特別なRB10

昭和の東武バス野田の思い出や東京北東部周辺の乗りバスの記録等。小学生時代に野田市内バス全線走破。東武系・京成系を特に好む

野08 紫ゴルフ場~北越谷駅線とキャディさんの思い出 その1

2017年06月08日 15時00分22秒 | 旅行
最近ゴルフのニュースを見てますとイ・ボミだのアン・シネだのミニスカを履いた女子ゴルファーばかりが出てきますが、
一時期男子ゴルフ界の時の人となった石川遼さんは小学生時分より隣の松伏町から我が野田市にある『太平ゴルフセンター』という打ちっぱなしを訪れて研鑽を積んでおられたそうです。
 
  
 この太平ゴルフセンターの近くに「紫カントリー」というコースゴルフ場があります。かつてこのゴルフ場のクラブハウスと埼玉県越谷市を結ぶ野田08という路線がありました。
昭和57年、私はこの路線を越谷から終点まで乗り通し、苦節2年ついに小学生にして野田市内全バス路線を乗りつぶすという前人未到(?)の大記録を打ちたてたのです。膳場貴子が石川遼にラブレターを書く四半世紀ほど前のことでした。


紫カントリーのメニューにはあやめコースとすみれコースがありますが、終点は「紫ゴルフ場」、一つ手前はただ単に「アヤメハウス」とバス停に書いてありました。

この路線は野田出張所が無くなる2年前、平成11年まで残存していたそうで今でもネットで検索すると廃止直前の画像や時刻表が出てくるので今更語る必要もなかろうと思ったのですが、
まだ塗装がクリームセージ&ブルーの2トーンだったあの古き良きオールド東武の時代、石川遼さんに似ても似つかぬ小学生が一人でバスに乗ってやってきた時の記憶を後世に伝え歴史の補完をしたいと思うのです。



『昭和55年度越谷市統計年報「市内路線バスの現状」(越谷市役所)』から野田市を通過するもの抜き出し。
おや?と思うのはせんげん台駅と野田市内を結ぶ路線で、運行は茨急がなしていたそうです。
私が乗りバスを始めた昭和56年には既に存在していませんでした。また同時代に電車でせんげん台駅へ行き、見聞を広めようと発着するバスを諸々見てきたことがありましたが「第四公園」なる表示幕を出した東武以外は茨急ばかりがゴロゴロしていて同じ埼玉県の越谷駅や春日部駅前とは全く異なる様相を呈しており「いつからせんげん台駅前は茨城県の飛び地になったのであろうか?」と思うほどでした。
野田市駅隣の「弁天前」バス停に「せんげん台駅」の行先表示が平成2、3年頃まで薄っすら残っていました。
松伏溜入下が7本、茨急岩井警察行きが16本とありますが岩井警察行きも1時間に1本ありやなしやという程度だったと記憶しています。

昭和でもすでに紫ゴルフ場線は1日2往復しかなく規制緩和前の免許維持路線ギリギリの本数でした。
まだ運輸省の強大な行政指導権が健在で運行免許は現地鉄道事業者のバス部門にしか与えられない完全テリトリー制、既存業者がバス停を30メートル移設するだけでも大臣認可が必要、
路線廃止ともなれば途方もない年月がかかる、そういう時代です。鉄道兼営でなければ路線バスへの新規参入などおぼつかない。
野田市内だと東武子飼いの茨急をたまにちらほら見た程度ですね。なので野田の人間が茨急を見ても旧塗装の東武バスとしか見えなかったと思います、私がそうでしたから。

エリア囲い込み当然のテリトリー制であれば、ラッピングもへちまも無い時代ですから、車体のカラーリングというのは利用者にとって
極めて重要な意味を持つ記号の役目を果たします。特に生活圏の狭い子供には。野田市内全バス路線を踏破した後に遊び心で
千葉県船橋市に乗りバスして遊ぼうと出かけたことがあります。船橋なら野田線沿線だし東武バスがいるだろうと思ってワクワクして
駅を飛び出たところ来るバスが皆片っ端から新京成やらなんやら馴染みのない色した車両ばかり、異世界に迷い込んだ焦燥感に襲われて何も乗らずに野田へ帰ったことがありました。


 話があさっての方向へ行ってしまいましたが、紫ゴルフ場線の話に戻りますと、その頃の北越谷駅前の路面はまだ部分舗装の状態で
砂利敷き部分が多く残り、バスが到着するたびにジャリジャリと音が聞こえてきたのを覚えています。バス乗り場は3つほどあり茨急の
大正大学行だけが昔ながらのオレンジ色ではなくちょっと白っぽい色の鉄製ポールで他は野田市駅前にあったのと同じ電灯内臓のお腹の膨れた行灯型バス停でした。
野田市駅と異なり駅舎にかなり近い所に立っており駅構内の照明が結構届くので行灯型でなくとも十分見えるのではないかと思いました。

