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食の歴史 by 新谷隆史ー人類史を作った食の革命

脳と食を愛する生物学者の新谷隆史です。本ブログでは人類史の礎となった様々な食の革命について考察していきます。

インドの歴史とドーサ-中世・近世インドの食の革命(1)

2021-11-05 18:16:12 | 第四章 近世の食の革命
インドの歴史とドーサ-中世・近世インドの食の革命(1)
今回から中世・近世インドの食のシリーズが始まります。

中世や近世などの時代区分は西洋史で言われ始めたものらしく、他の地域の歴史を語る上ではそのような時代区分をすることが難しい場合があります。それでも、世界はつながっているという考えから、どの国の歴史も古代から現代までの時代区分に分けることが一般的に行われています。しかし、いつからいつまでをどの時代区分にするかは、学者によって異なります。

インドの歴史で中世と言うと、インド北部でイスラム勢力による政権が樹立された13世紀頃から始まるとされることが多いので、ここでもそれにならおうと思います。

一方、中世の終わりと近世の始まりについては学者によって意見が異なっているようで、ここではイギリスのインド侵略が活発化していく18世紀半ばまでを中世・近世の終わりとします。

今回は、インドの歴史を概観するとともに、「ドーサ」というクレープのような料理について見て行きます。

なお、インドは世界第7位の広大な領土を有しているため、食文化の地域性が高く、インドの料理を一言で表すことは不可能と言われています。このような地域性をふまえて、インドの食の歴史を見て行きたいと思います。

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インドの古代文明と言えば、紀元前2600年頃から紀元前1800年頃まで、現在のパキスタンからインド北西部のインダス川流域に栄えた「インダス文明」だ。船を使ってメソアメリカ文明と貿易を行っていたことが分かっているが、文字が未解読であることと、パキスタンでの調査が進んでいないことなどから不明な点が多く残されている。

インダス文明では既に、カレーに使用されるスパイスの、ターメリックやクミン、ジンジャー(ショウガ)、コリアンダー(パクチー)、コショウなどが利用されていたと考えられている。

紀元前1500年頃になると、中央アジアからインド=ヨーロッパ語族の遊牧民であるアーリア人が北西地方に進入を開始した。アーリア人は進入した土地で先住民と交わり、農耕民族に変貌していった。さらに、紀元前1000年頃になると、アーリア人は東進し、より肥沃なガンジス川上流域にも進出した。

アーリア人が進入した地域では、バラモン(司祭)・クシャトリア(武士)・ヴァイシャ(農民・牧畜民・商人)・シュードラ(隷属民)という4つの身分に分けられたヴァルナ制と呼ばれる観念が生まれた。そして、ヴァルナ制を基にしてカースト制度が長い時間をかけて作り出されて行った。また、バラモン教と言う祭儀を重要視する宗教が成立した。これがヒンドゥー教の元となった宗教である。

一方、南部では原住民族のドラヴィダ人が独自の社会を作っていた。

紀元前6世紀頃になると、北部の政治と経済の中心はガンジス川中・下流に移動し、城壁で囲まれた都市国家がいくつも生まれた。都市国家同士は激しく競い合い、勝ち残った国は他国を併合して領域国家へと成長する。このような争いの中で、仏教やジャイナ教などの新しい宗教が生まれた。

紀元前4世紀後半になると、ギリシア・マケドニアのアレクサンドロス大王が北西地方に侵攻する。マケドニアの支配は短期間に終わったが、これをきっかけにインドに国家統一の気運が生まれた。その結果登場したのがインド最初の統一国家であるマウリヤ朝である。マウリヤ朝の最盛期を築いたのがアショーカ王で、彼は仏教を篤く保護した。

紀元前2世紀頃にマウリヤ朝が衰退すると、インド北部は小国に分裂し、抗争を繰り返すようになる。また、北西地方にはギリシア人やイラン人などが相次いで進入した。そして、1世紀中頃に、この地域で力をつけたイラン系のクシャーン人がインド北西部にクシャーナ朝を建てた。

