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玄善允・在日・済州・人々・自転車・暮らしと物語

在日二世である玄善允の人生の喜怒哀楽の中で考えたり、感じたりしたこと、いくつかのテーマに分類して公開するが、翻訳もある。

玄善允の落穂ひろい3-3(延辺旅行記3)

2018-03-14 15:22:29 | 玄善允の落穂ひろい
〈前回の、玄善允の落穂ひろい3-2の続きで、今回が完結編)


4)国境と地元の常識

 琿春・防川の、ロシア、北朝鮮、中国3国の国境を望む地域を見学。張鼓峰事件戦跡展覧館という、おそらくは私営の観光「小屋」に立ち寄る。さらには、琿春口岸(ロシアとの交易所)見学。

 この日は、この地域に詳しく、党のこの地方の機関に長年働いてきた結果、人脈が多彩という理由もあって、Aさんの妹さんが案内役を買ってでてくださり、彼女がこれまでの付き合いから全面的に信頼できるタクシーの運転手も選んできてくださった。その人がなんと漢族だった。朝鮮族の彼女が一番信頼できる運転手として思い当たったのが、漢族という事実、このこと一つだけを見ても、民族的軋轢という言葉で、何もかも説明できるわけではないという当たり前のことが再確認できる。

 ともかく、上記の新しい二人の同行者のおかげで、運転手絡みの心配や不快を完全に免れたし、普通であれば立ち入りを拒まれる区域でも、特別に入ることを許されたりもした。それに何より、中国在住で、しかもその地域についてはAさん以上に詳しく人脈も豊富な妹さんが同行されたおかげで、ナビゲーター役を免れたAさんの気疲れが半減したであろうから、そのことだけをもってしても、僕としても大万歳であった。

 先ずは、訪問地に関するエピソードをかいつまんでスケッチしておきたい。

① 一時期華々しく経済発展を喧伝されながら、その後、それが夢幻になってしまったかのように聞いていた琿春なのだが、街中ではロシア人の姿をよく見かけるし、大規模なビルが続々と建設中だし、工場地域もそれなりの活況を呈していた。Aさんの妹さんの話でも、この街の経済発展は著しいとのことだった。というように、中国では人も地域も都市も「栄枯盛衰」が並外れて激しいようで、海外からの旅行社の見聞記など、その真実性が多少なりとも有効なのはほんの一時期ということになりかねないようである。肝に銘じておかねばなるまい。

② 右側では図們江の向こうは北朝鮮、左は鉄格子の向こうがロシアといったように、両側を国境に挟まれた地域を車で走っていると、とりわけ、ロシアとの国境というのは始めての経験だからということもあって、やはり、国、国境というものについて考えさせられる。とはいっても考えが具体的に展開するというわけでもなくて、ただただ感傷的なものにすぎず、目の前にある、誰だって簡単に越えることができそうなあの鉄条網が国境なのか、人間は馬鹿らしいことをやるもんだ、といった程度。時折、遠方にロシアの車が走っているのが見えて、ロシア人が生活しているのだと、あまりにも当たり前のことを考えては、今度は自分の馬鹿さ加減に赤面したりもした。

③ 口岸で、Aさんのおかげで特別な配慮を受け、口岸を超え、役人の車でロシア国境のところまで連れて行っていただき、ロシア域内で記念の写真撮影をした。戻ってくると、口岸の駐車場に到着したマイクロバスから、一見して朝鮮族と分かる老女たちの集団が降りてきたかと思うと、国境の方へ向かって小走りする。但し、小走りと言っても、踊り、歌を口ずさみながらで、実におおらかで楽しそう。「オロス、オロス(ロシアにあたる中国語)」という声が次々と口から口へと、まるで木霊するように続いたりもする。その女性集団から少し遅れて、老爺が二、三人、おぼつかない足取りで追いかけていく。その屈託なげな様子に心が和んだ。

 終日の三国国境地帯の観光を終えて、三国の「踏破?」を果たしたという達成感に包まれながら、夕食に向かった。延吉の中心街の韓国料理屋である。Aさんの妹さんとAさんと僕の3人で、韓国風の刺身、そして仕上げに「めうんたん」というように、僕が韓国済州島へ行く度に味わっているのとほとんど同じで、現代韓国の人気料理である。但し料理は同じでも、同席しているのが、酒を嗜まないうえに小食の女性二人に加えて、体調、とりわけ胃腸の問題を抱えた僕ということもあって、Aさんの妹さんが言うには「天然もののヒラメ」の刺身でも、半分以上残してしまった。

 延辺では韓国の今風の料理はすごく人気があるようで、団体客も多く、店員たちは大わらわである。それに、朝鮮族は韓国人と同じ血だから同じくせっかちなのか(僕は本当は血なんて信じていないのだが、ここは話の展開上の言葉使いである、ご容赦を)、料理や飲み物の給仕が少しでも遅れると、文句がひっきりなしである。それも当たりはばからぬ大声である。そんな雰囲気のなかで、力のない中年男に付き添う女性二人の声はかき消されるのが自然というものである。

 「早く給仕して」と注文をつけても、声が届かないのか、なかなか来てくれない。ようやくやってきて、やれやれと思ったところが、その「娘さん」の愛想のなさというかふくれっ面といったら。その様子に、Aさん姉妹は目を合わせて呆れかえっていたが、年端も行かない娘さんたちがあんなに繁盛している店で、客の厳しい注文に晒されていれば、そうなるのも当然だろうと、僕は心中で同情しきりであった。

 その後、一日の疲れを癒すと同時に延辺でのお土産話にもなるだろうからと、足裏マッサージ屋へタクシーを飛ばした。最初に行ったのは、数日前にB教授に連れて行かれ、満員の盛況で入れなかった街の中心のビル5階のマッサージ屋。この日もまた満員で待ち時間が1時間と言う。仕方なくそこは諦めて、タクシーの運転手の案内で別のところへ向かったのだが、着いた界隈は薄暗くて、人気もなく、店などありそうにない。だが、その一角の薄暗いビルこそがそれだという。僕一人ではとても恐ろしくて近づけない雰囲気なのだが、いくら地元の人だとは言っても、女の人たちというのは強いもので、臆する様子もない。

 薄暗い階段を上がると、一見して水商売風の女性が受付にいる。靴を靴箱に入れて、案内されるままに、これまた薄暗い個室に入る。そうした個室が他にもいくつもある。まるで売春宿(と言っても初心な中年男の僕が実際にそういうものを知っているわけでもなく、あくまで連想です、念のために)、ベッドが3つ並んでいて、銘々、そこに横たわる。程なくして、3人の女性が入ってきた。薄目を開けて見ると、受付にいた30代くらいの女性、それに続いて10代後半に見える女の子が二人である。指示されるがままに、靴下を脱ぎ、仰向けになって、足を放り出す。始めは静か過ぎるくらいで薄気味悪く、僕はとてもリラックスできない。

 しかし、次第に、その3人のマッサージ師がまるで調子を合わせているように、大きな小気味のいい音を立てて僕らの足裏や腿を叩いたり、何か冗談でも言い合っているのか、笑い声が聞こえたり。その雰囲気に、当初の緊張も次第に緩み、うつらうつら。ひと時のくつろぎであった。

8月6日
 北朝鮮の会寧を望む三合口岸見学。すっかり観光地化し、なんでもお金に換算されそうな図們の口岸と全く異なり、長閑で、緑濃い自然が美しい。とりわけ、高台に設置された臨江閣からは、豆満江のかなたに北朝鮮の会寧の町が望見され、長閑に見えるその町の風景が、こちらの気分も穏やかにしてくれる。

 延吉の職場仲間なのだろう、男女10名くらいの中年の朝鮮族の人たちが、各自、肴とお酒を持ち込んで、その亭で車座になって談笑していた。見知らぬ僕たちにも、遠慮なく入るように勧めもしてくれた。その自然さと開放性が嬉しくて、体が元気ならば、参加したいと思った。自然と人間の長閑さが、僕のように国境などに全く感慨を持たないはずの人間にも感化を与えてくれる。

 とはいえ、どこへ行ってもここは中国であることを思い知らされる。そして同時に、僕は一介の観光客にすぎない、という当たり前の事実も。

 三合の口岸から上述の臨江閣への道は、地理に相当に詳しい人でないと知るはずもない山手の細い道路で、そこを登っていくと、なんとゲートで道が封鎖され、その横の小屋でおじいさんが二人、番をしている。そこを通るには10元何がしかのお金が必要だという。どういう権限があってのことなのか、Aさんに聞いてみると、Aさんは笑いながら、まあ、おじいさんたちの小遣い稼ぎではないですか、と笑っている。法的な根拠はなさそうなのである。「上は法案、下は対案」という言葉がいたるところで生きているらしい。対案というのは、政府の法案、方針に対してその隙を探って生き延びる術という民衆の智恵の産物らしい。ともかくお金を払うと、おじさんたち上機嫌で、粗末な木で作られたゲートを開けてくれた。こうして無事に臨江閣へ。

