モンゴル帝国の時代-10~17世紀の中国の食(2)
「チンギス・カン」は日本ではとても有名です。
モンゴル高原の一部族の長に過ぎなかった者が、遊牧騎馬民族の機動力を利用してまたたく間に広大な領地を獲得して行った話はとてもインパクトがあります。私が「遊牧騎馬民族」という言葉を初めて知ったのも歴史の授業でチンギス・カンを習った時で、同じような人も多いのではないでしょうか。
なお、北海道のソウルフードの「ジンギスカン」も彼の名前からとったものですが、これは日本人が始めた料理で、ヒツジ肉を使うのがモンゴル風に見えたからと言われています。
今回はチンギス・カンが創始したモンゴル帝国について概要を見て行きます。
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中国北方のモンゴル高原で暮らしていたモンゴル民族が中国の史書に初めて登場するのは7世紀のことである。モンゴル民族はいくつかの国に従属しつつ勢力を拡大して行った。8世紀頃から始まる温暖化の影響受けて豊かになった草原の恵みをうけていたと思われる。そして12世紀になると、華北を支配していた金と対立することになる。
1206年にチンギス・カンがモンゴルの諸部族をまとめて即位すると、モンゴル民族は積極的な拡大路線を展開するようになった。そして1227年にチンギス・カンが死亡するまでに中央アジアと西アジアの草原地帯や乾燥地帯のほぼすべてを手中にした。
父の遺志を継いだ三男のオゴデイ(在位:1229~1241年)は江南の南宋と結び、1234年についに金を滅ぼす。しかし、この時にも南宋は過ちを犯した。モンゴル側が南宋との国境線としていた淮河(淮水)を越えて南宋軍が北方に進撃したのだ。こうしてモンゴル帝国と南宋との戦いが始まった。
一方、長男のジョチとその息子バトゥは西方への進出を担当し、地中海東部のヨーロッパのすぐ近くまで領地を拡大した。さらにバトゥはポーランドとハンガリーに進軍して大勝をおさめた。ヨーロッパ軍はバトゥ軍に手も足も出なかったのである。ところが1241年にオゴタイが死去すると、その知らせを受けたバトゥ軍はハンガリーより東に退却し、ヨーロッパ侵略は終了することとなった。
なお、オゴデイは大の酒好きで、亡くなる前日も夜遅くまで酒を飲んでいたと言われている。彼がもう少し長生きしていれば、ヨーロッパ全土がモンゴル帝国によって支配されていた可能性が高い。
モンゴル帝国ではオゴデイの死後すこしして後継者争いが勃発したが、最終的にオゴデイの弟の息子クビライ(フビライ)(在位:1260~1294年)が皇帝となる。クビライは1271年に国名を「大元」とし、首都の「大都」を今日の北京の地に築いた。また、南宋への侵攻を繰り返し、1276年に南宋の首都臨安を陥落させて事実上南宋をほろぼした。
クビライの時代のモンゴル帝国は、モンゴル民族最高位「ハン」のクビライが直接統治する東アジア(大元ウルス)と、クビライの親族が統治する北アジア(ジョチ・ウルス)・中央アジア(カイドゥ・ウルス)・西アジア(フラグ・ウルス)によって構成された連合国家と言える(「ウルス」はモンゴル語で「国家」「人民」という意味)。
モンゴル民族は遊牧民で、交易が生活必需品を手に入れる大きな手段だった。つまり、遊牧民は交易商人としての顔も持っていたのだ。クビライが主導したモンゴル帝国も商業第一主義の国家であり、征服した各地の商人(遊牧民)を使って広大なモンゴル帝国内に「大交易網」を整備した。また、ハンの威光を裏付けにした「紙幣」を発行することで商業を活発化させた。こうして商取引に税をかけ、モンゴル帝国の財源したのである。もちろん、大きな税収が見込まれる塩などの専売制は継続されていた。
日本を侵略しようとした「元寇(1274年・1281年)」も、優秀な刀剣などを生産する日本を帝国の経済圏に組み込むためだったのではないかと言われている。
以上のような巨大な交易網が発達した結果、それまで中国で食べられていた料理にモンゴル民族の料理とモンゴル帝国が征服した各地から取り入れた料理が融合した。
モンゴル民族に特徴的な食として「白い食」の乳製品と「赤い食」の肉がある。
それまでの中国では乳製品があまり食べられていなかったが、ヨーグルトやチーズのような乳製品や馬乳を発酵させて作った馬乳酒が出回るようになった。
一方、肉の中でモンゴル民族は羊肉をよく食べたが、イスラム教徒と接触することで民族の一部がイスラム化し、いっそう羊肉を食べるようになった。そして、支配された漢族がモンゴルの食事をヒントに生み出したのが、日本の「しゃぶしゃぶ」の原型とされる北京料理の「涮羊肉(シュワンヤンロウ)」だ。これは薄切りの羊肉を野菜と一緒に水炊きにしたものを、ごまだれなどで味付けして食べる料理だ。
また、モンゴル民族は穀物をほとんど食べなかったが、征服活動によって他民族と接触することによってコムギやコメなどを食べるようになった。インドで良く栽培されていたコーリャン(モロコシ)が中国でよく食べられるようになったのも元の時代からである。
これ以外には、インド方面から持ち込まれたコショウなどの香辛料がよく使用されるようになったし、砂糖の消費量も増えたと言われている。
さて、隆盛を極めていたモンゴル帝国だったが、14世紀になると未曽有の危機を迎えることになる。それが地球規模の寒冷化現象である。寒冷化によって農業生産力が落ち、それが帝国を支えていた商業にも波及したのである。こうしてユーラシア大陸に広がっていた交易網も分断されることになった。
ヨーロッパでもこの時期に寒冷化が起こり、農業生産量が激減して打ち捨てられる村が続出していた。なお、記録には少ないが、同時期に発生していたペストもモンゴル帝国に大きなダメージを与えたと考えられている。
さらに元の滅亡の大きな原因となったのが14世紀半ばに繰り返し起こった黄河の大氾濫である。黄河の氾濫によって流通網の大動脈であった大運河が使用できなくなったのだが、その改修工事に動員された民衆の不満が爆発し、全国的な反乱に発展して行ったのである。
反乱の中心人物の一人であった朱元璋(1328~1398年)は豊かな江南の地をおさえることで勢力を充実させ、1368年に南京で明を建国した。そして同じ年に元の首都大都を征服し、モンゴル民族を北方に追いやることで元を滅亡させたのである。