また、同じ頃にインドの中部地方ではサータヴァーハナ朝が、そして南部ではチョーヤ朝が栄えた。両者はオリエントやローマとのインド洋交易を盛んに行い、その遺跡からは大量のローマ金貨が発見されている。

クシャーナ朝が衰退すると、4世紀中頃にガンジス川中流域にグプタ朝が成立した。そして、インドの南部を除く地域を支配するようになる。グプタ朝では、シヴァ神やヴィシュヌ神を信仰するヒンドゥー教が定着した。ヒンドゥー教にとって牛は神聖なものだったので、グプタ朝では牛肉をほとんど食べなくなった。

グプタ朝が遊牧民族の侵入によって衰えると、7世紀にヴァルダナ朝が成立した。この王朝では仏教も保護され、唐からは玄奘(三蔵)が仏教研究のために訪れた。

ヴァルダナ朝が衰退すると、7世紀から13世紀までインド北部には複数の王朝が次々と現れ、抗争を繰り返す時代に突入した。この間の8世紀にはイスラム勢力のインド侵入が始まり、10世紀後半からはそれが本格化した。この時期に、インド北部の農村は独立した村落共同体としての性格が強まり、カースト制度が社会に浸透して行った。

13世紀初め以降、インド北部ではイスラム勢力の王朝が誕生と滅亡を繰り返した。そして、1526年にはモンゴル系のバーブルがムガール帝国(1526~1858年)を建国した(ムガールはモンゴルを意味する)。ムガール帝国は次第に領土を拡大し、1687年には南部の一部を残してインドのほぼ全域を支配するまでになった。ムガール帝国の宮廷では、インド=イスラム文化が開花し、タージ・マハルなどが建設された。

一方、1498年に南インドのカリカットにポルトガル人のヴァスコ・ダ・ガマが現れたのを皮切りに、オランダやイギリス、フランスなどのヨーロッパ勢力がインドに進出して来た。そして、17世紀後半以降はイギリスとフランスがインドとの交易を巡って激しく争うようになる。

1757年のプラッシーの戦いでイギリスがフランスに勝利すると、イギリスはインドの植民地化を積極に推し進めた。そして1857年にインドの植民地化を完成化させ、ムガール帝国が滅亡するのである。

さて、これまで見てきたように、インドの北部と南部では、たどってきた歴史がかなり異なっているし、気候風土も地方ごとに全く異なっている。そのため、現在、インド料理として広く食べられている料理も、元は特定の地域だけで食べられていたものが多い。

この中で南部発祥の代表的な食べ物が「ドーサ」だ。ドーサは紀元1世紀頃にはすでに南部の国で作られていたという。それ自体は辛くなく、クレープのような存在と考えれば良い。今では、カレー味のジャガイモを包んで食べるマサラドーサが最もポピュラーだ。

ドーサの作り方は次の通りだ。

水に浸したコメとケツルアズキ(もやしを作る小さい黒いマメ)の混合物を細かく粉砕して生地を作る。この生地を一晩発酵させた後、好みの固さになるように水を加えて混ぜる。そして、油かギー(澄ましバター)を塗った熱いタヴァ(鉄板)の上に流し込んで、クレープあるいはパンケーキのように好みの厚さに広げて焼く。


ドーサ(Ranjith SijiによるPixabayからの画像)

本シリーズでは、歴史と地域性を踏まえて、インドの食について見て行きます。

アルゼンチンの焼肉とマテ茶-中南米の植民地の変遷(7)

2021-10-31 13:13:17 | 第四章 近世の食の革命
アルゼンチンの焼肉とマテ茶-中南米の植民地の変遷(7)
アルゼンチンは南米ではブラジルに次いで広い面積を有する国で、世界では第8位に位置します。国土は南北に約3700㎞と非常に長く伸びていて、南は南米のほぼ南端に達します。

このように、アルゼンチンの領土は南北に長いため、気候は地域によってかなり異なっています。そして、手に入る食材も違うことから、地域ごとに独自の食文化が形成されたと言われています。