 さて、その臨江閣は誰の手で作られたのだろうか。行政によってであろうか。すると、行政はこのゲートについてどのような立場を取っているのだろうか。このあたりの村の共有の入会地に、村人が臨江閣を建築し、村が共有の観光収入としているのかしら。それなら、理屈にあっているのだが。

民族村と海蘭江漂流

 次いでは延吉に戻り、近郊の丘に位置する民族村に向かう。敷地はすこぶる広大で、夏の日差しの中を、まるで山中の登山道のように延々と辿っていると、汗が吹き出て、うんざりしてくるほどである。途中には、池を取り囲んで貸しバンガローや貸し別荘のような施設、そして野外バーベキューの施設なども散見されたが、それほど繁盛していそうでもなかった。ようやく、民族村らしき施設が見える。

 庭には相撲の土俵、朝鮮風のブランコとシーソー、そして餅つきの臼などがあって、土俵では若者が朝鮮相撲をして見せていた。その庭の中心の建物が劇場になっている。そこで民族舞踊と歌の公演を鑑賞したが、それほどレベルが高そうにも見えず、居合わせた中国の西南部からの団体旅行客たちには物珍しさもあってのことか、大いに受けていたが、僕にとっては、ひと時のくつろぎとなりはしたが、感動とは程遠かった。  

 僕は韓国のソウル郊外の水原にある大きな民族村、済州島の新旧二つの民族村、そして中国北京の「少数民族宮?」内の朝鮮族の展示などを知っているから、それと比べれば、施設としてはいかにも「ちゃち」という印象が否めない。そんなこともあって、この施設を含む広大な敷地(その総体が民族村らしい)は民族文化の擁護とか、現在の利潤よりも、将来への投資の一つではないかと下種の勘ぐり。延吉の町の急速な肥大化を見れば、その郊外の高台にあるこの地域は十分に投資の妙味がありそうな気がしたからである。

 因みにこの広大な土地の持ち主は、延吉の中心にあるデパート「国貿」という会社らしい。デパート会社がなぜ、というわけで、機会を窺ってB教授にその会社について説明してもらったが、中国社会のシステムがよく分かっていない僕には、ほとんど理解ができなかった。

 その民族村の一角、先に記した劇場の裏手には朝鮮族の老人たちが収容されている養老院があって、僕の知人の言語学者などは、旅行中にこの民族村を訪れた際に偶然にその存在を知って、その後の旅程などかまわずに、その養老院に通って、中国朝鮮族の言語変化などの調査に勤しんだらしいのだが、僕にそんな度胸も元気もあるはずもない。自分は日本の、それも限られた狭い区域以外では全く使い物にならないという自覚がこういう風にして、日本を出るといつでもどこでも顔を覗かす。だからこそ、人並み以上に疲れるということにもなるのだろうが。

 といったように、日ごとに疲労の色が濃くなる僕の様子が気になっていたのだろう。Aさんは「海蘭江漂流」いう観光宣伝を目にして、ひと時の余興を考え付いてくれた。ボートで川下りを楽しめるらしい。

 ところが、生憎なことに、その場所を誰も知らない。タクシーの運転手に聞いても埒が明かないどころか、知らないところには行けないなどと乗車拒否される始末。仕方なく、海蘭江の上流ということを頼りに、街行く人に尋ねまわりながらのバスの乗り継ぎとなったわけであるが、おかげで延吉の町、そしてその郊外の実態の一端に触れることが出来たのだから、何だって考えようである。といったように、体調が悪くても、精神的に落ち込んでもこうした貸借勘定をあわせようとする商売根性だけは残っているようで、それだけが大阪生まれ大阪育ちの僕の取り柄ということになろうか。

 さて、海外へ行くと、バスの利用に苦労する。とりわけ韓国や中国では、日本とは違って、時刻表などなんのその、客を待ってくれることもない。また、乗降位置も周囲の交通事情に合わせたバスの都合によってその度に移動するから、目ざとく察知して懸命に走って乗り込まねばならない。

 しかし、それがその地の生活の一端なのだから、それを経験することは生活の一部なりとも経験することになる。しかも、車中での人々の表情や会話に耳を傾けていると、たとえその意味を正確に理解することなど出来なくても、その土地の人々の関係の作り方が窺えるような気がする。それにまた、町の中心部から場末へ、そして郊外へと、バスでとろとろ走っていると、緑濃い田園地帯とは別の農村の姿が、舞い上がる埃に霞みながらリアルに迫ってくる。

 大都市はずれの農村は、緑豊かな田園地帯とは程遠い。町の延長で、街中よりも薄汚いというか埃っぽい。このあたりだと運転手に教えられてバスを降り、川沿いの道をひたすら上流に向かって歩くうちに、埃っぽく薄汚れた集落が途切れる郊外の果ての河原に、数個の救命具やゴムボートなどが並び、その前にうらぶれた小屋が見えた。よくよく見ると、ペンキで何か文字が記されている。「海蘭江漂流」となんとか判別できた。

 しかし、人影がない。「どなたかいませんか」と声をかけても誰も現われない。拍子抜けである。手持ち無沙汰で、川とその周囲の風景に目をやっていると、当てもなくぶらついているといった様子のおじさんが現われて、小屋に入っていく。関係者のようである。漂流を体験したいのだがと言うと、「みんな出払っている。連絡を取ってみるから、携帯電話を貸してくれ」という。貸した携帯で連絡が取れたようで、すぐにスタッフが来るという。なるほど5分ぐらいして、トラックで二人の若者がやってきて、早速準備に取り掛かってくれた。

 指示されるままに、救命用のジャケットを着用し、ゴムボートに乗り込み、川くだりを始めることになった。但し、携帯していたリュックなどは彼らに預けて身軽にと勧められたが、信頼して預ける気にはなれない。そんなわけで、リュックを背負った上から救命具を着るという按配で、膨れ上がった「へんちくりん」な格好だし、はなはだ窮屈である。

 それにまた、操縦はスタッフ任せでのんびり見物しながらの川下りとばかり思い込んでいたのだが、予想とは違って、自分でボートを操縦するという。スタッフは万一の場合に備えて、別のボートで距離を置きながら付いてきて、危険なところ、方向転換など、遠くからアドバイスしてくれると言う。

 その昔、若かりし頃に公園の池でボート遊びをしたことはあるが、久しぶりのことだし、池ではなく、なにしろ流れのある川なのだから、少々緊張するが、まあ、そんなに大層な急流でもなさそうなので、危険があるわけもないだろう。気分だけでも子供時代に戻って汗を流そうと、かえって張り切る気分になった。

 最初は勝手が分からず少々うろたえる場面もあったが、しばらくすると櫓の扱いにも慣れてくる。流れが順調なところでは、櫓を漕がなくてもボートは流れに運ばれていく。日が暮れていき、日差しも柔らかくなっている。川特有の微風が涼しい。所々に岩場や浅瀬などの難所があって、油断すると岩にボートがぶつかって、たっぷりと水を浴びたりもするが、それも模擬格闘の気分でなかなかに楽しい。

 夕暮れの川(早朝の川べりもまた)は僕が最も好む風景の一つで、日常生活の中で息が詰まりそうな気分になると、自転車を走らせて、夕暮れの川辺の風景と微風で一息つく。馬鹿みたいな話だが、その度に、生きているのはいいことだ、などと実感したり、或いは、自分に言い聞かせたりするのである。延辺に来て、それに似た楽しさをボート上で味わえるなんて予想もしていなかったから、実に幸せな気分であった。

 一時間ほどの水遊びを終えて岸に上がると、係りの若者が待ち受けていて、トラックにボートを載せて、僕らを最寄のバス停まで送ってくれるという。運転手さんは、屈強でなかなかに二枚目の朝鮮族の青年。途中で彼にいろいろ質問しているうちに、その質問がしつこいからか、或いは僕の拙劣な朝鮮語のせいか、運転手の返事は途切れがちになる。少し気詰まりになり始めた頃に、集落に到着し、たくさんの垂れ幕が風になびく広場が見えてきた。その脇にバス停があるという。