 このバス停のお腹まわりには行先が表示されていて、【北01】松伏・下町経由 野田市駅、【北02】松伏・市役所経由 野田市駅、【野04】松伏溜入下
【野08】愛宕駅経由 紫ゴルフ場、そして系統番号無しの岩井車庫行き等々文字がペイントされていました。

 『市役所経由』の市役所とは越谷市役所ではなく千葉県野田市の野田市役所のことです。北02の車両は無頓着に駅での開扉時の音声テープ案内で
「お待たせしました、市役所経由野田市駅ゆきでございます、整理券は要りません」などとアナウンスしていましたが「越谷市役所と勘違いして乗っちゃう人いないのかなぁ」と子供心に不思議に思っていました。

 ポールには時刻がマジック手書きで記入されたB5判程度の時刻表用紙が透かしパネルに差し挟まれていて、紫ゴルフ場行きは単体でありました。
以前触れたことがある松伏溜入下行きもちゃんと独立した紙が用意されていました。紫ゴルフ場行きのものはほとんど空欄ながら朝6時台と15時台に
一本ずつありました。朝6時台のは確か7時04分か06分発で「とても野田の小学生が親に黙って乗りバスしにくる時間じゃないなあ」と嘆息したものです。
ゴルフは朝早く起きて行くという大人の常識が子供の私には通用しません。おのずと標的は16時台の1本になります。

さて、今よりも遥かに狭苦しい北越谷駅のバス乗り場。昭和57年秋のある土曜日、中高校生やら買い物のおばちゃんやらのペチャクチャ喧しい
おしゃべりに耳を塞ぎたい思いで待ってますと縦幅の小さい前方方向幕に【北01 下町 北越谷駅】と書いたバスが到着し客降ろしをはじめます。
全員降りるとまだ後扉は開かず、側面方向幕がクルリクルリと回り始め待望の紫ゴルフ場行きで回転が止まります。経由地表記は「←市役所←松伏←」とあり
北02と同じでしたが白地に緑文字で書かれた【野08】の表記に耐え難い感動を覚えました。野田市駅行きは下町経由と市役所経由の2系統がありましたが
紫ゴルフ場行きは市役所経由の一つしかありません。

免許維持路線とはいえ越谷市内や松伏町内の経路は野田市駅行きといささかも変わりないのでぞろぞろ人が乗ってきます。
大好きな第1オタク席・第2オタク席ともに先客に取られてしまい松伏のあたりで空席になった直後間髪をいれず移動しました。
新型エルガでなくて良かった。

 野田橋を渡り野田市域に入ると客数もぐっと減り愛宕駅での客降ろしを終えると乗客はオタク席に一人陣取る私だけになってしまいました。
ゴルフ場でプレイしそうな乗客なんか誰も乗ってきませんでした。

愛宕駅を過ぎると境営業所が担当していた岩井車庫行きと同じコースです。野田の車両なのに愛宕を右折して野田市駅に戻らない、
この点にマニアックな喜びを感じます。すでに日は沈んで外は真っ暗です。

運転士は「Y村」さんというブヨッとした黒縁ち眼鏡を掛けて面長な顔をしたオジサンでした。
「子供が一人でここまで乗ってるとは実に怪しいぞ」とばかりにチラ見してきます。一方私も「終点は大人しか降りちゃいけないゴルフ場の真っ只中だったらどうしよう、
ゴルフ場のおっさんにつかまって警察呼ばれたらどうしよう、あ、でも行路表には現地折返し運行で書かれてるから適当なこと言ってすぐ乗せてもらえばいいや」などと
下らぬ思案にくれてるうちに野田市文化会館の交差点を右折していよいよこの路線しか走らないオリジナルコースに入りました。

 
 今日野田市役所や警察署のあるこの道は今でこそ右側がずいぶん賑やかですが、当時は朝通るとイタチの轢死体が道路に横たわっていたほどの全くの森深き道、
ジャスコやら何やらロードサイド商業店舗なぞ全くの皆無。そもそも南端にある『中根交差点』まで信号機一つありませんでした。
ただすでに黄色のセンターラインが引かれていて東宝珠花行きとか大利根温泉行きのようにバス停が片側だけにしか立っていない、ということはありませんでした。

 とっくに日が沈み漆黒の闇の中に見えるのはポツリポツリと灯る街路灯の白熱電球のみ。市役所前の道には「畔谷」「鹿島原」とこの路線しか来ない
停留所が2つ設けられていました。車内アナウンスでこれら停留所名が流れると「今まさに未踏破路線を征服しているのだ」という嬉しさで
子供ながらに胸いっぱいな気持ちになります。とりわけ「畔谷」はかねがね車内の路線図を見ていても読み方が分からなかったのですがこのとき初めて「アゼガヤ」と発するのだと知りました。


今は営業を停止してただの変電設備と化している旧東京電力野田営業所。この目の前に北越谷駅行きの「畔谷」停留所がありました。
この響きは素朴、しかしながら野田町駅と旧東葛飾郡旭村役場を結んでいた総武鉄道自動車以来の歴史ある停留所名も市役所移転後に野01という
市内循環線が出来て改称されてしまいました。東武名物オレンジ色ダルマポールが東電社屋の明かりにぼんやり照らされて立ってる光景が脳裏に蘇ります。
なおこんな気の利いた信号機なんか当時ありません。


