食の歴史 by 新谷隆史ー人類史を作った食の革命

脳と食を愛する生物学者の新谷隆史です。本ブログでは人類史の礎となった様々な食の革命について考察していきます。

英蘭戦争とアメリカ植民地-イギリス・オランダの躍進(7)

2021-07-04 14:06:02 | 第四章 近世の食の革命
英蘭戦争とアメリカ植民地-イギリス・オランダの躍進(7)
今回は17世紀の後半にイギリスオランダの間で起こった英蘭戦争と、同時に進行していたアメリカ大陸のイギリス植民地の開発について見て行きます。

この戦争まで海上貿易についてはオランダがイギリスを圧倒していました。オランダは商人が作った国であり、また、造船に関しても当時のヨーロッパで随一の技術力を誇っていました。すなわち、オランダにとって海上貿易は、自分たちの能力を十分に発揮できる場だったのです。

一方、イギリスは国内の生産力も高くなく、まだまだ小国であったため、海外進出を成功させるしか生き残る術はありませんでした。そして、そのためにはライバル国であったオランダに打ち勝つ必要があったのです。

こうして英蘭戦争が始まって行くのですが、イギリスの目論見は成功したのでしょうか。

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海上貿易でオランダの後塵を拝していたイギリスは、それに対抗するために1651年に「航海法」という法律を制定した。航海法とは、イギリス本国やイギリス植民地で貿易を行うのはイギリス船だけにするという法律だ。

クロムウェルはこの法律によって、多数の船を使って海運業を行っていたオランダに打撃を与えるとともに、自国の海運業を発展させようとしたのだ。実際に、航海法が制定されるとイギリス船籍の船は増えて行き、100年後には10倍以上になったと言われている。ちなみに、18世紀のイギリスの経済学者アダム・スミスは、航海法を「過去の最も賢明な政策」と高く評価している。

1652年にイギリスが航海法に基づいてオランダ商船を取り締まろうとしたところオランダ側が拒否したため、ドーバー海峡で護衛艦同士の戦いが発生した。これが英蘭戦争の始まりである。この時は開戦準備を整えていたイギリス側が勝利した。

1658年にクロムウェルが死去すると、処刑されたチャールズ1世の子のチャールズ2世(在位:1660~1685年)が即位し、王政が復活した(王政復古)。チャールズ2世は航海法を維持し、さらに北アメリカのオランダ植民地に軍を派遣し、中心地だったニューアムステルダムを占領させた。これが後のニューヨークとなる。

これに対してオランダ側が1665年に宣戦布告し、第二次英蘭戦争が始まった。今回は十分に準備をしていたオランダが優位に立った。そして、オランダ史上最高の英雄と言われる海軍司令官デ・ロイテルの活躍などによってオランダが勝利する。デ・ロイテルは指揮する艦隊でイギリスのテムズ川をさかのぼり、多数の戦艦を焼き払うとともに、イギリス旗艦ロイヤル・チャールズ号を奪うなどの大戦果を挙げた。


     デ・ロイテル

講和条約では、北アメリカのオランダ植民地をそのままイギリスに譲る代わりに、オランダは南アメリカのイギリス植民地スリナムを得た。スリナムの方が温暖で農作物の生産性が高く、また金がとれることも期待されていたため、オランダ側に有利な条約だった。

ここで、少しイギリスのアメリカ植民地について見ておこう。

北アメリカにおけるイギリスの最初の永続的な植民地となったのが、大西洋岸の中南部バージニア州のジェームズタウンだ。1607年に105名の植民団によって設立された町である。なお、バージニアは一生の間結婚しなかった処女(バージン)王のエリザベス1世にちなんで名付けられ、ジェームズタウンは当時のイングランド国王ジェームズ1世にちなんで命名された。

また、1620年にはイングランド国教会から弾圧を受けたピューリタン(清教徒)102名が、メイフラワー号でイギリスを逃れて北アメリカ北東部に渡り、現在のマサチューセッツ州にプリマスを建設した。なお、ピューリタンたちはバージニアに行きたかったのだが、メイフラワー号に積んでいた飲料水代わりのビール(エール)が尽きたため、仕方なく寒いプリマスに上陸したと言われている。

ジェームズタウンの人々もプリマスの人々も農作業や漁業などをしたことが無く、食料不足や壊血病などのため死者が続出した。その様子を見た現地のネイティブアメリカン(インディアン)が食料を分けてくれたり、トウモロコシの育て方などを教えてくれたりして、何とか全滅を免れたとされている。しかし、その後は武力によってネイティブアメリカンを制圧して行った。

その後の17世紀中に、北米の西海岸では次々とイギリスの植民地が作られて行くことになる。そして、1674年に第二次英蘭戦争の講和によってニューアムステルダム(ニューヨーク)を中心とするオランダ植民地もイギリス植民地となった。



一方、カリブ海でイギリスは1625年にバルバドスを、1647年にバハマを植民地とした。さらに1655年にクロムウェルは、スペインが支配していたジャマイカに軍隊を派遣して占領した。これらの島々ではアフリカから運ばれてくる黒人奴隷を使った砂糖のプランテーションが開始され、大量の砂糖がイギリス本国に運ばれるようになる。

それでは、英蘭戦争の続きを見て行こう。

イギリス国王チャールズ2世は即位する前はフランスに亡命していたが、実はその時に密かにカトリックに改宗していたのだ。そしてイギリス国王として即位後は、次第にカトリック勢力に肩入れするようになり、さらにフランスと密約を結んでイギリスをカトリック国に戻すとともにプロテスタント国のオランダを占領しようとした。そうして1672年にイギリスにフランスとその同盟国のスェーデンを交えた第三次英蘭戦争が起こる。

フランス軍は内陸側からオランダ国内に侵攻し、イギリス軍は海側からオランダに上陸しようとした。オランダはフランス軍に対して水攻めで対抗し、イギリス軍に対してはまたもデ・ロイテルの活躍によってこれを打ち破った。

一方、イングランド国教会を守りたいイギリス議会はチャールズ2世に迫り、1674年にオランダと講和した。さらに、1677年にチャールズ2世の弟の娘であるメアリーをオランダの指導者のウィレム3世の妻として送り出した。こうしてイギリスとオランダの関係が深まった結果、不利を悟ったフランスはオランダとの講和に応じたことにより戦争は終了した。

1685年にチャールズ2世が死去すると、弟のジェームズ2世(在位:1685~1688年)が即位した。ところが、ジェームズ2世は兄のチャールズ2世以上にカトリック勢力を優遇し、イングランド国教会の勢力を排除するようになった。

危機感を覚えたイギリス議会はオランダのウィレム3世と妻のメアリー(チャールズ2世の娘)と結び、オランダ軍をイギリスに上陸させた。これを見てチャールズ2世はフランスに亡命し、その代わりにウィレム3世と妻のメアリーがイングランド王に即位してウィリアム3世(在位:1689~1702年)とメアリー2世(在位:1689~1694年)となり、イギリス(イングランド・スコットランド・アイルランド)の共同統治を行った。これを名誉革命と呼ぶ。

なお、この時に「権利の章典」が制定され、議会の権利の強化とカトリック教徒は国王になれないことなどが定められた。これは現代でもイギリスの根本的な法典とされている。

こうしてイギリスとオランダの争いはひとまず収まった。なお、ウィリアム3世の死後はメアリーの妹のアンがイギリス女王(在位:1702~1707年)となった。