食の歴史 by 新谷隆史ー人類史を作った食の革命

脳と食を愛する生物学者の新谷隆史です。本ブログでは人類史の礎となった様々な食の革命について考察していきます。

近世パリの人口とフランスの農業-フランスの大国化と食の革命(5)

2021-07-16 17:50:27 | 第四章 近世の食の革命
近世パリの人口とフランスの農業-フランスの大国化と食の革命(5)
今回から近世のフランスの食事情について見て行きます。

この時代の最大のトピックは、絢爛豪華で濃厚な味わいのフランス料理の原型が生み出されたことです。単に見栄えだけでなく、現代のフランス料理でとても重要な「ソース」や「フォン(だし汁)」の作製法が進化したのです。

また、フランス料理はワインを飲むために食べると言われるように、フランスではワインは非常に重要な飲み物ですが、近世のフランスではワインの世界でも大きな変化が生まれました。発砲ワインのシャンパーニュ(シャンパン)が飲まれ始めたのもこの時代です。

このように、食の話題に事欠かない近世のフランスですが、今回は、パリの人口の推移を皮切りに、近世のフランスの食料生産について見て行きます。

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図は西暦1000年から1850年までのパリの人口(推定値)について見たものだ。なお、フランス全体を見た場合でも、パリの人口と同じような推移を示していたと考えられている。

さて、この図を見てみると、中世の1300年まではパリの人口は順調に増加しているのが分かる。これは、気候の温暖化と三圃制農業の普及などによって食料の生産量が増えたためと考えられている。食べ物があると数が増えるのは動物も人も同じと言うわけだ。

ところが、1300年を過ぎると人口の増加のペースが鈍る。これは19世紀半ば頃まで続く寒冷化の影響と考えられる。この寒冷化の期間は小氷期と呼ばれていて、その原因としては火山の噴煙で巻き上げられたチリによって日光がさえぎられたからと言う説や、太陽の活動が低下したため地球に届く日光が減少したからと言う説が唱えられている。この寒冷化の結果、14世紀前半にはヨーロッパ各地で飢饉が相次ぎ、人口の増加が鈍ったのである。

さらに、1348年から発生したペスト(黒死病)が追い打ちをかけた。食料不足で体力が落ちていたため、抵抗力が下がっており、多くの市民が命を失ったのである。その結果、パリの人口の3分の1以上が失われたと見積もられている。

また、1337年から1453年まで断続的に続いた英仏間の百年戦争も、人口の減少や人口が伸び悩んだ原因になったと考えられる。

百年戦争が終わると、人口は再び増え始めた。しかし、1600年にかけて減少する。これは、カトリックとプロテスタント(ユグノー)の間で行われた内戦(ユグノー戦争)によるものだ。以前にお話しした通り、この内戦を収束させたのが、ブルボン朝初代フランス王アンリ4世(在位:1589~1610年)だ。

その後、パリの人口は急激に増えたが、17世紀半ば頃からは緩やかな増加に転じる。その理由は、ヴェルサイユ宮殿に王族や貴族が移り住んだことだ。この引っ越しにともなって、多くの商人や職人もパリからヴェルサイユ宮殿の近くに移住したことから、パリの人口の伸びが抑えられたのである。

そして、18世紀の終わりにはフランス革命が起こり、パリの人口も減少する。なお、その後の急激な人口の増加は、工業革命(産業革命)によるものだが、それについては次章の近代で取り上げる予定だ。

さて、フランスは今も昔も農業国だ。近世の頃には国民の80%以上が農業にたずさわっていたと見積もられている。アンリ4世の財務大臣だったにシュリーは「農耕と牧畜はフランスをはぐくむ二つの乳房である」と主張して農業を奨励した。このように農業を重視する姿勢は、それ以降の時代でも変わらなかった。

こうしてフランス国民に食料を提供し続けた農業であるが、近世の間に農業革命と呼べるほどの大きな技術革新があったわけではない。増え続けた人口を支えたのは、耕作地と牧草地の拡大や貿易の発展による食料の輸入増、そして何よりもアメリカ大陸から持ち込まれた新しい作物だった。

アメリカ大陸の発見により、ヨーロッパにはトウモロコシジャガイモなどの新しい作物がもたらされた。重要な点は、これらの作物の栽培時期がコムギのものとずれているため、休耕をせずに作物を育て続けることができる点だ。その結果、食料生産量が増えることとなったのだ。

トウモロコシは17世紀の後半にスペインとの国境近くのアキテーヌ地方に持ちこまれ、18世紀にはその一帯で広く栽培されるようになったとされている。また、ジャガイモは1600年前後にフランスに持ちこまれ、フランス北部を中心に栽培が徐々に広がって行った。

ただし、最初の頃はトウモロコシとジャガイモは主に家畜のエサとして利用されていた。2つとも牧草に比べて栄養価が高く、家畜をより太らせることができるので、畜産にはとても役立った。なお、既にお話ししたように、パルマンティエの努力の結果、フランスでは18世紀の後半になって食用としてジャガイモが利用されるようになって行った。

一方、見逃してはならないのが18世紀になって耕作や放牧の地域化が進んだことだ。ブドウ栽培とそれにともなうワイン生産はその典型的な例で、18世紀にボルドー・ブルゴーニュ・ボジョレー・ラングドック・プロヴァンスなどの、現代でもワインで有名な地域でブドウとワインの生産量が大幅に増加した。

また、北部のノルマンディー地方と中部のリムーザン地方やシャロレー地方は牛の大規模な放牧地となり、たくさんの肉や乳製品をパリの市場に供給するようになったと言われている。