それでも、アルゼンチンのほとんどの地域では、牛肉をよく使う点で共通しています。アルゼンチンの牛肉消費量は世界トップクラスで、国民1人が1年間に約40kgの牛肉を食べています。ちなみに、日本人の消費量は年間約7kgで、アメリカ人でも約25㎏なので、アルゼンチンの牛肉好きは際立っています。

近年では、アルゼンチンから輸出される牛肉量が増えた結果、国内の牛肉価格が高騰したため、国民の不満が噴出するという事態が生じています。それに対して政府は、輸出を禁止することで国内価格を下げようとしていますが、なかなか思い通りには行かないようです。

ところで、ウシはヨーロッパ人がアメリカ大陸を植民地化した時に導入された動物で、アルゼンチンで牛肉を食べる文化はそれ以降に始まりました。今回は、このようにアルゼンチンで牛肉を食べる文化が始まったいきさつについて見て行きます。

また、もう一点、アルゼンチンでよく飲まれているマテ茶についても見て行きます。

なお、現代のアルゼンチン料理は、19世紀末にスペインとイタリアからやって来た大量の移民の影響を大きく受けています。この点については後ほど改めてお話する予定です。


(Nat AggiatoによるPixabayからの画像)

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ヨーロッパ人が到着するよりもずっと前から、アルゼンチンには人類が生活してきた。北西部では農耕民族(グアラニー族)がカボチャやメロン、サツマイモなどが栽培していたし、北東部には狩猟採集民族(チャルーア族)がいた。

スペイン人は1536年に現在のアルゼンチンを中心としたラ・プラタ地方を植民地化した。この地には広大な草原(パンパ)が広がっていたが、スペイン人がウマウシをパンパに放したところ、自然に大繁殖したという。そして19世紀初頭には、野生化したウシが約2000万頭まで増えていたと言われている。ちなみに、同時期のラ・プラタ地方の人口は100万人ほどだった。

ラ・プラタ地方はスペイン本国との航路が開拓されておらず、ペルーもしくはブラジルを経由するしか行き来ができない過疎地だった。ところが、18世紀後半になると、増えたウシから取った牛皮が大量に輸出されるようになった。また、牛肉を塩漬けにして遠隔地に輸出することも行われるようになった。
このようなウシの扱いに活躍していたのがガウチョたちだ。

ガウチョとは、17世紀から19世紀半ばにかけて主として牧畜に従事していた遊牧民のことで、通常はスペイン人と原住民の混血であるメスティーソだったが、中には黒人との混血であるムラートもいたと言われている。

ガウチョが使った道具は、投げ縄とナイフ、そしてボレアドラだ。ボレアドラとは、革ひもと3つの鉄球または石でできた道具で、ウシの足に投げつけてからめ取り、動けなくするものだ。

ガウチョたちは野生のウマを捕まえて乗り物とし、ウシを捕まえて皮と肉をとり、それを売って生計を立てた。そして、毎食のように牛肉を食べていたという。

牛肉は「アサード」と呼ばれる、熾火(おきび)で長時間かけて焼き上げる焼肉で食べられることが多かった。ガウチョたちは十字架のような形をした支持体に動物をくくり付け、それを火の近くに刺して焼いていた。そうすることで肉は柔らかく、ジューシーで味わい深いものになる。

このような牛肉の焼肉料理がガウチョ以外の人々にも広がり、アルゼンチンで牛肉を食べる文化が根付いたのである。なお、町中では金網の上で焼く方法の方が好まれ、これは「パリージャ」と呼ばれて現代でもメインの焼き方になっている。

肉の味付けは塩をふりかけるだけのシンプルなものが一般的だったが、「チミチュリ」と言うオリーブオイルとビネガーにパセリ、オレガノ、ニンニク、塩、コショウを加えたソースも使われている。

次は「マテ茶」の話だ。

ラ・プラタ地方では古くからマテ茶を飲む習慣があった。これは南米を原産地とするイェルバ・マテの茶葉を水や湯で抽出した飲み物だ。茶やコーヒーのようにカフェインを含むとともに、ビタミンやミネラルも多く含有するため、健康飲料として飲まれることが多かった。

