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食の歴史 by 新谷隆史ー人類史を作った食の革命

脳と食を愛する生物学者の新谷隆史です。本ブログでは人類史の礎となった様々な食の革命について考察していきます。

北京料理の発展-17~19世紀の中国の食の革命(1)

2021-12-04 17:58:15 | 第四章 近世の食の革命
北京料理の発展-17~19世紀の中国の食の革命(1)
北京は約800年の間、中国の首都として繁栄してきました。この北京には皇帝とその家族が住む宮廷があったため、宮廷料理が発達しました。また、国内外より人々が集まり、それにともなって様々な食文化も持ち込まれました。こうして北京では、それらが融合した独自の食文化が形成されて行きました。

今回から中国の食のシリーズが始まりますが、第1回目の今回は、北京料理の歴史について見て行きます。


北京料理で有名な北京ダック

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北京は乾燥した土地で、夏は暑く、冬は風が強くて厳しい寒さになる。このため、コメは育ちにくく、コムギとダイズ、そしてアワが主要な穀物だった。コメを食べるためには南方から運んでくる必要があったため、とても高価だったという。

こうして、豊かな者は主に米粥を食べ、それ以外の人はアワやダイズの粉、小麦粉などで作ったお粥をよく食べていた。ちなみに、アワのお粥は、新石器時代から食べられていた最も古い料理の一つだ。

また、麺類や餃子、小麦粉の生地を焼いたり蒸したりしたパンもよく食べられた。発酵させた小麦粉の生地を蒸したパンは「饅頭(マントウ)」と呼ばれ、これは「野蛮人の頭」を意味する。現在のマントウには具が入っていないが、昔は肉などの具が入っていた。

マントウを最初に考案したのは諸葛孔明(181~234年)と言われている。遠征した地にあったある川の氾濫を鎮めるためには、人の頭を供物にしなければならないという風習があったのだが、諸葛孔明がマントウを作って代わりに供えたところ氾濫がおさまったと言われている。

一方、マントウは中央アジアから中国に伝えられた料理という説もある。中央アジアからトルコ、ギリシアにかけて、「マンティ」と呼ばれる小麦粉の生地で肉などの具を包んだマントウにそっくりの料理があるが、これが14世紀に元を興したモンゴル人によって中国に伝えられたという。

さらに、北京を含む中国北部で古くから食べられているものに「焼餅(シャオビン)」がある。これは、コムギやオオムギの粉から作られるパンの一種で、表面にゴマをまぶすことが多い。現代の北京では、シャオビンを二つに割って間に炒めた肉を挟んで食べることが多い。

言い伝えによると、シャオビンは漢の時代に一人の将軍が中央アジアから持ち帰ったものということだ。シャオビンは、中央アジアの伝統的な調理器具であるタンドールで焼くことからも、中央アジア起源説は確からしいと考えられている。

北京料理の味付けには、ショウガ、ネギ、ニンニク、ゴマ油、紹興酒、醤油などがよく使われた。一方、香辛料はほとんど使われなかったが、中世初期に中央アジアからコリアンダー(シャンツァイ(香菜)、パクチー)が持ち込まれてよく使用されるようになった。

ところで、北京はもともと栄えていた土地ではなく、文化度もあまり高くなかった。一方、北京の南の現在の山東省は古くから栄えており、北京の文化はこの山東の文化が流入して作られた。

山東は黄河の下流に位置し、穏やかな気候が特徴だ。ここは周王朝の初代皇帝の弟である周公旦が治めた「魯(ろ)」(紀元前1055~前249年)があったところで、周王朝の建国当時より栄えていた。このため、山東料理は早くから発展し、中国で最も古い郷土料理と言われている。この山東料理が北京料理の母体となったのだ。ちなみに中国では、山東に加えて、江蘇四川広東の料理が四大料理(四大菜)と呼ばれている。



