食の歴史 by 新谷隆史ー人類史を作った食の革命

脳と食を愛する生物学者の新谷隆史です。本ブログでは人類史の礎となった様々な食の革命について考察していきます。

古代人も牛乳を飲んでいた-古代日本(8)

2020-09-08 00:02:06 | 第二章 古代文明の食の革命
古代人も牛乳を飲んでいた-古代日本(8)
哺乳類の赤ちゃんは母親のミルクしか飲まないが、すくすくと成長する。これは、ミルクの中には成長に必要な糖質・脂質・タンパク質やビタミン・ミネラルがバランスよく含まれているからだ。そのためミルクは「完全栄養食」と呼ばれることもある。

人はヘンな動物で、赤ちゃんでもない人たちが人間のミルクでなく、人間以外の動物のミルクを飲んでいる。ウシやヤギなどから栄養価の高いミルクが得られることを見つけて以来、長い間彼らのミルクを飲み続けてきたので、もはやそれが常識になっているからだろう。とは言っても、ミルクや乳製品を摂るのは西洋スタイルで、日本人が牛乳を飲むようになったのはつい最近のように認識されている感がある。ところが、古代日本でも乳牛が飼育されて、一部の高貴な人たちは毎日のように牛乳を飲んでいたことが分かっている。今回は古代日本における牛乳について見てみよう。

縄文時代の中頃以降の遺跡からウシの骨が見つかっているが、日本で本格的にウシが飼われるようになるのは弥生時代に入ってからである。また、ウマの飼育も同時期から盛んになる。このようにウシとウマの飼育の拡大が稲作の広まる時期と一致していることから、ウシとウマには犂(すき)を引かせるなど、主に農耕に使われたのではないか考えられている。

938年に編纂された『和名類聚抄(わみょうるいじゅうしょう)』には、中国人の善那が孝徳天皇(在位:645~650年)に牛乳を献上し、和薬使主(やまとのくすしのおみ)の姓を賜ったことが記されており、これが日本における牛乳に関する最初の事例となっている。この姓から分かるように、当時牛乳は薬と考えられていた。



平安時代には、宮廷内に乳牛の飼育舎である「乳牛院」が置かれた。乳牛院は、典薬寮(てんやくりょう)と呼ばれる宮中で医療・調薬を担当する部署に属していた。一方、各地には、ウシやウマを放牧しておくための牧場の「牧」が作られた。牧からは良い乳牛が乳牛院に送られ、古い乳牛は牧に返すなどしていた。

乳牛院では毎日約5.6リットル牛乳が搾乳されていたという記録が残っている。しぼられた牛乳は煮沸したのち飲まれたらしい。つまり、現代と同じ加熱殺菌が行われていたのである。こうしてできた牛乳は天皇および三宮 (太皇太后、皇太后、皇后) が飲用するようになっていたという。

さらに、宮中の指定酪農家である「乳戸」と呼ばれる者が各地におり、牛乳から「蘇(そ)」を作って朝廷に奉納していた。927年に書かれた『延喜式』によれば、「蘇」は牛乳を加熱して10分の1くらいまで濃縮したもので、こうすることで長距離の輸送にも耐えたらしい。なお、最近ではコロナ禍のために外に出られないため、自宅で蘇を作るのが流行しているそうである。

蘇以外の当時の乳製品としては、ヨーグルトのような「酪」、チーズのような「乾酪」、加熱した時に生じる乳皮を煮詰めた「酥」、酥を更に煮詰めたバター様「醍醐」などがあったそうだ。

11世紀ごろから貴族や社寺の領地である荘園が拡大し、その中にウシのための牧が作られた。こうして皇室だけでなく上流の貴族たちも牛乳や乳製品を摂取するようになる。この背景には、この頃の貴族が白米を食べるようになったことがあるようだ。

玄米には糖の代謝に必須のビタミンB1 が含まれているが、ぬかを取り除いた白米を食べるようになったため、ビタミンB1が不足しがちになったのだ。様々な記録から推察すると、当時の貴族はビタミンB1不足による体力減退やかっけに悩まされていたようである。牛乳にはビタミンB1が含まれているため、牛乳飲むとビタミンB1やいろいろな栄養素が吸収できて、元気になるのを実感していたのだろう。

このように広がりつつあった牛乳文化だったが、貴族の力が弱まり武士の力が大きくなるに従いだんだんと下火になり、江戸時代になるまで記録上は現れなくなってしまった。


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