3・3 中世ヨーロッパのはじまりと食
ゲルマン民族と古典古代文化とキリスト教-中世ヨーロッパのはじまりと食(1)
今回からしばらく中世前期のヨーロッパにおける食を見て行きます。この中世前期とは5世紀頃から10世紀頃までの時代を言います。最初は中世前期ヨーロッパの概要について簡単にお話ししましょう。
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ヨーロッパの中世になる前の時代は「ローマ時代」と呼んでも差し支えないだろう。
その頃のヨーロッパはローマを中心に回っており、ヨーロッパはローマ本国とローマの属州だったガリア地域(現在のフランスなど)、そして蛮族であったゲルマン民族が生活していた地域に漠然と分けることができた。
この3つがゲルマン民族の大移動によって混合され、再統合されて行くのがヨーロッパの中世である。
その後のヨーロッパを作る上で重要な要素となったのが「ゲルマン民族」と「古典古代文化」と「キリスト教」である。つまり、ゲルマン民族が進んだ古代ローマの文化とキリスト教に接触し、それらを取り込んで、新たな文化を作り上げて行くのである。ちなみに、現在はヨーロッパの中心は北部であるが、これはもともとゲルマン民族が北部にいたからである。
ゲルマン民族がヨーロッパの支配者になることによって、彼らの食生活も変化して行くことになる。
ローマ帝国時代の政治家・歴史家のタキトゥス(55年頃~120年頃)が著した『ゲルマーニア』によると、ゲルマン人は「野生の果実や新しい獣肉、凝乳」が主食だった。穀物は補助的なものに過ぎず、農業は肥料をやらないので地力が衰えるため毎年耕地を変える必要があり、遊牧民に近い生活をしていた。
それがヨーロッパを支配することになって定住を余儀なくされた。その結果、農耕の重要性が高くなるのである。とは言っても、ゲルマン人にとって「肉」は依然としてとても重要な食品で、「肉を食べざる者は貴族にあらず」という暗黙のルールがあった。王侯貴族は毎日肉を食べていたという。そして、貴族に「肉を食べることを禁ずる」ことは、貴族の称号をはく奪することを意味していたのだ。
さて、ゲルマン民族によって複数の国家が興るが、その中でも他を圧倒したのがフランク王国である。5世紀末にクロヴィス1世がフランク王国を建設し、キリスト教に改宗する。そしてフランク王国はイベリア半島とブリテン島を除く、西ヨーロッパの全域を支配する王国を打ち立てていくのである。
最初にフランク王国を率いたのはクロヴィス1世のメロヴィング朝(481~751年)であった。しかし、フランク王国はクロヴィスの死後に複数の国に分裂して内乱が続くようになる。ゲルマン民族の伝統では財産は子供に分配されることが普通だったので、国も同じように分割譲渡されたのだ。まだまだローマの文化は受け入れられていなかったのである。この結果、王族の力が低下して豪族の力が大きくなり、各地に割拠するようになる。
キリスト教の受容もまだまだ不十分だった。一夫一婦制はなかなか受け入れられず、女性にうつつを抜かす王が相次いだ。このような状況も王の力を弱め、「宮宰(マヨル・ドムス)」と呼ばれた王の執事が実権を握るようになる。
つまり、メロヴィング朝の時代には「ゲルマン民族」「古典古代文化」「キリスト教」の融合は全く進んでいなかったと言える。
こうした停滞を打開したのがカロリング朝(751~987年)である。この王朝は宮宰の一つであったカロリング家が興したものだ。カロリング家はカール・マルテル(686~741年)がフランク王国の貴族を動員して732年のトゥール・ポワティエ間の戦いなどでイスラム勢力の侵入を食い止めたことよって名声を高めた。そして、その息子のピピン3世(714~768年)がローマ教皇の承認のもとで王位を簒奪した。このカロリング朝の時代になって、「ゲルマン民族」「古典古代文化」「キリスト教」の融合が始まると言われている。
カロリング朝フランク王国国王ピピン
ところで、ゲルマン民族の移動後も地中海貿易は存続していた。そして、ゲルマン民族の生活もこの貿易からもたらされる様々な品々に依存していた。多くのワインや油、香辛料も地中海貿易でヨーロッパに持ち込まれていた。この地中海貿易がイスラム勢力の勃興によって崩壊するのである。このこともヨーロッパの経済の中心が地中海から北部へ移動する要因となった。
ヨーロッパ北部と言えば、ゲルマン民族の一つのノルマン人が活動を開始するのも中世前期のことである。有名なヴァイキングはスカンジナビア半島などを本拠としたノルマン人のことである。また、第二次世界大戦のノルマンディー上陸作戦のノルマンディーもノルマン人の居住地であったことから名付けられたものだ。
このような中世前期のヨーロッパの食の世界についてこれから見て行きましょう。