山東料理は、味が濃く、塩辛い料理が多いのが特徴だ。また、繊細な香りやいろどり、そして柔らかな歯ごたえも、山東料理の特徴である。明朝と清朝において北京で宮廷料理が発展してくるが、それを支えていたのが山東人であり、北京の町中の料亭もほとんどが山東人によって営まれていたと言われている。ただし、地方から北京に来ている高官が専属の料理人を連れて来ていたため、彼等が宴会を開催するときには山東以外の料理を味わうことができた。このような地方の料理も北京料理に影響を与えたと言われている。

清朝満州人が興した王朝であったため、清代になると満州人の食生活も宮廷料理に導入された。満州人は元は遊牧民であり、ヒツジイノシシ(ブタ)の肉をよく食べていた。宮廷ではこのような食生活が高級化され、ヒツジやイノシシの様々な部位を用いて、「全羊席」や「全猪席」と呼ばれる宴席が催されるようになった。ちなみに全羊席では、72品とも108品とも言われる贅沢な料理が出されたと記録されている。

全羊席と全猪席は「満漢全席」の影響を受けて生まれたものだ。清朝では少数の満州人が多数の漢人を支配しており、格式の高い宴席では満州人の料理と漢人の料理が融合した豪華な料理がふるまわれた。これが満漢全席で、清の第6代皇帝乾隆帝(在位:1735~1796年)の時代から始まったと言われている。

乾隆帝は大変なグルメで知られており、南方への視察の際には、行く先々で腕利きの料理人を見つけては宮廷料理人として招いたという。一番のお気に入りが四大料理の一つの江蘇料理で、多く料理人が宮中の御膳房に招かれた。

江蘇料理は長江の流域である江南地方で発達した料理だ。長江流域には肥沃な平原が広がり、古くから稲作などの農耕が盛んだった。また、長江にはたくさんの淡水魚が住んでいたし、海からもたくさんの魚介類が手に入った。また、アヒルやガチョウなどの水鳥も食材となった。このため、江蘇料理の食材の多くがコメや魚介類や水鳥である。また、江蘇料理の味付けの特徴は、豊かな風味があるあっさりとしたものだ。

このように、山東料理に満州人の食文化が組み込まれ、さらに江蘇料理が加わることで北京料理が発展して行ったのである。


南インドの食-中世・近世インドの食の革命(5)

2021-11-25 18:25:35 | 第四章 近世の食の革命
南インドの食-中世・近世インドの食の革命(5)
インド南部は地理的に他の地域と隔絶されているため、外部からの影響をあまり受けませんでした。このため、南インド料理には、4,500年前に栄えた古代ドラヴィダ文化の要素が多く残っています。

インドの北部ではナンのように小麦粉を使った料理がよく食べられていますが、南部では小麦粉はあまり使用されず、代わりにコメやマメを使った料理がよく食べられています。また、ココナッツを使った料理もよく作られています。

例えば、「アパム」という紀元前から食べられているパンケーキのようなものがありますが、これは米粉とココナッツミルクを混ぜた生地を発酵させてから焼いて作ります。また、以前に紹介したドーサも、コメとケツルアズキ(ウラドマメ、モヤシマメ)の生地を発酵させてから焼いて作ります。


アパム(Charles Haynesによるflickrからの画像)

今回は、中世から近世のインド南部で盛んに作られるようになった「イドリ」と「サンバル」について紹介します。この2つは、現在でも南インドの代表的な食べ物になっています。

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元来のイドリは、コメとケツルアズキ(ウラドマメ、モヤシマメ)を粉にしたものを練って生地にし、発酵させてから蒸して作る。現在では様々なバリエーションがあり、小麦粉を使うレシピもあるそうだ。


イドリとサンバル(Sarawana Bhavanによるflickrからの画像)

ドーサは同じ生地を焼いて作るが、イドリの方は蒸して作るところに違いがある。インドで蒸し器が使われるようになったのはかなり遅く、7世紀に玄奘がインドを訪れた時に蒸し器が無いことに驚いている。

