〈前回の、玄善允の落穂ひろい3-2の続きで、今回が完結編)
4)国境と地元の常識
琿春・防川の、ロシア、北朝鮮、中国3国の国境を望む地域を見学。張鼓峰事件戦跡展覧館という、おそらくは私営の観光「小屋」に立ち寄る。さらには、琿春口岸(ロシアとの交易所)見学。
この日は、この地域に詳しく、党のこの地方の機関に長年働いてきた結果、人脈が多彩という理由もあって、Aさんの妹さんが案内役を買ってでてくださり、彼女がこれまでの付き合いから全面的に信頼できるタクシーの運転手も選んできてくださった。その人がなんと漢族だった。朝鮮族の彼女が一番信頼できる運転手として思い当たったのが、漢族という事実、このこと一つだけを見ても、民族的軋轢という言葉で、何もかも説明できるわけではないという当たり前のことが再確認できる。
ともかく、上記の新しい二人の同行者のおかげで、運転手絡みの心配や不快を完全に免れたし、普通であれば立ち入りを拒まれる区域でも、特別に入ることを許されたりもした。それに何より、中国在住で、しかもその地域についてはAさん以上に詳しく人脈も豊富な妹さんが同行されたおかげで、ナビゲーター役を免れたAさんの気疲れが半減したであろうから、そのことだけをもってしても、僕としても大万歳であった。
先ずは、訪問地に関するエピソードをかいつまんでスケッチしておきたい。
① 一時期華々しく経済発展を喧伝されながら、その後、それが夢幻になってしまったかのように聞いていた琿春なのだが、街中ではロシア人の姿をよく見かけるし、大規模なビルが続々と建設中だし、工場地域もそれなりの活況を呈していた。Aさんの妹さんの話でも、この街の経済発展は著しいとのことだった。というように、中国では人も地域も都市も「栄枯盛衰」が並外れて激しいようで、海外からの旅行社の見聞記など、その真実性が多少なりとも有効なのはほんの一時期ということになりかねないようである。肝に銘じておかねばなるまい。
② 右側では図們江の向こうは北朝鮮、左は鉄格子の向こうがロシアといったように、両側を国境に挟まれた地域を車で走っていると、とりわけ、ロシアとの国境というのは始めての経験だからということもあって、やはり、国、国境というものについて考えさせられる。とはいっても考えが具体的に展開するというわけでもなくて、ただただ感傷的なものにすぎず、目の前にある、誰だって簡単に越えることができそうなあの鉄条網が国境なのか、人間は馬鹿らしいことをやるもんだ、といった程度。時折、遠方にロシアの車が走っているのが見えて、ロシア人が生活しているのだと、あまりにも当たり前のことを考えては、今度は自分の馬鹿さ加減に赤面したりもした。
③ 口岸で、Aさんのおかげで特別な配慮を受け、口岸を超え、役人の車でロシア国境のところまで連れて行っていただき、ロシア域内で記念の写真撮影をした。戻ってくると、口岸の駐車場に到着したマイクロバスから、一見して朝鮮族と分かる老女たちの集団が降りてきたかと思うと、国境の方へ向かって小走りする。但し、小走りと言っても、踊り、歌を口ずさみながらで、実におおらかで楽しそう。「オロス、オロス(ロシアにあたる中国語)」という声が次々と口から口へと、まるで木霊するように続いたりもする。その女性集団から少し遅れて、老爺が二、三人、おぼつかない足取りで追いかけていく。その屈託なげな様子に心が和んだ。
終日の三国国境地帯の観光を終えて、三国の「踏破?」を果たしたという達成感に包まれながら、夕食に向かった。延吉の中心街の韓国料理屋である。Aさんの妹さんとAさんと僕の3人で、韓国風の刺身、そして仕上げに「めうんたん」というように、僕が韓国済州島へ行く度に味わっているのとほとんど同じで、現代韓国の人気料理である。但し料理は同じでも、同席しているのが、酒を嗜まないうえに小食の女性二人に加えて、体調、とりわけ胃腸の問題を抱えた僕ということもあって、Aさんの妹さんが言うには「天然もののヒラメ」の刺身でも、半分以上残してしまった。
延辺では韓国の今風の料理はすごく人気があるようで、団体客も多く、店員たちは大わらわである。それに、朝鮮族は韓国人と同じ血だから同じくせっかちなのか(僕は本当は血なんて信じていないのだが、ここは話の展開上の言葉使いである、ご容赦を)、料理や飲み物の給仕が少しでも遅れると、文句がひっきりなしである。それも当たりはばからぬ大声である。そんな雰囲気のなかで、力のない中年男に付き添う女性二人の声はかき消されるのが自然というものである。
「早く給仕して」と注文をつけても、声が届かないのか、なかなか来てくれない。ようやくやってきて、やれやれと思ったところが、その「娘さん」の愛想のなさというかふくれっ面といったら。その様子に、Aさん姉妹は目を合わせて呆れかえっていたが、年端も行かない娘さんたちがあんなに繁盛している店で、客の厳しい注文に晒されていれば、そうなるのも当然だろうと、僕は心中で同情しきりであった。
その後、一日の疲れを癒すと同時に延辺でのお土産話にもなるだろうからと、足裏マッサージ屋へタクシーを飛ばした。最初に行ったのは、数日前にB教授に連れて行かれ、満員の盛況で入れなかった街の中心のビル5階のマッサージ屋。この日もまた満員で待ち時間が1時間と言う。仕方なくそこは諦めて、タクシーの運転手の案内で別のところへ向かったのだが、着いた界隈は薄暗くて、人気もなく、店などありそうにない。だが、その一角の薄暗いビルこそがそれだという。僕一人ではとても恐ろしくて近づけない雰囲気なのだが、いくら地元の人だとは言っても、女の人たちというのは強いもので、臆する様子もない。
薄暗い階段を上がると、一見して水商売風の女性が受付にいる。靴を靴箱に入れて、案内されるままに、これまた薄暗い個室に入る。そうした個室が他にもいくつもある。まるで売春宿(と言っても初心な中年男の僕が実際にそういうものを知っているわけでもなく、あくまで連想です、念のために)、ベッドが3つ並んでいて、銘々、そこに横たわる。程なくして、3人の女性が入ってきた。薄目を開けて見ると、受付にいた30代くらいの女性、それに続いて10代後半に見える女の子が二人である。指示されるがままに、靴下を脱ぎ、仰向けになって、足を放り出す。始めは静か過ぎるくらいで薄気味悪く、僕はとてもリラックスできない。
しかし、次第に、その3人のマッサージ師がまるで調子を合わせているように、大きな小気味のいい音を立てて僕らの足裏や腿を叩いたり、何か冗談でも言い合っているのか、笑い声が聞こえたり。その雰囲気に、当初の緊張も次第に緩み、うつらうつら。ひと時のくつろぎであった。
8月6日
北朝鮮の会寧を望む三合口岸見学。すっかり観光地化し、なんでもお金に換算されそうな図們の口岸と全く異なり、長閑で、緑濃い自然が美しい。とりわけ、高台に設置された臨江閣からは、豆満江のかなたに北朝鮮の会寧の町が望見され、長閑に見えるその町の風景が、こちらの気分も穏やかにしてくれる。
延吉の職場仲間なのだろう、男女10名くらいの中年の朝鮮族の人たちが、各自、肴とお酒を持ち込んで、その亭で車座になって談笑していた。見知らぬ僕たちにも、遠慮なく入るように勧めもしてくれた。その自然さと開放性が嬉しくて、体が元気ならば、参加したいと思った。自然と人間の長閑さが、僕のように国境などに全く感慨を持たないはずの人間にも感化を与えてくれる。
とはいえ、どこへ行ってもここは中国であることを思い知らされる。そして同時に、僕は一介の観光客にすぎない、という当たり前の事実も。
三合の口岸から上述の臨江閣への道は、地理に相当に詳しい人でないと知るはずもない山手の細い道路で、そこを登っていくと、なんとゲートで道が封鎖され、その横の小屋でおじいさんが二人、番をしている。そこを通るには10元何がしかのお金が必要だという。どういう権限があってのことなのか、Aさんに聞いてみると、Aさんは笑いながら、まあ、おじいさんたちの小遣い稼ぎではないですか、と笑っている。法的な根拠はなさそうなのである。「上は法案、下は対案」という言葉がいたるところで生きているらしい。対案というのは、政府の法案、方針に対してその隙を探って生き延びる術という民衆の智恵の産物らしい。ともかくお金を払うと、おじさんたち上機嫌で、粗末な木で作られたゲートを開けてくれた。こうして無事に臨江閣へ。
さて、その臨江閣は誰の手で作られたのだろうか。行政によってであろうか。すると、行政はこのゲートについてどのような立場を取っているのだろうか。このあたりの村の共有の入会地に、村人が臨江閣を建築し、村が共有の観光収入としているのかしら。それなら、理屈にあっているのだが。
民族村と海蘭江漂流
次いでは延吉に戻り、近郊の丘に位置する民族村に向かう。敷地はすこぶる広大で、夏の日差しの中を、まるで山中の登山道のように延々と辿っていると、汗が吹き出て、うんざりしてくるほどである。途中には、池を取り囲んで貸しバンガローや貸し別荘のような施設、そして野外バーベキューの施設なども散見されたが、それほど繁盛していそうでもなかった。ようやく、民族村らしき施設が見える。
庭には相撲の土俵、朝鮮風のブランコとシーソー、そして餅つきの臼などがあって、土俵では若者が朝鮮相撲をして見せていた。その庭の中心の建物が劇場になっている。そこで民族舞踊と歌の公演を鑑賞したが、それほどレベルが高そうにも見えず、居合わせた中国の西南部からの団体旅行客たちには物珍しさもあってのことか、大いに受けていたが、僕にとっては、ひと時のくつろぎとなりはしたが、感動とは程遠かった。
僕は韓国のソウル郊外の水原にある大きな民族村、済州島の新旧二つの民族村、そして中国北京の「少数民族宮?」内の朝鮮族の展示などを知っているから、それと比べれば、施設としてはいかにも「ちゃち」という印象が否めない。そんなこともあって、この施設を含む広大な敷地(その総体が民族村らしい)は民族文化の擁護とか、現在の利潤よりも、将来への投資の一つではないかと下種の勘ぐり。延吉の町の急速な肥大化を見れば、その郊外の高台にあるこの地域は十分に投資の妙味がありそうな気がしたからである。
因みにこの広大な土地の持ち主は、延吉の中心にあるデパート「国貿」という会社らしい。デパート会社がなぜ、というわけで、機会を窺ってB教授にその会社について説明してもらったが、中国社会のシステムがよく分かっていない僕には、ほとんど理解ができなかった。
その民族村の一角、先に記した劇場の裏手には朝鮮族の老人たちが収容されている養老院があって、僕の知人の言語学者などは、旅行中にこの民族村を訪れた際に偶然にその存在を知って、その後の旅程などかまわずに、その養老院に通って、中国朝鮮族の言語変化などの調査に勤しんだらしいのだが、僕にそんな度胸も元気もあるはずもない。自分は日本の、それも限られた狭い区域以外では全く使い物にならないという自覚がこういう風にして、日本を出るといつでもどこでも顔を覗かす。だからこそ、人並み以上に疲れるということにもなるのだろうが。
といったように、日ごとに疲労の色が濃くなる僕の様子が気になっていたのだろう。Aさんは「海蘭江漂流」いう観光宣伝を目にして、ひと時の余興を考え付いてくれた。ボートで川下りを楽しめるらしい。
ところが、生憎なことに、その場所を誰も知らない。タクシーの運転手に聞いても埒が明かないどころか、知らないところには行けないなどと乗車拒否される始末。仕方なく、海蘭江の上流ということを頼りに、街行く人に尋ねまわりながらのバスの乗り継ぎとなったわけであるが、おかげで延吉の町、そしてその郊外の実態の一端に触れることが出来たのだから、何だって考えようである。といったように、体調が悪くても、精神的に落ち込んでもこうした貸借勘定をあわせようとする商売根性だけは残っているようで、それだけが大阪生まれ大阪育ちの僕の取り柄ということになろうか。
さて、海外へ行くと、バスの利用に苦労する。とりわけ韓国や中国では、日本とは違って、時刻表などなんのその、客を待ってくれることもない。また、乗降位置も周囲の交通事情に合わせたバスの都合によってその度に移動するから、目ざとく察知して懸命に走って乗り込まねばならない。
しかし、それがその地の生活の一端なのだから、それを経験することは生活の一部なりとも経験することになる。しかも、車中での人々の表情や会話に耳を傾けていると、たとえその意味を正確に理解することなど出来なくても、その土地の人々の関係の作り方が窺えるような気がする。それにまた、町の中心部から場末へ、そして郊外へと、バスでとろとろ走っていると、緑濃い田園地帯とは別の農村の姿が、舞い上がる埃に霞みながらリアルに迫ってくる。
大都市はずれの農村は、緑豊かな田園地帯とは程遠い。町の延長で、街中よりも薄汚いというか埃っぽい。このあたりだと運転手に教えられてバスを降り、川沿いの道をひたすら上流に向かって歩くうちに、埃っぽく薄汚れた集落が途切れる郊外の果ての河原に、数個の救命具やゴムボートなどが並び、その前にうらぶれた小屋が見えた。よくよく見ると、ペンキで何か文字が記されている。「海蘭江漂流」となんとか判別できた。
しかし、人影がない。「どなたかいませんか」と声をかけても誰も現われない。拍子抜けである。手持ち無沙汰で、川とその周囲の風景に目をやっていると、当てもなくぶらついているといった様子のおじさんが現われて、小屋に入っていく。関係者のようである。漂流を体験したいのだがと言うと、「みんな出払っている。連絡を取ってみるから、携帯電話を貸してくれ」という。貸した携帯で連絡が取れたようで、すぐにスタッフが来るという。なるほど5分ぐらいして、トラックで二人の若者がやってきて、早速準備に取り掛かってくれた。
指示されるままに、救命用のジャケットを着用し、ゴムボートに乗り込み、川くだりを始めることになった。但し、携帯していたリュックなどは彼らに預けて身軽にと勧められたが、信頼して預ける気にはなれない。そんなわけで、リュックを背負った上から救命具を着るという按配で、膨れ上がった「へんちくりん」な格好だし、はなはだ窮屈である。
それにまた、操縦はスタッフ任せでのんびり見物しながらの川下りとばかり思い込んでいたのだが、予想とは違って、自分でボートを操縦するという。スタッフは万一の場合に備えて、別のボートで距離を置きながら付いてきて、危険なところ、方向転換など、遠くからアドバイスしてくれると言う。
その昔、若かりし頃に公園の池でボート遊びをしたことはあるが、久しぶりのことだし、池ではなく、なにしろ流れのある川なのだから、少々緊張するが、まあ、そんなに大層な急流でもなさそうなので、危険があるわけもないだろう。気分だけでも子供時代に戻って汗を流そうと、かえって張り切る気分になった。
最初は勝手が分からず少々うろたえる場面もあったが、しばらくすると櫓の扱いにも慣れてくる。流れが順調なところでは、櫓を漕がなくてもボートは流れに運ばれていく。日が暮れていき、日差しも柔らかくなっている。川特有の微風が涼しい。所々に岩場や浅瀬などの難所があって、油断すると岩にボートがぶつかって、たっぷりと水を浴びたりもするが、それも模擬格闘の気分でなかなかに楽しい。
夕暮れの川(早朝の川べりもまた)は僕が最も好む風景の一つで、日常生活の中で息が詰まりそうな気分になると、自転車を走らせて、夕暮れの川辺の風景と微風で一息つく。馬鹿みたいな話だが、その度に、生きているのはいいことだ、などと実感したり、或いは、自分に言い聞かせたりするのである。延辺に来て、それに似た楽しさをボート上で味わえるなんて予想もしていなかったから、実に幸せな気分であった。
一時間ほどの水遊びを終えて岸に上がると、係りの若者が待ち受けていて、トラックにボートを載せて、僕らを最寄のバス停まで送ってくれるという。運転手さんは、屈強でなかなかに二枚目の朝鮮族の青年。途中で彼にいろいろ質問しているうちに、その質問がしつこいからか、或いは僕の拙劣な朝鮮語のせいか、運転手の返事は途切れがちになる。少し気詰まりになり始めた頃に、集落に到着し、たくさんの垂れ幕が風になびく広場が見えてきた。その脇にバス停があるという。
次のバスまで随分時間がある。夕暮れのそよ風にあたっていると、濡れた服のせいで寒く感じられるほどである。Tシャツだけは替えを持ち合わせていたので着替え、周囲の民家や食堂や、広場の垂れ幕などをぼんやり眺めている。大きな集会なのか研修会のようなものが開かれていたらしく、新農村、新女性の育成といったスローガンがはためいている。