 次のバスまで随分時間がある。夕暮れのそよ風にあたっていると、濡れた服のせいで寒く感じられるほどである。Tシャツだけは替えを持ち合わせていたので着替え、周囲の民家や食堂や、広場の垂れ幕などをぼんやり眺めている。大きな集会なのか研修会のようなものが開かれていたらしく、新農村、新女性の育成といったスローガンがはためいている。

 新農村というのは既に竜井市郊外でもお目にかかって目新しくなかったが、新女性というスローガンには興味をそそられた。勝手な想像によると、農村からの若者の流出、とりわけ女性の流出が激しすぎて、それを食い止める対策なのではないか。女性が流出すると、若い男性の流出も加速する。そうなると新農村どころか、農村の空洞化は恐ろしく進行してしまう。だからこそ、新しい女性が農村を救うといったように、彼女らをクローズアップし、中心的な役割を与え、精神的に動員しようということなのだろう。それなくして農村の未来はないなどと。

 現に、その村の近辺には棄てられたと思える家がいくつも見えるし(出稼ぎで村を離れたのだろう)建設途中で放棄されたような新しい家があった。避暑目的の貸し別荘を計画して建ててみたが当てが外れたといったところなのではないか。それに対する抜本的な対策は見当たらず、仕方なく、女性に、というわけなのだろうなどと想像は膨らんでいく。

 因みに、漂流の事務所までの川べりの道を歩いてくる途中で、瀟洒な建物が周囲から浮かび上がるように見えて、外国語専修小学校と大きな看板が掲げてあった。英才教育の小学校らしい。私立の学校らしいが、こういうところにも、中国における海外への関心、英才教育、さらには貧富の格差の現われが至るところに見られるわけである。

 もう一つのおまけの話。実はその後、バスには乗らなかった。僕らがバス待ちをしていた広場に、3人が乗った少々高級なワゴン車がやってきて、延吉に向かいそうな感じがした。そこで僕は、相乗りをお願いしてみてはと、Aさんに提案した。最初は躊躇っていらしたAさんなのだが、次第に風が強くなり、暗くなっていくのに、バスがなかなか来そうにもないので、ついには決断された。

 声をかけてみた運転手はいい顔をしなかったが、ともかくお客さんに聞いてみますとのこと。後部座席に座っていたその二人のお客さんは、親切にも、どうぞどうぞ、と快諾してくれた。おかげで夜の帳がすっかり降りないうちに、延吉の中心にたどり着けた。彼らは30代半ば、どこかの都市からこの地方を訪れた「お偉いさん」だったようで、延吉に着くまでひっきりなしに、延辺の印象などについて二人で議論を続けていて、なかなかにさばけて、活動的な印象だった。

 事故の顛末

 夕食を終えて宿舎に戻ってみると、ドア下にメモを発見した。もしよかったら、一杯いかがですかと、日本で出発前に、現地でいろいろと話しましょうと約束していたCさんからの伝言が入っていた。

 Cさんは「在日」二世で、中国朝鮮族ばかりか、「在日」の諸運動、そして韓国済州島の4・3事件と「在日」との関係など、幅広い研究をなさっておられる。延辺に来る前に、済州島からみの会で偶然お会いしたことがあったし、また、僕が研究所で最後のご奉公として企画した中国朝鮮族に関する公開ワークショップにも参加頂き、貴重な話をうかがうということもあった。しかも、彼は僕の末弟の友人でもある。そうしたCさんが僕と同じ時期に延辺を訪問なさると聞いて、既に長期の延辺滞在経験をお持ちのCさんに、助けてもらえることがたくさんあるだろうし、いろんな話ができると期待していたのだが、いろんな手違いから・・・

 僕と同じく延辺大学の賓館に、7月31日から数日間お泊りになると聞いていたのに、一向に姿を現さない。海外でも通話可能とお聞きしていた携帯電話に電話してみても、不通である。毎日(宿舎を移動してからも)賓館の受付に、日本からのお客さんが到着していないかを確認したのだけれど、返ってくる答えは、「そんな人はいません、(メイヨウ)」の繰り返し、いったいどうなっているのか、すごく不安になったりしていた。それに、受付の女の子には、日参して同じ質問を繰り返すしつこさに呆れられる始末。

 そんな彼にようやく会えたのは、滞在も半ばを過ぎ、会うことをすっかり諦めた頃だった。事務室から宿泊手続きの問題で呼び出しがあり、事務室のある4階には何故かエレベーターが止まらないようなシステムになっているので、仕方なく普段は使わない階段を下りていくと、階段の踊り場から外を眺めている男性の後ろ姿が見えた。見覚えがあるような気がして、ひょっとしたらと、声をかけるとまさしくCさんだった。いろんな手違いが重なって、到着したのは予定より5日遅れてのことであったと言う。

 ビザを取得し忘れていることに気づいたのが、出発予定の前夜。当然、予約していた飛行機便は無駄になり、迷った末に、やはり出発することに決め、相当に高くつく北京経由の便を確保して、ようやく到着した由。

 携帯は通じない、到着しているはずのCさんの姿がまるで嘘のように見えない、といったように、迷宮に中にいるような不安のひとつがこうして解消されたのであった。

 だが、なかなか二人で杯を交わす機会が見出せない。そんなわけだから、折角のお誘いを逃すわけにはいかない。せめて、お断りだけでも直接お会いしてお伝えしようと宿舎を出たところで・・・

 夕食の酒が残っていたし、マッサージの効果でぼっとしていたのかもしれない。宿舎から出てCさんが逗留されている隣の棟に向かおうと、アプローチの階段へ足を伸ばしたところ、気持ちは既にCさんの方に向かっていたのだろう(なんと初心な中年男、まるで恋人との逢引ではないか!)、足を踏み外して、転倒してしまった。

 咄嗟に大きなうめき声を発し、その後しばらくも、恥も外聞も忘れて、小声ながらうめき続けていた。数分後にようやく立ち上がったが、とても歩けたものじゃない。周りを見渡すと、少し離れたところにたぶん韓国からの留学生であろう若者たちの姿が見えるが、誰もこちらに関心を示す様子もない。いくら暗くても、転倒する姿が見えたはずだ。無様なうめき声も聞き届けただろうに、誰も駆け寄ってこないなんて、なんと薄情な、これじゃまるで日本じゃないか、などと痛さをこらえるために勝手な言い分をぶつぶつ。自室に引き返そうかと思ったが、それでは、意気地がなさすぎると思い返して、一歩前進、二歩前進と少しずつ試しながら、なんとかCさんの部屋にたどり着いた。事情を説明し、またの機会に、と所期の目的はなんとか果たすことができた。

 部屋に戻って、気持ちを落ち着けるためにウイスキーを舐め、タバコを吸って、さあ、そろそろと、寝付こうかという段になって、急に悪寒が襲ってきた。歯がガチガチと震える。そのままではとても眠れそうにないので、持ち合わせの夏服を何枚も重ね着して、「捻挫による発熱なのだろうから心配することはない」と自分に言い聞かせているうちに、寝入ってしまった。

官僚の仕事と漢方の病院

 K研究員は資料調査の壁を突き抜けるために、故郷なのだから現地にいろんなパイプを持っておられるはずのAさんの帰郷を心待ちにしておられた。Kさんは自分にそんな伝があるわけではないけれど、そんなに心待ちにしておられたKさんのたっての願いなのだから無碍に断るわけにもいかず、ともかく行ってみましょうと話しが決まった。僕は中国の档案館には行ったことがないので、この機会に見学がてら、同行することになった。

 これまでいろいろな人の加勢を受けて資料調査にトライしてみたが、徒労に終わっていたK研究員なのだが、今回は、Aさんが同行したおかげで無事に必要資料の参観にいたる道が開けて、感激していた。

 但し、それについては、Kさんの予想が当たっていたとも言えるし、外れていたとも言えるというように、微妙なところがある。担当官が「たまたま」Aさんの妹さんの友人だったから、事が予想以上にうまく運んだ。だから、それをあくまで偶然といえば、Aさんを当てにしていたのは買いかぶりとなるし、そういう偶然をも含めてAさんのネットワークの賜物と考えれば、Kさんの予想は当たっていたということになる。

 ともかく、うまくいったのはKさんにとっては幸いに違いないし、僕らも大いに喜んだのだが、しかし、その档案館という歴史と公文書の砦、それはつまり歴史に関する国策の砦ということでもあるのだが、そこに流れていた微妙な雰囲気、そしてそれにまつわる各人の苦い感覚を、エピソードとして紹介しておきたい。

