食の歴史 by 新谷隆史ー人類史を作った食の革命

脳と食を愛する生物学者の新谷隆史です。本ブログでは人類史の礎となった様々な食の革命について考察していきます。

ビザンツ帝国の歴史①-中世ヨーロッパのはじまりと食(7)

2020-11-07 15:39:19 | 第三章 中世の食の革命
ビザンツ帝国の歴史①-中世ヨーロッパのはじまりと食(7)
今回からしばらくはビザンツ帝国(東ローマ帝国)のお話しです。最初にビザンツ帝国の歴史について概略を見て行きましょう(食の話は少ないです)。

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ビザンツ帝国と言えば首都の「コンスタンティノープル」が思い浮かぶ。ビザンツ帝国の始まりをいつとするかは人によって異なるが、330年にコンスタンティノープルが建設されたことをもって始まりとする考えもかなり有力だ。

コンスタンティノープルは、アジアとヨーロッパを結ぶとともに黒海と地中海を結ぶ十字路となっているボスポラス海峡に向かって開かれた町である(下図参照)。このため、この町は交易の都として繁栄したのである。



コンスタンティノープルは、元は古代ギリシア人によって建設されたビザンティオンという名の町であったが、ローマ皇帝コンスタンティヌス(在位:306~337年)がローマと並ぶ新しい首都とするために自分の名前にちなんで改名したものだ。ちなみにビザンツ帝国(ビザンティン帝国)という名は、この古い都市名のビザンティオンから来ている。

コンスタンティヌスの時代から、ローマ皇帝には独裁的な権力が集中するようになる。また、民衆の宗教だったキリスト教が国教として国を支える宗教へと変わり始める時代でもあった。ビザンツ帝国でも、この専制君主としての皇帝と国教としてのキリスト教が国を動かす中心的な役割を果たしていく。

キリスト教を正式に国教化したローマ皇帝のテオドシウス(在位:379~395年)が395年に亡くなると、ローマ帝国は東西に分けられて、それぞれを2人の息子が統治するようになる。その後、西ローマ帝国が476年に滅亡したが、ゲルマン民族の侵入が少なかったことやエジプトなどの穀倉地帯を有していたことなどから東ローマ帝国は存続できた。



ところで、東ローマ帝国はギリシアなどがあるバルカン半島を中心とする国家だったため、主要な民族はギリシア人だった。この結果、東ローマ帝国は次第にギリシア的性格が強くなり、「ビザンツ帝国」と呼ばれるようになった。また、ビザンツ帝国のキリスト教は「ギリシア正教」と呼ばれるようになる。

しかし、ビザンツ帝国(東ローマ帝国)がずっと安泰だったわけではない。

まず、542年から545年にかけてビザンツ帝国ではペストが猛威をふるった。コンスタンティノープルでは毎日数千人の人が死亡したと言われている(それほど大規模ではなかったという説もある)。皇帝のユスティニアヌス((在位:527~565年)も感染したため「ユスティニアヌスの疫病」と呼ばれた。

なお、ユスティニアヌス帝は盛んに遠征を行い、ヴァンダル王国や東ゴート王国を滅ぼして地中海全域の支配権を再獲得した。また、その後のヨーロッパの法律に大きな影響を与えた法典集である「ローマ法大全」の編纂を行ったことでも知られている。

ところが、ユスティニアヌス帝の死後しばらくすると、スラブ民族がビザンツ帝国内に侵入してきた。スラブ民族は現在のポーランドやウクライナなどにまたがるカルパティア山脈付近が原住地と考えられており、4世紀からのフン族やゲルマン民族の大移動とともに東や西、そして南に移動を開始した。580年頃にはビザンツ帝国の北部に侵攻したとされている。

その後スラブ民族は他の民族と交わり、ブルガリア人やロシア人、ポーランド人が誕生する。なお、これら東欧の国々が現在ギリシア正教なのは、戦いや交易などを通じてビザンツのキリスト教が伝わったからである。

6世紀まではビザンツ帝国の穀倉地帯であったエジプトやシリアが支配下にあり、たくさんの食料がコンスタンティノープルに運ばれてきていた。そして市民には無料で食料が配られていた。また、競馬場では毎日のようにレースが開催され、数万にのぼる市民の憩いの場となっていた。「パンとサーカス」の世界がビザンツ帝国でも続いていたのである。

ところが7世紀になるとササン朝ペルシアの侵攻を受け、シリアとパレスチナ、そしてエジプトを奪われてしまう。ビザンツ帝国は穀倉地帯を失うとともに、パレスチナに保管されていたキリストがはりつけにされたという聖十字架も持ち去られてしまったのだ。

ビザンツ帝国はいったんは穀倉地帯と聖十字架を奪い返すが、今度はイスラム勢力が侵攻してきた。そしてイスラムとの戦いに敗れたビザンツ帝国は再びシリアやエジプトを失い、「パンとサーカス」の世界もここで終わりを迎える。自分の食料を確保できない市民はコンスタンティノープルから追放されてしまったという。

イスラムは首都のコンスタンティノープルに迫り、674年から678年にかけて首都包囲戦が行われる。こうしてビザンツ帝国は滅亡の危機に瀕するのだが、「ギリシアの火」と呼ばれた水をかけても激しく燃え続ける液体状の火炎兵器(下図参照)を駆使することでイスラム軍を撃退することができた。


ギリシアの火(スキュリツェス年代記より)

その後、イスラム軍はササン朝ペルシアを滅ぼして中央アジアを支配するととともに、西はイベリア半島まで進出する。そしてイスラム軍は717年に再びコンスタンティノープルを包囲した。この時も、ギリシアの火と鉄壁と呼ばれた陸と海の城壁、そしてブルガリア軍の助けによってイスラム軍を撃退することに成功する。

もしコンスタンティノープルがイスラム軍によって占領されビザンツ帝国が滅亡していたら、イスラム勢力はそのまま西ヨーロッパに侵攻することで、その後の歴史が大きく変わっていた可能性が高い。「イスラム勢力に対する防波堤」が、ビザンツ帝国が果たした役割の一つと言われるゆえんである。


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