食の歴史 by 新谷隆史ー人類史を作った食の革命

脳と食を愛する生物学者の新谷隆史です。本ブログでは人類史の礎となった様々な食の革命について考察していきます。

インドの歴史とドーサ-中世・近世インドの食の革命(1)

2021-11-05 18:16:12 | 第四章 近世の食の革命
インドの歴史とドーサ-中世・近世インドの食の革命(1)
今回から中世・近世インドの食のシリーズが始まります。

中世や近世などの時代区分は西洋史で言われ始めたものらしく、他の地域の歴史を語る上ではそのような時代区分をすることが難しい場合があります。それでも、世界はつながっているという考えから、どの国の歴史も古代から現代までの時代区分に分けることが一般的に行われています。しかし、いつからいつまでをどの時代区分にするかは、学者によって異なります。

インドの歴史で中世と言うと、インド北部でイスラム勢力による政権が樹立された13世紀頃から始まるとされることが多いので、ここでもそれにならおうと思います。

一方、中世の終わりと近世の始まりについては学者によって意見が異なっているようで、ここではイギリスのインド侵略が活発化していく18世紀半ばまでを中世・近世の終わりとします。

今回は、インドの歴史を概観するとともに、「ドーサ」というクレープのような料理について見て行きます。

なお、インドは世界第7位の広大な領土を有しているため、食文化の地域性が高く、インドの料理を一言で表すことは不可能と言われています。このような地域性をふまえて、インドの食の歴史を見て行きたいと思います。

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インドの古代文明と言えば、紀元前2600年頃から紀元前1800年頃まで、現在のパキスタンからインド北西部のインダス川流域に栄えた「インダス文明」だ。船を使ってメソアメリカ文明と貿易を行っていたことが分かっているが、文字が未解読であることと、パキスタンでの調査が進んでいないことなどから不明な点が多く残されている。

インダス文明では既に、カレーに使用されるスパイスの、ターメリックやクミン、ジンジャー(ショウガ)、コリアンダー(パクチー)、コショウなどが利用されていたと考えられている。

紀元前1500年頃になると、中央アジアからインド=ヨーロッパ語族の遊牧民であるアーリア人が北西地方に進入を開始した。アーリア人は進入した土地で先住民と交わり、農耕民族に変貌していった。さらに、紀元前1000年頃になると、アーリア人は東進し、より肥沃なガンジス川上流域にも進出した。

アーリア人が進入した地域では、バラモン(司祭)・クシャトリア(武士)・ヴァイシャ(農民・牧畜民・商人)・シュードラ(隷属民)という4つの身分に分けられたヴァルナ制と呼ばれる観念が生まれた。そして、ヴァルナ制を基にしてカースト制度が長い時間をかけて作り出されて行った。また、バラモン教と言う祭儀を重要視する宗教が成立した。これがヒンドゥー教の元となった宗教である。

一方、南部では原住民族のドラヴィダ人が独自の社会を作っていた。

紀元前6世紀頃になると、北部の政治と経済の中心はガンジス川中・下流に移動し、城壁で囲まれた都市国家がいくつも生まれた。都市国家同士は激しく競い合い、勝ち残った国は他国を併合して領域国家へと成長する。このような争いの中で、仏教やジャイナ教などの新しい宗教が生まれた。

紀元前4世紀後半になると、ギリシア・マケドニアのアレクサンドロス大王が北西地方に侵攻する。マケドニアの支配は短期間に終わったが、これをきっかけにインドに国家統一の気運が生まれた。その結果登場したのがインド最初の統一国家であるマウリヤ朝である。マウリヤ朝の最盛期を築いたのがアショーカ王で、彼は仏教を篤く保護した。

紀元前2世紀頃にマウリヤ朝が衰退すると、インド北部は小国に分裂し、抗争を繰り返すようになる。また、北西地方にはギリシア人やイラン人などが相次いで進入した。そして、1世紀中頃に、この地域で力をつけたイラン系のクシャーン人がインド北西部にクシャーナ朝を建てた。

また、同じ頃にインドの中部地方ではサータヴァーハナ朝が、そして南部ではチョーヤ朝が栄えた。両者はオリエントやローマとのインド洋交易を盛んに行い、その遺跡からは大量のローマ金貨が発見されている。

クシャーナ朝が衰退すると、4世紀中頃にガンジス川中流域にグプタ朝が成立した。そして、インドの南部を除く地域を支配するようになる。グプタ朝では、シヴァ神やヴィシュヌ神を信仰するヒンドゥー教が定着した。ヒンドゥー教にとって牛は神聖なものだったので、グプタ朝では牛肉をほとんど食べなくなった。

グプタ朝が遊牧民族の侵入によって衰えると、7世紀にヴァルダナ朝が成立した。この王朝では仏教も保護され、唐からは玄奘(三蔵)が仏教研究のために訪れた。

ヴァルダナ朝が衰退すると、7世紀から13世紀までインド北部には複数の王朝が次々と現れ、抗争を繰り返す時代に突入した。この間の8世紀にはイスラム勢力のインド侵入が始まり、10世紀後半からはそれが本格化した。この時期に、インド北部の農村は独立した村落共同体としての性格が強まり、カースト制度が社会に浸透して行った。

13世紀初め以降、インド北部ではイスラム勢力の王朝が誕生と滅亡を繰り返した。そして、1526年にはモンゴル系のバーブルがムガール帝国(1526~1858年)を建国した(ムガールはモンゴルを意味する)。ムガール帝国は次第に領土を拡大し、1687年には南部の一部を残してインドのほぼ全域を支配するまでになった。ムガール帝国の宮廷では、インド=イスラム文化が開花し、タージ・マハルなどが建設された。

一方、1498年に南インドのカリカットにポルトガル人のヴァスコ・ダ・ガマが現れたのを皮切りに、オランダやイギリス、フランスなどのヨーロッパ勢力がインドに進出して来た。そして、17世紀後半以降はイギリスとフランスがインドとの交易を巡って激しく争うようになる。

1757年のプラッシーの戦いでイギリスがフランスに勝利すると、イギリスはインドの植民地化を積極に推し進めた。そして1857年にインドの植民地化を完成化させ、ムガール帝国が滅亡するのである。

さて、これまで見てきたように、インドの北部と南部では、たどってきた歴史がかなり異なっているし、気候風土も地方ごとに全く異なっている。そのため、現在、インド料理として広く食べられている料理も、元は特定の地域だけで食べられていたものが多い。

この中で南部発祥の代表的な食べ物が「ドーサ」だ。ドーサは紀元1世紀頃にはすでに南部の国で作られていたという。それ自体は辛くなく、クレープのような存在と考えれば良い。今では、カレー味のジャガイモを包んで食べるマサラドーサが最もポピュラーだ。

ドーサの作り方は次の通りだ。

水に浸したコメとケツルアズキ(もやしを作る小さい黒いマメ)の混合物を細かく粉砕して生地を作る。この生地を一晩発酵させた後、好みの固さになるように水を加えて混ぜる。そして、油かギー(澄ましバター)を塗った熱いタヴァ(鉄板)の上に流し込んで、クレープあるいはパンケーキのように好みの厚さに広げて焼く。


ドーサ(Ranjith SijiによるPixabayからの画像)

本シリーズでは、歴史と地域性を踏まえて、インドの食について見て行きます。