ラ・プラタ地方を植民地化したスペイン人も、16世紀後半にはマテ茶をよく飲むようになったと言われている。そして17世紀になると、イエズス会が栽培を促進したことでマテ茶は主要な輸出品となり、砂糖やタバコと肩を並べるようになる。そして、マテ茶を飲む習慣はチリやペルーにも広がって行った。

なお、イェルバ・マテは野生に生えているものが古くから使用されていたが、17世紀半ばにはイエズス会が栽培化に成功し、マテ茶のプランテーションが作られた。ところが、1767年にイエズス会がスペインの植民地から追放されると、マテ茶のプランテーションは放棄され、栽培化された株も失われた。

19世紀末から20世紀初頭にかけて、ブラジルとアルゼンチンのプロジェクトにより、マテ茶は再び栽培化された。現在ではこの2つの国がマテ茶生産の中心となっている。

近世ブラジルの食-中南米の植民地の変遷(6)

2021-10-28 18:03:30 | 第四章 近世の食の革命
近世ブラジルの食-中南米の植民地の変遷(6)
ブラジルの面積は世界5位の広さを誇り、総人口も2億人を越えて世界6位となっており、ラテンアメリカでは最大の領土と人口を擁する大国です。

1600年にポルトガル人のカブラルがブラジルに到達して以降、1822年に独立するまで、ブラジルはポルトガルの植民地でした。ポルトガルの植民地になると、原住民の多くが重労働のために逃げ出したり、病気で亡くなったりしたため、労働力が著しく不足しました。そこでポルトガルは西アフリカから大勢の黒人を運んできて、奴隷として働かせました。

こうして、ブラジルでは原住民とポルトガル人、そして黒人が生活することとなり、近世のブラジルの食文化も、三者の食文化が融合することで作られて行ったのです。

今回は、このような近世ブラジルの食について見て行きます。

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アフリカを出発した人類(ホモサピエンス)は、中東・アジアを横断後、ベーリング陸峡を渡り、北アメリカ大陸を南下して、今から約1万1千年前にブラジルに到達したと考えられている。

ブラジルにやってきた人類は、長い年月をかけて、安全に食べられる植物や栄養価の高い動物を見つけて行ったと考えられている。その中の代表的な食材がブラジル西部を原産地とするキャッサバで、約1万年前に栽培が開始されたと推測されている。そして、ヨーロッパ人がアメリカ大陸にやって来た時には、ブラジルなどの南アメリカ北部に加えて、中央アメリカやカリブ海の島々でも主食としてよく食べられていた。

ブラジルの先住民はキャッサバ以外に、カカオ豆、カシューナッツ、パイナップル、パッションフルーツ、ガラナ、マテ茶、グァバなどを食用としていた。なお、トウモロコシは優れた穀物であったが、高温多湿のブラジルではキャッサバの方が適していたため、主食にはならなかった。

ブラジルを植民地にしたポルトガル人は、いろいろな作物を持ちこんで栽培を始めた。その結果、タマネギやニンニク、サトウキビなどの栽培には成功したが、コムギやオオムギなどの主食となるような作物は気候の違いから育たなかった。そこで、原住民と同じようにキャッサバを食べるようになったという。

こうして、現在でもブラジルでは、小麦粉の代用品としてキャッサバ粉が広く使われている。例えば、キャッサバ粉は、パンやクッキー、ビスケット、あるいはトルティーヤなどの材料として使われる。また、キャッサバ粉をタマネギやベーコンなどとバターで炒めた「ファロファ」が料理の付け合わせとして日常的によく食べられている。


ファロファ(Ryan Joyによるflickrからの画像)

また、キャッサバは栽培が容易なため、ポルトガル人によってアフリカなどに持ちこまれて栽培され、奴隷を運ぶ輸送船内の食糧としても利用された。

ポルトガル人はウシやブタ、ニワトリなどの家畜や、ソーセージ・バターなどの肉製品・乳製品の作り方もブラジルに持ちこんだ。また、ポルトガル人の大好物のタラもブラジル料理に導入され、ブラジルの定番料理の一つである「ボリーニョ・デ・バカリャウ(ブラジル風タラのコロッケ)」などとして現代でも広く食べられている。

