に住む人に「紅葉の名称は?」と尋ねればほぼ必ずあげられるのが、この神護寺。
嵐山、嵯峨野のその奥、清滝川に架かる橋からは急な石段を15分ほど登らなければならないが、あたりの紅葉を楽しみながらのんびりと進もう。
途中には茶店もある。
お参りを済ませたら、紅葉に染まる谷をめがけて厄払いの「かわら投げ」を楽しむのも。
神護寺は高尾山寺と、河内国石河郡にあったといわれる神願寺が、824年(天長1)に合併、神護国祚真言寺(じんごこくそしんごんじ)と改められ、その略名を神護寺と呼んだものとされる。
高尾山寺は、781年(天応1)僧慶俊を本願とし和気清麻呂(平安京造営の最高責任者)を奉行として草創された愛宕五坊の一つで和気氏の氏寺であった。
809年(大同4)弘法大師(空海)が入山して14年間常住し、初代住職となる。
一方神願寺は、政争が頻発する奈良時代末に和気清麻呂が創建した。
時の怪僧、弓削道鏡が太政大臣禅師となり、法王の地位を得たのち、さらに皇位をねらおうという野望を、769年(神護景雲3)豊前国宇佐八幡宮の神託を受けた和気清麻呂が打ち砕き、そして道鏡は失脚するという政争が起こる。
その八幡神の神願を果たすため、和気清麻呂は延暦年中(782-806)に神願寺を創建した。
神願寺は薬師如来を本尊とし、怨霊の、特に道鏡の怨霊の調伏を祈る薬師信仰的な意味合いも込められたと思われる。
824年(天長1)神願寺はその地勢が沙泥で道場に適さないため、清麻呂の子真綱(まつな)の上表により、和気氏の氏寺である高雄山寺と合併して、定額寺(国が公認した寺院)となし、神護国祚真言寺と名を改めることになった。
空海は812年(弘仁3)に灌頂(密教で秘法を伝授するもっとも重要な儀式)を修した。
このとき灌頂を受けた者の名前を空海自身が控えた記録が寺に残されており、この灌頂歴名の筆頭に上げられているのが最澄であった。
空海はその後何度かこの寺で灌頂を修し、神護寺は真言密教の重要な道場となり、平安新宗教の一拠点として栄えた。
合併の2年前には最澄が没し、前年には比叡山寺が延暦寺と改称し、同年には東寺を教王護国寺と改め、空海は高野山に移り、空海にかわって弟子の真済(しんぜい)が神護寺に入り、真言密教化をさらに進めて空海の影響力が強大となっていったときであった。
しかし、994年(正暦5)、1149年(久安5)と二度の大火により神護寺は衰退する。
その後、那智の滝をはじめ全国各地の行場で超人的な荒行をつんだ文覚上人が1168年(仁安3)高尾に来て神護寺を訪れ、荒廃を嘆いて再興を大願する。
文覚上人は出家前は遠藤盛遠(もりとう)という武士であった。
芥川竜之介の短編小説「袈裟と盛遠」、衣笠貞之助の映画「地獄門」でも描かれたように、盛遠には、横恋慕をした源渡の妻、袈裟御前に夫を殺してくれと頼まれ、殺してみればそれは実に夫の身代りになった袈裟御前であり、それに愕然として出家したという高名な話が伝わる。
弟子には文覚上人を師として生涯離れることのなかった学僧浄覚上人、高山寺をおこした高僧明恵上人らがいる。
平家物語によれば、文覚は後白河法皇のところにおしかけ、管弦が行なわれている席でむりやり勧進帳を読み上げ寄進を強要する。
居合わせた武士と格闘のすえ追い払われて罪を負う。
それにも懲りず寄進を求めて止まなかったため、伊豆に流された。
伊豆流罪5年後の1178年(治承2)に赦されて神護寺に帰り、ふたたび後白河法皇に訴え、同じく伊豆に流されて知り合っていた源頼朝の後ろだてもあって、寄進を受けるのに成功し、大規模な伽藍の復興を実現した。
しかしそれもふたたび、応仁の乱(1467-77年)で大師堂を残して焼失、1547年(天文16)の兵火によってことごとく炎上した。
1623年(元和9)龍厳上人のとき、楼門、金堂(現在の毘沙門堂)、五大堂、鐘楼を再興、1935年(昭和10)山口玄洞の寄進で金堂、多宝塔が新築され現在の形になった。
京の郊外の清遊地として古くから知られる三尾(さんび)のひとつ、高雄の神護寺は広大な山内全域が木々の緑と紅葉におおわれている。
朱の金堂はカエデと色を競い、大師堂は7世紀間の風雪に堪えてひっそりと静まり、多宝塔は緑をぬきんでて建ち、絵筆に描き尽くせぬ美しさである。
