シドニーの風

シドニー駐在サラリーマンの生活日記です。
心に映るよしなしごとをそこはかとなく書き綴ります…祖国への思いを風に載せて。

天安門事件から20年(下)

2009-06-08 00:17:29 | あれこれ
 昨日はまるでリーダーズダイジェストの趣きでしたが、今日は、ちょっと古いですがジェームズ・マン氏の著書「危険な幻想」(PHP研究所、2007年)を借りながら、中国という存在について、あらためてつらつら考えてみたいと思います。
 冷戦崩壊後、今なお、中国がまがりなりにも共産党一党独裁体制を維持できているのは、経済的繁栄と愛国主義高揚という、所謂アメとムチで束の間のガス抜きと陰惨な抑圧を行ない表面を取り繕っているからに過ぎません。一体、政治的抑圧はいつまで続くのでしょうか。
 西洋の歴史を紐解けば、経済的な自由の末に政治的な自由を求めるのは自然な流れだと理解されて来ました。そういう意味で、アメリカをはじめとする諸外国が、経済的発展が続けば、いずれ中国は政治的な開放に進み民主化をもたらすはずだという楽観主義に支配されてきたのは故なしとしません。かつては人権問題や弾圧を声高に非難したものでしたが、二歩前進一歩後退というような言い方で、いつしか大きく取り上げることも少なくなったのは、アメリカの当局者によると、例えば政治犯の釈放を中国政府に求めるたびに、中国側はそれを取引材料に、代償として新たな譲歩を引き出そうとするといった事情があったと言います。いずれにせよその背景には、もはや中国が経済大国として存在感を増し、中国抜きにはビジネスも立ち行かなくなっているという現実があるのでしょう。
 これに対して、労働争議の頻発、農民の抗議運動、環境破壊に対する抗議、民族紛争など、内部矛盾はマグマのように力を蓄え、いずれ制御可能なレベルを越えて爆発するのではないかと見る向きもないわけではありません。その先にあるのは、軍部による政権奪取などの劇的な政変か、あるいは現体制が瓦解した末に国が分裂状態に陥るか、予想は分かれますが、いずれにしても悲観主義的なシナリオと言えます。
 更に以上の楽観・悲観のいずれでもない第三のシナリオもあるのではないかと主張したのが、「危険な幻想」で、中国の実情そのものを論じるのではなく、アメリカはじめ諸外国で中国像がどう理解されて来たのか、その中国観を論じたジェームズ・マン氏でした。将来の中国は、対外的には開放され、貿易や投資などの経済活動において世界と密接に繋がりながら、内政においては全く変わることなく一党独裁体制が続くかもしれない、その支配は中国共産党ではなくなるかも知れないが、それに代わる権力は依然民主的ではないかも知れないと言うわけです。原題はThe China Fantasyと実に秀逸で(日本語訳も優れてはいるものの、映画と同様、原題を越えないのが残念)、勿論、アメリカをはじめとする諸外国が抱く第一の楽観主義のシナリオを危険な幻想だと警告するわけです。
 もとより中国の将来を占うのが本稿の趣旨ではありません。
 マン氏の著作は2年前のものですが、年率二桁の軍事力増強を続け、何者にも(とりわけ世界帝国アメリカにも)影響されない大国への道を着々と歩む中国の姿を目の当たりにすると、またミャンマーやウズベキスタンやスーダンやジンバブエなどの非民主的体制に対する軍事的・経済的支援のみならず独裁体制を支持するイデオロギーまで提供する現実を見れば、この第三のシナリオは、少なくとも当面の中国のありようを説明するものとして説得力を持ち、我々も覚悟しなければならないのかも知れません。折りしも天安門事件20周年の少し前、アメリカのガイトナー財務長官が中国を訪問したのを、産経新聞は投資家向けIR活動と揶揄しましたが、日本を越えて世界最大の米国債保有国となった中国を抜きにアメリカ経済の再生もままならない現実を突きつけられると、果たしてアメリカの中国に対するエンゲージメント(関与)政策あるいはインテグレーション(統合)政策は、本当にアメリカをはじめとする世界の自由・民主主義体制が中国という独裁制をいずれ呑み込めるのかどうか疑問に思わざるを得ません。
 もう少し先の将来になると、私はここで言う少数派の悲観主義で、いずれ中国は、かつてのソ連がそうであったように瓦解すると思っています。共産主義という強烈なイデオロギーがあったればこそ、地理的にも膨大な多民族国家を束ね得たわけで、そうでない中国は強権政治でも守りきれるものではないだろうと。ただそうしたことは中国共産党自身が最も警戒するところでしょう。それだけに、伝統的な民主主義勢力に対して中国という異質な勢力の脅威が増す現実にどう対処するのかが、将来にわたる体制のありように影響を与える重要性を帯びることは間違いありません。

天安門事件から20年(上)

