食の歴史 by 新谷隆史ー人類史を作った食の革命

脳と食を愛する生物学者の新谷隆史です。本ブログでは人類史の礎となった様々な食の革命について考察していきます。

日本人と肉食-中世日本の食(13)

2021-02-01 18:40:39 | 第三章 中世の食の革命
日本人と肉食-中世日本の食(13)
京都の伏見稲荷大社の参道にはスズメの焼き鳥を売る店があります。昔、その近くを通りかかったところ、私の前を歩いていた若者がスズメの焼き鳥を見て、すごく驚いたように隣の女性に声をかけました。

「見て!神社なのに焼き鳥売ってるよ!肉食べるのはダメなんじゃない」

大きな誤解があるようですが、それも仕方ないのかもしれません。と言うのも、神社など神聖な場所で動物の肉を食べるのはタブーと思っている日本人が少なからずいるように思われるからです。

そこで今回は、日本人の肉食の歴史について見てみようと思います。

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日本人にとって「肉」と言われて最初に思い浮かぶのは牛肉や豚肉などの四つ足の動物の肉のことで、鳥肉のことを最初に思い浮かべる人はあまりいない。また、魚ももちろん肉と呼ばれない。

神社のお供え物もこれに似ている。神前には供物としてシカやブタなどの四つ足の動物が供えられることはほとんどないが、魚が供えられることは多いし、ニワトリ以外の鳥(例えばカモやキジなど)が供えられる神社も多い。

これは、四つ足の動物や神聖なニワトリを食べると身体が穢れる(けがれる)という神道の考えがあるからだ。このため、六畜(ウマ・ウシ・ヒツジ・イヌ・イノシシ(ブタ)・ニワトリ)の肉を食べた場合には、穢れがとれるまでしばらくは飲食や行いをやめて家の中に閉じこもる「物忌み」をすることが取り決められていた。この物忌みの考えと仏教の不殺生戒の考えが組み合わさり、日本独自の肉食のタブーが作られて行ったと考えられる。なお、物忌みによる獣肉の制限は時代とともに厳しくなり、平安末期の貴族社会ではシカなども禁止されるようになった。

こうして貴族などの上流社会では獣の肉を食べることがタブーとされるようになったが、鳥や魚を食べることは禁じられていなかったのでよく食べられた。例えば、平安時代以降の宮廷や貴族の宴席ではキジが最高級とされ、ハクチョウとガンがそれに続き、ほかにカモ、ウズラ、ヒバリ、スズメ、シギなどが食べられていた。

一方、鎌倉時代になって政権を握った武士は狩をするのを常としていたため、獣の肉を食べることがタブーにならなかった。また、戦で力を使うため肉は良い栄養源となっていたし、狩を行うことは戦闘の訓練にもなった。

武士たちは狩場を多人数で包囲して狩をする巻狩りを行い、シカやイノシシ、ウサギ、クマ、タヌキ、サルなどを獲って食べていた。また、ガンやキジなどの野鳥も狩って食べた。なお、こうして狩で得た獲物の肉は箸ではなく直接手に取って食べるのが作法だったらしい。

また、鎌倉時代から捕鯨が盛んになった。

縄文時代の遺跡からクジラの骨が見つかっていることから、日本人は有史以前から鯨肉を食べていたことが分かっている。しかし、鎌倉より前はイルカや小型のクジラを獲ったり、浜に打ち上げられたクジラを食べたりした程度で、それほど多くのクジラは食べられていなかったが、鎌倉時代から大型のクジラを獲るようになったのである。

実際に関東の房総半島では13世紀頃から、クジラの骨を加工した釣り具や生活用品がよく使用されるようになった。また、鎌倉の海岸部の鎌倉時代の史跡からはクジラの骨がたくさん見つかっている。さらに、法華宗の宗祖である日蓮(1222~1282年)の1277年の書状に「房総で体長が30メートルほどのネズミイルカという大魚が獲れて鎌倉に送られ油を絞った」という記述があるが、この大魚はクジラと推測されている。

なお、その頃の漁は湾の入り口を網で塞いで鯨を捕獲する「追い込み漁」だったが、この漁はあまり効率的なものではなかった。

16世紀後半になると鉄製の漁具が普及し、複数の船に乗った漁師が矛(ほこ)や槍、銛(もり)を使ってクジラを突き殺す「突き取り式捕鯨」が行われるようになった。その結果、それまでよりもずっと多くの鯨肉が出回るようになって商業捕鯨が成立するようになる。こうして鯨肉は上流階級の口に入るようになったのだ。

例えば、1578年に織田信長が細川藤孝にあてた書状に、愛知の知多半島で獲れたクジラの肉を朝廷に献上するが、藤孝にもおすそ分けをすることが記されている。また、1591年9月に豊臣秀吉が毛利輝元邸を訪問した際に催された宴席では、白鳥やタラの汁物のほかにクジラの汁物が出たことが記録されている。

江戸時代になると捕鯨はさらに盛んに行われるようになり、庶民の間でもクジラが食べられるようになるが、それに関しては「近世」の項でお話しします。


(PexelsによるPixabayからの画像)

ところで、鎌倉時代になるといわゆる鎌倉新仏教が興った。この新仏教の根底にあったのが「末法思想」だ。末法思想とは、釈迦の入滅(仏滅)後しばらくたつと悟りと正しい行いが無くなるという考えで、日本では1052年から末法の時代が始まるとされていた。その末法の時代に独自の仏教を実践しようとしたのが鎌倉新仏教の開祖たちだったのだ。

鎌倉新仏教の一つの浄土真宗の宗祖である親鸞(1173~1263年)は「肉食妻帯」を始めたと言われている僧である。親鸞には次のような逸話がある。

北条政子の十三回忌の法要の後に催された宴席でタラが出たのだが、親鸞は袈裟を着たままこれを食べたそうだ。すると、その席にいた当時9歳だった後の北条時頼は「他の僧たちは袈裟を脱いで食べているのに、どうしてあなたは袈裟を脱がないのか」と何度も尋ねた。それに対して親鸞は「今は末法の世の無戒の時代です。僧侶の姿はしていても心は世俗の人たちと同じですから、タラを食べているのです。でも、せめてタラを解脱させてやりたいので、霊服である袈裟を着たまま食べているのです」と答えたという。

この逸話から、他の僧は袈裟を脱ぐことで庶民と偽って肉食をしていたが、親鸞は袈裟を着て肉食を行うことで「戒律を守らなくても念仏を唱えれば救われる」という新しい仏教の姿を周りに示そうとしたと言われている。

なお、現在のように僧侶の世界に肉食妻帯が一般化するのは明治になってからである。

*今回で日本の中世の食のシリーズは終了です。次回は中国の中世の食シリーズが始まります。