① 文書の閲覧を申請する担当の事務室に入ったところ、丁度そこに居合わせた中年の女性が、僕らが日本語を話しているのを見て日本人と思ったのか、日本語で話しかけてきた。自分は中国残留孤児の妻で、日本に永住帰国(帰国する夫の妻として、入国というのが正確かな)して今大阪に住んでいると。そして今回、親戚の招待のための証明書をもらいに来たのだと、付け加えた。大阪の泉北ニュータウンに居住ということで、僕も20年ほど前に一時そのあたりに住んでいたから、僕とは話がはずんだ。しかし、その途中でAさんの微妙な顔つきが目に入った。

 Aさんは、僕の軽はずみな調子の良さを危ぶんでいるような気配がした。言い換えると、その中国人(現在は日本国籍なのだから、元中国人と呼ぶべきか)に対して、何かしら警戒心があるようで、日本語で話しかけられても無視する風だった。

 それが心に棘のように残っていたのだが、その後の何かの折に残留孤児云々の話をすると、そういう話は眉唾ものが多いから気をつけてください、といったように、Aさんが相当に疑心を持っていることが確認できた。こういう警戒心の働き方が僕には分かるようで、よく分からない。

 長年、客地である日本で暮らしてこられた経験のなせる業なのか、あるいはまた、漢族に対する警戒心、嫌悪感の延長なのか、或いはまた、こちらで何回も経験する、日本でのコネクション作りの一環ではないかと警戒心が働くのか、といったようにただただ想像をめぐらすだけで・・・

② 先にも触れたように、Aさんの知人のおかげで事がうまく運んだのはいいのだが、その担当官の女性はそのKさんへの便宜、つまりは間接的にはAさんへの便宜と言えないわけでもないのだが、そうした便宜を図るついでに、Aさん及びその姉妹の近況を詳しく尋ね、大学の3年生である息子が外国もしくは上海などの大都市で働くためのコネ作りに努力している気配があり、Aさんはそれを明敏に察して対応されていた。

 Aさんはその種の面倒をこれまで何度も引き受けてきた結果、時には警戒心が強く出て、厳しくはねつけたり、またある時には、これこそ自分の運命と思い定めて、いさぎよく引き受けたりということのようである。

③ その担当官が、これまでK研究員の要望をいろいろな理由を盾にして撥ねつけてきたのに、その日はAさんの同伴もあって、一転して要望を受け入れたことについてのAさんの見解は僕の理解では以下のようになる。

1.自分の権威をひけらかすこと。2.ついでは、コネで利益供与(実は市民に対する当然のサービス)をすることで、恩を着せる。3.そして、その後何らかの折に恩返しを求める、というようなことになっているのだと。

 但し、こんなことを書いたからといって、その担当官が腹黒い人であるなどと判断されては困る。というより、事実に悖る。その方は、落ち着いた、微笑を浮かべる中年女性で、何か特別なことをしているというような感じもなく、仕事を淡々とこなされている様子だった。つまりは、先に僕が書いたようなことは、彼女としては実に自然なこと、言い換えれば、中国の延辺の人たちの、そして官吏の普通の対応だった。それが、見方によっては、公私混同、職権乱用といった言い方が出来なくもないといったこと、僕にとってはそれこそが重要な事実なのである。

 さて、前日の捻挫で歩くのに難儀している僕の姿を見て、Aさんは責任を感じてのことなのか(責任など彼女には全くないのだけれど、母性本能などといえば叱られるかもしれないが、そうとしか言いようがない行き届いたお世話の数々)、なんとしても延吉の代表的な中医医院(漢方の病院)で治療をと、タクシーで連れて行っていただき、診察と針治療を受けた。

 針を嫌がる人もいるらしいが、僕は幼い頃から針には慣れている。その昔、僕などが子供の頃には「在日」には健康保険などなかったから、よほどのことがないと高くつく正式の医者にはいけない。そこで、無認可の医者や歯医者(そういうものが存在していたのですよ、しかも、その種の闇営業の先生方は相当に人望を集めていたのです、今では信じがたいことでしょうが)、民間療法、そして按摩、針に親しんでいたのである。僕は尋常以上に怖がりという評価を受けていたのに、蓄膿に効くといっては、鼻や目元、さらには頭の天辺にと治療を繰り返されているうちに、慣れが怯えを追い払ってくれたようである。

 それに鍼灸については、特別な因縁も作用していた。父の工場で働いていた在日一世のおじさんが夜学で鍼灸を習い、後に正式に開業することになるのだが、その当時は、アルバイトで、休日や夜間の出張治療だけをしていた。母は体調が悪くなると、いつもそのおじさんに家に来てもらっており、それを僕はいつも目にし、慣れ親しんでいたのである。

 その後も現在に至るまで、いろんな機会に針治療を受けてきて、経験的に、針は極めて有効である、と信じている。とはいえ、昨今は、針の使いまわしによる血液感染の心配が取りざたされ、内科医である僕の兄はもともと心配性であることに加えて、西洋医の沽券にかけても漢方を信じないといった感じが強く、とりわけ血液感染についてはやかましく言う。その言葉が頭に残っていた。それに中国では予防接種によるエイズの血液感染で村が絶滅したなどとの噂も俄かに思い出した。

 そこで、新しい針で治療していただけるでしょうかね、と僕がAさんに尋ね、Aさんも、それはいいことです、要求してみましょうと言い、担当医に対して念を押してくれ、医師も了承したはずであった。ところが・・・

 僕が針治療の部屋に入り、ベッドに横たわり順番を待つ間、Aさんが医療費の支払いなどの確認のために僕の近くを離れた。そして、ほんのわずかな時間にすぎないその間に、僕に対する針治療が始まった。そのとき、僕は勘で、新しい針の使用といった指示は現場には伝わっていそうにない、だからもちろん新しい針を使っているはずもないと確信していたが、生来のいい加減さを発揮して、仕方がない、「もう針の上のむしろ」などと観念して、針を受けた。

 Aさんが戻ってきた。ベッドに横たわり針治療を受けている僕に、痛くないですか、などと母親のように僕を心配してくれる。そしてその延長で思い出したのか、「新しい針でしたか」と問うので、「たぶんそうじゃないでしょうねえ」と僕はAさんにすまない気持ちになって低い声で答えた。すると、Aさんはうろたえ、ついでは激しく怒り、担当の医師を探しまわり、抗議するといった大事になってしまった。

 医師は申し訳ないとはいいつつも、「手術用のメスと同じような消毒をしているので安心、何と言ってもここは病院です」とプライドを傷つけられて不快という様子だった。それでもかまわずAさんは食い下がり、「海外からのお客さんにもしものことがあればどうするのか。今回は仕方ないが、明日の治療では絶対に新しい針を」と要求し、医師もついには確約した。但し、翌日には朝一番で来るように、とのことだった。朝一番なら新しい針を使えるということなのだろうか。

 ということは、その日僕は朝一番ではなかったから、新しい針を使えなかったのだろうか、そしてそのことを医師ははじめから承知しながら空約束をしたのか、或いはただの事務的な手違い、つまり伝達不足による失態なのか、といろいろ思いをめぐらして、翌日の件についても半信半疑だったが、翌日、朝一番で行くと、なるほど、新しい針を卸してくれているようだった。    

 韓国の地方の病院でも同じような印象を受けたことがあるのだが、ここ延辺の漢方の病院は、鉄筋の4階建て、中心街にあって、相当のステイタスを備えていそうなのに、取り澄ましたところが全くない。玄関の近辺にはいろんな屋台がところ狭し並び、アプローチのステップにはおじさん、おばさんが腰を下ろしタバコを吸ったりしており、誰もが自由に出たり入ったりしてOKという感じである。日本の病院の、殺菌されて建物も人間も無機質になってしまった印象に対して、中医(漢方)病院だからなのか、建物も人間も有機物であり続けているといった感じか。日本でも鍼灸院などでは良く似た感じなのだが、病院と名の付く所としては、やはり日本とは大いに異なるようである。

 そんな雰囲気が僕に作用したのか、一時間ほど針治療を受けている間、主任医師の指示を受けて実際の針治療をしてくれる助手さんたちと、四方山話となった。僕の世話をしてくれた青年医師(あるいは医師の助手か?)、30代半ばくらいですごく優しく親切そうだから、ついつい話しこむことになったのだが、その彼がなんと、韓国済州島、それも僕の親戚が多数居住する西帰浦からはるばる延辺にまでやってきているのだと言う。

 数年前に済州島で幾人もの延辺出身の方に出会って驚いたのだが、延辺人が世界のどこにでもいるように、済州人も同じなのだと、様々な民族の国境を越えた流動(或いは、移動)という事実を改めて思い知った。   

