食の歴史 by 新谷隆史ー人類史を作った食の革命

脳と食を愛する生物学者の新谷隆史です。本ブログでは人類史の礎となった様々な食の革命について考察していきます。

アルゼンチンの焼肉とマテ茶-中南米の植民地の変遷(7)

2021-10-31 13:13:17 | 第四章 近世の食の革命
アルゼンチンの焼肉とマテ茶-中南米の植民地の変遷(7)
アルゼンチンは南米ではブラジルに次いで広い面積を有する国で、世界では第8位に位置します。国土は南北に約3700㎞と非常に長く伸びていて、南は南米のほぼ南端に達します。

このように、アルゼンチンの領土は南北に長いため、気候は地域によってかなり異なっています。そして、手に入る食材も違うことから、地域ごとに独自の食文化が形成されたと言われています。

それでも、アルゼンチンのほとんどの地域では、牛肉をよく使う点で共通しています。アルゼンチンの牛肉消費量は世界トップクラスで、国民1人が1年間に約40kgの牛肉を食べています。ちなみに、日本人の消費量は年間約7kgで、アメリカ人でも約25㎏なので、アルゼンチンの牛肉好きは際立っています。

近年では、アルゼンチンから輸出される牛肉量が増えた結果、国内の牛肉価格が高騰したため、国民の不満が噴出するという事態が生じています。それに対して政府は、輸出を禁止することで国内価格を下げようとしていますが、なかなか思い通りには行かないようです。

ところで、ウシはヨーロッパ人がアメリカ大陸を植民地化した時に導入された動物で、アルゼンチンで牛肉を食べる文化はそれ以降に始まりました。今回は、このようにアルゼンチンで牛肉を食べる文化が始まったいきさつについて見て行きます。

また、もう一点、アルゼンチンでよく飲まれているマテ茶についても見て行きます。

なお、現代のアルゼンチン料理は、19世紀末にスペインとイタリアからやって来た大量の移民の影響を大きく受けています。この点については後ほど改めてお話する予定です。


(Nat AggiatoによるPixabayからの画像)

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ヨーロッパ人が到着するよりもずっと前から、アルゼンチンには人類が生活してきた。北西部では農耕民族(グアラニー族)がカボチャやメロン、サツマイモなどが栽培していたし、北東部には狩猟採集民族(チャルーア族)がいた。

スペイン人は1536年に現在のアルゼンチンを中心としたラ・プラタ地方を植民地化した。この地には広大な草原(パンパ)が広がっていたが、スペイン人がウマウシをパンパに放したところ、自然に大繁殖したという。そして19世紀初頭には、野生化したウシが約2000万頭まで増えていたと言われている。ちなみに、同時期のラ・プラタ地方の人口は100万人ほどだった。

ラ・プラタ地方はスペイン本国との航路が開拓されておらず、ペルーもしくはブラジルを経由するしか行き来ができない過疎地だった。ところが、18世紀後半になると、増えたウシから取った牛皮が大量に輸出されるようになった。また、牛肉を塩漬けにして遠隔地に輸出することも行われるようになった。
このようなウシの扱いに活躍していたのがガウチョたちだ。

ガウチョとは、17世紀から19世紀半ばにかけて主として牧畜に従事していた遊牧民のことで、通常はスペイン人と原住民の混血であるメスティーソだったが、中には黒人との混血であるムラートもいたと言われている。

ガウチョが使った道具は、投げ縄とナイフ、そしてボレアドラだ。ボレアドラとは、革ひもと3つの鉄球または石でできた道具で、ウシの足に投げつけてからめ取り、動けなくするものだ。

ガウチョたちは野生のウマを捕まえて乗り物とし、ウシを捕まえて皮と肉をとり、それを売って生計を立てた。そして、毎食のように牛肉を食べていたという。

牛肉は「アサード」と呼ばれる、熾火(おきび)で長時間かけて焼き上げる焼肉で食べられることが多かった。ガウチョたちは十字架のような形をした支持体に動物をくくり付け、それを火の近くに刺して焼いていた。そうすることで肉は柔らかく、ジューシーで味わい深いものになる。

このような牛肉の焼肉料理がガウチョ以外の人々にも広がり、アルゼンチンで牛肉を食べる文化が根付いたのである。なお、町中では金網の上で焼く方法の方が好まれ、これは「パリージャ」と呼ばれて現代でもメインの焼き方になっている。

肉の味付けは塩をふりかけるだけのシンプルなものが一般的だったが、「チミチュリ」と言うオリーブオイルとビネガーにパセリ、オレガノ、ニンニク、塩、コショウを加えたソースも使われている。

次は「マテ茶」の話だ。

ラ・プラタ地方では古くからマテ茶を飲む習慣があった。これは南米を原産地とするイェルバ・マテの茶葉を水や湯で抽出した飲み物だ。茶やコーヒーのようにカフェインを含むとともに、ビタミンやミネラルも多く含有するため、健康飲料として飲まれることが多かった。

ラ・プラタ地方を植民地化したスペイン人も、16世紀後半にはマテ茶をよく飲むようになったと言われている。そして17世紀になると、イエズス会が栽培を促進したことでマテ茶は主要な輸出品となり、砂糖やタバコと肩を並べるようになる。そして、マテ茶を飲む習慣はチリやペルーにも広がって行った。

なお、イェルバ・マテは野生に生えているものが古くから使用されていたが、17世紀半ばにはイエズス会が栽培化に成功し、マテ茶のプランテーションが作られた。ところが、1767年にイエズス会がスペインの植民地から追放されると、マテ茶のプランテーションは放棄され、栽培化された株も失われた。

19世紀末から20世紀初頭にかけて、ブラジルとアルゼンチンのプロジェクトにより、マテ茶は再び栽培化された。現在ではこの2つの国がマテ茶生産の中心となっている。


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