蒸して作るイドリがインドの書物に登場するのは、1250年以降のことだ。インドの有名な料理史家のアチャヤは、イドリは現在のインドネシアで生まれたのではないかと推測している。彼によると、その地の王に雇われていた料理人が蒸したイドリを考案し、10世紀から12世紀の間にそれがインド南部に伝わったのではないかということだ。当時は南インドとインドネシアの間で交易が盛んに行われており、商人の手によってイドリの作り方が南インドに持ちこまれたと推測している。

イドリの生地は専用の型に入れて蒸すが、現代では様々な大きさや形のイドリ型が売られている。


イドリの型

南インドでは、イドリは朝食に食べられることが多い。また、次に紹介するサンバルやココナッツチャツネ(ココナッツのペースト)などと一緒に食べられる。

サンバルは香辛料の入ったレンズマメをベースにした野菜スープ(カレー)のことで、南インドではほぼ毎食と言ってよいほどによく食べられている日本の味噌汁のような存在だ。使われる野菜は季節の旬のものが多く、日本人と同じようにサンバルから季節を感じているのかもしれない。

前出の食物史家のアチャヤによると、サンバルに関する最古の文献は17世紀のものだそうだ。サンバルの語源は、南インドのタミル人が使うタミル語にあり、サンバルを考案したのもタミル人と言われている。

サンバルにはタマリンドというマメ科の種子のペーストを入れることが多い。タマリンドのすっぱい味がスパイシーさに合うという。サンバルにタマリンドを入れるようになったいきさつについて、次のような有名な話がある。

南インドのタミル・ナードゥ州の支配者シヴァジーには息子(従弟とも言われる)のサンバジーがいた。サンバジーは大変な食通で、スパイスたっぷりのレンズマメのスープにコクムと言うすっぱい果実を入れて食べるのが大好きだった。

ところがある時、コクムが手に入らなくなってしまった。困ったサンバジーは、コクムの代わりになるすっぱい食材を探した。そして、タマリンドを見つけたのだ。サンバジーは自分の作った料理をとても気に入り、宮廷にも作り方を紹介した。宮廷もこの料理をとても優れていると認めたため、南インドで広く作られるようになったという。また、料理名も、サンバジーの名前から次第にサンバルと呼ばれるようになったとされている。

インドの健康食キチュリ-中世・近世インドの食の革命(4)

2021-11-18 18:14:15 | 第四章 近世の食の革命
インドの健康食キチュリ-中世・近世インドの食の革命(4)
キチュリ(Khichdi)はインド北部の伝統的な料理で、コメとマメ(緑豆やレンズマメ)を使って作るおかゆのような料理です。地域によって様々なバリエーションがありますが、一般的にターメリック(ウコン)が入っていて、黄色をしています。しかし、辛い香辛料は入っていないので、とてもやさしい味です。このため、インドの北部では赤ちゃんが最初に食べる固形物とされていますし、病気の時にもよく食べられそうです。

インド北部のハリヤナ州では、キチュリは農村部で主食のような存在であり、温かいギー(バターオイル)やヨーグルトを混ぜて食べることが多いそうです。一方、インド南部ではキチュリはそれほど食べられていません。しかし、かつてインド南部で栄えたハイデラバード州(現在のテランガーナ州、マラスワダ州、カルナタカ州)のイスラム教徒の間では朝食としてよく食べられているといいます。

なお、インドの伝統的な医学アーユルヴェーダでは、食事は体の調子を整えるためにとても重要ですが、キチュリはアーユルヴェーダにおける健康的な食事の代表とされています。

今回はこのようなキチュリについて取り上げます。


キチュリ(Gopi HaranによるPixabayからの画像)

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Khichdi の語源は、サンスクリット語の「Khiccha」で、コメとマメ類の料理を意味する。

キチュリはとても古くから食べられている料理で、最古の記述は紀元前4世紀から紀元後4世紀頃に成立したインドの叙事詩「マハーバーラタ」の中に見られる。また、紀元前300年頃にインドに遠征したギリシアのセレウコス王は、マメ類を入れたコメの料理がインドの人々にとても人気があると記しているが、これもキチュリのことだろう。モロッコの旅行家イブン・バットゥータが1350年頃にインドに滞在した際にも、よく食べられている料理としてキチュリを挙げている。