新農村というのは既に竜井市郊外でもお目にかかって目新しくなかったが、新女性というスローガンには興味をそそられた。勝手な想像によると、農村からの若者の流出、とりわけ女性の流出が激しすぎて、それを食い止める対策なのではないか。女性が流出すると、若い男性の流出も加速する。そうなると新農村どころか、農村の空洞化は恐ろしく進行してしまう。だからこそ、新しい女性が農村を救うといったように、彼女らをクローズアップし、中心的な役割を与え、精神的に動員しようということなのだろう。それなくして農村の未来はないなどと。
現に、その村の近辺には棄てられたと思える家がいくつも見えるし(出稼ぎで村を離れたのだろう)建設途中で放棄されたような新しい家があった。避暑目的の貸し別荘を計画して建ててみたが当てが外れたといったところなのではないか。それに対する抜本的な対策は見当たらず、仕方なく、女性に、というわけなのだろうなどと想像は膨らんでいく。
因みに、漂流の事務所までの川べりの道を歩いてくる途中で、瀟洒な建物が周囲から浮かび上がるように見えて、外国語専修小学校と大きな看板が掲げてあった。英才教育の小学校らしい。私立の学校らしいが、こういうところにも、中国における海外への関心、英才教育、さらには貧富の格差の現われが至るところに見られるわけである。
もう一つのおまけの話。実はその後、バスには乗らなかった。僕らがバス待ちをしていた広場に、3人が乗った少々高級なワゴン車がやってきて、延吉に向かいそうな感じがした。そこで僕は、相乗りをお願いしてみてはと、Aさんに提案した。最初は躊躇っていらしたAさんなのだが、次第に風が強くなり、暗くなっていくのに、バスがなかなか来そうにもないので、ついには決断された。
声をかけてみた運転手はいい顔をしなかったが、ともかくお客さんに聞いてみますとのこと。後部座席に座っていたその二人のお客さんは、親切にも、どうぞどうぞ、と快諾してくれた。おかげで夜の帳がすっかり降りないうちに、延吉の中心にたどり着けた。彼らは30代半ば、どこかの都市からこの地方を訪れた「お偉いさん」だったようで、延吉に着くまでひっきりなしに、延辺の印象などについて二人で議論を続けていて、なかなかにさばけて、活動的な印象だった。
事故の顛末
夕食を終えて宿舎に戻ってみると、ドア下にメモを発見した。もしよかったら、一杯いかがですかと、日本で出発前に、現地でいろいろと話しましょうと約束していたCさんからの伝言が入っていた。
Cさんは「在日」二世で、中国朝鮮族ばかりか、「在日」の諸運動、そして韓国済州島の4・3事件と「在日」との関係など、幅広い研究をなさっておられる。延辺に来る前に、済州島からみの会で偶然お会いしたことがあったし、また、僕が研究所で最後のご奉公として企画した中国朝鮮族に関する公開ワークショップにも参加頂き、貴重な話をうかがうということもあった。しかも、彼は僕の末弟の友人でもある。そうしたCさんが僕と同じ時期に延辺を訪問なさると聞いて、既に長期の延辺滞在経験をお持ちのCさんに、助けてもらえることがたくさんあるだろうし、いろんな話ができると期待していたのだが、いろんな手違いから・・・
僕と同じく延辺大学の賓館に、7月31日から数日間お泊りになると聞いていたのに、一向に姿を現さない。海外でも通話可能とお聞きしていた携帯電話に電話してみても、不通である。毎日(宿舎を移動してからも)賓館の受付に、日本からのお客さんが到着していないかを確認したのだけれど、返ってくる答えは、「そんな人はいません、(メイヨウ)」の繰り返し、いったいどうなっているのか、すごく不安になったりしていた。それに、受付の女の子には、日参して同じ質問を繰り返すしつこさに呆れられる始末。
そんな彼にようやく会えたのは、滞在も半ばを過ぎ、会うことをすっかり諦めた頃だった。事務室から宿泊手続きの問題で呼び出しがあり、事務室のある4階には何故かエレベーターが止まらないようなシステムになっているので、仕方なく普段は使わない階段を下りていくと、階段の踊り場から外を眺めている男性の後ろ姿が見えた。見覚えがあるような気がして、ひょっとしたらと、声をかけるとまさしくCさんだった。いろんな手違いが重なって、到着したのは予定より5日遅れてのことであったと言う。
ビザを取得し忘れていることに気づいたのが、出発予定の前夜。当然、予約していた飛行機便は無駄になり、迷った末に、やはり出発することに決め、相当に高くつく北京経由の便を確保して、ようやく到着した由。
携帯は通じない、到着しているはずのCさんの姿がまるで嘘のように見えない、といったように、迷宮に中にいるような不安のひとつがこうして解消されたのであった。
だが、なかなか二人で杯を交わす機会が見出せない。そんなわけだから、折角のお誘いを逃すわけにはいかない。せめて、お断りだけでも直接お会いしてお伝えしようと宿舎を出たところで・・・
夕食の酒が残っていたし、マッサージの効果でぼっとしていたのかもしれない。宿舎から出てCさんが逗留されている隣の棟に向かおうと、アプローチの階段へ足を伸ばしたところ、気持ちは既にCさんの方に向かっていたのだろう(なんと初心な中年男、まるで恋人との逢引ではないか!)、足を踏み外して、転倒してしまった。
咄嗟に大きなうめき声を発し、その後しばらくも、恥も外聞も忘れて、小声ながらうめき続けていた。数分後にようやく立ち上がったが、とても歩けたものじゃない。周りを見渡すと、少し離れたところにたぶん韓国からの留学生であろう若者たちの姿が見えるが、誰もこちらに関心を示す様子もない。いくら暗くても、転倒する姿が見えたはずだ。無様なうめき声も聞き届けただろうに、誰も駆け寄ってこないなんて、なんと薄情な、これじゃまるで日本じゃないか、などと痛さをこらえるために勝手な言い分をぶつぶつ。自室に引き返そうかと思ったが、それでは、意気地がなさすぎると思い返して、一歩前進、二歩前進と少しずつ試しながら、なんとかCさんの部屋にたどり着いた。事情を説明し、またの機会に、と所期の目的はなんとか果たすことができた。
部屋に戻って、気持ちを落ち着けるためにウイスキーを舐め、タバコを吸って、さあ、そろそろと、寝付こうかという段になって、急に悪寒が襲ってきた。歯がガチガチと震える。そのままではとても眠れそうにないので、持ち合わせの夏服を何枚も重ね着して、「捻挫による発熱なのだろうから心配することはない」と自分に言い聞かせているうちに、寝入ってしまった。
官僚の仕事と漢方の病院
K研究員は資料調査の壁を突き抜けるために、故郷なのだから現地にいろんなパイプを持っておられるはずのAさんの帰郷を心待ちにしておられた。Kさんは自分にそんな伝があるわけではないけれど、そんなに心待ちにしておられたKさんのたっての願いなのだから無碍に断るわけにもいかず、ともかく行ってみましょうと話しが決まった。僕は中国の档案館には行ったことがないので、この機会に見学がてら、同行することになった。
これまでいろいろな人の加勢を受けて資料調査にトライしてみたが、徒労に終わっていたK研究員なのだが、今回は、Aさんが同行したおかげで無事に必要資料の参観にいたる道が開けて、感激していた。
但し、それについては、Kさんの予想が当たっていたとも言えるし、外れていたとも言えるというように、微妙なところがある。担当官が「たまたま」Aさんの妹さんの友人だったから、事が予想以上にうまく運んだ。だから、それをあくまで偶然といえば、Aさんを当てにしていたのは買いかぶりとなるし、そういう偶然をも含めてAさんのネットワークの賜物と考えれば、Kさんの予想は当たっていたということになる。
ともかく、うまくいったのはKさんにとっては幸いに違いないし、僕らも大いに喜んだのだが、しかし、その档案館という歴史と公文書の砦、それはつまり歴史に関する国策の砦ということでもあるのだが、そこに流れていた微妙な雰囲気、そしてそれにまつわる各人の苦い感覚を、エピソードとして紹介しておきたい。
① 文書の閲覧を申請する担当の事務室に入ったところ、丁度そこに居合わせた中年の女性が、僕らが日本語を話しているのを見て日本人と思ったのか、日本語で話しかけてきた。自分は中国残留孤児の妻で、日本に永住帰国(帰国する夫の妻として、入国というのが正確かな)して今大阪に住んでいると。そして今回、親戚の招待のための証明書をもらいに来たのだと、付け加えた。大阪の泉北ニュータウンに居住ということで、僕も20年ほど前に一時そのあたりに住んでいたから、僕とは話がはずんだ。しかし、その途中でAさんの微妙な顔つきが目に入った。
Aさんは、僕の軽はずみな調子の良さを危ぶんでいるような気配がした。言い換えると、その中国人(現在は日本国籍なのだから、元中国人と呼ぶべきか)に対して、何かしら警戒心があるようで、日本語で話しかけられても無視する風だった。
それが心に棘のように残っていたのだが、その後の何かの折に残留孤児云々の話をすると、そういう話は眉唾ものが多いから気をつけてください、といったように、Aさんが相当に疑心を持っていることが確認できた。こういう警戒心の働き方が僕には分かるようで、よく分からない。
長年、客地である日本で暮らしてこられた経験のなせる業なのか、あるいはまた、漢族に対する警戒心、嫌悪感の延長なのか、或いはまた、こちらで何回も経験する、日本でのコネクション作りの一環ではないかと警戒心が働くのか、といったようにただただ想像をめぐらすだけで・・・
② 先にも触れたように、Aさんの知人のおかげで事がうまく運んだのはいいのだが、その担当官の女性はそのKさんへの便宜、つまりは間接的にはAさんへの便宜と言えないわけでもないのだが、そうした便宜を図るついでに、Aさん及びその姉妹の近況を詳しく尋ね、大学の3年生である息子が外国もしくは上海などの大都市で働くためのコネ作りに努力している気配があり、Aさんはそれを明敏に察して対応されていた。
Aさんはその種の面倒をこれまで何度も引き受けてきた結果、時には警戒心が強く出て、厳しくはねつけたり、またある時には、これこそ自分の運命と思い定めて、いさぎよく引き受けたりということのようである。
③ その担当官が、これまでK研究員の要望をいろいろな理由を盾にして撥ねつけてきたのに、その日はAさんの同伴もあって、一転して要望を受け入れたことについてのAさんの見解は僕の理解では以下のようになる。
1.自分の権威をひけらかすこと。2.ついでは、コネで利益供与(実は市民に対する当然のサービス)をすることで、恩を着せる。3.そして、その後何らかの折に恩返しを求める、というようなことになっているのだと。
但し、こんなことを書いたからといって、その担当官が腹黒い人であるなどと判断されては困る。というより、事実に悖る。その方は、落ち着いた、微笑を浮かべる中年女性で、何か特別なことをしているというような感じもなく、仕事を淡々とこなされている様子だった。つまりは、先に僕が書いたようなことは、彼女としては実に自然なこと、言い換えれば、中国の延辺の人たちの、そして官吏の普通の対応だった。それが、見方によっては、公私混同、職権乱用といった言い方が出来なくもないといったこと、僕にとってはそれこそが重要な事実なのである。
さて、前日の捻挫で歩くのに難儀している僕の姿を見て、Aさんは責任を感じてのことなのか(責任など彼女には全くないのだけれど、母性本能などといえば叱られるかもしれないが、そうとしか言いようがない行き届いたお世話の数々)、なんとしても延吉の代表的な中医医院(漢方の病院)で治療をと、タクシーで連れて行っていただき、診察と針治療を受けた。
針を嫌がる人もいるらしいが、僕は幼い頃から針には慣れている。その昔、僕などが子供の頃には「在日」には健康保険などなかったから、よほどのことがないと高くつく正式の医者にはいけない。そこで、無認可の医者や歯医者(そういうものが存在していたのですよ、しかも、その種の闇営業の先生方は相当に人望を集めていたのです、今では信じがたいことでしょうが)、民間療法、そして按摩、針に親しんでいたのである。僕は尋常以上に怖がりという評価を受けていたのに、蓄膿に効くといっては、鼻や目元、さらには頭の天辺にと治療を繰り返されているうちに、慣れが怯えを追い払ってくれたようである。
それに鍼灸については、特別な因縁も作用していた。父の工場で働いていた在日一世のおじさんが夜学で鍼灸を習い、後に正式に開業することになるのだが、その当時は、アルバイトで、休日や夜間の出張治療だけをしていた。母は体調が悪くなると、いつもそのおじさんに家に来てもらっており、それを僕はいつも目にし、慣れ親しんでいたのである。
その後も現在に至るまで、いろんな機会に針治療を受けてきて、経験的に、針は極めて有効である、と信じている。とはいえ、昨今は、針の使いまわしによる血液感染の心配が取りざたされ、内科医である僕の兄はもともと心配性であることに加えて、西洋医の沽券にかけても漢方を信じないといった感じが強く、とりわけ血液感染についてはやかましく言う。その言葉が頭に残っていた。それに中国では予防接種によるエイズの血液感染で村が絶滅したなどとの噂も俄かに思い出した。
そこで、新しい針で治療していただけるでしょうかね、と僕がAさんに尋ね、Aさんも、それはいいことです、要求してみましょうと言い、担当医に対して念を押してくれ、医師も了承したはずであった。ところが・・・
僕が針治療の部屋に入り、ベッドに横たわり順番を待つ間、Aさんが医療費の支払いなどの確認のために僕の近くを離れた。そして、ほんのわずかな時間にすぎないその間に、僕に対する針治療が始まった。そのとき、僕は勘で、新しい針の使用といった指示は現場には伝わっていそうにない、だからもちろん新しい針を使っているはずもないと確信していたが、生来のいい加減さを発揮して、仕方がない、「もう針の上のむしろ」などと観念して、針を受けた。
Aさんが戻ってきた。ベッドに横たわり針治療を受けている僕に、痛くないですか、などと母親のように僕を心配してくれる。そしてその延長で思い出したのか、「新しい針でしたか」と問うので、「たぶんそうじゃないでしょうねえ」と僕はAさんにすまない気持ちになって低い声で答えた。すると、Aさんはうろたえ、ついでは激しく怒り、担当の医師を探しまわり、抗議するといった大事になってしまった。
医師は申し訳ないとはいいつつも、「手術用のメスと同じような消毒をしているので安心、何と言ってもここは病院です」とプライドを傷つけられて不快という様子だった。それでもかまわずAさんは食い下がり、「海外からのお客さんにもしものことがあればどうするのか。今回は仕方ないが、明日の治療では絶対に新しい針を」と要求し、医師もついには確約した。但し、翌日には朝一番で来るように、とのことだった。朝一番なら新しい針を使えるということなのだろうか。
ということは、その日僕は朝一番ではなかったから、新しい針を使えなかったのだろうか、そしてそのことを医師ははじめから承知しながら空約束をしたのか、或いはただの事務的な手違い、つまり伝達不足による失態なのか、といろいろ思いをめぐらして、翌日の件についても半信半疑だったが、翌日、朝一番で行くと、なるほど、新しい針を卸してくれているようだった。
韓国の地方の病院でも同じような印象を受けたことがあるのだが、ここ延辺の漢方の病院は、鉄筋の4階建て、中心街にあって、相当のステイタスを備えていそうなのに、取り澄ましたところが全くない。玄関の近辺にはいろんな屋台がところ狭し並び、アプローチのステップにはおじさん、おばさんが腰を下ろしタバコを吸ったりしており、誰もが自由に出たり入ったりしてOKという感じである。日本の病院の、殺菌されて建物も人間も無機質になってしまった印象に対して、中医(漢方)病院だからなのか、建物も人間も有機物であり続けているといった感じか。日本でも鍼灸院などでは良く似た感じなのだが、病院と名の付く所としては、やはり日本とは大いに異なるようである。
そんな雰囲気が僕に作用したのか、一時間ほど針治療を受けている間、主任医師の指示を受けて実際の針治療をしてくれる助手さんたちと、四方山話となった。僕の世話をしてくれた青年医師(あるいは医師の助手か?)、30代半ばくらいですごく優しく親切そうだから、ついつい話しこむことになったのだが、その彼がなんと、韓国済州島、それも僕の親戚が多数居住する西帰浦からはるばる延辺にまでやってきているのだと言う。