次は、アフリカ人が持ち込んだ食文化だ。

西アフリカの気候はヨーロッパに比べてブラジルの気候に近いため、黒人奴隷は祖国の食べ物や食文化をブラジルに適応させることが容易だった。こうして、アフリカからパーム油を採るためのアブラヤシやココナッツができるココヤシ、バナナ、コメ、オクラ、黒目豆(ササゲ)などがブラジルに持ちこまれた。

ブラジルの代表的な料理で、黒人奴隷の料理が始まりとされるものに「フェジョアーダ」がある。これは、料理名の由来となったフェイジャオン(インゲンマメ)と豚の脂身、干し肉または燻製肉、豚の内蔵などを煮込んだ料理だ。


フェジョアーダ(Gilmar KoizumiによるPixabayからの画像)

フェジョアーダは一般的に、黒人奴隷たちが残り物のくず肉を豆と一緒に煮たのが始まりとされることが多い。しかし最近では、この説に異議を唱える学者もいて、彼らによるとフェジョアーダの起源はヨーロッパからの入植者という。手に入りやすいマメと肉で簡単に作れたため、重宝されたということだ。

起源はともかく、今ではフェジョアーダはブラジル全土で楽しまれている真のブラジル国民食となっている。

メキシコ料理の変遷-中南米の植民地の変遷(5)

2021-10-26 22:21:02 | 第四章 近世の食の革命
メキシコ料理の変遷-中南米の植民地の変遷(5)
アメリカ大陸のスペイン植民地の中では、現在のメキシコが最も栄えていたと言われています。その繁栄を支えていたのがです。メキシコでは16世紀中ごろのサカテサス銀山の開発を皮切りに、17世紀以降にも次々と新しい銀鉱脈が見つかりました。この銀を輸出することでメキシコは永らく栄えることになったのです。

それにともなってメキシコの人口も増え、スペインの植民地の中では最大の人口を誇るようになりました。18世紀末のアメリカのスペイン植民地における総人口は約1300万人と見積もられていますが、メキシコには約600万人もの人が暮らしていました。同じ時期のスペイン本国の人口は500万人から600万人と言われていますが、それに匹敵する数です。

この約600万人のメキシコ人の内訳を見ると、両親がスペイン人のクリオーリョと呼ばれる人たちが100万人ほどを占め、社会の中心となっていました。また、ヨーロッパ人と原住民との混血であるメスティーソも100万人ほどいて、中間層として社会的地位が徐々に向上して行きました。そして、残りの400万人ほどが原住民であり、社会を支える労働力の担い手でした(16世紀から17世紀にかけて感染症によって多くの原住民が亡くなりましたが、次第に免疫力が高まったのか、17世紀半ばごろから人口増加に転じました)。

さて、現在のメキシコの料理の基礎は、原住民の食文化にスペインなどの外国の食文化が融合することで生まれました。今回は、このようなメキシコの食の変遷について見て行きます。



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メキシコ料理の最も古いルーツとなっているものが、紀元前から16世紀までメキシコ南東部のユカタン半島で栄えたマヤ文明の食生活だ。彼らは遊牧民族であり、狩猟を行うことでアライグマ、シカ、ウサギ、アルマジロ、ガラガラヘビ、イグアナ、ハト、カメ、カエル、七面鳥などの動物や、いくつかの昆虫を基本的な食材としていた。また、トウモロコシマメ、野生の果実なども食べていた。

メキシコ中央部では、1428年からアステカ帝国が栄えたが、この帝国ではトウモロコシマメなどとともに、トウガラシトマトカカオなども食材として使用された。また、七面鳥やアヒルなどの野生動物が家畜化されていた。

