食の歴史 by 新谷隆史ー人類史を作った食の革命

脳と食を愛する生物学者の新谷隆史です。本ブログでは人類史の礎となった様々な食の革命について考察していきます。

五代十国と宋-10~17世紀の中国の食(1)

2021-02-04 22:50:53 | 第三章 中世の食の革命
3・7 10世紀から17世紀の中国の食
五代十国と宋-10~17世紀の中国の食(1)
今回から中国の食のシリーズが始まります。

ところで、これまで西アジアやヨーロッパ、日本などの「中世」における食の話をしてきましたが、この中世の期間は中国の歴史では「近世」と呼ばれたり、あるいは中世や近世といった時代区分をしなかったりするのが一般的になっています。

そこで、このブログでは誤解を避けるために、「10世紀から17世紀の中国の食」とします。

第1回の今回は、この時代の前半の概要について見て行きます。

************
唐は907年に滅んで、宋は960年に誕生するが、その間の約50年間には黄河流域の中原では後梁・後唐・後晋・後漢・後周という5つの王朝が順に建国と滅亡を繰り返し、江南(およそ中国の南半分)では呉越・南唐・前蜀・後蜀・呉・閩(びん)・荊南・楚・南漢・北漢という10カ国に分かれて興亡した。そのためこの期間は「五代十国時代」と呼ばれる。


五代十国(玖巧仔, CC BY-SA 3.0 <https://creativecommons.org/licenses/by-sa/3.0>, via Wikimedia Commonsより)

五代十国の建国者の多くは唐時代の軍の司令官(節度使)であり、他国に打ち勝つために軍備を増強するとともに国土の開発に努めた。その結果、後進地域で開発が進んでいなかった江南が先進地域の中原を凌駕する発展を見せるようになるのだ。

例えば、呉越は長江下流のデルタ地帯を支配していたが、ここは低湿地帯であり耕作をするのが難しかった。そこで呉越は排水設備を整え、耕地の開発を進めたところ、デルタ地帯は一面が水田となり、それ以降は中国で最も豊かな穀倉地方に成長して行ったのだ。なお、後にこの地域には上海が誕生することになる。

また、洞庭湖の南の楚では茶の栽培が盛んになり、茶葉を交易品として輸出することで繁栄した。さらに、桑の栽培とカイコの飼育も盛んになり、高価な絹織物も生産されるようになった。

呉は十国のうち最も栄えた国だったが、それは呉の支配した地域が塩の産地として有名で、塩の売買に高い税金をかけることで国庫が潤っていたからだ。その頃の塩は主に海水から作られており、広い国土の割に海岸線が短い中国で呉の支配した地域は砂浜が続き製塩に適していたのである。

このように、江南では様々な産業が興隆し発展して行った。

一方、中原では国内の政権争いや戦乱が絶えることなく続き、人民は疲弊していた。このような中で、最後に中原を支配した後周(951~960年)の皇帝世宗は五代随一の名君と言われ、農業生産や経済を安定化させるとともに軍事力を強化して領土を急速に拡大させた。このまま中国統一かと思われた矢先、世宗は道半ばで若死にしてしまう。

世宗の子は7歳と幼かったため、人望があつかった将軍の趙匡胤が禅譲を受けて「宋(960~1279年)」を建国した。そして、第2代皇帝太宗(在位:976~997年)の時代に宋が中国のほぼ全土を統一した。

宋の特徴は文官を使って経済主導型の政治を行ったことだ。

宋は登用試験として有名な科挙によって優秀な官僚を民間から集め、彼らを使って国を動かした。それまでの中国では武人によって国を治めた結果荒廃を招いたことから、それに対する反省があったと考えられる。

また、大量の貨幣を鋳造して貨幣経済を成立させ、産業や商業を振興することで経済的な繁栄を勝ち取った。そして、遊牧民の侵略など安全保障上の問題も、武力ではなく敵に金を払って調略することで解決したのである。

宋の首都の開封は政治の中心だけでなく、経済の中心であり、文化の中心でもあった。開封ではどこに店を開いてもよく、盛り場での夜通しの営業も可能で、夜が明けるまで多くの人でにぎわっていたという。

また、開封の数百万軒の家の中では燃料に石炭が使われており、薪を用いる家は無かったという。石炭は薪よりも高温となるため、素早く料理ができて便利だった。このように、高温の炎を使う中華料理が始まったのも宋の時代であり、現代の中華料理の基本形がこの時代にほぼ整ったと言われている。

また、茶を飲用する習慣は唐代に上流階級で一般化したが、宋ではさらに庶民の間にも普及した。農村では茶がよく栽培され、都市には茶館が作られた。また、この頃には遊牧民にも茶を飲む習慣が広がったので、宋の茶と遊牧民の馬を交換する茶馬貿易が盛んになった。

宋政府の歳入で大きな部分を占めていたのが、茶や塩、酒、鉄などの売買を国家が管理する専売制によって得た税金である。特に塩の専売制は莫大な金を生み出したと言われている。

以上のような食に関連する事柄については、このシリーズで詳しく見て行く予定だ。

さて、宋は北に位置する遊牧民国家の遼に銀や絹を差し出すことで国境を維持して来たが、1125年に女真族の金が遼を滅ぼし、さらに宋に攻めて来るという大事件が起こる。実は宋は金と結んで遼を滅ぼそうとしたのだが、金に対して再三の背信行為を行った結果、金が怒って宋を攻めたのだ。こうして金によって首都の開封は制圧され、皇帝は捕虜として連れ去られたのち死亡することとなった。

皇族の中では皇帝の弟の高宗が唯一南に逃げ延びることができた。金の侵攻は激しかったが何とか和議を結び、華北は金の領土とし、宋は江南地方を治めることとなった。これを南宋(1127~1279年)と呼ぶ。また、それ以前を北宋と呼ぶ場合がある。

南宋の国土と人口は以前の半分になったが、長江流域の開発がさらに進み、農業技術の進歩も相まってコメや茶の生産量が大幅に増加した。また、陶磁器や紙、絹織物などの生産業者が各地で誕生し、国内産業が発達するとともに対外貿易も盛んになった。

この発展を受けて、首都の臨安は開封をしのぐ繁栄をおさめることとなった。13世紀末に臨安を訪れたマルコ・ポーロはその発展ぶりに大いに驚いたと言われている。