ーー以下「宮崎正弘ブログ、書評」より抜粋編集qazx
田中英道『日本の戦争 何が真実なのか』(育鵬社)
在日・反日勢力は、占領軍に協力し利権を得た敗戦利得者であった。
ネット環境ができて、ネット住人はその事実を知った。
つまり戦後の論壇を壟断していたのは、言論界・メディアを支配してきた在日・反日勢力、つまり『考えない草』たち、似非知識人だった。
ーー
在日・反日勢力は自由主義者(リベラル、左翼)に成りすまし、日本の伝統や文化、男女差までも攻撃対象にしてきた。
つまり、彼らは、日本や日本人に対して悪意を隠し持った、学者、政治家、報道記者(ジャーナリスト)だったのだ。
こうして、日本の知的空間は絶望的ともいえるほどに荒廃した。
ーー
歴史学会の知の荒廃も凄まじい。
自称史家、作家が日本の歴史を、悪意を持ってひたすら貶(けな)し続けたのだ。
ーー
しかし先人が書き残した記録を謙虚に読めば在日・反日勢力が宣伝していた「歴史」とは別の史実が見えてくる。
日本は神武以来、一度も外国を侵略してはいないのだ。秀吉の朝鮮征伐も、台湾への出兵も史実を丹念に読めば、侵略ではない。
朝鮮合邦は朝鮮人の要望を渋々受け入れた結果であり、満州の建国は五族共栄の理念によった。
大東亜戦争は米欧に仕掛けられて、致し方なく、立ち上がったことが読み取れる。
ーー
戦争の真実はどこにあるのか?
田中氏は古代から近・現代までの日本の対外戦争史を辿ってる。
それは、これまで、在日・反日勢力が、主張してきた侵略を謬説だと退けるものである。
これまでの日本の対外戦争は、徹頭徹尾、防衛的なものであった。
日本は『専守防衛』に徹していた。それを記録を用いて描き尽くしている。
ーー
白村江から「刀伊の入寇」。
(刀伊の入寇(といのにゅうこう)は、寛仁3(1019)年に、女真族(高麗人は女真を刀伊と呼称した)を主体にした海賊が壱岐・対馬を襲い、更に筑前に侵攻した事件)
そして元寇、秀吉の朝鮮征伐。
薩英戦争、下関戦争は英国の侵略に対して立ち上がり、事実上は日本の勝ちであった。
なぜ教科書では負けたことになっているのか?
ーー
日清・日露は「嘘つき」の司馬遼太郎でも防衛戦争であることを認めざるをえなかった。第一次大戦は日英同盟の結果であり、第二次世界大戦は欧米の理不尽な侵略にやむにやまれずたちあがったものだった。
その精神はとても崇高なものであったと、著者は書いている。
ー
「キリスト教を布教され、植民地化されるひどい状況に置かれるということを(宣教師の言い分や遣り方をみていて)信長も秀吉もよく知っていた」キリシタンバテレンにそまった大友藩などでは神社仏閣を破壊し、異教徒の女性を拉致して外国へ売った。バテレンたちは、やがて侵略に備える下準備、その工作のために派遣されてきたスパイでもあった。
信長も秀吉も、そうした認識が出来ていた。
ーー
したがって朝鮮をたすけるために進出しても、
「侵略をしないというのは『刀伊の入寇』、『元寇』の後の日本の動きからも明らかである。
賠償を求めたり、土地を奪ったり、攻めて支配するということは一切しなかった。
対馬から向うへ追い返したら、それ以上は何もしなかったのである。
西洋人が戦争に勝ったときのように、相手に対して多額の賠償を要求し、さらに占領して搾取しようとするこというはなかった。
植民地化し、略奪・収奪して利益を得るといった西洋の方法はとらなかったのである。
こうした日本人の態度は、西洋的な侵略とは異なる態度だ」
ーー
第一次大戦中、マルタに送られた日本軍は日英同盟によって艦船の護衛に当たった。
ドイツのUボートの潜水艦攻撃を受け、59名の日本軍人が犠牲となった。その慰霊碑はマルタの英国海軍墓地の中央部にある。日英同盟の結果、介入せざるを得なかったからだ。
ーー
ドイツが濡れ手に粟で占領していた山東半島から南太平洋の島々を、日本軍はつぎつぎと落としていった。
「アジアにおけるドイツの権益を合法的に奪った。これを単なる漁夫の利だという人もいるが、日清・日露戦争を利用してドイツがアジア周辺で占領していったものを日本が粉砕した」のである。
ーー
読了後の精神作用は爽快そのもの。
漠然と抱いてきた日本人の直感、その信念を、『嗚呼、やはりそうだったんだ』と、より強固にさせる読み物となった。
田中英道『日本の戦争 何が真実なのか』(育鵬社)
在日・反日勢力は、占領軍に協力し利権を得た敗戦利得者であった。
ネット環境ができて、ネット住人はその事実を知った。
つまり戦後の論壇を壟断していたのは、言論界・メディアを支配してきた在日・反日勢力、つまり『考えない草』たち、似非知識人だった。
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在日・反日勢力は自由主義者(リベラル、左翼)に成りすまし、日本の伝統や文化、男女差までも攻撃対象にしてきた。