キチュリがインドで脚光を浴びるようになったのは、ムガール帝国(1526~1858年)の時代になってからだ。その理由は、ムガール帝国の皇帝がキチュリを好んで食べたからだ。例えば、第3代皇帝アクバル(在位:1556~1605年)は質素な食生活を好んでいたため、キチュリを毎日のように食べていたという。

インド人なら誰でも知っている昔話に、アクバルの家来のビルバルがキチュリを使ってアクバルを戒めた話がある。このビルバルは「最も輝ける宝石」と呼ばれた賢者であり、アクバルが最も頼りにしていた人物と言われている。
その話とは次のようなものだ。

冬の寒い日、アクバル王とビルバルが湖畔を散歩していた時に、ビルバルは「男は金のためなら何でもするものだ」とつぶやいた。するとアクバルは「お金のためにこんな冷たい湖の中で一晩中過ごす男がいるとは思えない」と言った。ビルバルは「きっと見つかりますよ」と答えた。アクバルは「そんな男がいるのなら、そいつに千枚の金貨を与えよう」と言い放った。

少ししてビルバルは、これに挑戦しようという貧しい男を見つけて来た。果たして、その貧しい男は湖の中で一晩過ごすことに成功した。ところが、くやしかったアクバルは、その男が街灯の近くにいたことを持ち出して来て、街灯の暖かさで湖の中の夜を生き延びたのだから、報酬はなしだと言いだした。

すると、ビルバルは宮廷に出勤しなくなった。疑問に思ったアクバル王は、彼の家に使者を送った。ほどなくして戻ってきた使者は、ビルバルは今作っているキチュリが炊き上がったら来ると言っていますと伝えた。しかし、いくら待ってもビルバルはやって来ない。しびれを切らした王がビルバルの家に行くと、火から1メートル以上も上につるされた鍋キチュリを炊いているビルバルを見つけた。

アクバルはビルバルに「火からこんなに離れていたら、いくら待っても炊けやしないぞ」と言った。それに対してビルバルは、「貧しい人が1キロ以上離れた街灯から暖をとったのと同じです」と答えた。これを聞いた王は自分の間違いを理解し、貧しい人に報酬を与えたという。

第4代皇帝ジャハーンギール(在位:1605~1627年)は、ピスタチオとレーズンを加えたキチュリを「美味しいもの」と名付けて、よく食べていたと伝えられている。また、第6代皇帝アウラングゼーブ(在位:1658~1707年)は、魚とゆで卵を入れたキチュリが大好物だった。ムガール帝国最後の皇帝バハードゥル・シャー2世(在位:1837~1858年)も緑豆のキチュリを好んで食べていたと伝えられる。

イギリスがインドを植民地化すると、キチュリはイギリスにも伝わり、ヴィクトリア女王(在位:1837~1901年)も食べたと言われている。また、インドのイギリス植民地では、キチュリを元にケジャリー(Kedgeree)という料理が考案された。これは、コメとマメに、ほぐした魚とゆで卵、香辛料、バターを加えて炊き上げた料理だ。日本では、カレー粉を使うレシピが一般的だ。


ケジャリー(flickrからの画像)

こうなると、キチュリとは全く違った料理に見えるが、料理の国際化とはこういうものかなと思ってしまう。

ナンの歴史-中世・近世インドの食の革命(3)

2021-11-13 17:13:36 | 第四章 近世の食の革命
ナンの歴史-中世・近世インドの食の革命(3)
日本でインド料理店に行くと、ナンが出てくることが多いです。このため、ナンは日本人のご飯みたいなもので、インド全土で大昔からナンが食べられてきたと日本人の多くの人が思っています。

ところが、これは間違っています。インドでは北部のごく一部の人しかナンを食べていませんでした。また、現代のインドでも、ナンを常食にしている人は多くありません。

その理由は、ナンは精製した真っ白な小麦粉を使い、焼くためにはタンドールという大掛かりな竈(かまど)を使用する必要があるからです。つまり、高価な小麦粉が買えて、タンドールを持つことができるくらい裕福な人しかナンを焼くことができなかったのです。