マヤやアステカなどではトウモロコシは主に植物の灰汁につけてから調理を行った。アルカリ性の灰汁につけることですり潰しやすくなるとともに、タンパク質などの栄養素が吸収しやすい形状に変わるし、灰汁中のミネラルが補充されたりもするのだ。また、防腐効果もあったとされている。灰汁につけたトウモロコシは粥か少しすり潰して蒸し団子(タマルという)にするか、しっかりとすり潰してから薄く延ばして焼いた「トルティーヤ」にして食べた。このような食べ方は現代でも受け継がれている。

1519年にスペイン人がメキシコに侵攻し、1521年にはアステカ帝国が滅亡した。その結果、これ以降しばらくの間、スペイン料理がメキシコ料理に最も影響を与えることとなった。

スペイン人は、ヒツジブタウシなどの新しい家畜を持ちこんだため、それらの肉と乳製品がメキシコ料理に取り入れられた。また、ムギ類やコメ、ニンニク、タマネギ、さまざまなハーブ、スパイスなどもメキシコ料理に導入された。

こうして、スペインの影響を受けて、ロモ・エン・アドボ(豚のロース肉をスパイシーな漬け汁でマリネした料理)、ケサディーヤ(トウモロコシの皮にチーズをはさんだもの)やワカモレ(アボカド、トウガラシ、トマト、タマネギ、コリアンダーなどで作るサルサ)などの料理が登場し、現在も伝統的なメキシコ料理の一品となっている。

スペインはアメリカ大陸以外にも植民地を持っており、メキシコ料理はその影響も受けた。その一つがフィリピンだ。

1565年にアンドレス・デ・ウルダネーダというスペイン修道士がフィリピンからメキシコに向かう新しい航路を発見した。すなわち、フィリピンの北側を流れる偏西風に乗ることでアメリカ大陸西岸に至るコースである。一方、メキシコからフィリピンへはその南を逆方向に流れる貿易風に乗ることで楽にたどり着ける。

こうして、フィリピンとメキシコを結ぶ貿易航路が確立され、19世紀の初めまで様々な物資の輸送に利用された。フィリピンからは主に中国で作られた絹や陶磁器などがメキシコに運ばれた。一方、メキシコからは銀が運ばれた。このような物資の行き来にともなって人の移動も盛んになり、様々な食材や料理が二つの地域を行き来した。

フィリピンからメキシコへはマンゴーヤシの木が運ばれたという。また、ヤシを原料にした蒸留酒の製造に関わっていた人たちが移住することで、メキシコ特産の蒸留酒であるメスカルテキーラはメスカルの1つ)が誕生したという説もある。

一方、その逆もしかりで、フィリピンにはメキシコ料理が流入し、タコスなどが今でもよく食べられている。

さて、近世から外れるが、その後の話も少しだけ紹介しよう。

メキシコは1810年より独立戦争を開始し、1821年に独立を果たした。しかし、1862年に借金の返済の不履行をきっかけにフランス軍がメキシコに侵攻した。そして1866年に撤退するまでフランス軍がメキシコに駐留した。この時にフランス人はさまざまな料理やパン、焼き菓子をメキシコに持ち込んだ。

カボチャアボカドといったメキシコの食材は、フランス料理のムースやクレープ、スープなどによく合ったため、それらを使った新しい料理がたくさん誕生した。また、メキシコでよく食べられているパンのボリージョが、フランスパンの製造をまねて作られるようになった。そして、クリームチーズを使って作られるメキシコ風プディングもフランス菓子の影響を受けて考案されたものの一例である。

このようにメキシコ料理は、様々な国の料理が組み合わされることででき上って行ったのである。

カリブ料理カラルーのはじまり-中南米の植民地の変遷(4)

2021-10-22 17:23:49 | 第四章 近世の食の革命
カリブ料理カラルーのはじまり-中南米の植民地の変遷(4)
カラルー(callaloo)は、カリブ海の島々やカリブ海に面した地域の伝統的な野菜料理で、この地域のソウルフードと呼んでも良いものです。カラルーは、それぞれの土地で手に入る葉野菜と、オクラやカボチャ、タマネギ、ピーマンなどを油で炒めた後、煮込んで作ります。最近では、ココナッツミルクやトウガラシで味付けされたり、豚肉やカニなどの具材が入れられたりすることがあります。