2009-06-06 21:01:30 | あれこれ
 6月4日は、天安門事件から20年を迎えて、各紙が回顧記事や特集を組み、もはや歴史になったこの事件の顛末をあらためて振り返ると共に、中国という国のいびつさを、しかも大国として影響力を増していることによる国際社会への不安定要因をあらためて実感することにもなりました。
 1989年は、この天安門事件とベルリンの壁崩壊という、ユーラシア大陸の東西で起きた大事件に象徴される歴史的転換点となった年でした。二つの事件が対照的な結末を迎えたのは、6月の天安門事件が11月のベルリンの壁崩壊に及ぼした心理的な影響のせいもあったかも知れません。天安門事件では、こともあろうに人民の名を冠した人民解放軍が、民主化を要求する学生や市民を武力鎮圧(一部虐殺)し、戦車が市民を蹴散らす生々しい映像が世界中を震撼させたのでした。ベルリンの壁崩壊が武力介入もなく比較的平穏に進行したのは、その記憶がまだ鮮やかだったからこそと言えるかもしれません。当然、その後の歴史も、中国共産党の一党独裁体制が継続する一方で、欧州の社会主義体制が崩壊し冷戦が終焉するなど、対照的な歩みを辿りますが、その中国にしても、国際的孤立を恐れて、また国内の不満を逸らすために、改革・開放路線へと舵を切り経済大国化への道を歩むことになったという意味では、大きな転換点だったことに違いありません。
 なにしろ過去20年間で中国の国内総生産(GDP)は20倍近くに拡大し、2007年にはドイツを抜いて世界三位を占め、日本を抜くのも時間の問題です。貿易総額は23倍に増えて世界3位、貿易黒字額は世界1位、外貨準備高は130倍以上に激増して世界1位、当時の大陸には株式市場がなかったのに、今や上海株式市場は時価総額でアジア有数の規模にまで成長しました。
 こうした社会主義体制下の市場経済というイビツな構造は、言わば党・行政・企業が一体となり癒着した利権構造でもあり、腐敗の蔓延、有害食品やコピー商品の氾濫、環境破壊をはじめ、所得・地域間格差の拡大など、さまざまな矛盾を生んで来ました。急激な経済成長のもとで利害が多様化し権利意識が高まった市民の間で、強制的な土地収用、環境破壊、宗教活動の抑圧といった権利侵害に抗議するデモ活動は、年間9万件を越すと言われます。これは経済発展の陰で、政治改革の歩みがほとんど見られないことのあらわれに他ならず、言論・信教の自由への弾圧や、チベット族・ウイグル族への人権侵害がやむことがないのはご存知の通りです。象徴的なのは、今回の政府の対応で、天安門広場は警察による厳戒態勢で遺族らによる追悼行事が阻止されただけでなく、殆どの中国各紙は天安門事件から20年を経たことを一切伝えず、NHKや外国メディアが伝えようとすると画面が消えるというような露骨な報道規制(妨害)まで行なわれたのでした。
 天安門事件以後、党と政府が教訓として実行に移したのは、大学教員・研究者や公務員の給与レベルをあげるなど待遇を改善し、知識人を手なずけることでした。一方で、北京の主要大学を対象に、反政府的な考えをもつ学生を見つけ出す役割を担う組織を作ったり、学生に天安門事件への関心をもたせないよう思想統制を強化するなど、反体制運動につながる芽を事前に摘み取ることを徹底しました。所謂アメとムチの政策です。20年前、大学生の党員は1%にも満たなかったのに、今では8%を越えると言われます。党内に取りこんで、党や政府に対する批判があれば出してもらうが、発言は飽くまで党内に限定し、党外での批判は許さない、留学生派遣や人事で党員を優遇する、指導部のブレーンに若手を登用し、優秀な才能をつなぎとめる等、いわば封じ込めです。
 それと並行して大々的に行なわれたのが、反日教育とセットにした愛国主義精神高揚運動の展開でした。国内の不満を外敵に向かわせるのは、古来、政治で行なわれてきた常套手段ですが、これによって共産党の犯した罪をもみ消すとともに、ベルリンの壁やソ連の崩壊とともに後退した共産主義に代わる新しいイデオロギーとして愛国主義に訴えたというわけです。
 その結果、昨年12月に、共産党内外の開明的な知識人らによって、一党独裁の放棄や三権分立、解放軍の国軍化などを求める政治文書「憲章08」が発表されましたが、大きなうねりにはなっていません。当時の運動家たちは40歳を越え、依然、アメリカなど海外の亡命先で細々と活動を続けていますが、その声は殆ど国内に届いていません。今では天安門事件について知らない若者が多く、大規模な民主化運動は当面起きそうにもないという雰囲気になっているのだそうです。

鳩山さん韓国訪問

2009-06-06 01:34:30 | あれこれ
 ここ数日、天安門事件20年について書こうとして、忙しさにかまけてぐずぐずしている内に、妙なニュースが飛び込んで来ました。鳩山さんが韓国を訪問され、李明博大統領と会談し、まるで次の選挙では政権交代を実現して、自分が次期総理大臣になるかのような図々しいパフォーマンスだったようです。クリントン国務長官が野党党首(当時の小沢さん)と会談したいと申し入れたのは、麻生さんにとって屈辱的ではあったにせよ、相手あってのことであり仕方ありませんが、今回は野党の党首が、日本は今は政局不安定ですがとわざわざ他国にのこのこ出かけて暴露しているようなもので(実際にはアメリカはじめ皆そう思っているので、追認したに過ぎないですが)、日本国の体面を考えない軽率な行動(端的に言うと、何故、今のタイミングで?)は、私には俄かに信じられません。
 余計なことを言わなければ良いがと思っていたら、ちょっとアブナイ場面がいくつかあったようです。
 一つ目は歴史問題に関して。過去を直視する勇気を持つ、すなわち一部には過去の侵略行為や植民地化を美化する風潮もあるが、私たちはそのような立場は取らない、私たちは過去の歴史を直視する勇気を持っている、と李大統領に大見得を切ったのだそうです。勇気をもつのは勝手ですが、いや、それは勇気と言うより、国民の代表である政治家が自国の歴史に対する正当な評価を行なえない、やや偏向した無責任さであり(と偏向扱いすると、その逆もまた真、すなわち偏向になってしまいますが)、歴史観ですら国益の手垢にまみれる(特に東アジアの)国際政治の現実に目をつぶる純情さが仇にならなければ良いがと思うのですが、結果として国益の観念が稀薄な野党根性が抜けないとするならば、李大統領としても、野党党首の言うことで話半分としたか、あるいは将来やりやすくなるだろうとほくそ笑んだことでしょう。こういった軽はずみな発言は、日本の叡智を結集した官僚をバックにした政権党ではあり得ないことであり(別に官僚を弁護するつもりはありません、半分はイヤミです、ケネディ政権時代を描いた“The Best and the Brightest”という本がありました)、逆に組織的しがらみがない野党に欠ける危うい点であり(村山談話もそうでしたね)、日本国の将来がちょっとおもんばかられる点でもあります。
 二つ目は、鳩山さん持論の友愛の精神に関して。友愛精神が戦争ばかりしていたフランス、ドイツを最終的に戦争のないEUという組織にまで高めた、東アジアにおいてもそれが決して不可能ではないと考えている、まず日本と韓国が協力していくことが大変重要で、そこに中国も仲間に入り、必要なら米国に仲間に入ってもらい、東アジアの共同体、アジア太平洋の共同体構想が重要な発想だという持論を、李大統領に披露したのだそうです。理念としては結構で、恐らく総論で反対する人は少ないと思いますが、現実の対応が難しいから、苦労が絶えないのです。つい最近も、北朝鮮の核実験の際に日本と北朝鮮の関係を、フランスとドイツの関係に例えたようですが、もし北朝鮮を他の三ヶ国と同列に扱っているとしたら、ちょっとその無神経さを疑います。表向きの議論としてはともかく、裏でちゃんと本音の議論が出来ているのか。評論家じゃあるまいし、まさか政治家に現実的な視点がないとは思いたくもなく、これもまた野党根性の危ういところです。
 そして三つ目、李大統領が「鳩山代表は日韓関係や在日韓国人問題で進んだ認識を持っている」とにこやかに語りかけた場面で、大統領としては、定住外国人への地方参政権付与に賛同している鳩山さんから何らかの言質を引き出そうとしたのではないかと産経新聞がコメントしていました。鳩山さんの会談後の答弁によると、在日参政権については直接的な会話はなく、李大統領からは、在日韓国人に対して大変理解を示してくれていることに有難うという言葉があっただけ、ということのようですが、将来、政権党として国家運営の進路を決めていく立場を覚悟されるのであれば、くれぐれも慎重にと願いたいですね。
 保守本流のご先祖様を仰ぐ政治家一家の四代目にあたり、深慮があってのことだと思いますので、私の下衆なコメントはこのあたりで控えます。

