昨日はまるでリーダーズダイジェストの趣きでしたが、今日は、ちょっと古いですがジェームズ・マン氏の著書「危険な幻想」(PHP研究所、2007年)を借りながら、中国という存在について、あらためてつらつら考えてみたいと思います。
冷戦崩壊後、今なお、中国がまがりなりにも共産党一党独裁体制を維持できているのは、経済的繁栄と愛国主義高揚という、所謂アメとムチで束の間のガス抜きと陰惨な抑圧を行ない表面を取り繕っているからに過ぎません。一体、政治的抑圧はいつまで続くのでしょうか。
西洋の歴史を紐解けば、経済的な自由の末に政治的な自由を求めるのは自然な流れだと理解されて来ました。そういう意味で、アメリカをはじめとする諸外国が、経済的発展が続けば、いずれ中国は政治的な開放に進み民主化をもたらすはずだという楽観主義に支配されてきたのは故なしとしません。かつては人権問題や弾圧を声高に非難したものでしたが、二歩前進一歩後退というような言い方で、いつしか大きく取り上げることも少なくなったのは、アメリカの当局者によると、例えば政治犯の釈放を中国政府に求めるたびに、中国側はそれを取引材料に、代償として新たな譲歩を引き出そうとするといった事情があったと言います。いずれにせよその背景には、もはや中国が経済大国として存在感を増し、中国抜きにはビジネスも立ち行かなくなっているという現実があるのでしょう。
これに対して、労働争議の頻発、農民の抗議運動、環境破壊に対する抗議、民族紛争など、内部矛盾はマグマのように力を蓄え、いずれ制御可能なレベルを越えて爆発するのではないかと見る向きもないわけではありません。その先にあるのは、軍部による政権奪取などの劇的な政変か、あるいは現体制が瓦解した末に国が分裂状態に陥るか、予想は分かれますが、いずれにしても悲観主義的なシナリオと言えます。
更に以上の楽観・悲観のいずれでもない第三のシナリオもあるのではないかと主張したのが、「危険な幻想」で、中国の実情そのものを論じるのではなく、アメリカはじめ諸外国で中国像がどう理解されて来たのか、その中国観を論じたジェームズ・マン氏でした。将来の中国は、対外的には開放され、貿易や投資などの経済活動において世界と密接に繋がりながら、内政においては全く変わることなく一党独裁体制が続くかもしれない、その支配は中国共産党ではなくなるかも知れないが、それに代わる権力は依然民主的ではないかも知れないと言うわけです。原題はThe China Fantasyと実に秀逸で(日本語訳も優れてはいるものの、映画と同様、原題を越えないのが残念)、勿論、アメリカをはじめとする諸外国が抱く第一の楽観主義のシナリオを危険な幻想だと警告するわけです。
もとより中国の将来を占うのが本稿の趣旨ではありません。
マン氏の著作は2年前のものですが、年率二桁の軍事力増強を続け、何者にも(とりわけ世界帝国アメリカにも)影響されない大国への道を着々と歩む中国の姿を目の当たりにすると、またミャンマーやウズベキスタンやスーダンやジンバブエなどの非民主的体制に対する軍事的・経済的支援のみならず独裁体制を支持するイデオロギーまで提供する現実を見れば、この第三のシナリオは、少なくとも当面の中国のありようを説明するものとして説得力を持ち、我々も覚悟しなければならないのかも知れません。折りしも天安門事件20周年の少し前、アメリカのガイトナー財務長官が中国を訪問したのを、産経新聞は投資家向けIR活動と揶揄しましたが、日本を越えて世界最大の米国債保有国となった中国を抜きにアメリカ経済の再生もままならない現実を突きつけられると、果たしてアメリカの中国に対するエンゲージメント(関与)政策あるいはインテグレーション(統合)政策は、本当にアメリカをはじめとする世界の自由・民主主義体制が中国という独裁制をいずれ呑み込めるのかどうか疑問に思わざるを得ません。
もう少し先の将来になると、私はここで言う少数派の悲観主義で、いずれ中国は、かつてのソ連がそうであったように瓦解すると思っています。共産主義という強烈なイデオロギーがあったればこそ、地理的にも膨大な多民族国家を束ね得たわけで、そうでない中国は強権政治でも守りきれるものではないだろうと。ただそうしたことは中国共産党自身が最も警戒するところでしょう。それだけに、伝統的な民主主義勢力に対して中国という異質な勢力の脅威が増す現実にどう対処するのかが、将来にわたる体制のありように影響を与える重要性を帯びることは間違いありません。