ちなみに、インド北部の一般庶民は、精製をしていない全粒粉で作った無発酵の生地を、フライパンのような鉄板で焼いたチャパティロティを食べていました。

今回は、インドの歴史をたどりながら、ナンタンドールについて見て行きます。


タンドールで焼くナン(boo leeによるflickrからの画像)

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ナン(Naan)という名前はペルシャ語で「パン」を意味する言葉「non」に由来する。ナンはインド以外にも、パキスタンやアフガニスタン、バングラデシュ、イラン、ウズベキスタン、タジキスタンなどでも食べられている。
ここで、ナンの作り方をおさえておこう。

ナンの作り方は簡単だ。小麦粉に水と塩を加えてこねた生地をしばらく置いて酵母による発酵を行わせる。次に、ふくらんだ生地を平たく延ばしてから、タンドールの内側に張り付けて焼くのである。

タンドールは、大きな壷のような形をした円筒形の粘土製のオーブンで、高さは1メートル以上ある。伝統的なタンドールは薪や木炭で加熱する。タンドールの底部には小窓があり、これを開閉することで火力が調節できる。タンドール内は最高で460℃に達することもあると言われている。

現在では、薪や木炭の代わりにガスが使用されることが多いし、電気で加熱するタンドールもある。しかし、食通は粘土製のタンドールを炭で加熱することにこだわるらしい。

それでは、歴史の話だ。まずはタンドールについてだが、タンドールの誕生は古代と考えられている。紀元前3000年頃のインダス文明のハラッパの遺跡で、タンドールのような粘土製のかまどが見つかっている。また、このかまどで焼いたと思われる、焼いた動物の肉も発見されているという。このような粘土製のかまどはインダス文明だけでなく、古代エジプトやメソポタミア文明でも発見されている。

ところが、インダス文明が滅亡した後、インドでは長期間にわたってタンドールは使われなくなってしまった。次にインドでタンドールが使用されるのは、ムガール帝国(1526~1858年)の創始者のバーブル(1483~1530年)がインドに進出した15世紀の終わり頃になってからだ。彼らがインドに再びタンドールを持ちこんだのである。

それ以降、ムガール帝国の宮廷や上流階級では、タンドールが使用されるようになる。また、第4代皇帝ジャハーンギール(在位:1605~1627年)の代には、携帯用のタンドールが発明された。ジャハーンギールがいつも美味しい料理を食べたいがために、旅をする時にはいつもこのタンドールを持って行ったと言われている。

一方、ナンの原型がインドの歴史に登場するのは西暦1300年頃のことで、精製した小麦粉で作られた生地を焼いたものが、イスラム勢力の王宮があったデリーで食べられていたという記録がある。

ムガール帝国がデリーを含むインド北部を支配するようになると、タンドールで焼いたナンが定着した。そして、ムガール帝国の宮廷では、朝食では必ずナンを食べていたという。

一方、シーク教の創始者グル・ナーナク(1469~1539年)によって、タンドールとナンは一般社会にも導入された。彼はカースト制を批判し、民衆の平等を実現するためにタンドールを備えた共同の炊事場を作ったのだ。その結果、タンドールとナンはインドの様々な階級に少しは広がるようになった。と言っても、タンドールとナンはそれ以降も主に裕福な人たちのものだったことに変わりはない。

さて、タンドールで調理した料理の一つに有名な「タンドリーチキン」がある。これは、骨付きの鳥肉を香辛料とウコンなどの着色料の入ったヨーグルトソースに数時間漬け込んだ後にタンドールで焼き上げた料理だ。

タンドリーチキンの起源は新しくて、1947年に誕生したとされるのが一般的だ。これは、インドとパキスタンが分離独立した年であり、現在のパキスタンからインドのデリーに逃げ延びて来た人がこの料理を考案したとされている。