道路向かいにある墓地。紫ゴルフ場行きのバス停はこの墓地の前にありました。ここから青白い顔をした女の人でも乗って来ようものならたまったもの
ではありませんが幸い私が乗ったときは通過して終わりでした。東電社屋の明かりは電力事業者としての矜持なのかこの墓石たちをも良く照らしていました。


「鹿島原」停留所があった辺り。言うまでもなく当時はジャスコなぞありません。バス停近くに酒屋さんらしき店屋が一棟ぽつりとあって、
お酒の自販機の照明が路面を小さく照らしていました。後年脇の小道を入って行くとあった千葉法務局野田出張所という施設にちなみ「法務局入口」と
改称されましたがこの出張所は平成23年に廃所になってます。現在は「ノア前」というまめバスの停留所が先の方にありますが鹿島原は手前に写る
自動車整備屋さんに近いほうにありました。改称当初はやはりオレンジ色ダルマポールに修正テープを貼り付けてごまかしていましたが、
ほどなく現行よく見かけるのと同じスイセン型にスタイルが変わっていました。


「中根」停留所跡。柏・大利根温泉行きにあった「中根」と同じ名称ですがこの路線のだけ停留所位置は大きく異なりソフトバンクの白い看板下辺りにありました。


中根交差点を左折してここから柏・大利根温泉行きと同じ道を行きます。知る人ぞ知るMAXコーヒーはキッコーマン社が経営するこの利根コカコーラで作られています。ここに「コカコーラ本社前」というたいそうな名前の停留所がありましたがさすがに子供でもコカコーラの本社はアメリカにあるんだろと分かっていました。
後年コカコーラ本社前~中根間に「新中根」という停留所が新設されましたが昭和56、57年頃はまだありません。


「紫ゴルフ場入口」停留所あたり。松山英樹プロの堂々たる看板。入り口と言ってもクラブハウスまでとんでもない距離があり、
ここで降りて歩いて行こうなどとするとハーフ回ったのと同じくらい体力を消耗します。


バス停「アヤメハウス」があったあたり。後方の建物がアヤメコースのクラブハウスです。ポールが片側にしかなく道の左側すなわち北越谷行き側にしか立っていませんでした。
真っ暗な中ここにはハウスの明かりが差していて通過するとき車内から折返の北越谷行きを待つ人々が見えました。「おお、こんな所にこんな路線の利用者がいるんだ!?」と
我が目を疑いました。この人たちと復路でご一緒することになります。


さらに1キロ以上先に進むと紫ゴルフ場のすみれハウスがあり終点です。お疲れさまでした。
大きい赤い三角屋根。暗がりを抜けて到着したときコースの照明にライトアップされていてテーマパークのような綺麗な建物に見えました。
あの日到着したのはまあ17時過ぎ頃でしたか。ハウス入り口から伸びる雨よけ屋根があったかなかったか記憶は定かではありませんがその真下あたりに
オレンジポールが立っていて青色耐候ペンキの筆書きで「バスのりば 愛宕駅方面」と書かれていました。なぜか停留所名の「紫ゴルフ場」は書かれてませんでしたが、
車内アナウンスでは「次は終点、紫カントリーゴルフ場・・・すみれハウス」と言っていました。アヤメハウスにはバス待ちがいたのに肝心のここには誰もバスを待つ人がいませんでした。

降りようと料金箱に回数券を投下。小児運賃で300円近いので大変いいお値段です。しかしここからが大変で、
なにせ大人の社交場に子供が一人で降りようとしているのですから運転士から待ってましたとばかりに職務質問が始まります。
「なに?(ゴルフ場に)お父さんいんの?」「(首を横に振りながら)また乗るんです」「ふーん・・・・え?おうちどこ?」「うめさと」。
先方から何か聞かれる前にこちらから言ったほうがいいなと思い「今まで乗ったことがなかったバスなので乗りました。今度は愛宕で降ります。
愛宕から電車に乗れば駅からすぐなので」などと言うと「うんうん」と頷かれます。どうやらオタク趣味で乗ってきたんだなと見抜かれたようで
以降尋問めいた話は出ませんでした。オタクなどという言葉がまだ登場する前の時代、恥ずかしさもありますが肩の荷が下りたような楽な気持ちになります。
元来なら後扉から乗り直すはずがそのまま席に戻り、帽子を脱いで頭をぽりぽり掻きながらする運転士氏の「東武動物公園行った?ゴリラのそばのカレーライス旨いよ」などと
子供受けするような語りかけにあいづちを打ってるうちに復路の出発となります。


さて、私のいつもの悪い癖で前置きがすこぶる長くなりました。
タイトルにある「キャディさん」が復路で乗ってきて「子供が乗ってるぞ」と珍しがられたというお話はタイトル詐欺のようで申し訳なくも「その2」でお話したいと思います。


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