うとき 鳥兎記

うとうと、うろうろの日暮らしを落ち着かない住職の日記

買い物

2010-12-31 00:19:55 | Weblog

荒れ模様の天気で 時折雷鳴が響く こういうときは出かけるのも「エイヤッ」とかけ声を出さないと足が出ません。カ-マとクスリのアオキで買い物したついでに本屋に行こうと思ったけど、雨脚がきつく、もうひとつ気乗りせずに帰宅。志水辰夫の本は年明けに延期です。

かえってからは掃除機であちこちと掃除。梁がもろに出ている構造なので結構ほこりが溜まっていて、ウィ~ンウィ~ンと腰掛けに立って あ~しんどデス。息子が風邪を引いて声が出ないほどなので家人と二人で大掃除です。  あしたは除夜の鐘もあるし、本堂の縁も水拭きも、トイレの掃除もあって、ちとです。


ウォ-クマン

2010-12-29 23:10:25 | Weblog

「本の雑誌」に北上次郎が紹介していた志水辰夫を読み始めた。昭和11年の生まれというから井上ひさしさんの二つ下。ほぼ同年代ということになるか。

いま買ってきたのは「いまひとたびの」という短編集。解説に北上次郎が書いているとおり「死の風景」を描いた小説だけど、「夏の思いで」という短編は、永年ともに暮らしてきた夫婦が死を前にしてあらためて向き合う心を情念として表現していて、こんな言葉を言ってみたいと思うほど。

夫婦が、男女としてあることをあらためて知らせてくれる小説。次には「行きずりの街」が夫婦の愛を描いた長編だと言うので、買ってこなくては。

年賀状も書かなくてはならんし、大掃除もしなくてはならんし、犬の散歩も待っている。       聞く本はないかしらね。電子図書はウォ-クマンみたいに聞くことができるのかね。


老いと病と

2010-12-19 20:57:50 | Weblog

曽我量深師 八十歳のときの言葉

仏様とは 
 一、仏様とはどんな人か。
  
  答、仏様は、われは南無阿弥陀仏と申すものであると名のつておいでに  なります。

  二、その仏様はどこに居られるか。
   
  われを南無阿弥陀仏と念じ称へる人の直前においでになります。

  三、そんならその仏を私達が念ずるにはどのやうな方法がありますか

  南無阿弥陀仏と、一念疑なく、自力のはからひをすてゝ静なる心をもつて仏願くはこの罪    深き私をたすけましませと念ずるのであります。

  これはだれでも、どこにゐても、いつでもかなしい場合でも、うれしい場合でもたやすく自由に仏を念ずることができるのです。

  この念が現前する時、いかなる煩悩妄想が襲ひ来つても内心の平和は絶対にやぶれません。是を真の救済と申します。

 

八木重吉  29歳で肺結核にて没。

貧しき信徒 

    1925年 大正14年2月17日より
  われはまことにひとつのよみがえりなり。

    もったいなし おんちちうえさまと となうるばかりに
    ちからなく わざなきもの
    たんたんとして いちじょうのみちをみる

    よぶがゆえに みえきたるものあり
    よぶことなければ きえゆくものあり

    われよべば みえきたるなり
    わがよぶは みえきたるものの こころのうごきのゆへならん
    もったいなしと となえんか

    みえきたらんとするもの よぶがゆへにわれもよぶ
    そのもの われによぶこころをうごかすごとし

このお二人の言葉をことある毎に読んできた。八木重吉氏は肺結核という病という苦悩の中から信仰の言葉を吐き出された。曽我師は八十歳という老いのなかでこのことを確かめられていった。そこに苦悩に直面し「断念させられる中で、だからこそどうしても断念できないもの」を信仰に確かめていった足跡をたどることができる。

しかし今日医学の飛躍的な発展と、同時にメディアが大量に流す「老い」を忘れさせるさまざまなサプリの情報が、「断念」ということを忘れさせた。

怖ろしいまでに煩悩を刺激され、そして振り回される時代に生きていることを思う。

 

 


きれいになりました。

2010-12-16 22:06:41 | Weblog

古いスト-ブの着火ミスでえらい煤だらけになってしまった囲炉裏の間を業者さんに掃除してもらった。台所の換気扇もかなりの油だったので、これまたお願いして、午後3時位までかかったものの、見事にきれいになりました。

正月前にできて何よりですわ。

もう少し早くからやっていれば傷みもおさえられたそうで、換気扇はだいぶ無理していた様子。一応の完成から10年経った今年はいろいろと故障も出てきました。「宅あれば宅を憂う」です。

家も体もメンテナンスが必要です。直せるものは直しておかななくてはね。だけど宮城先生が著書の中で「病と老いの境界が混乱してきた」という趣旨のことを書いておられた。そこらあたりが曖昧なままです。もう一度読み直しておかなくてはと思う。


訂正

2010-12-13 20:38:38 | Weblog

きのうは十二日講門徒会の役員さん方の忘年会があり、来賓としてお招きいただいた。午前は十日講組の定例布教、午後は古府町の報恩講勤めと法話、さらに丸の内の門徒さんのお勤めと続いていたのでさすがに酔いが早く回ります。

でも門徒会の方と話しているときに冠者まつりのことを聞いたら、あれは「鍛冶屋まつり」で8日だと教えてもらった。ブログにえらい間違ったことを書いてしまったと

で、早速に訂正を入れさせてもらった次第です。 すいません。


山まつり

2010-12-09 21:59:13 | Weblog

冠者まつりともいうらしいが、こちらに来たときに「山まつり」と教えてもらったせいか、この言い方が親しい。

しかしきのうは好天で「これで山まつりに荒れるのかね」と言っていたら、今朝からしっかり荒れ模様の天気で、こうなるとお参りに出かけるのが気が重い。お話しの資料のコピ-を取っていてついついギリギリのお出かけ。

お勤めをしてお話しをしている間にだんだんエンジンがかかってくる。

家には先日買い込んだ本が待っている。内田樹教授の「街場のマンガ論」、日高六郎さんの「私の憲法体験」、加えて佐々木さんからもらった「笑って死ねる病院」、これに宮城先生の本や借りている本やら、などなど。

話の中にこれらの本で頂いたことを加味できればと思うんだけれども、、、、、


ごちそうさま

2010-12-05 23:32:53 | Weblog

娘が体調を崩したというので、家人が京都まで介護に出かけた。いったんは調子を取り戻したようだったけれども出社してまた体調を崩したというので、インタ-ネットで病院を探したという。すごい時代と言うべきか、便利なものです。

しかし家人が出かけて息子と二人。お参りが続くし、ご飯をどうしようかと思っていたら、「ただいま」と息子の声。「買い物に行ってきた」とボソッ。「晩ご飯、俺作るし。」

いやぁ、なかなかのものでした。