数年前に済州島で幾人もの延辺出身の方に出会って驚いたのだが、延辺人が世界のどこにでもいるように、済州人も同じなのだと、様々な民族の国境を越えた流動(或いは、移動)という事実を改めて思い知った。
因みに、彼の話はこうである。こちらで漢方の医師の資格を得ても、韓国ではそれを認定してくれない。韓国でまたもや漢方医の大学に入って、卒業して国家試験を受けなくてはならない。しかし、そんな悠長なことをやりたくない。第一、既に知識も経験も十分なのだから、時間とお金の無駄である。既に済州島から奥さんを娶り、子供も二人いる(後で携帯の写真を見せてくれた)。済州島にいる両親のことが心配で帰国したいのは山々だけれど、先の展望が全く開けないので、当座は、居残るしかないと。
もう一人、助手の若い女の子の話。学生だというので、アルバイトかと聞くと、そうではなくて、無給で研修をしているのだという。延辺出身で、高校時代は何が何でも延辺から遠くに出たいと思って、はるか遠くの湖南(毛沢東の生地)大学の漢方医の学部に進学したのだが、帰郷に際しては、2昼夜の列車旅行、それも寝台車の取得はすこぶる難しいから、座る席ではるばる帰郷という大変さ。それに、この病院は主任の女性医師を始めとして、スタッフのみなさんが有能だしすごく親切なので、ここで研修できてすごく満足しており、わざわざあんな遠くの大学に進む必要などなかった。今では後悔している、と言う。但し、その「後悔」という言葉とは裏腹に、ふっくらとした体で微笑を絶やさず、楽しそうに働いていた。
夜、延辺大学の国際交流関連事務局の歓迎の食事会に招かれた。体調の問題もあって、儀式ばった席は御免蒙りたいと思ったが、先に触れたCさんが同席するというので、参加しないわけにはいかない。
現地の農村経済の専門家、日本から来ていた人口流動の研究家T氏(東京の大学の教員で日本人)、そして延大の海外交流関連の職員で日本語が実に流暢なKさん(例えば、話の中で、競売のことを、正式な法律用語で「けいばい」と言っておられた。そんな言葉を使えるなんて、日本で法律でも勉強されていたのであれば分からぬこともないが)と、ホテル内のおしゃれな中華料理屋での会食である。
招待されたとは言え、本当のところは、僕は付け足しのようだった。Kさんは日本に留学中にCさんにすごくお世話になったらしく、そのCさんの歓迎ついでに僕たちをということだったようなのである。しかし、経緯がどうであれ、Cさんのたっての要望で、中国の農村の実態を良く知る研究者が特別に招かれていたおかげで、酒席というより、その研究者を中心にしての研究交流の場となった。中国の農村経済の実態と展望、少数民族問題などについて、貴重な話を聞くことができたのは本当に有難かった。いろいろな事情があって、詳しくは書けないが、話題の項目だけ挙げれば、以下のとおりである。
①朝鮮族の現状と本音。②漢族との軋轢。③将来的には漢族に吸収されるという悲観的展望。④漢語の主流化。⑤朝鮮語を母語にする人たちは、韓国を憎みながらも、韓国をバックに、或いはそれを盾にして生きる道を見出すしかない。⑥大学の独立採算という状況を積極的に生かして、経営的視点を導入して、大学、さらには延吉市、そして延辺全体の開発に取り組もうという考え方があって、決して夢ではないという。⑦大学の国際交流に一貫性を欠く。学長が代われば、それまでの交流の歴史は無になってしまいかねないのが現状という。中国の大学のトップダウン的行政手法の一端なのであろう。
8月8日
前日に引き続き、中医医院にて針治療。そのついでに、不調をきわめる胃腸の診察も受けることにして、消化器系の主任医師の問診を受けた。その医師は朝鮮族のようだったが、日本語も少しは話せると言っていた。僕が抽象的な言い方で、胃腸の不調を「機能していないのです」などと勿体をつけて説明すると、「どのように機能しないのか具体的に」と僕の勿体を崩すなど積極的で実際的な診療の上、その延長で、「せんじ薬を試してみますか」と問われて、「望むところです」と答えると、21日分の大量の漢方薬(煎じ薬)を処方してくれた。
さらには、その医師は韓国へ入国の際に、麻薬などの禁止薬物の密輸の嫌疑がかけられることを懸念して、クレームが付いたら提示するようにと、細かな内容説明の文章を書いてくれるなど親切だった。
その薬を待つ間、他にすることもないので、薬局のガラス窓越しに調剤の様子を見学した。20数種類の薬草箱から、塵取りのようなもので次々と掬い上げて、並べられた21個の小さなスコップのような容器に入れていく。目分量で分割作業はなかなかに難しいはずなのだが、それほどに精密であるわけではなく、大雑把である。とはいっても相当に面倒であることに変わりはない。二人の薬剤師が見事な役割分担で、30分ほどもかけてようやく完了。20センチ四方の大きな茶封筒一つが一日分で、総計21個の大きく膨れ上がった茶封筒こそは僕が日本に持ち帰って毎日煎じて飲むべき薬というわけである。
患者一人のために、なんとも時間をかけてくれたものだと感謝。後は、これだけの量の薬を既に資料などで満杯になっているスーツケースのどこに収めて持って帰るか、さらには、日本に帰って、毎日自分で本当に煎じて飲み続けることが出来るか、などと僕に大きな宿題が課せられたわけである。
情けない再会
夜にはまたしても宴席に。10年以上日本で働き、半年前に延辺に帰国した延辺出身の知人Cさんの招待である。同じ職場で働いていたのだが、生まれ育った文化の違いもあってか、生き方や発想が僕なんかとは随分違うといった感触もあり、特に親しいとは言えない。それにまた、彼の頼みごとに対し、僕は善意を差し出したのに、その結果は、煮え湯を飲まされたといった思いもあった。しかし、彼にとって日本は異郷であり、それだけにいわく言いがたいことが多々あったに違いなく、そうしたことも遠因で、僕との齟齬が生じたのかもしれないといった反省もあった。
それになにより、彼から中国へ帰るという話を聞きながら、別れの挨拶をする機会を逸したことが悔やまれ、それが僕の心に棘のように残っていた。そこで、彼の故郷である延辺で、日本生活の総括や帰国の真意などを心置きなく話してもらい、それを理解することで、僕なりに二人の関係のけじめをつけたかった。だから、延辺に着くと直ちに、会いたいと連絡を入れ、彼も快く、再会の機会を準備すると言ってくれていたのだった。
さて当日、彼はすごい高級車で、約束の延大の正門まで僕を迎えにやって来た。その仰々しさに怖気たというわけでもないのだが、会うとすぐさま、僕は体調の極度の不調を伝え、申し訳ないのだけれど短時間で帰る旨を伝えた。
しかし、時既に遅し!彼は車の中に見知らぬ若い女性を連れてきており、本気なのか冗談なのか、「彼女を明日の朝まで、好きなようにして下さい」とのたまう。この時点で僕と彼とのボタンの掛け違いは予想以上に達していることを悟った。そしてその後も同席している間中、わざわざ彼に連絡をとったことを後悔する気持ちが募ることこそあれ、薄れることはないような展開になっていった。
案内されたホテル二階の高級料理店(実は前日の宴席と同じテーブルだった。延辺大学関係者はこの席、とでも決めてあるのだろうか、まさか!)には、彼のなじみのカラオケスナックのマダム、そして彼の学生時代からの旧友が同席していた。その他に、僕の知らない人が数人参加の予定だという。はるばる日本からおいでなのだから、にぎやかに歓迎しなくては、と彼は言うのだった。
ところがいくら待っても、その人たちはやってこない。時折、携帯電話が鳴り、急用で不参加の連絡が続いた。僕にとってはもともとどうでもいい人たちである。むしろ、招かれざる客である。しかしながら、予定していた客が次々不参加となれば、宴席にケチがついたような気分についついなってしまう。大きな円卓の周囲にあまりにも広い空席があると、なんとも格好がつかないし、落ち着かないのである。
結局、初めから参加していた総勢5名だけの会食になった。大勢の二次会の客を当て込んで同席していたのであろうカラオケ(或いはルームサロンといったほうが正しいのだろうか。そのホテルの上階にあるらしい)のママは、予想外の少人数であるばかりか、僕がどうしても二次会はごめんこうむると言い張ったせいもあって、すっかり当てが外れて、食事を急いで済ますと、「お客が立て込んできたようだから店に戻らなくては」と言い残して、途中で退席した。
白けた会食は疲れるし、せっかくの料理の味もなくなるからと、少しでも宴席らしくなるように「サービス」に励んだ。適当に冗談を言い、適当に飲み、そして適当に食べた。そして最後に、重ねての二次会の誘いを頑なに固辞して彼らと別れ、小雨の中をびっこを引きながら、宿舎まで帰ったのである。
実は、その料理屋が収まっているホテルは、大学から500メートルくらいの距離で、なぜ、彼がわざわざあんな豪華な車を寄越したのか、全く訳が分からない。それも自分の車ではなくて、友人の車を運転手ともども借用したらしいのだから、すべて彼特有のハッタリということなのだろうか。予想しなかったわけではなかったが、予想を超えた不愉快な再会であった。悪い予感にしり込みしないで、ついつい自分の思いで突っ走ってしまう悪い癖のもたらした事件の顛末ということになる。
それでも僕にとっては延辺観察の機会であることに変わりはない。そこで、エピソードを幾つか紹介しておきたい。
同席したマダムは、延辺の朝鮮族の女性なのだが、若かりし頃には民族歌舞団に所属し、歌姫を夢見ていたのだという。しかしその後、結婚したことに加えて、化粧品の薬害で顔に大きな痣ができてしまったりもして、夢を放棄することを余儀なくされたのだという。化粧品で肌に大きな問題を惹き起こしたという話は中国の他の都市でも聞いたので、よくある話なのかもしれない。但し、日本でも昔はよくあったし、韓国でも耳にするので、中国社会だけの病理などとは到底いえるわけがない、念のために。
そのマダムに関連してもう一つ。彼女は近頃離婚したのだが、その夫はもう既に15年以上もシンガポールに単身赴任しており、ここ数年は全く帰ってこなかったのだという。そのために、一人娘さんがようやく成人したのを区切りに離婚に踏み切ったという。なんと長い歳月か!
まるであのソフィアローレンの映画『ヒマワリ』のような話があちこちに「転がって」いるわけである。(話の筋は相当に異なっていて、この比喩はほとんど意味を成さないが、言わんとすることが分かっていただけるでしょうか?)。なるほど、そのマダム、そうした話を聞いた後で考えてみると、何かしら影があって(頬の痣も、そういえば、あるようなないような)、その影が妙な色気となっていたなあ、と後知恵で思う。
但し、彼女に「色気」があるとは言っても、もっぱらその色気で商売をしているようにも思えなかった。気遣いが行き届き、それよりなにより、時々、すごく優しい目つきを覗かせて乙女のようなところもあって、僕は好感を持った。この印象をも色香に惑わされたといわれれば返す言葉がないのだが。
いまひとり、僕の接待用(?)に同席した娘さん、彼女はあの後、どうしたのだろうか。
彼女を除いた参加者は僕を含めてみんな広義の朝鮮族の属しているから、共通語として朝鮮語で話すことになる。とりわけ、僕は一応主賓となっており、その僕には漢語の会話に入っていく力はないからでもある。そこで、漢族である彼女だけが除け者扱いということに、ついついなってしまう。そこで僕がなけなしの義侠心?を発揮して、下手な漢語でなんとか獲得した成果は次のとおりである、彼女はもともとハルピンの人で、家族全員と一緒に竜井に移住してきた。歳は21歳と言ったか。きれいに着飾っているけど、服装にしても化粧にしても「水商売の匂い」があるわけでもない。また、人擦れのした感じもなくて、お洒落に凝っている普通の女の子といった感じ。その彼女、彼女には全く理解できない朝鮮語の会話が続くのだから相当に退屈しているはずなのに、別に嫌がっているというような風でもなく、微笑を浮かべながら、所在なげであった。こういうことが彼女の仕事なのだろうか。
10.帰路
最終日なのだからせめて朝食を一緒にと、B 教授がお土産まで携えて宿舎に。Aさんともども、延吉で最高級の国際飯店に赴いた。昔は白山ホテルが最高級だったのだそうだが、最近はその覇権がこちらに奪われたそうである。なるほど、世界の各地から、とりわけ韓国からの観光客で満員の盛況である。延辺大学で夏季休暇中にひっきりなしに開かれている数々の国際学術シンポジウムの宿舎もたぶんそこなのだろう、顔見知りの延辺大学の教員が招待客のお世話なのか、朝から忙しそうにしているのをロビーで見かけた。
軽くのつもりが、香りや彩りでついつい心をそそられて、数種類のお粥、点心、そして野菜サラダで十分以上の朝食で、延辺における朝食では格別なものになってしまったが、もう帰るのだと思うからか、心なしか元気になっている。コーヒーの香りが僕を元気付けてくれる。僕はこのコーヒーなしでは生きられない人間で、既に述べたように、わざわざ僕の行きつけのコーヒー店でお気に入りの豆を大量に購入し、延辺まで持ち込むほどで、宿舎の事情でそれを楽しむことが叶わなかったから、延辺で初めてまともなコーヒーの香りと味を堪能できたのは、最終日とは言え、有難かった。
ついでに、わき道にそれることになりそうだが、延辺のコーヒー事情、というか、喫茶店について、一言。その昔、韓国ではまともなコーヒーを楽しめることは望み薄で、高級そうな喫茶店でも、マックスェルかネスカフェが出てきたものだった。もちろん、インスタントである。しかも、その味が日本で飲むものと微妙に異なって、何か甘い香りがあって、それが鼻について、僕は受け付けなかった。そこで、当時は、日本からネスカフェの大瓶をみやげ物として持っていくと、大いに歓迎されたし、自分用にもそれを携帯したりしていた。ところがその韓国でも今や、日本と変わらないコーヒーがあちこちで飲めるようになった。何と言っても、世界に名高いスターバックスがその代表なのだが、それに引けを取らないチェーン店がソウルなら随所にある。
そのスターバックスは北京でも随所に姿を現しているのだが、延辺では見かけなかった。ところが、ここでは高級な喫茶店として、なんと日本の神戸に本社がある「上島コーヒー」の店があった。但し、喫茶店の概念が僕らとは少々異なるようである。その昔、韓国の喫茶店は「茶房(タバン)」と呼ばれ、一種の風俗店の役割を果たしていたらしく、いつごろからか、それと区別するために、「普通の」喫茶店は「コーヒーショップ」と呼ばれる。
延辺の喫茶店はどちらかと言うと、その「茶房」に近い雰囲気がした。席にはべる女給などはいないのだが、豪華なソファーなど、調度品は豪華を衒っている。それに個室ではないけど、ほとんど個室に近いような贅沢な空間が提供されている。それにまた、アルコールなども出すし、豪華に装ったフルーツなどが出されたりもしていた。
キーワードは豪華の衒い、一種の成金趣味が徹底している。日本で言う、ラウンジに近いと言えば分かっていただけるだろうか。但し、僕にとっての最大の問題は、その上島コーヒーの味が期待したほどでは全然なくて、それでいながら、価格のほうは調度に見合った一人前であったことである。
ホテルに戻る。その国際飯店のコーヒーは、結構いける。延辺で一番おいしいコーヒーであった。おかげでタバコの味も久しぶりに満足のいくもので、気分良く食事を終え、記念にホテルの玄関前で写真を撮り、B教授の見送りを固辞して別れ、Aさんと空港へ急いだ。
あまり早くに着いたので、チェックインすることも出来ず、時間つぶしに空港の喫茶店に立ち寄って最後のコーヒー、タバコを楽しむつもりが、次第に胃腸に異変の兆候が。冷や汗まで出てくる。なんとかしないと搭乗できないのでは、と心配になるが、今更じたばたしても仕方がない。ともかく、足を引きずり、トイレに駆け込んだ。時間の余裕があるのをこれ幸いと、長時間、トイレに座っているうちに、少しは落ち着いてきた。後は、このまま胃腸がおとなしくしてくれることを願うばかりである。
チェックインに向かう。先ほどは無人状態だったのに、喫茶店、そしてトイレで粘っているうちに、列はすごく長くなっていて、その最後尾につく。すぐ前に、女性の二人連れが、ひとつの大きな荷物を二人で抱えている。変わった二人だなどと思っていると、お年寄りのおばあさんと少年がやってきて、4人で言葉を交わしている。何か落ち着かない様子である。程なくして、30代前半に見える、陽に焼けて精悍な顔つきの男性が微笑みを浮かべて現われ、全員にホッとした雰囲気が広がった。