冷戦崩壊後、今なお、中国がまがりなりにも共産党一党独裁体制を維持できているのは、経済的繁栄と愛国主義高揚という、所謂アメとムチで束の間のガス抜きと陰惨な抑圧を行ない表面を取り繕っているからに過ぎません。一体、政治的抑圧はいつまで続くのでしょうか。
西洋の歴史を紐解けば、経済的な自由の末に政治的な自由を求めるのは自然な流れだと理解されて来ました。そういう意味で、アメリカをはじめとする諸外国が、経済的発展が続けば、いずれ中国は政治的な開放に進み民主化をもたらすはずだという楽観主義に支配されてきたのは故なしとしません。かつては人権問題や弾圧を声高に非難したものでしたが、二歩前進一歩後退というような言い方で、いつしか大きく取り上げることも少なくなったのは、アメリカの当局者によると、例えば政治犯の釈放を中国政府に求めるたびに、中国側はそれを取引材料に、代償として新たな譲歩を引き出そうとするといった事情があったと言います。いずれにせよその背景には、もはや中国が経済大国として存在感を増し、中国抜きにはビジネスも立ち行かなくなっているという現実があるのでしょう。
これに対して、労働争議の頻発、農民の抗議運動、環境破壊に対する抗議、民族紛争など、内部矛盾はマグマのように力を蓄え、いずれ制御可能なレベルを越えて爆発するのではないかと見る向きもないわけではありません。その先にあるのは、軍部による政権奪取などの劇的な政変か、あるいは現体制が瓦解した末に国が分裂状態に陥るか、予想は分かれますが、いずれにしても悲観主義的なシナリオと言えます。
更に以上の楽観・悲観のいずれでもない第三のシナリオもあるのではないかと主張したのが、「危険な幻想」で、中国の実情そのものを論じるのではなく、アメリカはじめ諸外国で中国像がどう理解されて来たのか、その中国観を論じたジェームズ・マン氏でした。将来の中国は、対外的には開放され、貿易や投資などの経済活動において世界と密接に繋がりながら、内政においては全く変わることなく一党独裁体制が続くかもしれない、その支配は中国共産党ではなくなるかも知れないが、それに代わる権力は依然民主的ではないかも知れないと言うわけです。原題はThe China Fantasyと実に秀逸で(日本語訳も優れてはいるものの、映画と同様、原題を越えないのが残念)、勿論、アメリカをはじめとする諸外国が抱く第一の楽観主義のシナリオを危険な幻想だと警告するわけです。
もとより中国の将来を占うのが本稿の趣旨ではありません。
マン氏の著作は2年前のものですが、年率二桁の軍事力増強を続け、何者にも(とりわけ世界帝国アメリカにも)影響されない大国への道を着々と歩む中国の姿を目の当たりにすると、またミャンマーやウズベキスタンやスーダンやジンバブエなどの非民主的体制に対する軍事的・経済的支援のみならず独裁体制を支持するイデオロギーまで提供する現実を見れば、この第三のシナリオは、少なくとも当面の中国のありようを説明するものとして説得力を持ち、我々も覚悟しなければならないのかも知れません。折りしも天安門事件20周年の少し前、アメリカのガイトナー財務長官が中国を訪問したのを、産経新聞は投資家向けIR活動と揶揄しましたが、日本を越えて世界最大の米国債保有国となった中国を抜きにアメリカ経済の再生もままならない現実を突きつけられると、果たしてアメリカの中国に対するエンゲージメント(関与)政策あるいはインテグレーション(統合)政策は、本当にアメリカをはじめとする世界の自由・民主主義体制が中国という独裁制をいずれ呑み込めるのかどうか疑問に思わざるを得ません。
もう少し先の将来になると、私はここで言う少数派の悲観主義で、いずれ中国は、かつてのソ連がそうであったように瓦解すると思っています。共産主義という強烈なイデオロギーがあったればこそ、地理的にも膨大な多民族国家を束ね得たわけで、そうでない中国は強権政治でも守りきれるものではないだろうと。ただそうしたことは中国共産党自身が最も警戒するところでしょう。それだけに、伝統的な民主主義勢力に対して中国という異質な勢力の脅威が増す現実にどう対処するのかが、将来にわたる体制のありように影響を与える重要性を帯びることは間違いありません。