駐日アメリカ大使というポスト

2009-06-03 23:49:05 | あれこれ
 駐日アメリカ大使に、日本では無名の弁護士ジョン・ルース氏が指名され、俄かに話題になっています。戦後の駐日大使の多くは、知日派の学者や政界実力者や実力派外交官が占めてきた伝統があり、当初、ハーバード大学のジョゼフ・ナイ教授が下馬評にあがった時には、「ソフト・パワー」論の主唱者として著名である上に、民主党の外交ブレーンとして政策決定に深く関ってきた大物でもあり、日本重視の表れとして、日本としても大いに期待したものでした。ところが蓋を開けると、確かに国務省はナイ氏を推したそうですが、大統領自身がナイ氏との付き合いが深くないこともあり、ホワイトハウスの大統領周辺は、大統領選挙の資金集めで貢献が大きかったルース氏を推し、覆したと言われます。これが論功行賞人事と報道され、日本軽視の人選と受け止められて、失望感を隠せない人が一部に見られます。確かに気持ちは分からないではありませんが、日本軽視というのはやや言い過ぎのように思います。
 実際、先月27日に発表された12人の大使の内、日本、イギリス、フランス、デンマークの各大使に指名された4人は資金調達協力者だったようです。現在、アメリカ大使の3分の1は、大統領の資金調達協力者や友人などに与えられる政治任命ポストとまで言われており、それを踏襲した形です。これまで、日米関係が厳しい時代には、知日派の実力外交官や大物政治家が配されたのは事実ですが、最近は日米間に大きな懸案事項がないことから、日本も、イギリスやフランスやイタリアなどの西欧諸国と並んで、論功行賞人事を受け入れられるだけの安定的な同盟国になったと、前向きに評価する意見もあります。少なくともオバマ大統領にとって、日米関係は難しくなく、外交に素人の駐日大使でも問題はないと認識していることは確かでしょう。
 ただ単なる論功行賞ではなく、今回の人事は、ブッシュ前大統領の大リーグ球団の共同経営者で、ブッシュ氏の寝室にも電話出来る関係だったトーマス・シーファー前駐日大使のように、日米政治への造詣の深さよりも大統領との親密度を優先した人事として、「シーファー型」と評する声(米国務省)もあります。特に、ルース氏がオバマ大統領と同業の弁護士で、氏の能力やコミュニケーション・スタイルを熟知し深く信頼していると言われており、これから日米関係は実務重視の新たな段階に向かうというオバマ大統領自身の隠れたメッセージが込められているかも知れません。今日の日経新聞には、GMの破産法適用と絡めて、日本の技術に注目した興味深い人事だと分析する、ワシントン駐在の日本車メーカー関係者の声が紹介されていました。ルース氏を推した有力者の中にはクリントン政権時代に情報ハイウェイ構想を推進したゴア元副大統領も含まれているらしく、環境対応の自動車開発を含む環境事業版ハイウェイ構想があるとするならば、日本にも多くのハイテク人脈を持つルース氏が黒子として重要な役割を担うかも知れないという穿った見方ですが、日本軽視の表れなどと悲観するよりも先ず現実に目を向ける必要があるのかも知れません。
 いずれにしても、オバマ大統領に直接繋がる重要なポジションであることは間違いなく、日本としては、アメリカ政界においても地盤沈下しつつあると言われる日本を救い、ただの追従ではなく時に胸襟を開いて自らの立場を主張しタフに交渉しながら、これまで以上に強力で成熟した日米関係を築いていくことを祈ります。

日本の政治風景

2009-06-02 21:02:56 | あれこれ
 今日は久しぶりに、日本の政治風景(所謂政局)をめぐる無責任な四方山話です。
 民主党代表になった鳩山さんを見ていると、ようやく小沢前代表のくびきを離れて晴れ晴れとして見えるところは如何にも素直で可愛くもあり憎めませんが、さすがに野党根性が抜けて、政権党を目指す党首としての自覚が芽生えて来たのは良いとして、少々、高飛車に見えるのは如何なものかと思います。恐らく世論調査の結果、麻生首相より高い支持率を背景にして強気になっているものと思われますが、国民のマジョリティは、麻生さんだろうが鳩山さんだろうが政治に対して不信任を表明していることを忘れないで欲しいと思います。麻生さんと鳩山さんの対決は所詮はコップの中の争いでしかなく、まるで鳩山さんが多くの国民の支持を得ているかのような物の言いは笑止千万、控えて欲しい(それはその他の弱小野党にも当てはまります)。そもそも民主党が代弁する国民とは誰のことを言っているのか? 多様な国民をひと括りにするいい加減さ、まるで様々な利害をもつ国民の立場を全て慮るかのような非現実性は、30年前ならいざ知らず、今の時代において無責任以外の何ものでもありません。「友愛」というキャッチフレーズも、内向き志向が如実に表れていて、寂しくなります。
 先日の党首討論でも、麻生さんが極めて伝統的な日本の政治家よろしく本音で国民に語りかけない不遜な態度をとり続ける以上、鳩山さんにはいろいろ攻め方があったと思いますが、十年一日の如く、お互いの揚げ足取りに終始したのを見ると情けなくなりました。そもそも日本に二大政党制が必要なのかどうか、胡坐をかいている自民党には刺激になって良いと思いますが、民主党には、何の検証もなく、既定の事実として対立を先鋭化するのは、我田引水と思われても仕方ありません。
 先日、佐伯啓思さんが、産経新聞に、二大政党制について素朴な疑義を表明されていました。そもそも二大政党制を擁するのは、階級対立や明確な理念の対立を抱える国だけで、イギリスにおける資本家と労働者階級の対立が然り、アメリカの建国の理念を追求する保守党と多様な民族を抱えて新たな国家像を目指す民主党の対立もまた然り、と言うわけです。それに引き換え日本にそういったレベルの明確な対立軸があるのかどうか、また、ソ連が崩壊した今、自民党と民主党という、既にそれぞれに右から左まで党内各種派閥を抱えてヌエのような存在で、政策面で明確な対立を演出出来るのかどうかは、極めて疑問だと言わざるを得ません。
 日本の社会には、これまでは自民党のような存在が座りが良かったと思いますが、さすがに都市と地方に関する現実とのギャップ、成熟した多様な社会における官僚主導の限界、自民党の中のリーダーシップの欠如(短命総裁続きで人材枯渇)、派閥間競争の柔軟性欠如と、いずれもこれからの日本の舵取りを担うには不安が一杯ですが、自民党ではダメだから、たまには政権交替して、民主党にやらせて見せたらどうか・・・などと呑気なことを言っていても良いのでしょうか。国際社会における日本という国家の危機意識が足りなさすぎるように思います。