この料理のミソはヨーグルトのソースに漬けることで、ヨーグルトの自然な酸味が肉を柔らかくし、香辛料の風味を浸透させるのだ。タンドリーチキンが誕生すると、肉のほとんどはヨーグルトに漬けられてからタンドールで焼かれるようになった。タンドールを用いた調理法の革命だったのだ。

グローバルな料理となったサモサ-中世・近世インドの食の革命(2)

2021-11-08 21:31:35 | 第四章 近世の食の革命
グローバルな料理となったサモサ-中世・近世インドの食の革命(2)
インドのポピュラーな料理の一つに「サモサ」があります。


サモサ(Bre WoodsyによるPixabayからの画像)

サモサは、小麦粉で作った皮で具材を包んだのち油で揚げたもので、三角形をしているのが特徴です。一般的には、ジャガイモ・タマネギ・レンズマメ・ひき肉などをクミン・コリアンダー・ターメリックなどのスパイスで味付けをしたものが具材として使用されますが、様々なバリエーションがあり、中には甘いものもあります。

インドでは、サモサはあらゆる階級の人に食べられていて、屋台などでも売られていますし、レストランのメニューにも載っています。

このように、インドの国民食の一つと言っても良いサモサですが、最初に作られたのはインドではなく、中東だと考えられています。また、インド以外でも、南アジアや南米、アフリカ、ヨーロッパでもサモサに似た料理が食べられていますが、これらはインドのサモサが伝わることで生まれました。

今回は、インドでサモサが生まれ、それが世界の各地に広がって行った歴史について見ていきます。

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サモサは中央アジアや中東が起源とされている。また、「サモサ」という言葉は、「三角形のペイストリー」を意味するペルシャ語のsanbosagから生まれたと考えられている。

9世紀に書かれたペルシャ語の書物の中にサモサに似た料理のことが書かれており、これがサモサの最初の記録と考えられている。また、10世紀から13世紀にかけての中東の国で書かれたいくつかの書物にサモサのことが書かれており、よく食べられていた料理と思われる。当時のレシピは、小麦粉に塩と湯を加えて練り、油で揚げるというものだった。

サモサがインドの歴史に登場するのは14世紀のことだ。14世紀にインドを訪れたモロッコの旅行者イブン・バトゥータが、宮廷での宴で三角形の生地にひき肉やエンドウ豆、ピスタチオ、アーモンドなどを詰めた料理が出されたと旅行記に記録している。

その頃の北インドではイスラム勢力による王朝が栄えており、王宮で雇われた中東の料理人がサモサを持ち込んだ可能性がある。また、中東の行商人が旅の途中でサモサをよく食べていたことから、彼らから伝えられたとも言われているが、詳しいことは分かっていない。

インドに伝わったサモサは、インドで独自の進化を遂げる。すなわち、インドで手に入りやすいスパイスが使用されるようになったのだ。

さらに、ヨーロッパ人がインドにやって来るようになると、彼らから新しい食材がサモサに導入された。それが、トウガラシジャガイモだ。特にジャガイモは、風味と食感がサモサによく合ったためか、サモサの具材として定着して行った。

一方、インドでサモサのことを知ったヨーロッパ人は、サモサを本国と植民地に伝えるようになった。

インドに最初に植民地を作ったポルトガル人はサモサを大変気に入り、まず本国に持ち帰った。そしてポルトガルではインドで使わない、ブタやウシのひき肉を入れたサモサが作られるようになった。今では、サモサはポルトガル料理に欠かせない一品になっている。ちなみに、サモサはポルトガルでは「チャムサ(chamuças)」と呼ばれる。

また、ポルトガル人は、ポルトガルの植民地であったブラジルや奴隷貿易の拠点があった西アフリカにもサモサを伝えた。

18世紀頃からイギリスによるインド進出が活発化するが、イギリス人もサモサをとても気に入り、世界中のイギリス植民地に広めて行った。こうして、カリブ海の島々や南アフリカ、オーストラリアなどに伝えられ、現代でも人気の料理になっている。