その様子を見ていたAさんがおばあさんに話しかけてみると、次のような事情だった。その若者はおばあさんの一人息子で、最初に荷物を持っていたのは、その姉と妹という。息子は妻と一緒にソウルに出稼ぎに出ており、今回、久しぶりに息子だけが里帰りしたのだが、今から再びソウルへ旅立つことになっている。その息子夫婦の子供が、先の少年で、両親はその子をおばあさんに委ねて出稼ぎに出たので、おばあさんが育てている。その子にとって、久しぶりの父親との対面は嬉しいことだけれど、別れの段になると、一段と淋しくなるようで・・・
その話を聞いた後で見ると、なるほど、その男性と女性二人の顔つきは似ている。おばあさんは韓国でもよく見かける、いかにも朝鮮人農民の姿で、顔には深い皺が縦横にめぐっており、その皺の中に目が埋まっているかのようである。一人息子との別離に心穏やかではなかろうに、健気にも絶えず微笑を浮かべて、いろいろとAさんに説明している。そうすることで別れの辛さを紛らわしているのだろうか。
その後、出国手続き、飛行機の到着が遅れたせいで長引いた搭乗待ちなどの間中ずっと、体調の異変に苦しんでそんな余裕があるはずもないのに、気がつくと僕は、その日に焼けた青年の姿を追っていた。彼の姿に、亡父の似姿が見えるような錯覚に耽っていた。体調が悪いから、余計に感傷に溺れるのだろうが、こういう感傷を除けば僕の旅なんて何一つないようなもので、だから余計に疲れるということになるのだろう。
さて、父の似姿というのは、ありえたかもしれない自分の似姿ということでもあって、そこで、一席。
僕の父は十代の後半に韓国の済州島から日本にやってきたという。本当のところ、父から直接にその経緯を聞いたことがあるわけでもなく、あくまで話の断片を寄せ集めて想像で味付けしただけのことなのだが。
がともかく、その信義疑わしい僕の知識に則れば、父の父、つまり祖父は学があって、村では一定の尊敬を集め、村長みたいなこともやっていた。しかしその分、汗を流して働くという風ではなかったらしく、格式はあっても実のところ貧乏農家にすぎない。その長男、つまり、父の長兄は父親の生き方をそっくりそのまま受け継いで農作業などには手をつけず、生活の糧を担うのは、次男と三男であるわが父。次男は出稼ぎに、そして僕の父は小作や土方仕事など、仕事があれば何だって食いついては懸命に働き、その下の4男だけはそのおかげもあって、国民学校に通うことができ、解放後は警察官となった。
次第に植民地化の土田舎にも戦時色が濃くなり、父は徴用逃れということもあって、土方仕事でまとまったお金を稼いで旅費を工面し、日本に渡ってきたらしい。その父と母との日本の片田舎でのロマンチックな出会いというのも、僕は父が亡くなってから従兄の口から初めて知ったという具合で、息子としてはなんともお粗末な話である。
がともかく、その後も父は日本で懸命に働き、そしてそれで得たお金を韓国に持ち込んだ。「故郷に錦」というわけである。夫婦二人で老後を生まれ故郷で暮らすという夢があっただろうし、貧しい故郷にそれなりの貢献をしたいという長年の夢もあったようである。それにまた、兄弟姉妹にできる限りの援助をしたいという気持ちもあった。しかし、事はそのようには運ばず、かえって、血縁者との軋轢などが、次々と生じ、それがその後の母のみならず僕ら兄弟の大きな心配の種になるわけで、異郷での労苦の結果が思わぬ問題を背負い込むことになった。
さてその父の日本での働きようは、僕などから言えば、糞まじめな農民の姿に他ならず、彼がそのまま韓国に居続けたならば、なるほど経済的な苦労は多々あっただろうが、精神的には彼の気質にマッチしてよほどに幸せな人生を送ったのでは、というのが僕が永く心に抱いて放さない感傷なのである。
そうした父の場合は、自分が生まれ育った家族とは別れ別れになったとしても、日本で出会った母と家庭を築き、彼自身が作り上げた家庭と離れることはなかったからまだしも、戦後、日本に密入国してきた親戚その他の様子を傍から見ていると、出稼ぎのための家族離別は、その後に多様かつ大きい問題を生じさせているようである。
たとえば、日本での懸命な労働で稼いだお金を送った結果、奥さんや子供たちは経済的には苦労はなくても、親子の情、夫婦の情は薄れて、家族が解体するというようなことになったりもするのである。というように、家族とはいったい何だろうかと思わずにはおれない。というわけで、家族の別離をものともせず出稼ぎを敢行する、或いはそうせざるを得ない延辺の若者たちの懸命な姿の彼方に、僕はついつい不幸の影がさすのを勝手に読み取ってしまう。そしてその延長で、生まれた時代と場所が少しだけ異なっていたら、僕だってそうなっていたかもしれないと思わずにはおれないのである。
というわけで、日本に生まれ育った己の幸せを土台にして感傷にふけるという自己満足かといわれそうだが、それだけではないはずである。夫婦や家族が、いかにやむを得ない事情があったとしても、長期間別居することによって生じる亀裂など、愛の強さなどというものではどうしようもないようである。孤独な日常ゆえに生じる人恋しさの力、それが離れ離れの家族や夫婦の間に大きな亀裂を生じさせる。
そうした日常と時間の恐ろしいまでの破壊力を無視できない年齢になったというわけである。
ともかく浅黒い肌の中に浮かび上がる輝く眼と言いたいところだけれども、その眼の中、そしてその挙動には、何かしら不安の影がある。出国手続き、そして韓国の入国手続きがクリアーできるかを心配しているのではなかろうか。その若者の姿、そして彼の心中の想像といったことが、ずっと僕の脳裏を離れなかった。
ソウル行きの飛行機で同席したのも、延辺への里帰りを終えて再度ソウルへ出稼ぎの旅に向かう二人の女性だった。僕は機内食などには全く手をつけられず、水を嘗めるのがやっとの状態なのに、その二人の挙動がついつい気になってしまう。
始めは同行かと思っていたが、全くの見ず知らずの他人だということが後に判明した。一人は30前後で、化粧や服装が水商売風で、なかなかの美形であるが、何かしら表情に疲れが見える。その彼女が、横に座った40代半ばの、いかにも肉体労働で生計を立てているといった感じのおばさんにすごく親切に気を遣ってやっている。おばさんの方は、旦那さんもソウル近郊に一緒に出稼ぎに行っていて、今回は奥さんだけが里帰りといった風だった。インチョン空港の預けた荷物を受けとる所で、携帯電話番号を交換し合って、共に頑張ろうと励ましあって、そして別れる様子を、僕は遠目ながら確実に捕らえたのだった。
ソウルに着いたが、とうてい活動できる体調ではない。しかも、荷物が出てくるのを待ちながら、再会を約束していたソウル在住の従妹に電話してみたところ、その末弟の夫人が出産の際に胎児ともに亡くなり、前日に葬儀をすませたところだという。そんなとんでもない不幸の最中に、親戚と言っても外様としか言いようのない「在日」の僕が訪問して、さらに気疲れさせるわけにもいかないし、僕の体がそういうところで気を遣える状態ではない。またの機会に、と電話を切り、そのついでに他の予定もすべてキャンセルすることにした。
少しでも身軽にと、荷物をほとんど空港に預けて、リュックだけを背負ってホテルに直行することにした。リムジンバスを降りるとひどい豪雨である。地下道に退避して雨宿りしてみたが一向にやみそうにない。仕方なく、まずはリュックを背負い、その上から、ジャンパーを着てリュックの荷物を雨から守る。体が布袋さんのように膨れ上がって、身動きが面倒である。なのに、更には、頭に図門の土産物店で買って、旅行中随分お世話になったカーボーイハットを被り、そして、夏になるとどこへ行くにも手放せないタオルを首に巻いた。いわば全身武装で、雨の中に飛び出した。
但し、読者は覚えておられるだろうか、僕の左足は捻挫してまだ3日目、颯爽と走れるわけがない。そのいわば強いられた徐行のおかげで、道端のコンビニが目に入った。これ幸いと、傘を購入しようとしたのだが、疲労のせいだろうか、頭が韓国の貨幣モードにスイッチできず、一桁多めに支払おうとして、レジの主人に怪訝な顔をされる始末。
その傘の助けを借りても豪雨には勝てず、すっかり濡れ鼠でホテルに到着した。何はともあれ、緊急の連絡が入っていないかが気になり、ネットでメールの確認を済ませた後、部屋に直行した。
濡れた服などを体から剥ぎ取り、あちこちに投げ捨てる。濡れた体をバスタオルで丁寧に拭い、そしてシーツを身にまとい、直ちにベッドに入った。すぐに眠りに入ったようだ。目が覚めてみると、既に暗くなっており、窓の外を見ると雨も上がった様子。少しは何かを口に入れたほうが良いかと外に出てみたが、とても食堂に入る気にはなれず、コンビニで海苔巻きとビールを買って部屋に戻った。
テレビを見ながら、海苔巻きをビールで胃にゆっくり注ぎ込み、「カラスの行水」といつも妻に嘲笑される僕にしては考えられないほどゆっくり入浴し、またもやベッドに入った。テレビの画像も音も一向に頭には入ってこないままに再び長い眠りに入っていた。
目覚めたのは8時頃だった。それでも午後の飛行機にはたっぷりと時間がある。しかし、観光する元気などありそうにない。だからといって、直ちに空港へ行くのも、あの無機質な場所で長々と飛行機を待つなんて願い下げである。可能な限り、ホテル界隈で休息を取ることに決めた。散歩がてら外に出てみると、オープンカフェが見えた、そのテラスに陣取って、コーヒーとサンドイッチを注文し、試し手試しといった感じで口にいれ、かみ締める。少しは食べれるようになったようである。でも何が起こるか分からない、と自分の体に全く自信を失っている。
そこで、先ほどの決心が揺らいだ。まだまだ時間の余裕がたっぷりとあるのに、少しでも確実に大阪に帰れるようにと、空港へ向かうことにした。着くや否や、先ずはお金絡みの用事を済ませて、後はひたすら椅子に体を預けて出発を待った。
11.エピローグ
記憶が曖昧で、いつのことだったかはっきりしないので、上記の滞在記からは漏れてしまったエピソードを最後に。ついでに言えば、この旅行中にメモなど一切とっていなかったから、実はこの文章全体が、僕の曖昧な記憶だけが頼りである。というわけで、とりわけ日時などは間違いを多く含んでいるに違いなく、その意味では、このエピソードだけが特別という話ではないのだが。
延吉の中心部に公園がある。小高い丘を中心に、随所に小さな池なども配置され、遊園地や小型の動物園も併設されており、老若男女が楽しめる。とりわけ、中心の丘から街を一望できるというのが最大の取り柄であろう。都市というものはこういうものがあってこそ、である。そうした意味では、全く変哲などないのだけれど、その都市の風格や雰囲気について多少の材料を与えてくれそうな公園での話を幾つか。
① 中国の公園に行くとよくあることなのだが、写真撮影に最適の場所と、カメラを取り出して撮影が済んだかと思うと、急にどこからか、おばさん、おじさんが現われて、撮影料を要求する。公共の公園でどういう権利があってのことなのかと質問でもしようものなら、その場所に「それだけの投資をしているのだ」という。どういう投資で、それを行政がどういう形で認めているのか、或いは認めていないのか、よく分からない。いづれにしても気分がよくない。
しかし、中国では、それが普通なのであろうから、気分の悪さを解消したければ、そうした事態を許している社会のシステムを知って納得するしかないのであろうが、そういう面倒を引き受ける人はあまりいなくて、不愉快だけは残るということに。
② 僕らはその公園に入場する際に、料金を支払った覚えはないし、そもそも、料金所らしきものなど見当たらなかった。どこからが公園の敷地なのか、明確な境界さえも分からなかった。川筋の緑地帯を進んでいるといつの間にか公園に入っていたという感じで、そのあたりにはほとんど人影はなかった。
ところが、路を進むうちに、人が増えて遊園地や動物園まである。そして既述の丘があり、さらに経巡っているうちに、屋台などが立ち並び縁日のような賑わいがある。そして、ついには、もう一つの出入り口に至る。そこは門構えになっていて、そこから入場する場合には、料金が必要な様子だった。どこから入るかで、無料、有料の違いがあるらしいのである。これも理屈がよく分からないが、わざわざ人気の少ない方角から入場する人は少なく、そこから人気のある地域に至るには相当に歩かねばならないから、その労に対する対価ということで無料ということなのだろうか。
このあたりも、その土地には土地の常識の線、あるいは合理性の基準があるわけで、土地を知る、その文化を知るとは、そういう基準を成立させている何かを把握するということなのだろうが、それを短時間で、というのは無理がある。
③ 出店が集中して縁日のような賑わいのある区域で、周りからは少し浮き上がるように見える少年がいた。Aさんは「あれはきっと北朝鮮から来た子供」だという。そう指摘されて、目を凝らして見ると、汚れた着衣、すばしこそうな挙動、そして何より、目つきが並外れて鋭い。「何でもやりそう、やれそうな感じ」とでも言えばいいか。屋台で駄菓子を買い求め、それを舐めながら、あちこちに鋭い一瞥を投げていた。Aさんの話では、ああした子があちこちにいる、という。
がともかく、その子供を見ながら、僕は不思議なことに、何か懐かしいような思いに包まれた。その昔、僕が子供だった頃には、あの目つき、ああした雰囲気を持った子供が僕の周囲にいたからである。あの頃の、在日朝鮮人の子供たち、とりわけ、親にほとんど遺棄されたも同然の子供たちはまさにあのような目をしていた。
時には徒党の中に混じっていたが、いつどこでも安心する風はなく、孤独の影が射し、凶暴な何かを内に秘めているという感じだった。そして実際に、時として、実に凶暴な挙動に至ったあの子供たち、それが40年以上も経て、しかも、遠く離れた中国で蘇ったかのようだった。今でも世界のあちこちに、こうした子供たちがいるのだなあ!それにしても日本はやはり幸福なのだろうか、あの種の目つきを持った子供を見かけなくなって久しい、と今更ながらに思ったのだった。
因みに、かつて日本の大阪にいたあの目つきの子供たちは、今どうしているのだろうか。すっかり柔になって、僕のようなふやけた中年、或いは老人に変貌してしまっているのだろうか。或いはまた、あのハングリー精神丸出しの猛禽のような子供たちは、今ではその面影をどこかにしまいこみながら、しかしその攻撃性だけはますます磨きながら、知恵を働かして、表の世界、裏の世界で逞しく生きているのだろうか。
延辺に行くと懐かしい気がすると語る人がいる。僕もなるほどそうだと思った。
延辺は僕に昔の「在日」を思い起こさせる。そして、そのことによって、大きく変貌した「在日」の現在をも照らし出してくれる。既に中年になってしまった「在日」の僕は、延辺で見たこと、感じたことを契機に、なんとなく過ごしてしまった僕らの青春から中年までの時間を改めて生きなおすことができるかもしれない。
この社会に長く生き、若かりし頃にはなんとしても正義をなどと肩を張り、人を攻撃したりで失敗を積み重ねた結果に懲りたこともあって、成人してからは、不必要なまでに軋轢を避けて生きるべく努めてきたようで、その構えがすっかり身についてしまった。それは仕方のないことであったとも思うが、それによって染み付いた思考や感情の垢は恐ろしいまでに厚くなってしまい、それが自分を縛り付けているような気がする。その垢を少しづつ落として、もう一度生き直すなんてことが可能だとは思えないが、その努力くらいはできるだろうし、してみたい。
今生きている現場でそれをすればいいのだろうが、惰性の力に乗せられてしまって、すごく難しい。そこで、環境を変えて自らに刺激を与えるなんてことも一つの手立てになりそうな気がする。そういうものとして、延辺にこれからも通ってみようかなと思う。延辺でなくてはならないという理由などないけれど、延辺であって、悪かろうこともないだろう。
気持ちが動けば、何だってやってみるしかないし、僕に残された時間がそんなにあるわけでもないのだから、楽しみながら、その方向への歩みを続けていきたい。そもそも、結果などどうだっていいわけだし。