境内最西端の地蔵院の庭からながめる、清滝川(きよたきがわ)の清流がつくる錦雲峡は、有名な「かわらけ投げ」のかわらけの、ゆくえを定めかねる、千仞(せんじん)の渓谷である。
春は桜が満山をかざり、夏は蝉しぐれにあけ、河鹿、ひぐらしの声に暮れ、冬は雪に埋もれて四季を通じて自然の美しさにつつまれて、しみじみと人の世のあり方を考えるのによい環境である。
神護寺とは
空海は灌頂の大法会が終わると高雄山寺の機構を整えつつ活発な対外活動を始めている。
弘仁七年(816)、高野山を修禅観法の道場としてその開創に着手し、弘仁十四年には東寺を賜って、鎮護国家の道場として、その造営を任されている。
その間の十数年にわたる活躍によって、高雄山寺が平安仏教の道場としての内容を整えてくると、これまでの和気氏の私寺的性格を格上げすることを考え、高雄山寺と同じころに建てられていた定額寺(特定の官寺)としての神願寺を合併することを願い出る。
そして天長元年(824)にそれが許され神願寺がこの地に移されると、寺名も神護国祚真言寺(略して神護寺)と改名され、すべてを空海に付嘱された。
合併の際に多くの霊宝が移されたと考えられるが、現在、神護寺の本尊として金堂に安置される薬師如来立像(国宝)は、神願寺の本尊であったともいわれる。
弘仁九年九月には、新たに補修を加えた仏画二十四舗の供養を修したとの記録があるが、今はすべて現存しない。
薬師如来立像
金堂に安置される本尊は薬師三尊である。
鎌倉時代の末に編纂された『神護寺略記』に引用されている『弘仁資財帳』に「薬師仏像一躯 脇士菩薩像二躯」とあるのがこの三尊に当たると思われる。
資財帳とは、定額寺で作ることを義務付けられていたもので、弘仁年間の資財帳とは当時定額寺であった神願寺のものであり、この像が神願寺から高雄山寺に移されたと考えられてきた。
近年、この本尊を高雄山寺に由来するとする説が出され、その結論はまだ定まっていない。
新説では、弘仁年間は資財帳の提出の義務付けが停止された時期であること、資財帳の作成は定額寺のみに限られたものでないこと、神願寺が寺域としてふさわしくない場所にあったとされる像を、あえて清らかな場所、高雄山寺の本尊に移すといった考え方は、当時の穢れに対する対処法として疑問があることが提起された。
見据えるような鋭いまなざし、太い鼻筋と肉付きよい小鼻、思い切って突き出しへの字に引き締めた唇。
拝するものに畏怖の念を起こさせるこのような異相は禁欲的な山岳修行者の存在が生み出したものかもしれない。
唐招提寺薬師如来像とくらべて胸と腹が小さく、腰以下が強調されて圧倒的な重量感を印象付ける。
木という硬くまた粘りのある材質を鋭利な刃物で彫ることによる木彫ならではの鋭い表現が生まれてきている。
アプローチ
市中からはなれた街道から谷間に降りて清滝川にいたる。
清滝川を結界とし、参道を経る過程は山中から寺域にいたる感をつよくする。
寺域にいたれば、林屋辰三郎の言うように、京都にあっては稀な鎌倉文化の匂いがたちこめる。
約20万平方キロ(6万坪余り)の山内は木々の緑と紅葉におおわれている。
見所
金堂の本尊薬師如来像、多宝塔の五大虚空蔵像、現存日本最古の両界曼荼羅(いずれも国宝)
絹本著色伝平重盛像、源頼朝像、藤原光能像。
弘法大師文書「灌頂暦名」など、絹本著色山水図六曲屏風二双(いずれも国宝)高雄山腹にあり、錦雲峡と呼ばれる地蔵院の庭から眺める千仞の渓谷、清滝川の眺めがすばらしい。
アクセス
京都バス高雄終点下車徒歩20分。
JRバス山城高雄下車すぐ。
拝観
9:00-16:00
大人300円、小学生150円
寺宝公開:毎年5月1日-5月5日:9:00-16:00:700円
場所
京都市右京区梅ヶ畑高雄町:TEL 075-861-1769
紅葉状況(11月上-中旬)
コメント
「高雄嵐山パークウエイ」の高雄側入口すぐのパーキングに車をとめ、歩くこと約20分で神護寺につきます。
この20分の歩きのほとんどが石段で、往復すると足がパンパンになります。
神護寺にいちばん近い有料パーキングに車をとめるとすこしは楽ですが、いずれにせよ石段は登らなければなりません。
観光シーズンに車で行かれる人は歩く距離は少し長くなりますが、必ず駐車できる「高雄嵐山パークウエイ」のパーキングを利用することを勧めます。