 因みに、彼の話はこうである。こちらで漢方の医師の資格を得ても、韓国ではそれを認定してくれない。韓国でまたもや漢方医の大学に入って、卒業して国家試験を受けなくてはならない。しかし、そんな悠長なことをやりたくない。第一、既に知識も経験も十分なのだから、時間とお金の無駄である。既に済州島から奥さんを娶り、子供も二人いる(後で携帯の写真を見せてくれた)。済州島にいる両親のことが心配で帰国したいのは山々だけれど、先の展望が全く開けないので、当座は、居残るしかないと。

 もう一人、助手の若い女の子の話。学生だというので、アルバイトかと聞くと、そうではなくて、無給で研修をしているのだという。延辺出身で、高校時代は何が何でも延辺から遠くに出たいと思って、はるか遠くの湖南(毛沢東の生地)大学の漢方医の学部に進学したのだが、帰郷に際しては、2昼夜の列車旅行、それも寝台車の取得はすこぶる難しいから、座る席ではるばる帰郷という大変さ。それに、この病院は主任の女性医師を始めとして、スタッフのみなさんが有能だしすごく親切なので、ここで研修できてすごく満足しており、わざわざあんな遠くの大学に進む必要などなかった。今では後悔している、と言う。但し、その「後悔」という言葉とは裏腹に、ふっくらとした体で微笑を絶やさず、楽しそうに働いていた。

 夜、延辺大学の国際交流関連事務局の歓迎の食事会に招かれた。体調の問題もあって、儀式ばった席は御免蒙りたいと思ったが、先に触れたCさんが同席するというので、参加しないわけにはいかない。

 現地の農村経済の専門家、日本から来ていた人口流動の研究家T氏(東京の大学の教員で日本人)、そして延大の海外交流関連の職員で日本語が実に流暢なKさん(例えば、話の中で、競売のことを、正式な法律用語で「けいばい」と言っておられた。そんな言葉を使えるなんて、日本で法律でも勉強されていたのであれば分からぬこともないが)と、ホテル内のおしゃれな中華料理屋での会食である。

 招待されたとは言え、本当のところは、僕は付け足しのようだった。Kさんは日本に留学中にCさんにすごくお世話になったらしく、そのCさんの歓迎ついでに僕たちをということだったようなのである。しかし、経緯がどうであれ、Cさんのたっての要望で、中国の農村の実態を良く知る研究者が特別に招かれていたおかげで、酒席というより、その研究者を中心にしての研究交流の場となった。中国の農村経済の実態と展望、少数民族問題などについて、貴重な話を聞くことができたのは本当に有難かった。いろいろな事情があって、詳しくは書けないが、話題の項目だけ挙げれば、以下のとおりである。

①朝鮮族の現状と本音。②漢族との軋轢。③将来的には漢族に吸収されるという悲観的展望。④漢語の主流化。⑤朝鮮語を母語にする人たちは、韓国を憎みながらも、韓国をバックに、或いはそれを盾にして生きる道を見出すしかない。⑥大学の独立採算という状況を積極的に生かして、経営的視点を導入して、大学、さらには延吉市、そして延辺全体の開発に取り組もうという考え方があって、決して夢ではないという。⑦大学の国際交流に一貫性を欠く。学長が代われば、それまでの交流の歴史は無になってしまいかねないのが現状という。中国の大学のトップダウン的行政手法の一端なのであろう。

8月8日
 前日に引き続き、中医医院にて針治療。そのついでに、不調をきわめる胃腸の診察も受けることにして、消化器系の主任医師の問診を受けた。その医師は朝鮮族のようだったが、日本語も少しは話せると言っていた。僕が抽象的な言い方で、胃腸の不調を「機能していないのです」などと勿体をつけて説明すると、「どのように機能しないのか具体的に」と僕の勿体を崩すなど積極的で実際的な診療の上、その延長で、「せんじ薬を試してみますか」と問われて、「望むところです」と答えると、21日分の大量の漢方薬(煎じ薬)を処方してくれた。

 さらには、その医師は韓国へ入国の際に、麻薬などの禁止薬物の密輸の嫌疑がかけられることを懸念して、クレームが付いたら提示するようにと、細かな内容説明の文章を書いてくれるなど親切だった。

 その薬を待つ間、他にすることもないので、薬局のガラス窓越しに調剤の様子を見学した。20数種類の薬草箱から、塵取りのようなもので次々と掬い上げて、並べられた21個の小さなスコップのような容器に入れていく。目分量で分割作業はなかなかに難しいはずなのだが、それほどに精密であるわけではなく、大雑把である。とはいっても相当に面倒であることに変わりはない。二人の薬剤師が見事な役割分担で、30分ほどもかけてようやく完了。20センチ四方の大きな茶封筒一つが一日分で、総計21個の大きく膨れ上がった茶封筒こそは僕が日本に持ち帰って毎日煎じて飲むべき薬というわけである。

 患者一人のために、なんとも時間をかけてくれたものだと感謝。後は、これだけの量の薬を既に資料などで満杯になっているスーツケースのどこに収めて持って帰るか、さらには、日本に帰って、毎日自分で本当に煎じて飲み続けることが出来るか、などと僕に大きな宿題が課せられたわけである。

情けない再会

 夜にはまたしても宴席に。10年以上日本で働き、半年前に延辺に帰国した延辺出身の知人Cさんの招待である。同じ職場で働いていたのだが、生まれ育った文化の違いもあってか、生き方や発想が僕なんかとは随分違うといった感触もあり、特に親しいとは言えない。それにまた、彼の頼みごとに対し、僕は善意を差し出したのに、その結果は、煮え湯を飲まされたといった思いもあった。しかし、彼にとって日本は異郷であり、それだけにいわく言いがたいことが多々あったに違いなく、そうしたことも遠因で、僕との齟齬が生じたのかもしれないといった反省もあった。

 それになにより、彼から中国へ帰るという話を聞きながら、別れの挨拶をする機会を逸したことが悔やまれ、それが僕の心に棘のように残っていた。そこで、彼の故郷である延辺で、日本生活の総括や帰国の真意などを心置きなく話してもらい、それを理解することで、僕なりに二人の関係のけじめをつけたかった。だから、延辺に着くと直ちに、会いたいと連絡を入れ、彼も快く、再会の機会を準備すると言ってくれていたのだった。

 さて当日、彼はすごい高級車で、約束の延大の正門まで僕を迎えにやって来た。その仰々しさに怖気たというわけでもないのだが、会うとすぐさま、僕は体調の極度の不調を伝え、申し訳ないのだけれど短時間で帰る旨を伝えた。

 しかし、時既に遅し!彼は車の中に見知らぬ若い女性を連れてきており、本気なのか冗談なのか、「彼女を明日の朝まで、好きなようにして下さい」とのたまう。この時点で僕と彼とのボタンの掛け違いは予想以上に達していることを悟った。そしてその後も同席している間中、わざわざ彼に連絡をとったことを後悔する気持ちが募ることこそあれ、薄れることはないような展開になっていった。

 案内されたホテル二階の高級料理店(実は前日の宴席と同じテーブルだった。延辺大学関係者はこの席、とでも決めてあるのだろうか、まさか!)には、彼のなじみのカラオケスナックのマダム、そして彼の学生時代からの旧友が同席していた。その他に、僕の知らない人が数人参加の予定だという。はるばる日本からおいでなのだから、にぎやかに歓迎しなくては、と彼は言うのだった。

 ところがいくら待っても、その人たちはやってこない。時折、携帯電話が鳴り、急用で不参加の連絡が続いた。僕にとってはもともとどうでもいい人たちである。むしろ、招かれざる客である。しかしながら、予定していた客が次々不参加となれば、宴席にケチがついたような気分についついなってしまう。大きな円卓の周囲にあまりにも広い空席があると、なんとも格好がつかないし、落ち着かないのである。

 結局、初めから参加していた総勢5名だけの会食になった。大勢の二次会の客を当て込んで同席していたのであろうカラオケ(或いはルームサロンといったほうが正しいのだろうか。そのホテルの上階にあるらしい)のママは、予想外の少人数であるばかりか、僕がどうしても二次会はごめんこうむると言い張ったせいもあって、すっかり当てが外れて、食事を急いで済ますと、「お客が立て込んできたようだから店に戻らなくては」と言い残して、途中で退席した。

 白けた会食は疲れるし、せっかくの料理の味もなくなるからと、少しでも宴席らしくなるように「サービス」に励んだ。適当に冗談を言い、適当に飲み、そして適当に食べた。そして最後に、重ねての二次会の誘いを頑なに固辞して彼らと別れ、小雨の中をびっこを引きながら、宿舎まで帰ったのである。