北朝鮮問題ふたたび

2009-05-27 14:39:14 | あれこれ
 北朝鮮が25日に2年半振りに地下核実験を行った上、地対空短距離ミサイルをこの二日間で計5発も日本海にぶち込んで意気盛んです。明白な国連安保理決議違反であるとともに、このテロの時代に核拡散を防止しようと躍起になる諸外国の神経を逆撫でする暴挙に、世界各国・各機関から非難の合唱が始まりました。やりたい放題のこの身勝手さ、不埒な悪行三昧は、桃太郎侍に退治して欲しいところです。
 もとより国際社会は一枚岩ではなく、またしてもポイントは中露の対応、特にいまだに北朝鮮に対して経済援助を続ける中国になりそうです。前回(2006年10月)の核実験の際、中国は北朝鮮との国境地帯に検問所を設けて贅沢品や軍需品の輸出禁止などの経済制裁を始めながら、長くは続かず、今に至るまで経済援助の規模は拡大する一方だと言われます。さすがに今回は、国際社会に対話を強調し続けた中国のメンツが潰された形で、中国共産党の機関紙「人民日報」の傘下にある国際情報紙「環球時報」でも怒りを露わにしていますが、中国外務省報道局長の定例記者会見では、国連安保理で検討中の追加制裁に関しては、「朝鮮半島の非核化推進が中国政府の一貫した立場」と述べるにとどめ、慎重に対応を検討していることを示唆したことが報道され、どこまで本気なのか分かりかねます。
 そんな中、朝日新聞の昨日の社説には、「北朝鮮の核実験―米中の連携で暴走止めよ」と題して、以下のような記述があり、目を見張りました。
 (引用)...中国の役割もはっきりしている。米国とともに東アジアの長い目で見た安全保障がどうあるべきかを考えてもらいたい。世界同時不況の中で米中の戦略的な連携が重みを増している。朝鮮半島の安定はそれを生かすべき最たる領域ではないか。...(引用おわり)
 なんという安穏さ。もはや現実の些事にはいちいち目が届かなくて、大所高所から差し障りのないアドバイスをするだけで半分眠っているご隠居さんのようなお気楽さです。いまだに中国に対してこれほど善意でいられること、ナイーブであることには、(ある程度日本人に特有のものでもありますが)今さらながら驚かされます。中国にとって東アジアの安全保障は重大関心事に違いありませんが、それ以前に国益を守ることが優先するはずです。
 歴史上かつて、今の北朝鮮ほど国力(経済力)が乏しいにもかかわらず軍事的突出を続ける国が成功したためしはありません。恫喝外交を続けて支援を引き出す一方、陰でドル紙幣を印刷したり麻薬を売って外貨を稼ぐほどの狡猾さがあれば、そのことを理解しないはずはありません。国の経済的疲弊、自身の健康問題、後継問題を抱え、やむにやまれぬ断末魔の叫びとも受け取れなくはありません。くれぐれも暴発することのなきよう、慎重な対応が求めらます。

歴史感覚

2009-05-10 22:17:55 | あれこれ
 私が通った大学は、学生運動の名残りで、真面目に講義に出席することを潔しとしない、骨のある(ひねくれた)性格を引き摺り、講義はただのきっかけに過ぎず、学問は自ら究めるものと嘯きながら、遊び呆けていたのですから世話ありません。そんな中で、敬愛する教授が一人いて、阪神タイガース・ファンなのが玉に瑕でしたが、こまめに聴講したものでした。その教授に魅かれたのは、最初の講義で、国際政治における虚々実々の駆け引きはヘロドトスの「歴史」を読めばわかると言われ、まるで人間社会はこの2千年以上もの間、進歩がなかったかのようなモノの言い(スケールの大きさ)に衝撃を受けるとともに、その後も、時間を縦軸に(歴史感覚)、地理を横軸に(国際感覚)した幅広い視野と、そのベースにある人間に対する深い洞察(哲学)で、時事問題を軽く切って捨て、初めて学問の奥深さを(人間性とその社会の変わらない姿を)教えられたからでした。
 その後の半生で双璧をなす敬愛する人物は、国民的歴史作家の司馬遼太郎さんです。彼の素晴らしいところは、歴史家と言うより文明史家とも言うべきところで、文明という視点で見た歴史は常に交流の歴史であるが故、彼の視野には時間軸(歴史感覚)とともに地理軸(国際感覚)が組み合わされ、ジャーナリスティックな冷徹な目線を、作家としての豊かな表現力に包み込み、私たちの前に鮮やかな歴史物語を紡いでくれたのでした。
 前置きが長くなりましたが、昨日の続きで、ものの見方・考え方の基本は、国際感覚と歴史感覚(更にそのベースにある哲学)に裏打ちされたものであるべきだと、個人的に思って来ました。この両者は、司馬遼太郎さんのところで触れたように独立して存在するのではなく、密接不可分の関係にあります。ともすれば私たち日本人は、「経験」の範囲でしかモノを見ない国民性をもちます。それは恐らく太平洋戦争がトラウマになって、私たちの「歴史」感覚は、昭和20年で切れてしまっているからと見て間違いありません。しかし、ビスマルクが言ったように、愚者は経験に学び、賢者は歴史に学ぶものです。受験勉強で学ぶ歴史は私もなかなか好きになれませんでしたが、本当の歴史は血もあり涙もある人間の営みそのものであり、その叡智から学んで行きたいものです。