4)国境と地元の常識
琿春・防川の、ロシア、北朝鮮、中国3国の国境を望む地域を見学。張鼓峰事件戦跡展覧館という、おそらくは私営の観光「小屋」に立ち寄る。さらには、琿春口岸(ロシアとの交易所)見学。
この日は、この地域に詳しく、党のこの地方の機関に長年働いてきた結果、人脈が多彩という理由もあって、Aさんの妹さんが案内役を買ってでてくださり、彼女がこれまでの付き合いから全面的に信頼できるタクシーの運転手も選んできてくださった。その人がなんと漢族だった。朝鮮族の彼女が一番信頼できる運転手として思い当たったのが、漢族という事実、このこと一つだけを見ても、民族的軋轢という言葉で、何もかも説明できるわけではないという当たり前のことが再確認できる。
ともかく、上記の新しい二人の同行者のおかげで、運転手絡みの心配や不快を完全に免れたし、普通であれば立ち入りを拒まれる区域でも、特別に入ることを許されたりもした。それに何より、中国在住で、しかもその地域についてはAさん以上に詳しく人脈も豊富な妹さんが同行されたおかげで、ナビゲーター役を免れたAさんの気疲れが半減したであろうから、そのことだけをもってしても、僕としても大万歳であった。
先ずは、訪問地に関するエピソードをかいつまんでスケッチしておきたい。
① 一時期華々しく経済発展を喧伝されながら、その後、それが夢幻になってしまったかのように聞いていた琿春なのだが、街中ではロシア人の姿をよく見かけるし、大規模なビルが続々と建設中だし、工場地域もそれなりの活況を呈していた。Aさんの妹さんの話でも、この街の経済発展は著しいとのことだった。というように、中国では人も地域も都市も「栄枯盛衰」が並外れて激しいようで、海外からの旅行社の見聞記など、その真実性が多少なりとも有効なのはほんの一時期ということになりかねないようである。肝に銘じておかねばなるまい。
② 右側では図們江の向こうは北朝鮮、左は鉄格子の向こうがロシアといったように、両側を国境に挟まれた地域を車で走っていると、とりわけ、ロシアとの国境というのは始めての経験だからということもあって、やはり、国、国境というものについて考えさせられる。とはいっても考えが具体的に展開するというわけでもなくて、ただただ感傷的なものにすぎず、目の前にある、誰だって簡単に越えることができそうなあの鉄条網が国境なのか、人間は馬鹿らしいことをやるもんだ、といった程度。時折、遠方にロシアの車が走っているのが見えて、ロシア人が生活しているのだと、あまりにも当たり前のことを考えては、今度は自分の馬鹿さ加減に赤面したりもした。
③ 口岸で、Aさんのおかげで特別な配慮を受け、口岸を超え、役人の車でロシア国境のところまで連れて行っていただき、ロシア域内で記念の写真撮影をした。戻ってくると、口岸の駐車場に到着したマイクロバスから、一見して朝鮮族と分かる老女たちの集団が降りてきたかと思うと、国境の方へ向かって小走りする。但し、小走りと言っても、踊り、歌を口ずさみながらで、実におおらかで楽しそう。「オロス、オロス(ロシアにあたる中国語)」という声が次々と口から口へと、まるで木霊するように続いたりもする。その女性集団から少し遅れて、老爺が二、三人、おぼつかない足取りで追いかけていく。その屈託なげな様子に心が和んだ。
終日の三国国境地帯の観光を終えて、三国の「踏破?」を果たしたという達成感に包まれながら、夕食に向かった。延吉の中心街の韓国料理屋である。Aさんの妹さんとAさんと僕の3人で、韓国風の刺身、そして仕上げに「めうんたん」というように、僕が韓国済州島へ行く度に味わっているのとほとんど同じで、現代韓国の人気料理である。但し料理は同じでも、同席しているのが、酒を嗜まないうえに小食の女性二人に加えて、体調、とりわけ胃腸の問題を抱えた僕ということもあって、Aさんの妹さんが言うには「天然もののヒラメ」の刺身でも、半分以上残してしまった。
延辺では韓国の今風の料理はすごく人気があるようで、団体客も多く、店員たちは大わらわである。それに、朝鮮族は韓国人と同じ血だから同じくせっかちなのか(僕は本当は血なんて信じていないのだが、ここは話の展開上の言葉使いである、ご容赦を)、料理や飲み物の給仕が少しでも遅れると、文句がひっきりなしである。それも当たりはばからぬ大声である。そんな雰囲気のなかで、力のない中年男に付き添う女性二人の声はかき消されるのが自然というものである。
「早く給仕して」と注文をつけても、声が届かないのか、なかなか来てくれない。ようやくやってきて、やれやれと思ったところが、その「娘さん」の愛想のなさというかふくれっ面といったら。その様子に、Aさん姉妹は目を合わせて呆れかえっていたが、年端も行かない娘さんたちがあんなに繁盛している店で、客の厳しい注文に晒されていれば、そうなるのも当然だろうと、僕は心中で同情しきりであった。
その後、一日の疲れを癒すと同時に延辺でのお土産話にもなるだろうからと、足裏マッサージ屋へタクシーを飛ばした。最初に行ったのは、数日前にB教授に連れて行かれ、満員の盛況で入れなかった街の中心のビル5階のマッサージ屋。この日もまた満員で待ち時間が1時間と言う。仕方なくそこは諦めて、タクシーの運転手の案内で別のところへ向かったのだが、着いた界隈は薄暗くて、人気もなく、店などありそうにない。だが、その一角の薄暗いビルこそがそれだという。僕一人ではとても恐ろしくて近づけない雰囲気なのだが、いくら地元の人だとは言っても、女の人たちというのは強いもので、臆する様子もない。
薄暗い階段を上がると、一見して水商売風の女性が受付にいる。靴を靴箱に入れて、案内されるままに、これまた薄暗い個室に入る。そうした個室が他にもいくつもある。まるで売春宿(と言っても初心な中年男の僕が実際にそういうものを知っているわけでもなく、あくまで連想です、念のために)、ベッドが3つ並んでいて、銘々、そこに横たわる。程なくして、3人の女性が入ってきた。薄目を開けて見ると、受付にいた30代くらいの女性、それに続いて10代後半に見える女の子が二人である。指示されるがままに、靴下を脱ぎ、仰向けになって、足を放り出す。始めは静か過ぎるくらいで薄気味悪く、僕はとてもリラックスできない。
しかし、次第に、その3人のマッサージ師がまるで調子を合わせているように、大きな小気味のいい音を立てて僕らの足裏や腿を叩いたり、何か冗談でも言い合っているのか、笑い声が聞こえたり。その雰囲気に、当初の緊張も次第に緩み、うつらうつら。ひと時のくつろぎであった。
8月6日
北朝鮮の会寧を望む三合口岸見学。すっかり観光地化し、なんでもお金に換算されそうな図們の口岸と全く異なり、長閑で、緑濃い自然が美しい。とりわけ、高台に設置された臨江閣からは、豆満江のかなたに北朝鮮の会寧の町が望見され、長閑に見えるその町の風景が、こちらの気分も穏やかにしてくれる。
延吉の職場仲間なのだろう、男女10名くらいの中年の朝鮮族の人たちが、各自、肴とお酒を持ち込んで、その亭で車座になって談笑していた。見知らぬ僕たちにも、遠慮なく入るように勧めもしてくれた。その自然さと開放性が嬉しくて、体が元気ならば、参加したいと思った。自然と人間の長閑さが、僕のように国境などに全く感慨を持たないはずの人間にも感化を与えてくれる。
とはいえ、どこへ行ってもここは中国であることを思い知らされる。そして同時に、僕は一介の観光客にすぎない、という当たり前の事実も。
三合の口岸から上述の臨江閣への道は、地理に相当に詳しい人でないと知るはずもない山手の細い道路で、そこを登っていくと、なんとゲートで道が封鎖され、その横の小屋でおじいさんが二人、番をしている。そこを通るには10元何がしかのお金が必要だという。どういう権限があってのことなのか、Aさんに聞いてみると、Aさんは笑いながら、まあ、おじいさんたちの小遣い稼ぎではないですか、と笑っている。法的な根拠はなさそうなのである。「上は法案、下は対案」という言葉がいたるところで生きているらしい。対案というのは、政府の法案、方針に対してその隙を探って生き延びる術という民衆の智恵の産物らしい。ともかくお金を払うと、おじさんたち上機嫌で、粗末な木で作られたゲートを開けてくれた。こうして無事に臨江閣へ。
さて、その臨江閣は誰の手で作られたのだろうか。行政によってであろうか。すると、行政はこのゲートについてどのような立場を取っているのだろうか。このあたりの村の共有の入会地に、村人が臨江閣を建築し、村が共有の観光収入としているのかしら。それなら、理屈にあっているのだが。
民族村と海蘭江漂流
次いでは延吉に戻り、近郊の丘に位置する民族村に向かう。敷地はすこぶる広大で、夏の日差しの中を、まるで山中の登山道のように延々と辿っていると、汗が吹き出て、うんざりしてくるほどである。途中には、池を取り囲んで貸しバンガローや貸し別荘のような施設、そして野外バーベキューの施設なども散見されたが、それほど繁盛していそうでもなかった。ようやく、民族村らしき施設が見える。
庭には相撲の土俵、朝鮮風のブランコとシーソー、そして餅つきの臼などがあって、土俵では若者が朝鮮相撲をして見せていた。その庭の中心の建物が劇場になっている。そこで民族舞踊と歌の公演を鑑賞したが、それほどレベルが高そうにも見えず、居合わせた中国の西南部からの団体旅行客たちには物珍しさもあってのことか、大いに受けていたが、僕にとっては、ひと時のくつろぎとなりはしたが、感動とは程遠かった。
僕は韓国のソウル郊外の水原にある大きな民族村、済州島の新旧二つの民族村、そして中国北京の「少数民族宮?」内の朝鮮族の展示などを知っているから、それと比べれば、施設としてはいかにも「ちゃち」という印象が否めない。そんなこともあって、この施設を含む広大な敷地(その総体が民族村らしい)は民族文化の擁護とか、現在の利潤よりも、将来への投資の一つではないかと下種の勘ぐり。延吉の町の急速な肥大化を見れば、その郊外の高台にあるこの地域は十分に投資の妙味がありそうな気がしたからである。
因みにこの広大な土地の持ち主は、延吉の中心にあるデパート「国貿」という会社らしい。デパート会社がなぜ、というわけで、機会を窺ってB教授にその会社について説明してもらったが、中国社会のシステムがよく分かっていない僕には、ほとんど理解ができなかった。
その民族村の一角、先に記した劇場の裏手には朝鮮族の老人たちが収容されている養老院があって、僕の知人の言語学者などは、旅行中にこの民族村を訪れた際に偶然にその存在を知って、その後の旅程などかまわずに、その養老院に通って、中国朝鮮族の言語変化などの調査に勤しんだらしいのだが、僕にそんな度胸も元気もあるはずもない。自分は日本の、それも限られた狭い区域以外では全く使い物にならないという自覚がこういう風にして、日本を出るといつでもどこでも顔を覗かす。だからこそ、人並み以上に疲れるということにもなるのだろうが。
といったように、日ごとに疲労の色が濃くなる僕の様子が気になっていたのだろう。Aさんは「海蘭江漂流」いう観光宣伝を目にして、ひと時の余興を考え付いてくれた。ボートで川下りを楽しめるらしい。
ところが、生憎なことに、その場所を誰も知らない。タクシーの運転手に聞いても埒が明かないどころか、知らないところには行けないなどと乗車拒否される始末。仕方なく、海蘭江の上流ということを頼りに、街行く人に尋ねまわりながらのバスの乗り継ぎとなったわけであるが、おかげで延吉の町、そしてその郊外の実態の一端に触れることが出来たのだから、何だって考えようである。といったように、体調が悪くても、精神的に落ち込んでもこうした貸借勘定をあわせようとする商売根性だけは残っているようで、それだけが大阪生まれ大阪育ちの僕の取り柄ということになろうか。
さて、海外へ行くと、バスの利用に苦労する。とりわけ韓国や中国では、日本とは違って、時刻表などなんのその、客を待ってくれることもない。また、乗降位置も周囲の交通事情に合わせたバスの都合によってその度に移動するから、目ざとく察知して懸命に走って乗り込まねばならない。
しかし、それがその地の生活の一端なのだから、それを経験することは生活の一部なりとも経験することになる。しかも、車中での人々の表情や会話に耳を傾けていると、たとえその意味を正確に理解することなど出来なくても、その土地の人々の関係の作り方が窺えるような気がする。それにまた、町の中心部から場末へ、そして郊外へと、バスでとろとろ走っていると、緑濃い田園地帯とは別の農村の姿が、舞い上がる埃に霞みながらリアルに迫ってくる。
大都市はずれの農村は、緑豊かな田園地帯とは程遠い。町の延長で、街中よりも薄汚いというか埃っぽい。このあたりだと運転手に教えられてバスを降り、川沿いの道をひたすら上流に向かって歩くうちに、埃っぽく薄汚れた集落が途切れる郊外の果ての河原に、数個の救命具やゴムボートなどが並び、その前にうらぶれた小屋が見えた。よくよく見ると、ペンキで何か文字が記されている。「海蘭江漂流」となんとか判別できた。
しかし、人影がない。「どなたかいませんか」と声をかけても誰も現われない。拍子抜けである。手持ち無沙汰で、川とその周囲の風景に目をやっていると、当てもなくぶらついているといった様子のおじさんが現われて、小屋に入っていく。関係者のようである。漂流を体験したいのだがと言うと、「みんな出払っている。連絡を取ってみるから、携帯電話を貸してくれ」という。貸した携帯で連絡が取れたようで、すぐにスタッフが来るという。なるほど5分ぐらいして、トラックで二人の若者がやってきて、早速準備に取り掛かってくれた。
指示されるままに、救命用のジャケットを着用し、ゴムボートに乗り込み、川くだりを始めることになった。但し、携帯していたリュックなどは彼らに預けて身軽にと勧められたが、信頼して預ける気にはなれない。そんなわけで、リュックを背負った上から救命具を着るという按配で、膨れ上がった「へんちくりん」な格好だし、はなはだ窮屈である。
それにまた、操縦はスタッフ任せでのんびり見物しながらの川下りとばかり思い込んでいたのだが、予想とは違って、自分でボートを操縦するという。スタッフは万一の場合に備えて、別のボートで距離を置きながら付いてきて、危険なところ、方向転換など、遠くからアドバイスしてくれると言う。
その昔、若かりし頃に公園の池でボート遊びをしたことはあるが、久しぶりのことだし、池ではなく、なにしろ流れのある川なのだから、少々緊張するが、まあ、そんなに大層な急流でもなさそうなので、危険があるわけもないだろう。気分だけでも子供時代に戻って汗を流そうと、かえって張り切る気分になった。
最初は勝手が分からず少々うろたえる場面もあったが、しばらくすると櫓の扱いにも慣れてくる。流れが順調なところでは、櫓を漕がなくてもボートは流れに運ばれていく。日が暮れていき、日差しも柔らかくなっている。川特有の微風が涼しい。所々に岩場や浅瀬などの難所があって、油断すると岩にボートがぶつかって、たっぷりと水を浴びたりもするが、それも模擬格闘の気分でなかなかに楽しい。
夕暮れの川(早朝の川べりもまた)は僕が最も好む風景の一つで、日常生活の中で息が詰まりそうな気分になると、自転車を走らせて、夕暮れの川辺の風景と微風で一息つく。馬鹿みたいな話だが、その度に、生きているのはいいことだ、などと実感したり、或いは、自分に言い聞かせたりするのである。延辺に来て、それに似た楽しさをボート上で味わえるなんて予想もしていなかったから、実に幸せな気分であった。
一時間ほどの水遊びを終えて岸に上がると、係りの若者が待ち受けていて、トラックにボートを載せて、僕らを最寄のバス停まで送ってくれるという。運転手さんは、屈強でなかなかに二枚目の朝鮮族の青年。途中で彼にいろいろ質問しているうちに、その質問がしつこいからか、或いは僕の拙劣な朝鮮語のせいか、運転手の返事は途切れがちになる。少し気詰まりになり始めた頃に、集落に到着し、たくさんの垂れ幕が風になびく広場が見えてきた。その脇にバス停があるという。
次のバスまで随分時間がある。夕暮れのそよ風にあたっていると、濡れた服のせいで寒く感じられるほどである。Tシャツだけは替えを持ち合わせていたので着替え、周囲の民家や食堂や、広場の垂れ幕などをぼんやり眺めている。大きな集会なのか研修会のようなものが開かれていたらしく、新農村、新女性の育成といったスローガンがはためいている。