 実は、その料理屋が収まっているホテルは、大学から500メートルくらいの距離で、なぜ、彼がわざわざあんな豪華な車を寄越したのか、全く訳が分からない。それも自分の車ではなくて、友人の車を運転手ともども借用したらしいのだから、すべて彼特有のハッタリということなのだろうか。予想しなかったわけではなかったが、予想を超えた不愉快な再会であった。悪い予感にしり込みしないで、ついつい自分の思いで突っ走ってしまう悪い癖のもたらした事件の顛末ということになる。

 それでも僕にとっては延辺観察の機会であることに変わりはない。そこで、エピソードを幾つか紹介しておきたい。
 同席したマダムは、延辺の朝鮮族の女性なのだが、若かりし頃には民族歌舞団に所属し、歌姫を夢見ていたのだという。しかしその後、結婚したことに加えて、化粧品の薬害で顔に大きな痣ができてしまったりもして、夢を放棄することを余儀なくされたのだという。化粧品で肌に大きな問題を惹き起こしたという話は中国の他の都市でも聞いたので、よくある話なのかもしれない。但し、日本でも昔はよくあったし、韓国でも耳にするので、中国社会だけの病理などとは到底いえるわけがない、念のために。

 そのマダムに関連してもう一つ。彼女は近頃離婚したのだが、その夫はもう既に15年以上もシンガポールに単身赴任しており、ここ数年は全く帰ってこなかったのだという。そのために、一人娘さんがようやく成人したのを区切りに離婚に踏み切ったという。なんと長い歳月か!

 まるであのソフィアローレンの映画『ヒマワリ』のような話があちこちに「転がって」いるわけである。(話の筋は相当に異なっていて、この比喩はほとんど意味を成さないが、言わんとすることが分かっていただけるでしょうか?)。なるほど、そのマダム、そうした話を聞いた後で考えてみると、何かしら影があって(頬の痣も、そういえば、あるようなないような)、その影が妙な色気となっていたなあ、と後知恵で思う。

 但し、彼女に「色気」があるとは言っても、もっぱらその色気で商売をしているようにも思えなかった。気遣いが行き届き、それよりなにより、時々、すごく優しい目つきを覗かせて乙女のようなところもあって、僕は好感を持った。この印象をも色香に惑わされたといわれれば返す言葉がないのだが。

 いまひとり、僕の接待用(?)に同席した娘さん、彼女はあの後、どうしたのだろうか。

 彼女を除いた参加者は僕を含めてみんな広義の朝鮮族の属しているから、共通語として朝鮮語で話すことになる。とりわけ、僕は一応主賓となっており、その僕には漢語の会話に入っていく力はないからでもある。そこで、漢族である彼女だけが除け者扱いということに、ついついなってしまう。そこで僕がなけなしの義侠心?を発揮して、下手な漢語でなんとか獲得した成果は次のとおりである、彼女はもともとハルピンの人で、家族全員と一緒に竜井に移住してきた。歳は21歳と言ったか。きれいに着飾っているけど、服装にしても化粧にしても「水商売の匂い」があるわけでもない。また、人擦れのした感じもなくて、お洒落に凝っている普通の女の子といった感じ。その彼女、彼女には全く理解できない朝鮮語の会話が続くのだから相当に退屈しているはずなのに、別に嫌がっているというような風でもなく、微笑を浮かべながら、所在なげであった。こういうことが彼女の仕事なのだろうか。

10.帰路 

 最終日なのだからせめて朝食を一緒にと、B 教授がお土産まで携えて宿舎に。Aさんともども、延吉で最高級の国際飯店に赴いた。昔は白山ホテルが最高級だったのだそうだが、最近はその覇権がこちらに奪われたそうである。なるほど、世界の各地から、とりわけ韓国からの観光客で満員の盛況である。延辺大学で夏季休暇中にひっきりなしに開かれている数々の国際学術シンポジウムの宿舎もたぶんそこなのだろう、顔見知りの延辺大学の教員が招待客のお世話なのか、朝から忙しそうにしているのをロビーで見かけた。

 軽くのつもりが、香りや彩りでついつい心をそそられて、数種類のお粥、点心、そして野菜サラダで十分以上の朝食で、延辺における朝食では格別なものになってしまったが、もう帰るのだと思うからか、心なしか元気になっている。コーヒーの香りが僕を元気付けてくれる。僕はこのコーヒーなしでは生きられない人間で、既に述べたように、わざわざ僕の行きつけのコーヒー店でお気に入りの豆を大量に購入し、延辺まで持ち込むほどで、宿舎の事情でそれを楽しむことが叶わなかったから、延辺で初めてまともなコーヒーの香りと味を堪能できたのは、最終日とは言え、有難かった。

 ついでに、わき道にそれることになりそうだが、延辺のコーヒー事情、というか、喫茶店について、一言。その昔、韓国ではまともなコーヒーを楽しめることは望み薄で、高級そうな喫茶店でも、マックスェルかネスカフェが出てきたものだった。もちろん、インスタントである。しかも、その味が日本で飲むものと微妙に異なって、何か甘い香りがあって、それが鼻について、僕は受け付けなかった。そこで、当時は、日本からネスカフェの大瓶をみやげ物として持っていくと、大いに歓迎されたし、自分用にもそれを携帯したりしていた。ところがその韓国でも今や、日本と変わらないコーヒーがあちこちで飲めるようになった。何と言っても、世界に名高いスターバックスがその代表なのだが、それに引けを取らないチェーン店がソウルなら随所にある。

 そのスターバックスは北京でも随所に姿を現しているのだが、延辺では見かけなかった。ところが、ここでは高級な喫茶店として、なんと日本の神戸に本社がある「上島コーヒー」の店があった。但し、喫茶店の概念が僕らとは少々異なるようである。その昔、韓国の喫茶店は「茶房(タバン)」と呼ばれ、一種の風俗店の役割を果たしていたらしく、いつごろからか、それと区別するために、「普通の」喫茶店は「コーヒーショップ」と呼ばれる。

 延辺の喫茶店はどちらかと言うと、その「茶房」に近い雰囲気がした。席にはべる女給などはいないのだが、豪華なソファーなど、調度品は豪華を衒っている。それに個室ではないけど、ほとんど個室に近いような贅沢な空間が提供されている。それにまた、アルコールなども出すし、豪華に装ったフルーツなどが出されたりもしていた。

 キーワードは豪華の衒い、一種の成金趣味が徹底している。日本で言う、ラウンジに近いと言えば分かっていただけるだろうか。但し、僕にとっての最大の問題は、その上島コーヒーの味が期待したほどでは全然なくて、それでいながら、価格のほうは調度に見合った一人前であったことである。

 ホテルに戻る。その国際飯店のコーヒーは、結構いける。延辺で一番おいしいコーヒーであった。おかげでタバコの味も久しぶりに満足のいくもので、気分良く食事を終え、記念にホテルの玄関前で写真を撮り、B教授の見送りを固辞して別れ、Aさんと空港へ急いだ。
 あまり早くに着いたので、チェックインすることも出来ず、時間つぶしに空港の喫茶店に立ち寄って最後のコーヒー、タバコを楽しむつもりが、次第に胃腸に異変の兆候が。冷や汗まで出てくる。なんとかしないと搭乗できないのでは、と心配になるが、今更じたばたしても仕方がない。ともかく、足を引きずり、トイレに駆け込んだ。時間の余裕があるのをこれ幸いと、長時間、トイレに座っているうちに、少しは落ち着いてきた。後は、このまま胃腸がおとなしくしてくれることを願うばかりである。

 チェックインに向かう。先ほどは無人状態だったのに、喫茶店、そしてトイレで粘っているうちに、列はすごく長くなっていて、その最後尾につく。すぐ前に、女性の二人連れが、ひとつの大きな荷物を二人で抱えている。変わった二人だなどと思っていると、お年寄りのおばあさんと少年がやってきて、4人で言葉を交わしている。何か落ち着かない様子である。程なくして、30代前半に見える、陽に焼けて精悍な顔つきの男性が微笑みを浮かべて現われ、全員にホッとした雰囲気が広がった。

 その様子を見ていたAさんがおばあさんに話しかけてみると、次のような事情だった。その若者はおばあさんの一人息子で、最初に荷物を持っていたのは、その姉と妹という。息子は妻と一緒にソウルに出稼ぎに出ており、今回、久しぶりに息子だけが里帰りしたのだが、今から再びソウルへ旅立つことになっている。その息子夫婦の子供が、先の少年で、両親はその子をおばあさんに委ねて出稼ぎに出たので、おばあさんが育てている。その子にとって、久しぶりの父親との対面は嬉しいことだけれど、別れの段になると、一段と淋しくなるようで・・・