国際感覚

2009-05-10 12:11:56 | あれこれ
 前回、日本国内だけの引きこもり、という話をしました。これは地理的・歴史的な事情もさることながら、言葉の壁も大きいように思います。
 以前、別のブログで、「英語を学べばバカになる」(薬師院仁志著、光文社新書)という本を題材に、英語を学ぶことの意味を考えたことがありました。この本のメッセージを私なりに纏めてしまうと、(1)グローバル=アメリカということではない、アメリカの対立軸としてのヨーロッパ(この本では著者が暮らしたフランスが例に挙げられます)の存在感を考え併せると、英語が全てではないということ。(2)日本は翻訳文化が成り立つほどの適度の規模を持ち、英語の情報はほぼリアルタイムで翻訳されるため、日本人が普通に生活する上で英語はほとんど必要ないこと。むしろ英語は所詮はツールであり、ツールを一所懸命学ぶばかりにそれ以前の教養が疎かになっては元も子もないということ。
 上記(1)に関しては、日本の新聞等のメディアで取り扱われる情報量においては、伝統的にアメリカ偏重で、アジアやヨーロッパに関する情報が絶対的に不足しており、日本人の世界観を歪めていると感じる方も多いでしょうし、EUの成立や、イラク戦争をはじめとするブッシュ前大統領の単独行動主義によって、アメリカの特異性が浮き彫りになるとともに、ヨーロッパ社会の存在感があらためて日本人の私たちにもクローズアップされ、実感されている方も多いでしょう。私もアジアやオーストラリアにいて、相対的にアメリカに対するヨーロッパ文化の強さを感じます。(2)に関しては、私の数少ない経験でも、帰国子女の流暢な、しかし上滑りの英語より、たどたどしくても聞く価値がある内容を話す人に、外国人は耳を傾けるものです。別の言語学者で、バイリンガルの危うさとともに母国語による論理的思考の重要性を強調され、無理に皆が皆英語を学ぶ必要はなくて、国家として見れば英語を流暢に操る一握りの日本人がいれば事足りるのだと主張される方もおられますが、それも一面の真実だろうと思います。こうして“英語”産業に踊らされてせっせと英会話教室に通い、明確な目的もなく(結果的にロクにものにならない)英語を勉強することに時間と金を費やしていてはバカを見るというところから名付けられた、やや刺激的なタイトルですが、書かれている内容は、極めてオーソドックスなものと言えます。
 日本における英語教育の社会学的論考という意味では、それで良いのですが、それを踏まえつつ、もう一歩、私の関心領域に踏み出して考えると、外国語も重要だよと言いたくなります。
 確かに、外国語を操る以前に、話す内容、メッセージ性が重要だと言うこと、そしてそれは当然のことながら日本語においても同様で、(オピニオン・リーダー的な人の発言に限らず)仮に翻訳されて世界に発信されても通用するような国際性を持つことが重要だろうと思います。外国語そのものより、国際感覚と言うべきでしょうか。ところが、英語によるメッセージであれば、ほぼ世界中の人々の批判の目に晒されるため、内容にある程度の普遍性を要求される一方、日本語によるメッセージは、これまで言葉の壁に阻まれて(と私たちは勝手に思い込んで)内輪の議論に終始しがちで、世界的な視野から議論に耐えうるものとは必ずしも言えないところがあります。しかし50年前ならいざ知らず、今では容易に日本の動向は海外に伝えられますし、かつての経済力に代わってアニメを含む日本文化のおかげで日本語を学ぶ外国人は依然いて、日本語が日本だけに閉じる時代ではありませんので、もっと日本語も国際社会に開かれる必要があるように思います。それは日本人の間だけで通じる日本語ではなく、外国人にも適切に理解させる視点をもつことでもあります。案外それは難しい。
 国際感覚というのは、もとより外国を知ることにとどまらず、日本人としての明確な視座を持ちながら、外国という鏡に映して、日本という国また日本人を外から眺めること、自らのアイデンティティとしての日本を相対化することが前提にあります。そのためには外国語を知る必要は必ずしもありませんが、外国語によるコミュニケーションを通した実体験が有効であることは間違いありません。特に英語は世界共通語でもあり、英語を母国語としない人たちとの間でコミュニケーションをするには必須になります。マレーシアやオーストラリアにいて、子供たちを日本語学校ではなくインターナショナル・スクールやローカル・スクールに入れている理由はまさにここにありますが、日本人としてのアイデンティティがともすれば薄れがちなのが悩ましいところで、国際感覚というのは極めて危ういもろいものでもあると感じます。

