前回、日本国内だけの引きこもり、という話をしました。これは地理的・歴史的な事情もさることながら、言葉の壁も大きいように思います。
以前、別のブログで、「英語を学べばバカになる」(薬師院仁志著、光文社新書)という本を題材に、英語を学ぶことの意味を考えたことがありました。この本のメッセージを私なりに纏めてしまうと、(1)グローバル=アメリカということではない、アメリカの対立軸としてのヨーロッパ(この本では著者が暮らしたフランスが例に挙げられます)の存在感を考え併せると、英語が全てではないということ。(2)日本は翻訳文化が成り立つほどの適度の規模を持ち、英語の情報はほぼリアルタイムで翻訳されるため、日本人が普通に生活する上で英語はほとんど必要ないこと。むしろ英語は所詮はツールであり、ツールを一所懸命学ぶばかりにそれ以前の教養が疎かになっては元も子もないということ。
上記(1)に関しては、日本の新聞等のメディアで取り扱われる情報量においては、伝統的にアメリカ偏重で、アジアやヨーロッパに関する情報が絶対的に不足しており、日本人の世界観を歪めていると感じる方も多いでしょうし、EUの成立や、イラク戦争をはじめとするブッシュ前大統領の単独行動主義によって、アメリカの特異性が浮き彫りになるとともに、ヨーロッパ社会の存在感があらためて日本人の私たちにもクローズアップされ、実感されている方も多いでしょう。私もアジアやオーストラリアにいて、相対的にアメリカに対するヨーロッパ文化の強さを感じます。(2)に関しては、私の数少ない経験でも、帰国子女の流暢な、しかし上滑りの英語より、たどたどしくても聞く価値がある内容を話す人に、外国人は耳を傾けるものです。別の言語学者で、バイリンガルの危うさとともに母国語による論理的思考の重要性を強調され、無理に皆が皆英語を学ぶ必要はなくて、国家として見れば英語を流暢に操る一握りの日本人がいれば事足りるのだと主張される方もおられますが、それも一面の真実だろうと思います。こうして“英語”産業に踊らされてせっせと英会話教室に通い、明確な目的もなく(結果的にロクにものにならない)英語を勉強することに時間と金を費やしていてはバカを見るというところから名付けられた、やや刺激的なタイトルですが、書かれている内容は、極めてオーソドックスなものと言えます。
日本における英語教育の社会学的論考という意味では、それで良いのですが、それを踏まえつつ、もう一歩、私の関心領域に踏み出して考えると、外国語も重要だよと言いたくなります。
確かに、外国語を操る以前に、話す内容、メッセージ性が重要だと言うこと、そしてそれは当然のことながら日本語においても同様で、(オピニオン・リーダー的な人の発言に限らず)仮に翻訳されて世界に発信されても通用するような国際性を持つことが重要だろうと思います。外国語そのものより、国際感覚と言うべきでしょうか。ところが、英語によるメッセージであれば、ほぼ世界中の人々の批判の目に晒されるため、内容にある程度の普遍性を要求される一方、日本語によるメッセージは、これまで言葉の壁に阻まれて(と私たちは勝手に思い込んで)内輪の議論に終始しがちで、世界的な視野から議論に耐えうるものとは必ずしも言えないところがあります。しかし50年前ならいざ知らず、今では容易に日本の動向は海外に伝えられますし、かつての経済力に代わってアニメを含む日本文化のおかげで日本語を学ぶ外国人は依然いて、日本語が日本だけに閉じる時代ではありませんので、もっと日本語も国際社会に開かれる必要があるように思います。それは日本人の間だけで通じる日本語ではなく、外国人にも適切に理解させる視点をもつことでもあります。案外それは難しい。
国際感覚というのは、もとより外国を知ることにとどまらず、日本人としての明確な視座を持ちながら、外国という鏡に映して、日本という国また日本人を外から眺めること、自らのアイデンティティとしての日本を相対化することが前提にあります。そのためには外国語を知る必要は必ずしもありませんが、外国語によるコミュニケーションを通した実体験が有効であることは間違いありません。特に英語は世界共通語でもあり、英語を母国語としない人たちとの間でコミュニケーションをするには必須になります。マレーシアやオーストラリアにいて、子供たちを日本語学校ではなくインターナショナル・スクールやローカル・スクールに入れている理由はまさにここにありますが、日本人としてのアイデンティティがともすれば薄れがちなのが悩ましいところで、国際感覚というのは極めて危ういもろいものでもあると感じます。