 その話を聞いた後で見ると、なるほど、その男性と女性二人の顔つきは似ている。おばあさんは韓国でもよく見かける、いかにも朝鮮人農民の姿で、顔には深い皺が縦横にめぐっており、その皺の中に目が埋まっているかのようである。一人息子との別離に心穏やかではなかろうに、健気にも絶えず微笑を浮かべて、いろいろとAさんに説明している。そうすることで別れの辛さを紛らわしているのだろうか。

 その後、出国手続き、飛行機の到着が遅れたせいで長引いた搭乗待ちなどの間中ずっと、体調の異変に苦しんでそんな余裕があるはずもないのに、気がつくと僕は、その日に焼けた青年の姿を追っていた。彼の姿に、亡父の似姿が見えるような錯覚に耽っていた。体調が悪いから、余計に感傷に溺れるのだろうが、こういう感傷を除けば僕の旅なんて何一つないようなもので、だから余計に疲れるということになるのだろう。

 さて、父の似姿というのは、ありえたかもしれない自分の似姿ということでもあって、そこで、一席。
僕の父は十代の後半に韓国の済州島から日本にやってきたという。本当のところ、父から直接にその経緯を聞いたことがあるわけでもなく、あくまで話の断片を寄せ集めて想像で味付けしただけのことなのだが。

 がともかく、その信義疑わしい僕の知識に則れば、父の父、つまり祖父は学があって、村では一定の尊敬を集め、村長みたいなこともやっていた。しかしその分、汗を流して働くという風ではなかったらしく、格式はあっても実のところ貧乏農家にすぎない。その長男、つまり、父の長兄は父親の生き方をそっくりそのまま受け継いで農作業などには手をつけず、生活の糧を担うのは、次男と三男であるわが父。次男は出稼ぎに、そして僕の父は小作や土方仕事など、仕事があれば何だって食いついては懸命に働き、その下の4男だけはそのおかげもあって、国民学校に通うことができ、解放後は警察官となった。

 次第に植民地化の土田舎にも戦時色が濃くなり、父は徴用逃れということもあって、土方仕事でまとまったお金を稼いで旅費を工面し、日本に渡ってきたらしい。その父と母との日本の片田舎でのロマンチックな出会いというのも、僕は父が亡くなってから従兄の口から初めて知ったという具合で、息子としてはなんともお粗末な話である。

 がともかく、その後も父は日本で懸命に働き、そしてそれで得たお金を韓国に持ち込んだ。「故郷に錦」というわけである。夫婦二人で老後を生まれ故郷で暮らすという夢があっただろうし、貧しい故郷にそれなりの貢献をしたいという長年の夢もあったようである。それにまた、兄弟姉妹にできる限りの援助をしたいという気持ちもあった。しかし、事はそのようには運ばず、かえって、血縁者との軋轢などが、次々と生じ、それがその後の母のみならず僕ら兄弟の大きな心配の種になるわけで、異郷での労苦の結果が思わぬ問題を背負い込むことになった。

 さてその父の日本での働きようは、僕などから言えば、糞まじめな農民の姿に他ならず、彼がそのまま韓国に居続けたならば、なるほど経済的な苦労は多々あっただろうが、精神的には彼の気質にマッチしてよほどに幸せな人生を送ったのでは、というのが僕が永く心に抱いて放さない感傷なのである。

 そうした父の場合は、自分が生まれ育った家族とは別れ別れになったとしても、日本で出会った母と家庭を築き、彼自身が作り上げた家庭と離れることはなかったからまだしも、戦後、日本に密入国してきた親戚その他の様子を傍から見ていると、出稼ぎのための家族離別は、その後に多様かつ大きい問題を生じさせているようである。

 たとえば、日本での懸命な労働で稼いだお金を送った結果、奥さんや子供たちは経済的には苦労はなくても、親子の情、夫婦の情は薄れて、家族が解体するというようなことになったりもするのである。というように、家族とはいったい何だろうかと思わずにはおれない。というわけで、家族の別離をものともせず出稼ぎを敢行する、或いはそうせざるを得ない延辺の若者たちの懸命な姿の彼方に、僕はついつい不幸の影がさすのを勝手に読み取ってしまう。そしてその延長で、生まれた時代と場所が少しだけ異なっていたら、僕だってそうなっていたかもしれないと思わずにはおれないのである。

 というわけで、日本に生まれ育った己の幸せを土台にして感傷にふけるという自己満足かといわれそうだが、それだけではないはずである。夫婦や家族が、いかにやむを得ない事情があったとしても、長期間別居することによって生じる亀裂など、愛の強さなどというものではどうしようもないようである。孤独な日常ゆえに生じる人恋しさの力、それが離れ離れの家族や夫婦の間に大きな亀裂を生じさせる。

 そうした日常と時間の恐ろしいまでの破壊力を無視できない年齢になったというわけである。

 ともかく浅黒い肌の中に浮かび上がる輝く眼と言いたいところだけれども、その眼の中、そしてその挙動には、何かしら不安の影がある。出国手続き、そして韓国の入国手続きがクリアーできるかを心配しているのではなかろうか。その若者の姿、そして彼の心中の想像といったことが、ずっと僕の脳裏を離れなかった。

 ソウル行きの飛行機で同席したのも、延辺への里帰りを終えて再度ソウルへ出稼ぎの旅に向かう二人の女性だった。僕は機内食などには全く手をつけられず、水を嘗めるのがやっとの状態なのに、その二人の挙動がついつい気になってしまう。

 始めは同行かと思っていたが、全くの見ず知らずの他人だということが後に判明した。一人は30前後で、化粧や服装が水商売風で、なかなかの美形であるが、何かしら表情に疲れが見える。その彼女が、横に座った40代半ばの、いかにも肉体労働で生計を立てているといった感じのおばさんにすごく親切に気を遣ってやっている。おばさんの方は、旦那さんもソウル近郊に一緒に出稼ぎに行っていて、今回は奥さんだけが里帰りといった風だった。インチョン空港の預けた荷物を受けとる所で、携帯電話番号を交換し合って、共に頑張ろうと励ましあって、そして別れる様子を、僕は遠目ながら確実に捕らえたのだった。 

 ソウルに着いたが、とうてい活動できる体調ではない。しかも、荷物が出てくるのを待ちながら、再会を約束していたソウル在住の従妹に電話してみたところ、その末弟の夫人が出産の際に胎児ともに亡くなり、前日に葬儀をすませたところだという。そんなとんでもない不幸の最中に、親戚と言っても外様としか言いようのない「在日」の僕が訪問して、さらに気疲れさせるわけにもいかないし、僕の体がそういうところで気を遣える状態ではない。またの機会に、と電話を切り、そのついでに他の予定もすべてキャンセルすることにした。

 少しでも身軽にと、荷物をほとんど空港に預けて、リュックだけを背負ってホテルに直行することにした。リムジンバスを降りるとひどい豪雨である。地下道に退避して雨宿りしてみたが一向にやみそうにない。仕方なく、まずはリュックを背負い、その上から、ジャンパーを着てリュックの荷物を雨から守る。体が布袋さんのように膨れ上がって、身動きが面倒である。なのに、更には、頭に図門の土産物店で買って、旅行中随分お世話になったカーボーイハットを被り、そして、夏になるとどこへ行くにも手放せないタオルを首に巻いた。いわば全身武装で、雨の中に飛び出した。

 但し、読者は覚えておられるだろうか、僕の左足は捻挫してまだ3日目、颯爽と走れるわけがない。そのいわば強いられた徐行のおかげで、道端のコンビニが目に入った。これ幸いと、傘を購入しようとしたのだが、疲労のせいだろうか、頭が韓国の貨幣モードにスイッチできず、一桁多めに支払おうとして、レジの主人に怪訝な顔をされる始末。

 その傘の助けを借りても豪雨には勝てず、すっかり濡れ鼠でホテルに到着した。何はともあれ、緊急の連絡が入っていないかが気になり、ネットでメールの確認を済ませた後、部屋に直行した。

 濡れた服などを体から剥ぎ取り、あちこちに投げ捨てる。濡れた体をバスタオルで丁寧に拭い、そしてシーツを身にまとい、直ちにベッドに入った。すぐに眠りに入ったようだ。目が覚めてみると、既に暗くなっており、窓の外を見ると雨も上がった様子。少しは何かを口に入れたほうが良いかと外に出てみたが、とても食堂に入る気にはなれず、コンビニで海苔巻きとビールを買って部屋に戻った。