新農村というのは既に竜井市郊外でもお目にかかって目新しくなかったが、新女性というスローガンには興味をそそられた。勝手な想像によると、農村からの若者の流出、とりわけ女性の流出が激しすぎて、それを食い止める対策なのではないか。女性が流出すると、若い男性の流出も加速する。そうなると新農村どころか、農村の空洞化は恐ろしく進行してしまう。だからこそ、新しい女性が農村を救うといったように、彼女らをクローズアップし、中心的な役割を与え、精神的に動員しようということなのだろう。それなくして農村の未来はないなどと。
現に、その村の近辺には棄てられたと思える家がいくつも見えるし(出稼ぎで村を離れたのだろう)建設途中で放棄されたような新しい家があった。避暑目的の貸し別荘を計画して建ててみたが当てが外れたといったところなのではないか。それに対する抜本的な対策は見当たらず、仕方なく、女性に、というわけなのだろうなどと想像は膨らんでいく。
因みに、漂流の事務所までの川べりの道を歩いてくる途中で、瀟洒な建物が周囲から浮かび上がるように見えて、外国語専修小学校と大きな看板が掲げてあった。英才教育の小学校らしい。私立の学校らしいが、こういうところにも、中国における海外への関心、英才教育、さらには貧富の格差の現われが至るところに見られるわけである。
もう一つのおまけの話。実はその後、バスには乗らなかった。僕らがバス待ちをしていた広場に、3人が乗った少々高級なワゴン車がやってきて、延吉に向かいそうな感じがした。そこで僕は、相乗りをお願いしてみてはと、Aさんに提案した。最初は躊躇っていらしたAさんなのだが、次第に風が強くなり、暗くなっていくのに、バスがなかなか来そうにもないので、ついには決断された。
声をかけてみた運転手はいい顔をしなかったが、ともかくお客さんに聞いてみますとのこと。後部座席に座っていたその二人のお客さんは、親切にも、どうぞどうぞ、と快諾してくれた。おかげで夜の帳がすっかり降りないうちに、延吉の中心にたどり着けた。彼らは30代半ば、どこかの都市からこの地方を訪れた「お偉いさん」だったようで、延吉に着くまでひっきりなしに、延辺の印象などについて二人で議論を続けていて、なかなかにさばけて、活動的な印象だった。
事故の顛末
夕食を終えて宿舎に戻ってみると、ドア下にメモを発見した。もしよかったら、一杯いかがですかと、日本で出発前に、現地でいろいろと話しましょうと約束していたCさんからの伝言が入っていた。
Cさんは「在日」二世で、中国朝鮮族ばかりか、「在日」の諸運動、そして韓国済州島の4・3事件と「在日」との関係など、幅広い研究をなさっておられる。延辺に来る前に、済州島からみの会で偶然お会いしたことがあったし、また、僕が研究所で最後のご奉公として企画した中国朝鮮族に関する公開ワークショップにも参加頂き、貴重な話をうかがうということもあった。しかも、彼は僕の末弟の友人でもある。そうしたCさんが僕と同じ時期に延辺を訪問なさると聞いて、既に長期の延辺滞在経験をお持ちのCさんに、助けてもらえることがたくさんあるだろうし、いろんな話ができると期待していたのだが、いろんな手違いから・・・
僕と同じく延辺大学の賓館に、7月31日から数日間お泊りになると聞いていたのに、一向に姿を現さない。海外でも通話可能とお聞きしていた携帯電話に電話してみても、不通である。毎日(宿舎を移動してからも)賓館の受付に、日本からのお客さんが到着していないかを確認したのだけれど、返ってくる答えは、「そんな人はいません、(メイヨウ)」の繰り返し、いったいどうなっているのか、すごく不安になったりしていた。それに、受付の女の子には、日参して同じ質問を繰り返すしつこさに呆れられる始末。
そんな彼にようやく会えたのは、滞在も半ばを過ぎ、会うことをすっかり諦めた頃だった。事務室から宿泊手続きの問題で呼び出しがあり、事務室のある4階には何故かエレベーターが止まらないようなシステムになっているので、仕方なく普段は使わない階段を下りていくと、階段の踊り場から外を眺めている男性の後ろ姿が見えた。見覚えがあるような気がして、ひょっとしたらと、声をかけるとまさしくCさんだった。いろんな手違いが重なって、到着したのは予定より5日遅れてのことであったと言う。
ビザを取得し忘れていることに気づいたのが、出発予定の前夜。当然、予約していた飛行機便は無駄になり、迷った末に、やはり出発することに決め、相当に高くつく北京経由の便を確保して、ようやく到着した由。
携帯は通じない、到着しているはずのCさんの姿がまるで嘘のように見えない、といったように、迷宮に中にいるような不安のひとつがこうして解消されたのであった。
だが、なかなか二人で杯を交わす機会が見出せない。そんなわけだから、折角のお誘いを逃すわけにはいかない。せめて、お断りだけでも直接お会いしてお伝えしようと宿舎を出たところで・・・
夕食の酒が残っていたし、マッサージの効果でぼっとしていたのかもしれない。宿舎から出てCさんが逗留されている隣の棟に向かおうと、アプローチの階段へ足を伸ばしたところ、気持ちは既にCさんの方に向かっていたのだろう(なんと初心な中年男、まるで恋人との逢引ではないか!)、足を踏み外して、転倒してしまった。
咄嗟に大きなうめき声を発し、その後しばらくも、恥も外聞も忘れて、小声ながらうめき続けていた。数分後にようやく立ち上がったが、とても歩けたものじゃない。周りを見渡すと、少し離れたところにたぶん韓国からの留学生であろう若者たちの姿が見えるが、誰もこちらに関心を示す様子もない。いくら暗くても、転倒する姿が見えたはずだ。無様なうめき声も聞き届けただろうに、誰も駆け寄ってこないなんて、なんと薄情な、これじゃまるで日本じゃないか、などと痛さをこらえるために勝手な言い分をぶつぶつ。自室に引き返そうかと思ったが、それでは、意気地がなさすぎると思い返して、一歩前進、二歩前進と少しずつ試しながら、なんとかCさんの部屋にたどり着いた。事情を説明し、またの機会に、と所期の目的はなんとか果たすことができた。
部屋に戻って、気持ちを落ち着けるためにウイスキーを舐め、タバコを吸って、さあ、そろそろと、寝付こうかという段になって、急に悪寒が襲ってきた。歯がガチガチと震える。そのままではとても眠れそうにないので、持ち合わせの夏服を何枚も重ね着して、「捻挫による発熱なのだろうから心配することはない」と自分に言い聞かせているうちに、寝入ってしまった。
官僚の仕事と漢方の病院
K研究員は資料調査の壁を突き抜けるために、故郷なのだから現地にいろんなパイプを持っておられるはずのAさんの帰郷を心待ちにしておられた。Kさんは自分にそんな伝があるわけではないけれど、そんなに心待ちにしておられたKさんのたっての願いなのだから無碍に断るわけにもいかず、ともかく行ってみましょうと話しが決まった。僕は中国の档案館には行ったことがないので、この機会に見学がてら、同行することになった。
これまでいろいろな人の加勢を受けて資料調査にトライしてみたが、徒労に終わっていたK研究員なのだが、今回は、Aさんが同行したおかげで無事に必要資料の参観にいたる道が開けて、感激していた。
但し、それについては、Kさんの予想が当たっていたとも言えるし、外れていたとも言えるというように、微妙なところがある。担当官が「たまたま」Aさんの妹さんの友人だったから、事が予想以上にうまく運んだ。だから、それをあくまで偶然といえば、Aさんを当てにしていたのは買いかぶりとなるし、そういう偶然をも含めてAさんのネットワークの賜物と考えれば、Kさんの予想は当たっていたということになる。
ともかく、うまくいったのはKさんにとっては幸いに違いないし、僕らも大いに喜んだのだが、しかし、その档案館という歴史と公文書の砦、それはつまり歴史に関する国策の砦ということでもあるのだが、そこに流れていた微妙な雰囲気、そしてそれにまつわる各人の苦い感覚を、エピソードとして紹介しておきたい。
① 文書の閲覧を申請する担当の事務室に入ったところ、丁度そこに居合わせた中年の女性が、僕らが日本語を話しているのを見て日本人と思ったのか、日本語で話しかけてきた。自分は中国残留孤児の妻で、日本に永住帰国(帰国する夫の妻として、入国というのが正確かな)して今大阪に住んでいると。そして今回、親戚の招待のための証明書をもらいに来たのだと、付け加えた。大阪の泉北ニュータウンに居住ということで、僕も20年ほど前に一時そのあたりに住んでいたから、僕とは話がはずんだ。しかし、その途中でAさんの微妙な顔つきが目に入った。
Aさんは、僕の軽はずみな調子の良さを危ぶんでいるような気配がした。言い換えると、その中国人(現在は日本国籍なのだから、元中国人と呼ぶべきか)に対して、何かしら警戒心があるようで、日本語で話しかけられても無視する風だった。
それが心に棘のように残っていたのだが、その後の何かの折に残留孤児云々の話をすると、そういう話は眉唾ものが多いから気をつけてください、といったように、Aさんが相当に疑心を持っていることが確認できた。こういう警戒心の働き方が僕には分かるようで、よく分からない。
長年、客地である日本で暮らしてこられた経験のなせる業なのか、あるいはまた、漢族に対する警戒心、嫌悪感の延長なのか、或いはまた、こちらで何回も経験する、日本でのコネクション作りの一環ではないかと警戒心が働くのか、といったようにただただ想像をめぐらすだけで・・・
② 先にも触れたように、Aさんの知人のおかげで事がうまく運んだのはいいのだが、その担当官の女性はそのKさんへの便宜、つまりは間接的にはAさんへの便宜と言えないわけでもないのだが、そうした便宜を図るついでに、Aさん及びその姉妹の近況を詳しく尋ね、大学の3年生である息子が外国もしくは上海などの大都市で働くためのコネ作りに努力している気配があり、Aさんはそれを明敏に察して対応されていた。
Aさんはその種の面倒をこれまで何度も引き受けてきた結果、時には警戒心が強く出て、厳しくはねつけたり、またある時には、これこそ自分の運命と思い定めて、いさぎよく引き受けたりということのようである。
③ その担当官が、これまでK研究員の要望をいろいろな理由を盾にして撥ねつけてきたのに、その日はAさんの同伴もあって、一転して要望を受け入れたことについてのAさんの見解は僕の理解では以下のようになる。
1.自分の権威をひけらかすこと。2.ついでは、コネで利益供与(実は市民に対する当然のサービス)をすることで、恩を着せる。3.そして、その後何らかの折に恩返しを求める、というようなことになっているのだと。
但し、こんなことを書いたからといって、その担当官が腹黒い人であるなどと判断されては困る。というより、事実に悖る。その方は、落ち着いた、微笑を浮かべる中年女性で、何か特別なことをしているというような感じもなく、仕事を淡々とこなされている様子だった。つまりは、先に僕が書いたようなことは、彼女としては実に自然なこと、言い換えれば、中国の延辺の人たちの、そして官吏の普通の対応だった。それが、見方によっては、公私混同、職権乱用といった言い方が出来なくもないといったこと、僕にとってはそれこそが重要な事実なのである。
さて、前日の捻挫で歩くのに難儀している僕の姿を見て、Aさんは責任を感じてのことなのか(責任など彼女には全くないのだけれど、母性本能などといえば叱られるかもしれないが、そうとしか言いようがない行き届いたお世話の数々)、なんとしても延吉の代表的な中医医院(漢方の病院)で治療をと、タクシーで連れて行っていただき、診察と針治療を受けた。
針を嫌がる人もいるらしいが、僕は幼い頃から針には慣れている。その昔、僕などが子供の頃には「在日」には健康保険などなかったから、よほどのことがないと高くつく正式の医者にはいけない。そこで、無認可の医者や歯医者(そういうものが存在していたのですよ、しかも、その種の闇営業の先生方は相当に人望を集めていたのです、今では信じがたいことでしょうが)、民間療法、そして按摩、針に親しんでいたのである。僕は尋常以上に怖がりという評価を受けていたのに、蓄膿に効くといっては、鼻や目元、さらには頭の天辺にと治療を繰り返されているうちに、慣れが怯えを追い払ってくれたようである。
それに鍼灸については、特別な因縁も作用していた。父の工場で働いていた在日一世のおじさんが夜学で鍼灸を習い、後に正式に開業することになるのだが、その当時は、アルバイトで、休日や夜間の出張治療だけをしていた。母は体調が悪くなると、いつもそのおじさんに家に来てもらっており、それを僕はいつも目にし、慣れ親しんでいたのである。
その後も現在に至るまで、いろんな機会に針治療を受けてきて、経験的に、針は極めて有効である、と信じている。とはいえ、昨今は、針の使いまわしによる血液感染の心配が取りざたされ、内科医である僕の兄はもともと心配性であることに加えて、西洋医の沽券にかけても漢方を信じないといった感じが強く、とりわけ血液感染についてはやかましく言う。その言葉が頭に残っていた。それに中国では予防接種によるエイズの血液感染で村が絶滅したなどとの噂も俄かに思い出した。
そこで、新しい針で治療していただけるでしょうかね、と僕がAさんに尋ね、Aさんも、それはいいことです、要求してみましょうと言い、担当医に対して念を押してくれ、医師も了承したはずであった。ところが・・・
僕が針治療の部屋に入り、ベッドに横たわり順番を待つ間、Aさんが医療費の支払いなどの確認のために僕の近くを離れた。そして、ほんのわずかな時間にすぎないその間に、僕に対する針治療が始まった。そのとき、僕は勘で、新しい針の使用といった指示は現場には伝わっていそうにない、だからもちろん新しい針を使っているはずもないと確信していたが、生来のいい加減さを発揮して、仕方がない、「もう針の上のむしろ」などと観念して、針を受けた。
Aさんが戻ってきた。ベッドに横たわり針治療を受けている僕に、痛くないですか、などと母親のように僕を心配してくれる。そしてその延長で思い出したのか、「新しい針でしたか」と問うので、「たぶんそうじゃないでしょうねえ」と僕はAさんにすまない気持ちになって低い声で答えた。すると、Aさんはうろたえ、ついでは激しく怒り、担当の医師を探しまわり、抗議するといった大事になってしまった。
医師は申し訳ないとはいいつつも、「手術用のメスと同じような消毒をしているので安心、何と言ってもここは病院です」とプライドを傷つけられて不快という様子だった。それでもかまわずAさんは食い下がり、「海外からのお客さんにもしものことがあればどうするのか。今回は仕方ないが、明日の治療では絶対に新しい針を」と要求し、医師もついには確約した。但し、翌日には朝一番で来るように、とのことだった。朝一番なら新しい針を使えるということなのだろうか。
ということは、その日僕は朝一番ではなかったから、新しい針を使えなかったのだろうか、そしてそのことを医師ははじめから承知しながら空約束をしたのか、或いはただの事務的な手違い、つまり伝達不足による失態なのか、といろいろ思いをめぐらして、翌日の件についても半信半疑だったが、翌日、朝一番で行くと、なるほど、新しい針を卸してくれているようだった。
韓国の地方の病院でも同じような印象を受けたことがあるのだが、ここ延辺の漢方の病院は、鉄筋の4階建て、中心街にあって、相当のステイタスを備えていそうなのに、取り澄ましたところが全くない。玄関の近辺にはいろんな屋台がところ狭し並び、アプローチのステップにはおじさん、おばさんが腰を下ろしタバコを吸ったりしており、誰もが自由に出たり入ったりしてOKという感じである。日本の病院の、殺菌されて建物も人間も無機質になってしまった印象に対して、中医(漢方)病院だからなのか、建物も人間も有機物であり続けているといった感じか。日本でも鍼灸院などでは良く似た感じなのだが、病院と名の付く所としては、やはり日本とは大いに異なるようである。
そんな雰囲気が僕に作用したのか、一時間ほど針治療を受けている間、主任医師の指示を受けて実際の針治療をしてくれる助手さんたちと、四方山話となった。僕の世話をしてくれた青年医師(あるいは医師の助手か?)、30代半ばくらいですごく優しく親切そうだから、ついつい話しこむことになったのだが、その彼がなんと、韓国済州島、それも僕の親戚が多数居住する西帰浦からはるばる延辺にまでやってきているのだと言う。