ワイドショー化

2009-05-08 08:41:49 | あれこれ
 こちらのSBS World Newsで朝・昼・夕方・夜と一日4回、NHKニュースが30分流れますが、最近の報道を見ていると、随分、NHKもワイドショー化してきたのを感じます。ワイドショー化というのが言い過ぎであれば、何事にも、それが日本に関するものである限りは、敏感に(時に過敏に、時に扇情的に、時に潔癖症と思われるほど過剰に)反応している気がします。ワイドショーと言えば、朝夕の報道番組の合間(特に午後2時とか3時)に、主婦層を主な視聴ターゲットとして、様々な事件の顛末を物語風に再構成しながら視聴者の「隣は何をする人ぞ」的な覗き趣味と言って悪ければ知的好奇心を満足させる、いわば報道半分の娯楽です。おそらく昨今の民放の報道番組が、かつての報道番組と比較して、軸がワイドショー寄りになっているのを、NHKも遅まきながら追いかけている構図ではないかと察します。
 例えば、草なぎ剛さんの公然わいせつ罪とは何事かと思えば、ちょっと酔っ払って騒いだのは近所迷惑だとしても、草木も眠る丑三つ時に公園で服を脱いだくらいではそれほど公序良俗に反するとも思えませんが、繰り返し報道され、お詫びの会見まで(しかも天下のNHKで!)追いかけられていたのを見ると、有名税とは言えちょっと過剰反応で、却って気の毒なほどでした(もっとも家宅捜索されたところを見ると、薬物疑惑など別件を連想させますが、裏づけもなしにそこまで踏み込むことは出来ません)。西松建設の違法献金にからむ小沢一郎さんの公設秘書逮捕と進退問題にしても、情報リークされ、逮捕・起訴前から追及されていたのも行き過ぎでしたし、責任問題論議があちらこちらに飛び火して、揚げ足をとるような騒ぎになったのも、やはりちょっと過剰な反応だったように思います。北朝鮮のミサイル発射問題にしても新型インフルエンザにしても、重要性は認めますが、ちょっと過熱気味で、報道自体はもう少し冷静であって欲しいと思います。
 日本のテレビ番組は、ここオーストラリアと対比するとなおのこと、バラエティー番組にしてもドラマにしてもワイドショーにしても、日夜接する娯楽性という点で非常によく出来ていて楽しめます。世界に冠たる日本のアニメ文化の裾野を形成していると言っても過言ではありません。昨日の続きではありませんが、今後は日本ももっと多様性を認める社会になるべきだし自然にそうなって行く(現にそうなっている)と思いますが、報道も含めてテレビ界の全体が(あるいは社会の全体が)児戯的な娯楽性に傾いているとすれば問題です(児戯的な、という意味は、社会科の教科書を思い出せば分かる通り、小学校低・中~高学年にかけて、身近な町から説き起こし、それが都道府県レベルになり、やがて日本全土や更には世界に広がるといった具合いに、子供は成長とともに世界観を広げていくわけですが、それと逆行するかのような日本国内だけの引きこもり、独善性を指しています)・・・なんて日本のテレビ番組を見られない僻みですね。

Uターン・ラッシュ

2009-05-07 09:03:00 | あれこれ
 昨日がピークとニュースでも報道され、もはや季節毎の風物詩にもなっているUターン・ラッシュですが、外から眺めるとちょっと異様に映ります。その理由を探してみると、一つには東京などの大都市圏への人口の過度の集中の問題があり(これ自体は多かれ少なかれどこの国でも抱えていますが)、二つには一斉に休暇を取る集団行動が独特なのではないかということに、思い至ります。
 もっともUターン・ラッシュ自体は日本に特有のものとは言えず、マレーシアに滞在していた時にも、中国・旧正月が始まると、都心で働いている中国人が一斉に帰省するため、クアラルンプールから下りの高速道路が大渋滞し、休暇明けには上りが大渋滞したものでした。帰省して両親や親族や古い知人とともに過ごす習慣が、華人には旧正月で、イスラム教徒には断食明けのハリラヤ・プアサで、ヒンドゥー教徒(マレーシア在住という断りつきです、本国ではそれほどでもないらしい)には光の祭典であるディーパバリで、それぞれにあるわけです。アメリカでも、家族とともに過ごす習慣がある感謝祭の休日には、空港が混雑したものでした。このように年一回程度であればよいのですが、日本では盆・正月に加えてゴールデン・ウィークも・・・というのがちょっと目立つのかも知れません。
 Uターンに限らず、日本で行楽と言えば混雑するのが厄介です。私も含めてほとんどの日本人は慣れっこになっていますが、海外で過ごす休暇に比べると、ギャップは余りに大きい。海外旅行が増えているのは、国内旅行との間で、費用が相対的に変わらなくなっていることに加えて、そうした混雑を避ける意味もあるのでしょう(成田空港の混雑さえクリアすれば)。以前、アメリカ人から日本の印象について“too crowded”だと言われたことがありましたが、それはウサギ小屋と揶揄された住宅事情のこともあるでしょうし、移動が公共交通手段に頼る部分が多いこともあるでしょうし、観光地がだいたい混雑することもあるのでしょう。
 行楽の混雑は、一斉に休む習慣に起因するところが大きいように思いますが、帰省となると、他の親族や知人と同期しないと意味がありませんので、悩ましいところです。こうしてみると、もう少し経済圏が分散すると良いのではないかとも思いますが、日本のような高コスト構造の国では、効率を犠牲にしなければならない部分もあり、なかなか簡単ではないなあという結論に落ち着きます。
 因みに休暇については、祝日を減らして、独自に取る方向に誘導してはどうでしょうか。
 マレーシアでは国民の祝日が多いのは、民族構成のマジョリティを占めるマレー人、華人、インド人のそれぞれの宗教的行事に配慮した、現在のマレー政府ではなく、かつての大英帝国統治時代の名残りだと聞いたことがあります。そのため、正月(新年)を、ヒジュラ暦(イスラム教)、中国暦(旧正月)、グレゴリオ暦(西洋暦)と、三度も祝うことにもなります。その多民族国家・マレーシアの祝日14日(ペナン州を基準としています)を越える15日もの国民の祝日を誇るのが単一民族国家・日本です。移民大国オーストラリアでは、全州共通の祝日は僅かに6日、NSW州の場合、州の祝日を加えて10日でしかないのは、個人が独自にヴァケーションを取得するヨーロッパ文化の流れを汲んでいるせいでしょうか。