つまり、彼らは、日本や日本人に対して悪意を隠し持った、学者、政治家、報道記者(ジャーナリスト)だったのだ。
こうして、日本の知的空間は絶望的ともいえるほどに荒廃した。
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歴史学会の知の荒廃も凄まじい。
自称史家、作家が日本の歴史を、悪意を持ってひたすら貶(けな)し続けたのだ。
ーー
しかし先人が書き残した記録を謙虚に読めば在日・反日勢力が宣伝していた「歴史」とは別の史実が見えてくる。
日本は神武以来、一度も外国を侵略してはいないのだ。秀吉の朝鮮征伐も、台湾への出兵も史実を丹念に読めば、侵略ではない。
朝鮮合邦は朝鮮人の要望を渋々受け入れた結果であり、満州の建国は五族共栄の理念によった。
大東亜戦争は米欧に仕掛けられて、致し方なく、立ち上がったことが読み取れる。
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戦争の真実はどこにあるのか?
田中氏は古代から近・現代までの日本の対外戦争史を辿ってる。
それは、これまで、在日・反日勢力が、主張してきた侵略を謬説だと退けるものである。
これまでの日本の対外戦争は、徹頭徹尾、防衛的なものであった。
日本は『専守防衛』に徹していた。それを記録を用いて描き尽くしている。
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白村江から「刀伊の入寇」。
(刀伊の入寇(といのにゅうこう)は、寛仁3(1019)年に、女真族(高麗人は女真を刀伊と呼称した)を主体にした海賊が壱岐・対馬を襲い、更に筑前に侵攻した事件)
そして元寇、秀吉の朝鮮征伐。
薩英戦争、下関戦争は英国の侵略に対して立ち上がり、事実上は日本の勝ちであった。
なぜ教科書では負けたことになっているのか?
ーー
日清・日露は「嘘つき」の司馬遼太郎でも防衛戦争であることを認めざるをえなかった。第一次大戦は日英同盟の結果であり、第二次世界大戦は欧米の理不尽な侵略にやむにやまれずたちあがったものだった。
その精神はとても崇高なものであったと、著者は書いている。
ー
「キリスト教を布教され、植民地化されるひどい状況に置かれるということを(宣教師の言い分や遣り方をみていて)信長も秀吉もよく知っていた」キリシタンバテレンにそまった大友藩などでは神社仏閣を破壊し、異教徒の女性を拉致して外国へ売った。バテレンたちは、やがて侵略に備える下準備、その工作のために派遣されてきたスパイでもあった。
信長も秀吉も、そうした認識が出来ていた。
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したがって朝鮮をたすけるために進出しても、
「侵略をしないというのは『刀伊の入寇』、『元寇』の後の日本の動きからも明らかである。
賠償を求めたり、土地を奪ったり、攻めて支配するということは一切しなかった。
対馬から向うへ追い返したら、それ以上は何もしなかったのである。
西洋人が戦争に勝ったときのように、相手に対して多額の賠償を要求し、さらに占領して搾取しようとするこというはなかった。
植民地化し、略奪・収奪して利益を得るといった西洋の方法はとらなかったのである。
こうした日本人の態度は、西洋的な侵略とは異なる態度だ」
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第一次大戦中、マルタに送られた日本軍は日英同盟によって艦船の護衛に当たった。
ドイツのUボートの潜水艦攻撃を受け、59名の日本軍人が犠牲となった。その慰霊碑はマルタの英国海軍墓地の中央部にある。日英同盟の結果、介入せざるを得なかったからだ。
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ドイツが濡れ手に粟で占領していた山東半島から南太平洋の島々を、日本軍はつぎつぎと落としていった。
「アジアにおけるドイツの権益を合法的に奪った。これを単なる漁夫の利だという人もいるが、日清・日露戦争を利用してドイツがアジア周辺で占領していったものを日本が粉砕した」のである。
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読了後の精神作用は爽快そのもの。
漠然と抱いてきた日本人の直感、その信念を、『嗚呼、やはりそうだったんだ』と、より強固にさせる読み物となった。
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