拈華微笑 ネンゲ・ミショウ

我が琴線に触れる 森羅万象を
写・文で日記す。

必撮無眼流 ~ 自撮(鏡・同行二人)

2013年12月29日 | 観自在
                    

  ツイッターは 『宝の山だ』!で 昨日はこんな 動画(映画)を発見した。

  解説:映画『自殺者1万人を救う戦い(原題 "Saving 10,000-Winning a War on Suicide in Japan")』は、駐日欧州連合代表部の経済担当官アイルランド人
  レネ・ダイグナンが、本業とは別に「どうしても作らねば」という思いから、プライベートな時間を削り3年の歳月をかけて完成させた渾身の作品。

  この映画を見ている最中 日本人の自殺問題に これほど熱を入れて話をする外人(作者)が異様に思えたが だんだんその深刻さが理解できる
  気がしてきた。沢山の人に取材していて違う立場からの意見が流れる。・・・ボク自身、同胞の自殺について、何の知識もなくどこの国でも同じように
  ありえる事であると済ましていたが、調べると彼の国アイルランドが自殺率42位から比べると 日本は12位、そしてボクが住んでいるスイスで19位で
  監督のダイグナン氏から見ると日本の自殺者が異常に多く、身近な日本人が自殺したことがこの映画を作る動機となったようだ。

  確かに最近のツイッターを見ていると 就職先が見つからないで 自殺する若者が増えている、という記事をよく見かける。

  この映画の最後の言葉 『 In memory of Friend 』を そそっかしいボクは 英語、仏語を混り+訳し間違えて『 In miroir(鏡) of friend 』
  =『鏡の中友人』・・・という美しい誤解の故に 急に閃めき 急に納得できた言葉が『同行二人』。

  同行二人は、 西国巡礼者などがいつも弘法大師と一緒に巡礼しているという意で笠に書きつける語で、自分には今まで 無縁のように思っていた。
  
  ここで『般若心経入門』にある松原泰道氏の言葉を紹介したい。
  『巡礼や遍路さんの笠に「同行二人」と書かれてある旅の道づれは、観音さまや、弘法大師さまですが、巡礼や遍路は「日常の私」であり
   観音さまやお大師さまは「本質(本来)の私」にほかなりません。
   ことあるごとに泣いたり笑ったりする感性的な「日常の自我」と、それに呼びかける「本来の自己」の同行二人は、ときには並び、ときには前後し、
   さらに影と形とが重なりあって、まるで一人の人格のようになって毎日を生きるのが、ほんとうの生き方なのです。
   ところが、現代人はたいせつな本質的な自己が不在で、日常的な自我の一人ぼっちです。

   自分を見守り、幸せの方向に導いてくれるような「もうひとりの自分」を育てていけたらいいのではないでしょうか。
   それは今後の人生の中でとても心強い存在になってくれるものと思います。いつでも自分を助けられるのは、常に自分の心の中にいる
  「もうひとりの自分」です。「もうひとりの自分」がいれば、一人ぼっちではないのです。』
  ・・・と松原泰道氏は云っているのです。

  昔、20~30代の頃 懸命に自写像を撮っていましたが、それは自画像を描いていた延長上のことでした。
  ボクは鏡の自分を見つめていて 無意識に自分と会話していたのです。それは今考えると正に『同行二人』の行為であったと今、合点したのです。
  この自写像群は 『貰った背広』とのタイトルで1986年新宿のオリンパスギャラリーで写真展を行なった時 ボクはこう書きました。
  『全ては、鏡の中の自分を見つめることから始まった。
   人ごとのように、自分を見つめるもう一人の自分。
   悲しみ、喜び、変わらない同じ眼差しで受けとめる もう一人の自分の存在。
   自画像、自写像、そして作品とよばれる 全てのものは、結局もう一人の自分との対話なのだと思う。」
                     
                                     self-portrait: 貰った背広