ボストン・マラソン

2009-04-21 23:52:23 | あれこれ
 昨日は4月の第三月曜日で、アメリカ・マサチューセッツ州ではPatriots’ Dayの祝日でした。独立戦争が始まったレキシントン・コンコードの戦いを記念するもので、この日にはボストン・マラソンも行なわれます。今年で113回、オリンピックを除くと最も古い歴史を誇り、コンコードに4年住んだ私にも馴染み深い大会です。
 ボストン・マラソンは、年齢層別の標準記録を突破していなければ参加できないエリート・ランナーの大会ですが、私がアメリカにいた頃は、こうした1万人の正式エントリー以外に、2万人位が勝手に金魚の糞のように後ろからくっついて走っていました。当局からは一切お咎めなし。このあたりはアメリカ人の鷹揚さで、それをいいことに、着ぐるみやタキシード姿などで仮装したり、缶ビールの缶を目の前にぶら提げたり、大きな国旗を担いだりと、走る人も走る人なら、見る方も沿道でガンガン音楽を鳴らして踊り狂っていたり、子供たちがレモンやバナナやパン切れを手に一所懸命応援してくれたりと、お祭り騒ぎそのものの楽しい大会です。私もつられて99回大会と101回大会を勝手に走りました。会社の同僚と一緒に、会社の名前を書いた手製ゼッケンをつけると、沿道の人たちが会社の名前を連呼してくれて、今思うと恥ずかしいばかりの、若さ故の懐かしい思い出です。
 さて前置きが長くなりましたが、昨日の大会では、車いす女子の部で、土田和歌子さんが1時間54分37秒で三連覇を達成されたそうです。素晴らしいですね。以前、パラリンピックについてブログに書いたことがありましたが、車いすと言えども下り坂では時速50Kmを越えるほど、激しい競技なのです。
 土田さんは、昨年夏の北京パラリンピックでは、5000Mで複数の選手が絡む転倒事故に巻き込まれて背中を負傷されたため、アテネ大会で銀メダルを獲得していたマラソン競技を断念し、10月下旬まで入院されていたそうです。半年で見事に復帰されたのは、波大抵のことではなかったでしょう。これを機に土田さんについて調べたところ・・・高校2年の時、友人とドライブ中に事故に遭って車いす生活に入り、最初はアイススレッジ・スピードスケートで、長野パラリンピック・プレ大会1500Mで世界新記録をマーク、本番1500Mで自身の世界新記録を更新して金メダルを獲得、1000Mでも金メダル、100M、500Mでは銀メダルを獲得されるなど大活躍でした。その後、陸上競技に挑戦されてからも、2000年シドニー五輪の公開競技として行われた車いす800Mで銀メダル、シドニー・パラリンピック車いすマラソンで銅メダルを獲得、2001年大分国際車いすマラソンのフルマラソンでは世界最高記録を樹立、2004年アテネ・パラリンピック5000Mでは金メダル(前述の通りフルマラソンで銀メダル)を獲得され、日本人初の夏冬「金メダリスト」となられました。ため息が出るほどの圧倒的な強さです。
 車いすということでは、つい最近、プロ転向を宣言されたテニスの国枝慎吾さんが有名です。世界ランク1位で、男子テニスの四大大会シングルスを10度制し、北京パラリンピックのシングルスで金メダルを獲得、先の全豪オープンでは、シングルス・ダブルスともに三連覇と、同じように圧倒的な強さを誇っていらっしゃいます。
 お二人とも、良い意味での車いす競技の広告塔です。まだまだ健常者の競技に比べればサポートが少ない車いす競技を取り巻く環境改善のため、何より障害を持つ子供たちに夢を与えられるよう、これからも頑張って欲しいと思います。

傾向と対策

2009-04-17 23:01:24 | あれこれ
 その昔、過去の入試問題を分析した「傾向と対策」と呼ばれる受験参考書がありました。有名大学別にあったような気がしますが、私自身、買ったことも使ったこともないので、記憶は定かではありません。アマゾンで調べたら、今でもセンター試験の科目毎に(同じ出版社かどうか知りませんが)同じタイトルで出版されています。
 東大と京大と言えば、大学のカラーとしては対照的で、何かと比較されることが多いですが、かつて受験生の頃、戯れにそれぞれの数学の過去の入試問題に取り組んでみて、入試問題も対照的だと感じ入ったことがあります。いわば私流の傾向と対策・・・と言えば大袈裟ですが、昨日のブログで触れた役所の対応の話に繋がることなので、ちょっとご紹介します。
 東大の数学は、解き方の方針はすぐに立つのですが、答えを導き出すのがとても骨で、一定のルールのもとで、複雑な計算を如何に手際よくこなすかが勝負のように思いました。その分、きっちり答えを出さないと点数を貰えないだろうなあとも思ったものです。他方、京大の数学は、そもそも簡単には解き方の方針が立たなくて、首を捻りたくなるような問題が必ず一つや二つあったように思います。発想の転換あるいはひらめきが重要で、答えが出なくても方針さえ書いておけば、内容によっていくらか点数を貰えると、まことしやかに噂されたものでした。文系で五問の出題中、三問半解答が目安だと言われた、その「半分」というのが、解けなくても方針だけでも書いておくという意味でした。いわば東大の数学の入試問題は、官僚養成学校としての入試に相応しいカラーが出ていると言うのは穿ち過ぎ、いや独断に過ぎるでしょうか。また京大の数学の入試問題は、東大に対抗した自由な学風を目指したカラーが出ているというのも穿ち過ぎ、いや独断に過ぎるでしょうか。
 いずれにしても四半世紀前の昔話です。今はどうなっているのか皆目見当がつきませんし、四半世紀の間に出会った東大・京大出身者の影響を受けてかなり脚色された可能性もある私の勝手な思いつきですので、軽く聞き流して頂くのが無難です。

弁当をつくってもらいたい?

2009-04-09 08:07:34 | あれこれ
 結婚斡旋サービスを行なうパートナー・エージェントという会社が行なったインターネットによる意識調査(30代の未婚男女461名)によると、「弁当を作ってもらいたい男性」の1位:木村拓哉、2位:グッチ裕三、3位:タモリ、4位:木村祐一、5位:梅宮辰夫で、選択基準には「料理が上手そう」「美味しそう」「アイディア料理を作ってくれそう」が挙げられたというのは、勿論、女性の視点であり、さもありなんという感じです。もっとも1位の木村拓哉は、またかという思いを禁じ得ませんが、手先が器用そうなのは認めますし、4位に至っては名前と顔や芸歴が結びつきません(申し訳ないけど)。他方、「弁当を作ってもらいたい女性」の同率1位:上戸彩、長澤まさみ、3位:安めぐみ、4位:優香、同率5位:ベッキー、菅野美穂、仲間由紀恵、藤原紀香で、選択基準は「可愛いから」「好きだから」「ファンだから」という安直なものでしたが、自らを振り返りつつ、独身の男が、どんな弁当か?よりも、誰が作ってくれるか?の方に興味がある(重要だ)というのは、確かに理解出来なくもありません。結果として男は、その人が作ってくれたものなら(文句も言わず)黙って食べるということになるわけですね。
 この結果に対して、極めて現実的な女性に対して、ロマンを求める男性という構図が再確認されると断じていましたが、調査対象が未婚の男女だということもあり、確かにそういうものなのでしょう。女性は平安の昔から品定めが好きでしたし、どこの家庭も凡そ主婦が家計を握るものです。男はロマンを求めると言うと格好良い(大時代?)ですが、つい遊びたがる(ここでは広義の“遊び”で、道草を食いたがるとか、余計なこと、無駄なことにも目を奪われるという意)。もっとも私のような年齢になると、弁当などはもはや毎日のことではなくピクニックなどの特別なイベントのものだとすれば、こんな「可愛い」芸能人や大女優は一体どんな弁当をつくるのか覗いて見たいものだという下世話な好奇心が先に立ちますし、毎日のことになると、やっぱり食い慣れたものが良いかなとも思うのですが、なんだかロマンがないですね・・・

