修道院と中世ヨーロッパ前期の食-中世ヨーロッパのはじまりと食(3)
キリスト教には修道院という施設があります。教会が広く民衆に開かれた施設であるのに対して、修道院は修道士が厳しい修行を行う場です。この修道院がゲルマン民族とキリスト教が受容される上で大きな役割を果たしました。また、農業や食の世界にも大きな影響を与えました。今回は修道院と中世の食の関係について見て行きましょう。
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キリスト教で苦行僧のように厳しい修行を行う者は4世紀頃のエジプトやシリアで見られたが、彼らは最初は一人だけで活動していた。それが次第に集団生活をしながら修行するようになり、修道院が生まれる。
最初の完成された形の修道院は、529年にベネディクトゥス(480年頃~547年)によってイタリアのローマとナポリの間にあるモンテ・カッシーノという町に作られた。彼は「ベネディクトゥス会則(戒律)」と呼ばれる生活規範を作成した。この会則はその後13世紀頃までほとんどの修道院で採用されるようになる。
この会則では、修道士一人に毎日パン1ポンド(約450グラム)とワイン1ヘミナ(約270ミリリットル)を割り当てられることになっていた。この会則を実践しようとすると、パンを焼くためのコムギとワインを醸造するためのブドウが必要になる。そのために修道院の周りには畑が作られ、コムギとブドウが育てられるようになった。
ところで、ベネディクトゥスが修道院をイタリアに開いた頃は、ゲルマン民族の一部族のランゴバルドがイタリアを支配していた。もともとゲルマン民族はアリウス派のキリスト教(イエスと神は同質でないとする教派)を信仰していた。一方、ローマ帝国はイエスと神と精霊は同質であるとするカトリックだった。
このような状況に危機感を感じたローマ教皇(法王)はゲルマン民族に対してカトリックの布教活動を開始する。その伝道の大役を担ったのがベネディクト派の修道士たちである。実質的な最初のローマ教皇と言われているグレゴリウス1世(在位590~604年)は、若いころにベネディクト派の修道士として修業を行った経験があった。彼は伝道のためにベネディクト派の修道士をヨーロッパ各地に派遣した。この布教活動はブリテン島を皮切りに、西ヨーロッパで広く大成功をおさめ、ローマ・カトリックの教会とベネディクト派修道院は西ヨーロッパに定着していくことになる。
西ヨーロッパにおけるローマ・カトリックの繁栄は、東ローマ帝国(ビザンツ帝国)との力関係の上でもとても重要だった。ローマ教皇はローマ皇帝によって任命される。西ローマ帝国が滅亡した後は、東ローマ皇帝に任命権があったのだ。しかし、東ローマ帝国と西ヨーロッパでは国内の状況が全く異なってしまった。その結果、ローマ教皇は独自の道を模索せざるを得なくなったのだ。そして、新たな保護者としてフランク王国と結びつて行くことになる。
しかし、メロヴィング朝(481~751年)の時代には、ローマ・カトリックの受容はまだまだ進んでいなかった。王侯貴族が名目上カトリックになったというだけだった。この頃にはフランク王はローマ教皇と直接のつながりはなかった。
それがカロリング朝(751~987年)になると一変する。
フランク王国の宮宰の一つであったカロリング家の当主カール・マルテル(686~741年)はトゥール・ポワティエ間の戦いなどでイスラム勢力の侵入を食い止めたことよって名声を高めたことは先にお話しした。王になりたかった息子のピピン3世(714~768年)は、ローマ教皇ザカリアスに「実力はないが王の称号を持つ者と、王ではないが王権を行使する者のどちらが王であるべきか」と尋ね、「実権を持つものが王となるべき」という回答を得ると、メロヴィング朝の国王を追放し王位についた。
カロリング朝が始まるとともに、フランク王国がローマ・カトリックの守護者となった。こうして、フランク王国の保護のもとで西ヨーロッパにローマ・カトリックが定着し、ローマ教皇の権力が確立していくことになったのだ。
なお、ピピンは大司教と教皇から「塗油」を受けた。塗油はもともと聖職者を一般人と区別するための儀式であり、塗油を受けたことによって国王が聖なる存在になったことを意味していたのだ。これ以降、国王が即位するときに塗油を受けるのが一般的になる。
ピピンの息子のカール(742年~814年)は領土を広げ、フランク王国の最盛期を作ったことから「カール大帝」と呼ばれる。800年にローマに招かれたカールは、教皇のレオ3世によってローマ皇帝として戴冠された。カール大帝は、ゲルマン民族と古典古代文化とキリスト教の融合を体現したことから、中世以降のキリスト教ヨーロッパを作り上げた「ヨーロッパの父」と呼ばれることがある。
ヨーロッパの父カール大帝
以上のようなメロヴィング朝からカロリング朝への移り変わりにともない、農業形態も大きく変化した。
メロヴィング朝時代の農業はとても貧弱だった。この時代には開墾はほとんど行われずに、それまでの農地を利用していた。世の中が安定していなかったため、農民は自分の土地を有力者に譲渡する代わりに身の安全を保護してもらった。そして、同じ土地で農耕を行い、作物の一部を税として納めたのだ。と言っても生産性は非常に低く、わずかに麦類が栽培されるだけだった。カロリーの多くは牧畜や狩猟で得られる肉や乳製品から得ていたと考えられている。
カロリング朝時代になると農村は大きく発展する。気候が温暖化したことや、世の中も安定したことで大規模な農村が出現するようになったのだ。特に修道院は多くの農民の土地を集めることで大所領を有するようになった。所領は、8世紀から9世紀にかけて1000ヘクタールを越える規模になったという。パリのサン・ジェルマン・デ・プレ修道院の場合は、9世紀の初めに36000ヘクタールの所領を有していた。
所領内の農民は独自に耕作する菜園地と耕地をもっていて、家もそこに建てられていた。このほかに複数の農民が共同で利用する放牧地があり、牧畜が行われたり、共同の森林で採集・狩猟が行われたりしていた。また、週の半分ほどは修道院の直営地に出かけ、賦役として農作業を行った。これ以外に、パン、ワイン、ビールの製造や、屋敷の建築と修復、警備なども行ったという。修道院での生活に必要なパンやワインはこうして作られていた。
カロリング朝時代には、コムギ、オオムギ、ライムギ、エンバク、ソラマメ、エンドウマメ、ニンジン、リンゴ、亜麻など、多種類の作物を作るようになった。ブドウ栽培が西ヨーロッパに定着するのも9世紀頃のことである。
と言っても、まだまだ生産性は低く、ムギの種をまいても多い時でも3倍程度にしかならなかったそうだ。中世の農業革命が起こるのは次の時代である。