なお、カラルーと言う料理はカリブ海の人々にはとてもなじみ深い料理であることから、カラルーに入れる葉野菜のことも、それぞれの土地でカラルーと呼ばれることがあります。例えば、トリニダード・トバゴでは、タロイモの葉をカラルーに使用しますが、この葉のことをカラルーと呼ぶことがあります。また、ジャマイカでは、カラルーに入れるアマランサスという植物の葉をカラルーと呼びます。

今回は、このカラルーと言う料理がカリブ海で生み出された歴史について見て行きます。


カラルー

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カラルーは、西アフリカから連れて来られた黒人奴隷が西アフリカの料理をアレンジして作り出したと考えられている。

黒人奴隷たちは、西アフリカから運ばれてくる時に一緒にいくつかの作物も持ってきたと考えられている。その一つがタロイモであり、オクラだった。それらを使って作ったのがカラルーだ。

奴隷たちの生活環境は過酷で、農場主から与えられる食事も十分なものでは無かった。彼らが生き延びるためには、空き地で自分たちが食べるものを作らなければならなかった。そうして育てられたのがタロイモやオクラだった。もともと西アフリカではカラルーにはホウレンソウが使われていたが、カリブ海の島には存在しなかったため、持ってきたタロイモの葉とオクラが使用されたと考えられている。

なお、タロイモはサトイモの仲間の総称で、地中や地表部の茎に養分がたまった部分を食用とする植物のことだ。アジアが起源地で、早い時期に人の移動とともにアメリカ大陸を除く世界各地に広がったと考えられている。

カラルーに使用する油にも西アフリカとカリブ海の違いがあった。西アフリカのカラルーにはパーム油が使用されていたが、カリブ海にはアブラヤシ(パームの木)が無かったため、代わりにココナッツオイルを使用した(ちなみに、ポルトガルは15世紀にアブラヤシをブラジルに持ちこんでいたので、ブラジルではパーム油が利用できた)。

カラルーの栄養価を高めるために、奴隷たちはタンパク性の具材を加えようとした。トリニダードなどのカリブの島々は海がすぐ近くにあるため、海岸にいるカニを簡単に捕まえることができた。このように、最初の頃のカラルーにはカニが入れられていたという。

しかし、プランテーションから逃亡する奴隷が頻出するようになったため、1500年代半ばには移動の自由が完全に奪われ、海岸には近づけなくなってしまった。その結果、カニを入れることができなくなってしまったのだ(現在では、カニが再び入れられたカラルーが名物料理になっている島がある)。

その代わりになったのがだった。魚は畑の肥料として使用されていたが、農場主の目を盗んでカラルーに入れられるようになったという(もちろん見つかれば厳罰に処された)。農場主はこれを防止するために、肥料に塩漬けの魚を使うようになった。高温のカリブ海では、塩魚を食べて塩を摂り過ぎてしまうと水分が不足して脱水症状が出てしまうからだ。

それでも奴隷たちは、塩魚を何とか塩抜きしてカラルーに入れて食べたという。そうでもしなければ、すぐにタンパク質不足に陥り、生きて行けなかったからだろう。

また、炭水化物不足を補うために団子をカラルーと一緒に食べることが多かった。団子は現在では小麦粉で作られることがほとんどだが、植民地時代には奴隷がコムギを栽培することは難しかったので、代わりに中南米原産のキャッサバを使用した。キャッサバには毒が含まれていることが多いので、すりつぶしたものを1日ほど置いて毒を分解させる。そして団子状にこねたものをゆでるか油で揚げるかして食べるのだ。

こうしてトリニダードやジャマイカなどでは、カラルーに塩魚(主にタラ)を入れ、それに団子を添える「Callaloo, Saltfish and Dumplings(カラルーの塩魚と団子添え)」という伝統料理が食べられ続けている。


Callaloo, Saltfish and Dumplings(Kevinによるflickrからの画像)