以前、別のブログで、「英語を学べばバカになる」(薬師院仁志著、光文社新書)という本を題材に、英語を学ぶことの意味を考えたことがありました。この本のメッセージを私なりに纏めてしまうと、(1)グローバル=アメリカということではない、アメリカの対立軸としてのヨーロッパ(この本では著者が暮らしたフランスが例に挙げられます)の存在感を考え併せると、英語が全てではないということ。(2)日本は翻訳文化が成り立つほどの適度の規模を持ち、英語の情報はほぼリアルタイムで翻訳されるため、日本人が普通に生活する上で英語はほとんど必要ないこと。むしろ英語は所詮はツールであり、ツールを一所懸命学ぶばかりにそれ以前の教養が疎かになっては元も子もないということ。
上記(1)に関しては、日本の新聞等のメディアで取り扱われる情報量においては、伝統的にアメリカ偏重で、アジアやヨーロッパに関する情報が絶対的に不足しており、日本人の世界観を歪めていると感じる方も多いでしょうし、EUの成立や、イラク戦争をはじめとするブッシュ前大統領の単独行動主義によって、アメリカの特異性が浮き彫りになるとともに、ヨーロッパ社会の存在感があらためて日本人の私たちにもクローズアップされ、実感されている方も多いでしょう。私もアジアやオーストラリアにいて、相対的にアメリカに対するヨーロッパ文化の強さを感じます。(2)に関しては、私の数少ない経験でも、帰国子女の流暢な、しかし上滑りの英語より、たどたどしくても聞く価値がある内容を話す人に、外国人は耳を傾けるものです。別の言語学者で、バイリンガルの危うさとともに母国語による論理的思考の重要性を強調され、無理に皆が皆英語を学ぶ必要はなくて、国家として見れば英語を流暢に操る一握りの日本人がいれば事足りるのだと主張される方もおられますが、それも一面の真実だろうと思います。こうして“英語”産業に踊らされてせっせと英会話教室に通い、明確な目的もなく(結果的にロクにものにならない)英語を勉強することに時間と金を費やしていてはバカを見るというところから名付けられた、やや刺激的なタイトルですが、書かれている内容は、極めてオーソドックスなものと言えます。
日本における英語教育の社会学的論考という意味では、それで良いのですが、それを踏まえつつ、もう一歩、私の関心領域に踏み出して考えると、外国語も重要だよと言いたくなります。
確かに、外国語を操る以前に、話す内容、メッセージ性が重要だと言うこと、そしてそれは当然のことながら日本語においても同様で、(オピニオン・リーダー的な人の発言に限らず)仮に翻訳されて世界に発信されても通用するような国際性を持つことが重要だろうと思います。外国語そのものより、国際感覚と言うべきでしょうか。ところが、英語によるメッセージであれば、ほぼ世界中の人々の批判の目に晒されるため、内容にある程度の普遍性を要求される一方、日本語によるメッセージは、これまで言葉の壁に阻まれて(と私たちは勝手に思い込んで)内輪の議論に終始しがちで、世界的な視野から議論に耐えうるものとは必ずしも言えないところがあります。しかし50年前ならいざ知らず、今では容易に日本の動向は海外に伝えられますし、かつての経済力に代わってアニメを含む日本文化のおかげで日本語を学ぶ外国人は依然いて、日本語が日本だけに閉じる時代ではありませんので、もっと日本語も国際社会に開かれる必要があるように思います。それは日本人の間だけで通じる日本語ではなく、外国人にも適切に理解させる視点をもつことでもあります。案外それは難しい。
国際感覚というのは、もとより外国を知ることにとどまらず、日本人としての明確な視座を持ちながら、外国という鏡に映して、日本という国また日本人を外から眺めること、自らのアイデンティティとしての日本を相対化することが前提にあります。そのためには外国語を知る必要は必ずしもありませんが、外国語によるコミュニケーションを通した実体験が有効であることは間違いありません。特に英語は世界共通語でもあり、英語を母国語としない人たちとの間でコミュニケーションをするには必須になります。マレーシアやオーストラリアにいて、子供たちを日本語学校ではなくインターナショナル・スクールやローカル・スクールに入れている理由はまさにここにありますが、日本人としてのアイデンティティがともすれば薄れがちなのが悩ましいところで、国際感覚というのは極めて危ういもろいものでもあると感じます。