数年前に済州島で幾人もの延辺出身の方に出会って驚いたのだが、延辺人が世界のどこにでもいるように、済州人も同じなのだと、様々な民族の国境を越えた流動(或いは、移動)という事実を改めて思い知った。
因みに、彼の話はこうである。こちらで漢方の医師の資格を得ても、韓国ではそれを認定してくれない。韓国でまたもや漢方医の大学に入って、卒業して国家試験を受けなくてはならない。しかし、そんな悠長なことをやりたくない。第一、既に知識も経験も十分なのだから、時間とお金の無駄である。既に済州島から奥さんを娶り、子供も二人いる(後で携帯の写真を見せてくれた)。済州島にいる両親のことが心配で帰国したいのは山々だけれど、先の展望が全く開けないので、当座は、居残るしかないと。
もう一人、助手の若い女の子の話。学生だというので、アルバイトかと聞くと、そうではなくて、無給で研修をしているのだという。延辺出身で、高校時代は何が何でも延辺から遠くに出たいと思って、はるか遠くの湖南(毛沢東の生地)大学の漢方医の学部に進学したのだが、帰郷に際しては、2昼夜の列車旅行、それも寝台車の取得はすこぶる難しいから、座る席ではるばる帰郷という大変さ。それに、この病院は主任の女性医師を始めとして、スタッフのみなさんが有能だしすごく親切なので、ここで研修できてすごく満足しており、わざわざあんな遠くの大学に進む必要などなかった。今では後悔している、と言う。但し、その「後悔」という言葉とは裏腹に、ふっくらとした体で微笑を絶やさず、楽しそうに働いていた。
夜、延辺大学の国際交流関連事務局の歓迎の食事会に招かれた。体調の問題もあって、儀式ばった席は御免蒙りたいと思ったが、先に触れたCさんが同席するというので、参加しないわけにはいかない。
現地の農村経済の専門家、日本から来ていた人口流動の研究家T氏(東京の大学の教員で日本人)、そして延大の海外交流関連の職員で日本語が実に流暢なKさん(例えば、話の中で、競売のことを、正式な法律用語で「けいばい」と言っておられた。そんな言葉を使えるなんて、日本で法律でも勉強されていたのであれば分からぬこともないが)と、ホテル内のおしゃれな中華料理屋での会食である。
招待されたとは言え、本当のところは、僕は付け足しのようだった。Kさんは日本に留学中にCさんにすごくお世話になったらしく、そのCさんの歓迎ついでに僕たちをということだったようなのである。しかし、経緯がどうであれ、Cさんのたっての要望で、中国の農村の実態を良く知る研究者が特別に招かれていたおかげで、酒席というより、その研究者を中心にしての研究交流の場となった。中国の農村経済の実態と展望、少数民族問題などについて、貴重な話を聞くことができたのは本当に有難かった。いろいろな事情があって、詳しくは書けないが、話題の項目だけ挙げれば、以下のとおりである。
①朝鮮族の現状と本音。②漢族との軋轢。③将来的には漢族に吸収されるという悲観的展望。④漢語の主流化。⑤朝鮮語を母語にする人たちは、韓国を憎みながらも、韓国をバックに、或いはそれを盾にして生きる道を見出すしかない。⑥大学の独立採算という状況を積極的に生かして、経営的視点を導入して、大学、さらには延吉市、そして延辺全体の開発に取り組もうという考え方があって、決して夢ではないという。⑦大学の国際交流に一貫性を欠く。学長が代われば、それまでの交流の歴史は無になってしまいかねないのが現状という。中国の大学のトップダウン的行政手法の一端なのであろう。
8月8日
前日に引き続き、中医医院にて針治療。そのついでに、不調をきわめる胃腸の診察も受けることにして、消化器系の主任医師の問診を受けた。その医師は朝鮮族のようだったが、日本語も少しは話せると言っていた。僕が抽象的な言い方で、胃腸の不調を「機能していないのです」などと勿体をつけて説明すると、「どのように機能しないのか具体的に」と僕の勿体を崩すなど積極的で実際的な診療の上、その延長で、「せんじ薬を試してみますか」と問われて、「望むところです」と答えると、21日分の大量の漢方薬(煎じ薬)を処方してくれた。
さらには、その医師は韓国へ入国の際に、麻薬などの禁止薬物の密輸の嫌疑がかけられることを懸念して、クレームが付いたら提示するようにと、細かな内容説明の文章を書いてくれるなど親切だった。
その薬を待つ間、他にすることもないので、薬局のガラス窓越しに調剤の様子を見学した。20数種類の薬草箱から、塵取りのようなもので次々と掬い上げて、並べられた21個の小さなスコップのような容器に入れていく。目分量で分割作業はなかなかに難しいはずなのだが、それほどに精密であるわけではなく、大雑把である。とはいっても相当に面倒であることに変わりはない。二人の薬剤師が見事な役割分担で、30分ほどもかけてようやく完了。20センチ四方の大きな茶封筒一つが一日分で、総計21個の大きく膨れ上がった茶封筒こそは僕が日本に持ち帰って毎日煎じて飲むべき薬というわけである。
患者一人のために、なんとも時間をかけてくれたものだと感謝。後は、これだけの量の薬を既に資料などで満杯になっているスーツケースのどこに収めて持って帰るか、さらには、日本に帰って、毎日自分で本当に煎じて飲み続けることが出来るか、などと僕に大きな宿題が課せられたわけである。
情けない再会
夜にはまたしても宴席に。10年以上日本で働き、半年前に延辺に帰国した延辺出身の知人Cさんの招待である。同じ職場で働いていたのだが、生まれ育った文化の違いもあってか、生き方や発想が僕なんかとは随分違うといった感触もあり、特に親しいとは言えない。それにまた、彼の頼みごとに対し、僕は善意を差し出したのに、その結果は、煮え湯を飲まされたといった思いもあった。しかし、彼にとって日本は異郷であり、それだけにいわく言いがたいことが多々あったに違いなく、そうしたことも遠因で、僕との齟齬が生じたのかもしれないといった反省もあった。
それになにより、彼から中国へ帰るという話を聞きながら、別れの挨拶をする機会を逸したことが悔やまれ、それが僕の心に棘のように残っていた。そこで、彼の故郷である延辺で、日本生活の総括や帰国の真意などを心置きなく話してもらい、それを理解することで、僕なりに二人の関係のけじめをつけたかった。だから、延辺に着くと直ちに、会いたいと連絡を入れ、彼も快く、再会の機会を準備すると言ってくれていたのだった。
さて当日、彼はすごい高級車で、約束の延大の正門まで僕を迎えにやって来た。その仰々しさに怖気たというわけでもないのだが、会うとすぐさま、僕は体調の極度の不調を伝え、申し訳ないのだけれど短時間で帰る旨を伝えた。
しかし、時既に遅し!彼は車の中に見知らぬ若い女性を連れてきており、本気なのか冗談なのか、「彼女を明日の朝まで、好きなようにして下さい」とのたまう。この時点で僕と彼とのボタンの掛け違いは予想以上に達していることを悟った。そしてその後も同席している間中、わざわざ彼に連絡をとったことを後悔する気持ちが募ることこそあれ、薄れることはないような展開になっていった。
案内されたホテル二階の高級料理店(実は前日の宴席と同じテーブルだった。延辺大学関係者はこの席、とでも決めてあるのだろうか、まさか!)には、彼のなじみのカラオケスナックのマダム、そして彼の学生時代からの旧友が同席していた。その他に、僕の知らない人が数人参加の予定だという。はるばる日本からおいでなのだから、にぎやかに歓迎しなくては、と彼は言うのだった。
ところがいくら待っても、その人たちはやってこない。時折、携帯電話が鳴り、急用で不参加の連絡が続いた。僕にとってはもともとどうでもいい人たちである。むしろ、招かれざる客である。しかしながら、予定していた客が次々不参加となれば、宴席にケチがついたような気分についついなってしまう。大きな円卓の周囲にあまりにも広い空席があると、なんとも格好がつかないし、落ち着かないのである。
結局、初めから参加していた総勢5名だけの会食になった。大勢の二次会の客を当て込んで同席していたのであろうカラオケ(或いはルームサロンといったほうが正しいのだろうか。そのホテルの上階にあるらしい)のママは、予想外の少人数であるばかりか、僕がどうしても二次会はごめんこうむると言い張ったせいもあって、すっかり当てが外れて、食事を急いで済ますと、「お客が立て込んできたようだから店に戻らなくては」と言い残して、途中で退席した。
白けた会食は疲れるし、せっかくの料理の味もなくなるからと、少しでも宴席らしくなるように「サービス」に励んだ。適当に冗談を言い、適当に飲み、そして適当に食べた。そして最後に、重ねての二次会の誘いを頑なに固辞して彼らと別れ、小雨の中をびっこを引きながら、宿舎まで帰ったのである。
実は、その料理屋が収まっているホテルは、大学から500メートルくらいの距離で、なぜ、彼がわざわざあんな豪華な車を寄越したのか、全く訳が分からない。それも自分の車ではなくて、友人の車を運転手ともども借用したらしいのだから、すべて彼特有のハッタリということなのだろうか。予想しなかったわけではなかったが、予想を超えた不愉快な再会であった。悪い予感にしり込みしないで、ついつい自分の思いで突っ走ってしまう悪い癖のもたらした事件の顛末ということになる。
それでも僕にとっては延辺観察の機会であることに変わりはない。そこで、エピソードを幾つか紹介しておきたい。
同席したマダムは、延辺の朝鮮族の女性なのだが、若かりし頃には民族歌舞団に所属し、歌姫を夢見ていたのだという。しかしその後、結婚したことに加えて、化粧品の薬害で顔に大きな痣ができてしまったりもして、夢を放棄することを余儀なくされたのだという。化粧品で肌に大きな問題を惹き起こしたという話は中国の他の都市でも聞いたので、よくある話なのかもしれない。但し、日本でも昔はよくあったし、韓国でも耳にするので、中国社会だけの病理などとは到底いえるわけがない、念のために。
そのマダムに関連してもう一つ。彼女は近頃離婚したのだが、その夫はもう既に15年以上もシンガポールに単身赴任しており、ここ数年は全く帰ってこなかったのだという。そのために、一人娘さんがようやく成人したのを区切りに離婚に踏み切ったという。なんと長い歳月か!
まるであのソフィアローレンの映画『ヒマワリ』のような話があちこちに「転がって」いるわけである。(話の筋は相当に異なっていて、この比喩はほとんど意味を成さないが、言わんとすることが分かっていただけるでしょうか?)。なるほど、そのマダム、そうした話を聞いた後で考えてみると、何かしら影があって(頬の痣も、そういえば、あるようなないような)、その影が妙な色気となっていたなあ、と後知恵で思う。
但し、彼女に「色気」があるとは言っても、もっぱらその色気で商売をしているようにも思えなかった。気遣いが行き届き、それよりなにより、時々、すごく優しい目つきを覗かせて乙女のようなところもあって、僕は好感を持った。この印象をも色香に惑わされたといわれれば返す言葉がないのだが。
いまひとり、僕の接待用(?)に同席した娘さん、彼女はあの後、どうしたのだろうか。
彼女を除いた参加者は僕を含めてみんな広義の朝鮮族の属しているから、共通語として朝鮮語で話すことになる。とりわけ、僕は一応主賓となっており、その僕には漢語の会話に入っていく力はないからでもある。そこで、漢族である彼女だけが除け者扱いということに、ついついなってしまう。そこで僕がなけなしの義侠心?を発揮して、下手な漢語でなんとか獲得した成果は次のとおりである、彼女はもともとハルピンの人で、家族全員と一緒に竜井に移住してきた。歳は21歳と言ったか。きれいに着飾っているけど、服装にしても化粧にしても「水商売の匂い」があるわけでもない。また、人擦れのした感じもなくて、お洒落に凝っている普通の女の子といった感じ。その彼女、彼女には全く理解できない朝鮮語の会話が続くのだから相当に退屈しているはずなのに、別に嫌がっているというような風でもなく、微笑を浮かべながら、所在なげであった。こういうことが彼女の仕事なのだろうか。
10.帰路
最終日なのだからせめて朝食を一緒にと、B 教授がお土産まで携えて宿舎に。Aさんともども、延吉で最高級の国際飯店に赴いた。昔は白山ホテルが最高級だったのだそうだが、最近はその覇権がこちらに奪われたそうである。なるほど、世界の各地から、とりわけ韓国からの観光客で満員の盛況である。延辺大学で夏季休暇中にひっきりなしに開かれている数々の国際学術シンポジウムの宿舎もたぶんそこなのだろう、顔見知りの延辺大学の教員が招待客のお世話なのか、朝から忙しそうにしているのをロビーで見かけた。
軽くのつもりが、香りや彩りでついつい心をそそられて、数種類のお粥、点心、そして野菜サラダで十分以上の朝食で、延辺における朝食では格別なものになってしまったが、もう帰るのだと思うからか、心なしか元気になっている。コーヒーの香りが僕を元気付けてくれる。僕はこのコーヒーなしでは生きられない人間で、既に述べたように、わざわざ僕の行きつけのコーヒー店でお気に入りの豆を大量に購入し、延辺まで持ち込むほどで、宿舎の事情でそれを楽しむことが叶わなかったから、延辺で初めてまともなコーヒーの香りと味を堪能できたのは、最終日とは言え、有難かった。
ついでに、わき道にそれることになりそうだが、延辺のコーヒー事情、というか、喫茶店について、一言。その昔、韓国ではまともなコーヒーを楽しめることは望み薄で、高級そうな喫茶店でも、マックスェルかネスカフェが出てきたものだった。もちろん、インスタントである。しかも、その味が日本で飲むものと微妙に異なって、何か甘い香りがあって、それが鼻について、僕は受け付けなかった。そこで、当時は、日本からネスカフェの大瓶をみやげ物として持っていくと、大いに歓迎されたし、自分用にもそれを携帯したりしていた。ところがその韓国でも今や、日本と変わらないコーヒーがあちこちで飲めるようになった。何と言っても、世界に名高いスターバックスがその代表なのだが、それに引けを取らないチェーン店がソウルなら随所にある。
そのスターバックスは北京でも随所に姿を現しているのだが、延辺では見かけなかった。ところが、ここでは高級な喫茶店として、なんと日本の神戸に本社がある「上島コーヒー」の店があった。但し、喫茶店の概念が僕らとは少々異なるようである。その昔、韓国の喫茶店は「茶房(タバン)」と呼ばれ、一種の風俗店の役割を果たしていたらしく、いつごろからか、それと区別するために、「普通の」喫茶店は「コーヒーショップ」と呼ばれる。
延辺の喫茶店はどちらかと言うと、その「茶房」に近い雰囲気がした。席にはべる女給などはいないのだが、豪華なソファーなど、調度品は豪華を衒っている。それに個室ではないけど、ほとんど個室に近いような贅沢な空間が提供されている。それにまた、アルコールなども出すし、豪華に装ったフルーツなどが出されたりもしていた。
キーワードは豪華の衒い、一種の成金趣味が徹底している。日本で言う、ラウンジに近いと言えば分かっていただけるだろうか。但し、僕にとっての最大の問題は、その上島コーヒーの味が期待したほどでは全然なくて、それでいながら、価格のほうは調度に見合った一人前であったことである。
ホテルに戻る。その国際飯店のコーヒーは、結構いける。延辺で一番おいしいコーヒーであった。おかげでタバコの味も久しぶりに満足のいくもので、気分良く食事を終え、記念にホテルの玄関前で写真を撮り、B教授の見送りを固辞して別れ、Aさんと空港へ急いだ。
あまり早くに着いたので、チェックインすることも出来ず、時間つぶしに空港の喫茶店に立ち寄って最後のコーヒー、タバコを楽しむつもりが、次第に胃腸に異変の兆候が。冷や汗まで出てくる。なんとかしないと搭乗できないのでは、と心配になるが、今更じたばたしても仕方がない。ともかく、足を引きずり、トイレに駆け込んだ。時間の余裕があるのをこれ幸いと、長時間、トイレに座っているうちに、少しは落ち着いてきた。後は、このまま胃腸がおとなしくしてくれることを願うばかりである。
チェックインに向かう。先ほどは無人状態だったのに、喫茶店、そしてトイレで粘っているうちに、列はすごく長くなっていて、その最後尾につく。すぐ前に、女性の二人連れが、ひとつの大きな荷物を二人で抱えている。変わった二人だなどと思っていると、お年寄りのおばあさんと少年がやってきて、4人で言葉を交わしている。何か落ち着かない様子である。程なくして、30代前半に見える、陽に焼けて精悍な顔つきの男性が微笑みを浮かべて現われ、全員にホッとした雰囲気が広がった。