アメリカと北朝鮮

2009-04-07 12:27:57 | あれこれ
 北朝鮮は、ミサイルが成功裏に打ち上げられたことを喧伝し、「軍事優先朝鮮の不敗の国力を誇示した民族史的大慶事」として軍事的意味を強調していますが、世界のどの国も、人工衛星の存在を認めていません。ロシアですら、北朝鮮が発射したのは人工衛星だったとの認識を示しつつ、北朝鮮の人工衛星が軌道上に打ち上げられた記録はなく、宇宙空間に存在しないと語りました。中国に至っては、共産党機関紙・人民日報が朝鮮中央通信の報道を引用して、北朝鮮が試験通信衛星を打ち上げたと伝えましたが、6ヶ国協議参加国の反応を列挙するなど、自らの論評抜きの極めて抜け目ない報道でした。
 いずれにしても、人工衛星はただの隠れ蓑、アメリカをはじめ、国際社会がこぞって北朝鮮の暴挙を止められなかった意味は大きいですし、北朝鮮の弾道ミサイル開発が着実に進歩していることを示したという意味でも、北朝鮮にとっては一定の成果があったと言えます。なにしろ、北朝鮮としては、アメリカの偵察衛星やレーダー監視のもとで、ミサイルの第一段目は成功し、次の段階への移行も制御して、少なくとも2000キロは飛ばしたというように、それなりに打ち上げを行ったわけで、アメリカに与えた衝撃は小さくないでしょうし、イラン等にミサイルを売り込む絶好の機会にもなりました。
 同じ日、アメリカのオバマ大統領は、訪問中のプラハで、欧州連合首脳との会談に先立ち、核拡散問題について演説を行い、米国は核廃絶に向けて行動する道義的責任を有すると述べ、4年以内に兵器用核物質の拡散を防ぐ体制を構築する方針を表明するなど、米国としては初めて核廃絶を目指す包括的戦略を示しました。前政権の単独行動主義とは対照的に、国際社会としての取り組みを呼びかけ、あくまで対話路線を推進する姿勢は、大統領選挙の頃から一環する如何にもオバマ氏らしい行動でした。
 北朝鮮のミサイル発射は、この日のオバマ大統領の演説を狙ったものかも知れませんが、金正日総書記は、ミサイル発射によってオバマ氏に挑戦状を送ったと指摘する向きもあり、オバマ演説に冷水を浴びせたと論じる報道もありました。もともと北朝鮮のミサイル開発は、50年以上も前の朝鮮戦争の際に米軍に制空権を奪われたことへの金日成主席の怒りがきっかけだと言われますが、いまだに核兵器を小型化し米国に届く核ミサイル開発を急ぐ金正日が、如何にも古い思考タイプの指導者然としているのに対し、核廃絶にまで踏み込んだ演説を行ったオバマ大統領は、変革を志向する新しいタイプの指導者として颯爽として見え、素人目にはその差が歴然としていますが、実際には簡単ではなさそうです。
 こうしてオバマ路線が徐々に明確になりつつある中で、実は日本の今後のあり方が問題になります。今回のミサイル打ち上げを巡って、日本は、日本領内に落下する飛翔物を迎撃する覚悟は出来ていましたが、仮にアメリカの部隊・基地や更にはアメリカ大陸に向けられても、集団的自衛権の行使となることから対応できませんでしたが、アメリカもまた、アメリカ本土に向かって来ない限り迎撃の計画はないと断言していた、ということはつまり、仮に日本領内に照準を合わせて発射されていても迎撃対象にはならなかったことになります。もともとアメリカの傘に対しては、アメリカが自国に核兵器を撃ち込まれるリスクを冒してまで日本のために戦うかという疑問が根本的に根強かったわけですが、ミサイル防衛(MD)システムも、あらためて日本の甘えを許さないものであることが明白になりました。自分の身は自分で守るしかない。国際社会の基本的な現実ですが、日本にとっては重い命題です。

民主党と政権交代

2009-04-04 13:48:38 | あれこれ
 西松建設をめぐる違法献金事件で政治責任を追及された民主党・小沢代表の進退問題は、いつの間にやら北朝鮮のミサイル問題ですっかり霞んでしまい、いつものNHKニュースで報道されることもめっきり減ってしまいました。政治責任だの道義的責任だの説明責任だの、何かと安易に責任を追及する風潮はどうしたものかと、自分にそれほど責任感があると胸を張れない私などはつい思ってしまいますし、責任を取ると称して安易に辞任してしまう姿勢もどうかと(小沢氏の場合は逆ですが)、臭いものに蓋をするかのような幕引きをいつも苦々しく思ってしまう私などはつい思ってしまうわけで、正直なところ責任問題の報道をいい加減鬱陶しく思っていて、ちょっとホッとしているところです。
 ところが、先日の会見で、小沢代表が自身の進退について、総選挙で勝利できるかどうかを最終的な判断基準にしたいと述べられたのを聞いて、ちょっと疑問に思わざるを得ませんでした。自公政権を覆し、国民の側に立った政権を実現するのが自分(小沢氏)の政治家としての最後の仕事だと言われるのを見ていると、幕末の討幕運動を彷彿とさせます。まるで討幕運動を見てきたようなことを言うようですが、そうではなく、民主党において政権交代が目的になってしまっているところが、徳川幕府を引き摺り下ろすだけの(長州藩にとっては、徳川に取って代わって長州幕府?になるだけのような)討幕運動と似たものを感じて、ちょっと物足りなく思うのです。
 1990年代初めに「日本改造計画」を出版した頃の小沢さんには明確な政治理念があり、2000年前後に選挙応援で駆けつけた小沢さんを駅前までわざわざ見に行った時はオーラを感じたものでしたが、今は、野党の党首にしか見えなくて、ちょっと残念に思います。幕末の頃、皆が倒幕に躍起になっている間、日本の将来構想を持っていたのは坂本竜馬くらいだと言われていましたが、平成の世に坂本竜馬はいないのでしょうか。