その様子を見ていたAさんがおばあさんに話しかけてみると、次のような事情だった。その若者はおばあさんの一人息子で、最初に荷物を持っていたのは、その姉と妹という。息子は妻と一緒にソウルに出稼ぎに出ており、今回、久しぶりに息子だけが里帰りしたのだが、今から再びソウルへ旅立つことになっている。その息子夫婦の子供が、先の少年で、両親はその子をおばあさんに委ねて出稼ぎに出たので、おばあさんが育てている。その子にとって、久しぶりの父親との対面は嬉しいことだけれど、別れの段になると、一段と淋しくなるようで・・・
その話を聞いた後で見ると、なるほど、その男性と女性二人の顔つきは似ている。おばあさんは韓国でもよく見かける、いかにも朝鮮人農民の姿で、顔には深い皺が縦横にめぐっており、その皺の中に目が埋まっているかのようである。一人息子との別離に心穏やかではなかろうに、健気にも絶えず微笑を浮かべて、いろいろとAさんに説明している。そうすることで別れの辛さを紛らわしているのだろうか。
その後、出国手続き、飛行機の到着が遅れたせいで長引いた搭乗待ちなどの間中ずっと、体調の異変に苦しんでそんな余裕があるはずもないのに、気がつくと僕は、その日に焼けた青年の姿を追っていた。彼の姿に、亡父の似姿が見えるような錯覚に耽っていた。体調が悪いから、余計に感傷に溺れるのだろうが、こういう感傷を除けば僕の旅なんて何一つないようなもので、だから余計に疲れるということになるのだろう。
さて、父の似姿というのは、ありえたかもしれない自分の似姿ということでもあって、そこで、一席。
僕の父は十代の後半に韓国の済州島から日本にやってきたという。本当のところ、父から直接にその経緯を聞いたことがあるわけでもなく、あくまで話の断片を寄せ集めて想像で味付けしただけのことなのだが。
がともかく、その信義疑わしい僕の知識に則れば、父の父、つまり祖父は学があって、村では一定の尊敬を集め、村長みたいなこともやっていた。しかしその分、汗を流して働くという風ではなかったらしく、格式はあっても実のところ貧乏農家にすぎない。その長男、つまり、父の長兄は父親の生き方をそっくりそのまま受け継いで農作業などには手をつけず、生活の糧を担うのは、次男と三男であるわが父。次男は出稼ぎに、そして僕の父は小作や土方仕事など、仕事があれば何だって食いついては懸命に働き、その下の4男だけはそのおかげもあって、国民学校に通うことができ、解放後は警察官となった。
次第に植民地化の土田舎にも戦時色が濃くなり、父は徴用逃れということもあって、土方仕事でまとまったお金を稼いで旅費を工面し、日本に渡ってきたらしい。その父と母との日本の片田舎でのロマンチックな出会いというのも、僕は父が亡くなってから従兄の口から初めて知ったという具合で、息子としてはなんともお粗末な話である。
がともかく、その後も父は日本で懸命に働き、そしてそれで得たお金を韓国に持ち込んだ。「故郷に錦」というわけである。夫婦二人で老後を生まれ故郷で暮らすという夢があっただろうし、貧しい故郷にそれなりの貢献をしたいという長年の夢もあったようである。それにまた、兄弟姉妹にできる限りの援助をしたいという気持ちもあった。しかし、事はそのようには運ばず、かえって、血縁者との軋轢などが、次々と生じ、それがその後の母のみならず僕ら兄弟の大きな心配の種になるわけで、異郷での労苦の結果が思わぬ問題を背負い込むことになった。
さてその父の日本での働きようは、僕などから言えば、糞まじめな農民の姿に他ならず、彼がそのまま韓国に居続けたならば、なるほど経済的な苦労は多々あっただろうが、精神的には彼の気質にマッチしてよほどに幸せな人生を送ったのでは、というのが僕が永く心に抱いて放さない感傷なのである。
そうした父の場合は、自分が生まれ育った家族とは別れ別れになったとしても、日本で出会った母と家庭を築き、彼自身が作り上げた家庭と離れることはなかったからまだしも、戦後、日本に密入国してきた親戚その他の様子を傍から見ていると、出稼ぎのための家族離別は、その後に多様かつ大きい問題を生じさせているようである。
たとえば、日本での懸命な労働で稼いだお金を送った結果、奥さんや子供たちは経済的には苦労はなくても、親子の情、夫婦の情は薄れて、家族が解体するというようなことになったりもするのである。というように、家族とはいったい何だろうかと思わずにはおれない。というわけで、家族の別離をものともせず出稼ぎを敢行する、或いはそうせざるを得ない延辺の若者たちの懸命な姿の彼方に、僕はついつい不幸の影がさすのを勝手に読み取ってしまう。そしてその延長で、生まれた時代と場所が少しだけ異なっていたら、僕だってそうなっていたかもしれないと思わずにはおれないのである。
というわけで、日本に生まれ育った己の幸せを土台にして感傷にふけるという自己満足かといわれそうだが、それだけではないはずである。夫婦や家族が、いかにやむを得ない事情があったとしても、長期間別居することによって生じる亀裂など、愛の強さなどというものではどうしようもないようである。孤独な日常ゆえに生じる人恋しさの力、それが離れ離れの家族や夫婦の間に大きな亀裂を生じさせる。
そうした日常と時間の恐ろしいまでの破壊力を無視できない年齢になったというわけである。
ともかく浅黒い肌の中に浮かび上がる輝く眼と言いたいところだけれども、その眼の中、そしてその挙動には、何かしら不安の影がある。出国手続き、そして韓国の入国手続きがクリアーできるかを心配しているのではなかろうか。その若者の姿、そして彼の心中の想像といったことが、ずっと僕の脳裏を離れなかった。
ソウル行きの飛行機で同席したのも、延辺への里帰りを終えて再度ソウルへ出稼ぎの旅に向かう二人の女性だった。僕は機内食などには全く手をつけられず、水を嘗めるのがやっとの状態なのに、その二人の挙動がついつい気になってしまう。
始めは同行かと思っていたが、全くの見ず知らずの他人だということが後に判明した。一人は30前後で、化粧や服装が水商売風で、なかなかの美形であるが、何かしら表情に疲れが見える。その彼女が、横に座った40代半ばの、いかにも肉体労働で生計を立てているといった感じのおばさんにすごく親切に気を遣ってやっている。おばさんの方は、旦那さんもソウル近郊に一緒に出稼ぎに行っていて、今回は奥さんだけが里帰りといった風だった。インチョン空港の預けた荷物を受けとる所で、携帯電話番号を交換し合って、共に頑張ろうと励ましあって、そして別れる様子を、僕は遠目ながら確実に捕らえたのだった。
ソウルに着いたが、とうてい活動できる体調ではない。しかも、荷物が出てくるのを待ちながら、再会を約束していたソウル在住の従妹に電話してみたところ、その末弟の夫人が出産の際に胎児ともに亡くなり、前日に葬儀をすませたところだという。そんなとんでもない不幸の最中に、親戚と言っても外様としか言いようのない「在日」の僕が訪問して、さらに気疲れさせるわけにもいかないし、僕の体がそういうところで気を遣える状態ではない。またの機会に、と電話を切り、そのついでに他の予定もすべてキャンセルすることにした。
少しでも身軽にと、荷物をほとんど空港に預けて、リュックだけを背負ってホテルに直行することにした。リムジンバスを降りるとひどい豪雨である。地下道に退避して雨宿りしてみたが一向にやみそうにない。仕方なく、まずはリュックを背負い、その上から、ジャンパーを着てリュックの荷物を雨から守る。体が布袋さんのように膨れ上がって、身動きが面倒である。なのに、更には、頭に図門の土産物店で買って、旅行中随分お世話になったカーボーイハットを被り、そして、夏になるとどこへ行くにも手放せないタオルを首に巻いた。いわば全身武装で、雨の中に飛び出した。
但し、読者は覚えておられるだろうか、僕の左足は捻挫してまだ3日目、颯爽と走れるわけがない。そのいわば強いられた徐行のおかげで、道端のコンビニが目に入った。これ幸いと、傘を購入しようとしたのだが、疲労のせいだろうか、頭が韓国の貨幣モードにスイッチできず、一桁多めに支払おうとして、レジの主人に怪訝な顔をされる始末。
その傘の助けを借りても豪雨には勝てず、すっかり濡れ鼠でホテルに到着した。何はともあれ、緊急の連絡が入っていないかが気になり、ネットでメールの確認を済ませた後、部屋に直行した。
濡れた服などを体から剥ぎ取り、あちこちに投げ捨てる。濡れた体をバスタオルで丁寧に拭い、そしてシーツを身にまとい、直ちにベッドに入った。すぐに眠りに入ったようだ。目が覚めてみると、既に暗くなっており、窓の外を見ると雨も上がった様子。少しは何かを口に入れたほうが良いかと外に出てみたが、とても食堂に入る気にはなれず、コンビニで海苔巻きとビールを買って部屋に戻った。
テレビを見ながら、海苔巻きをビールで胃にゆっくり注ぎ込み、「カラスの行水」といつも妻に嘲笑される僕にしては考えられないほどゆっくり入浴し、またもやベッドに入った。テレビの画像も音も一向に頭には入ってこないままに再び長い眠りに入っていた。
目覚めたのは8時頃だった。それでも午後の飛行機にはたっぷりと時間がある。しかし、観光する元気などありそうにない。だからといって、直ちに空港へ行くのも、あの無機質な場所で長々と飛行機を待つなんて願い下げである。可能な限り、ホテル界隈で休息を取ることに決めた。散歩がてら外に出てみると、オープンカフェが見えた、そのテラスに陣取って、コーヒーとサンドイッチを注文し、試し手試しといった感じで口にいれ、かみ締める。少しは食べれるようになったようである。でも何が起こるか分からない、と自分の体に全く自信を失っている。
そこで、先ほどの決心が揺らいだ。まだまだ時間の余裕がたっぷりとあるのに、少しでも確実に大阪に帰れるようにと、空港へ向かうことにした。着くや否や、先ずはお金絡みの用事を済ませて、後はひたすら椅子に体を預けて出発を待った。
11.エピローグ
記憶が曖昧で、いつのことだったかはっきりしないので、上記の滞在記からは漏れてしまったエピソードを最後に。ついでに言えば、この旅行中にメモなど一切とっていなかったから、実はこの文章全体が、僕の曖昧な記憶だけが頼りである。というわけで、とりわけ日時などは間違いを多く含んでいるに違いなく、その意味では、このエピソードだけが特別という話ではないのだが。
延吉の中心部に公園がある。小高い丘を中心に、随所に小さな池なども配置され、遊園地や小型の動物園も併設されており、老若男女が楽しめる。とりわけ、中心の丘から街を一望できるというのが最大の取り柄であろう。都市というものはこういうものがあってこそ、である。そうした意味では、全く変哲などないのだけれど、その都市の風格や雰囲気について多少の材料を与えてくれそうな公園での話を幾つか。
① 中国の公園に行くとよくあることなのだが、写真撮影に最適の場所と、カメラを取り出して撮影が済んだかと思うと、急にどこからか、おばさん、おじさんが現われて、撮影料を要求する。公共の公園でどういう権利があってのことなのかと質問でもしようものなら、その場所に「それだけの投資をしているのだ」という。どういう投資で、それを行政がどういう形で認めているのか、或いは認めていないのか、よく分からない。いづれにしても気分がよくない。
しかし、中国では、それが普通なのであろうから、気分の悪さを解消したければ、そうした事態を許している社会のシステムを知って納得するしかないのであろうが、そういう面倒を引き受ける人はあまりいなくて、不愉快だけは残るということに。
② 僕らはその公園に入場する際に、料金を支払った覚えはないし、そもそも、料金所らしきものなど見当たらなかった。どこからが公園の敷地なのか、明確な境界さえも分からなかった。川筋の緑地帯を進んでいるといつの間にか公園に入っていたという感じで、そのあたりにはほとんど人影はなかった。
ところが、路を進むうちに、人が増えて遊園地や動物園まである。そして既述の丘があり、さらに経巡っているうちに、屋台などが立ち並び縁日のような賑わいがある。そして、ついには、もう一つの出入り口に至る。そこは門構えになっていて、そこから入場する場合には、料金が必要な様子だった。どこから入るかで、無料、有料の違いがあるらしいのである。これも理屈がよく分からないが、わざわざ人気の少ない方角から入場する人は少なく、そこから人気のある地域に至るには相当に歩かねばならないから、その労に対する対価ということで無料ということなのだろうか。
このあたりも、その土地には土地の常識の線、あるいは合理性の基準があるわけで、土地を知る、その文化を知るとは、そういう基準を成立させている何かを把握するということなのだろうが、それを短時間で、というのは無理がある。
③ 出店が集中して縁日のような賑わいのある区域で、周りからは少し浮き上がるように見える少年がいた。Aさんは「あれはきっと北朝鮮から来た子供」だという。そう指摘されて、目を凝らして見ると、汚れた着衣、すばしこそうな挙動、そして何より、目つきが並外れて鋭い。「何でもやりそう、やれそうな感じ」とでも言えばいいか。屋台で駄菓子を買い求め、それを舐めながら、あちこちに鋭い一瞥を投げていた。Aさんの話では、ああした子があちこちにいる、という。
がともかく、その子供を見ながら、僕は不思議なことに、何か懐かしいような思いに包まれた。その昔、僕が子供だった頃には、あの目つき、ああした雰囲気を持った子供が僕の周囲にいたからである。あの頃の、在日朝鮮人の子供たち、とりわけ、親にほとんど遺棄されたも同然の子供たちはまさにあのような目をしていた。
時には徒党の中に混じっていたが、いつどこでも安心する風はなく、孤独の影が射し、凶暴な何かを内に秘めているという感じだった。そして実際に、時として、実に凶暴な挙動に至ったあの子供たち、それが40年以上も経て、しかも、遠く離れた中国で蘇ったかのようだった。今でも世界のあちこちに、こうした子供たちがいるのだなあ!それにしても日本はやはり幸福なのだろうか、あの種の目つきを持った子供を見かけなくなって久しい、と今更ながらに思ったのだった。
因みに、かつて日本の大阪にいたあの目つきの子供たちは、今どうしているのだろうか。すっかり柔になって、僕のようなふやけた中年、或いは老人に変貌してしまっているのだろうか。或いはまた、あのハングリー精神丸出しの猛禽のような子供たちは、今ではその面影をどこかにしまいこみながら、しかしその攻撃性だけはますます磨きながら、知恵を働かして、表の世界、裏の世界で逞しく生きているのだろうか。
延辺に行くと懐かしい気がすると語る人がいる。僕もなるほどそうだと思った。
延辺は僕に昔の「在日」を思い起こさせる。そして、そのことによって、大きく変貌した「在日」の現在をも照らし出してくれる。既に中年になってしまった「在日」の僕は、延辺で見たこと、感じたことを契機に、なんとなく過ごしてしまった僕らの青春から中年までの時間を改めて生きなおすことができるかもしれない。
この社会に長く生き、若かりし頃にはなんとしても正義をなどと肩を張り、人を攻撃したりで失敗を積み重ねた結果に懲りたこともあって、成人してからは、不必要なまでに軋轢を避けて生きるべく努めてきたようで、その構えがすっかり身についてしまった。それは仕方のないことであったとも思うが、それによって染み付いた思考や感情の垢は恐ろしいまでに厚くなってしまい、それが自分を縛り付けているような気がする。その垢を少しづつ落として、もう一度生き直すなんてことが可能だとは思えないが、その努力くらいはできるだろうし、してみたい。
今生きている現場でそれをすればいいのだろうが、惰性の力に乗せられてしまって、すごく難しい。そこで、環境を変えて自らに刺激を与えるなんてことも一つの手立てになりそうな気がする。そういうものとして、延辺にこれからも通ってみようかなと思う。延辺でなくてはならないという理由などないけれど、延辺であって、悪かろうこともないだろう。
気持ちが動けば、何だってやってみるしかないし、僕に残された時間がそんなにあるわけでもないのだから、楽しみながら、その方向への歩みを続けていきたい。そもそも、結果などどうだっていいわけだし。