 テレビを見ながら、海苔巻きをビールで胃にゆっくり注ぎ込み、「カラスの行水」といつも妻に嘲笑される僕にしては考えられないほどゆっくり入浴し、またもやベッドに入った。テレビの画像も音も一向に頭には入ってこないままに再び長い眠りに入っていた。


 目覚めたのは8時頃だった。それでも午後の飛行機にはたっぷりと時間がある。しかし、観光する元気などありそうにない。だからといって、直ちに空港へ行くのも、あの無機質な場所で長々と飛行機を待つなんて願い下げである。可能な限り、ホテル界隈で休息を取ることに決めた。散歩がてら外に出てみると、オープンカフェが見えた、そのテラスに陣取って、コーヒーとサンドイッチを注文し、試し手試しといった感じで口にいれ、かみ締める。少しは食べれるようになったようである。でも何が起こるか分からない、と自分の体に全く自信を失っている。

 そこで、先ほどの決心が揺らいだ。まだまだ時間の余裕がたっぷりとあるのに、少しでも確実に大阪に帰れるようにと、空港へ向かうことにした。着くや否や、先ずはお金絡みの用事を済ませて、後はひたすら椅子に体を預けて出発を待った。

11.エピローグ
 
 記憶が曖昧で、いつのことだったかはっきりしないので、上記の滞在記からは漏れてしまったエピソードを最後に。ついでに言えば、この旅行中にメモなど一切とっていなかったから、実はこの文章全体が、僕の曖昧な記憶だけが頼りである。というわけで、とりわけ日時などは間違いを多く含んでいるに違いなく、その意味では、このエピソードだけが特別という話ではないのだが。

 延吉の中心部に公園がある。小高い丘を中心に、随所に小さな池なども配置され、遊園地や小型の動物園も併設されており、老若男女が楽しめる。とりわけ、中心の丘から街を一望できるというのが最大の取り柄であろう。都市というものはこういうものがあってこそ、である。そうした意味では、全く変哲などないのだけれど、その都市の風格や雰囲気について多少の材料を与えてくれそうな公園での話を幾つか。

① 中国の公園に行くとよくあることなのだが、写真撮影に最適の場所と、カメラを取り出して撮影が済んだかと思うと、急にどこからか、おばさん、おじさんが現われて、撮影料を要求する。公共の公園でどういう権利があってのことなのかと質問でもしようものなら、その場所に「それだけの投資をしているのだ」という。どういう投資で、それを行政がどういう形で認めているのか、或いは認めていないのか、よく分からない。いづれにしても気分がよくない。

しかし、中国では、それが普通なのであろうから、気分の悪さを解消したければ、そうした事態を許している社会のシステムを知って納得するしかないのであろうが、そういう面倒を引き受ける人はあまりいなくて、不愉快だけは残るということに。

② 僕らはその公園に入場する際に、料金を支払った覚えはないし、そもそも、料金所らしきものなど見当たらなかった。どこからが公園の敷地なのか、明確な境界さえも分からなかった。川筋の緑地帯を進んでいるといつの間にか公園に入っていたという感じで、そのあたりにはほとんど人影はなかった。

 ところが、路を進むうちに、人が増えて遊園地や動物園まである。そして既述の丘があり、さらに経巡っているうちに、屋台などが立ち並び縁日のような賑わいがある。そして、ついには、もう一つの出入り口に至る。そこは門構えになっていて、そこから入場する場合には、料金が必要な様子だった。どこから入るかで、無料、有料の違いがあるらしいのである。これも理屈がよく分からないが、わざわざ人気の少ない方角から入場する人は少なく、そこから人気のある地域に至るには相当に歩かねばならないから、その労に対する対価ということで無料ということなのだろうか。

 このあたりも、その土地には土地の常識の線、あるいは合理性の基準があるわけで、土地を知る、その文化を知るとは、そういう基準を成立させている何かを把握するということなのだろうが、それを短時間で、というのは無理がある。

③ 出店が集中して縁日のような賑わいのある区域で、周りからは少し浮き上がるように見える少年がいた。Aさんは「あれはきっと北朝鮮から来た子供」だという。そう指摘されて、目を凝らして見ると、汚れた着衣、すばしこそうな挙動、そして何より、目つきが並外れて鋭い。「何でもやりそう、やれそうな感じ」とでも言えばいいか。屋台で駄菓子を買い求め、それを舐めながら、あちこちに鋭い一瞥を投げていた。Aさんの話では、ああした子があちこちにいる、という。

 がともかく、その子供を見ながら、僕は不思議なことに、何か懐かしいような思いに包まれた。その昔、僕が子供だった頃には、あの目つき、ああした雰囲気を持った子供が僕の周囲にいたからである。あの頃の、在日朝鮮人の子供たち、とりわけ、親にほとんど遺棄されたも同然の子供たちはまさにあのような目をしていた。

 時には徒党の中に混じっていたが、いつどこでも安心する風はなく、孤独の影が射し、凶暴な何かを内に秘めているという感じだった。そして実際に、時として、実に凶暴な挙動に至ったあの子供たち、それが40年以上も経て、しかも、遠く離れた中国で蘇ったかのようだった。今でも世界のあちこちに、こうした子供たちがいるのだなあ!それにしても日本はやはり幸福なのだろうか、あの種の目つきを持った子供を見かけなくなって久しい、と今更ながらに思ったのだった。

 因みに、かつて日本の大阪にいたあの目つきの子供たちは、今どうしているのだろうか。すっかり柔になって、僕のようなふやけた中年、或いは老人に変貌してしまっているのだろうか。或いはまた、あのハングリー精神丸出しの猛禽のような子供たちは、今ではその面影をどこかにしまいこみながら、しかしその攻撃性だけはますます磨きながら、知恵を働かして、表の世界、裏の世界で逞しく生きているのだろうか。  

 延辺に行くと懐かしい気がすると語る人がいる。僕もなるほどそうだと思った。

 延辺は僕に昔の「在日」を思い起こさせる。そして、そのことによって、大きく変貌した「在日」の現在をも照らし出してくれる。既に中年になってしまった「在日」の僕は、延辺で見たこと、感じたことを契機に、なんとなく過ごしてしまった僕らの青春から中年までの時間を改めて生きなおすことができるかもしれない。

 この社会に長く生き、若かりし頃にはなんとしても正義をなどと肩を張り、人を攻撃したりで失敗を積み重ねた結果に懲りたこともあって、成人してからは、不必要なまでに軋轢を避けて生きるべく努めてきたようで、その構えがすっかり身についてしまった。それは仕方のないことであったとも思うが、それによって染み付いた思考や感情の垢は恐ろしいまでに厚くなってしまい、それが自分を縛り付けているような気がする。その垢を少しづつ落として、もう一度生き直すなんてことが可能だとは思えないが、その努力くらいはできるだろうし、してみたい。
 
 今生きている現場でそれをすればいいのだろうが、惰性の力に乗せられてしまって、すごく難しい。そこで、環境を変えて自らに刺激を与えるなんてことも一つの手立てになりそうな気がする。そういうものとして、延辺にこれからも通ってみようかなと思う。延辺でなくてはならないという理由などないけれど、延辺であって、悪かろうこともないだろう。

 気持ちが動けば、何だってやってみるしかないし、僕に残された時間がそんなにあるわけでもないのだから、楽しみながら、その方向への歩みを続けていきたい。そもそも、結果などどうだっていいわけだし。


玄善允の落穂ひろい3-2(延辺旅行記2)

2018-03-14 15:08:59 | 玄善允の落穂ひろい
(前回の、玄善允の落穂ひろい3-1に続く)

6.韓国の影

1)研究機関における韓国の影

 朝7時半に、AさんとB教授が宿舎まで迎えにきてくれて、歩いて近くの食堂へ向かった。前夜の別れ際に、そこまでしてくれる必要はない、といくら固辞しても、慣れるまでは案内が不可欠とおっしゃり、そのとおりに実行されたわけである。実際、僕一人では街中の食堂には入る気がせず、宿舎である賓館の横にあるコンビニでパンとジュースを買って済ましていただろう。もっとも、そのほうが僕の胃にはよかったかもしれないのだが。

 朝食の値段は一人5元から10元程度かな(但しこれは僕の勝手な推定。この旅行中、僕がお金を払う機会はほとんどなかったから、僕が記す値段に関する情報は一部を除いて、眉に唾して読んでください)。並んでいる数種類のおかゆ、野菜の炒め物、ナムル、目玉焼き、パン類の中から自分で選んで適当に取るというセルフサービスではあるが、若い女店員と女主人らしきおばあさんが、いろいろと手伝ってくれる。日本的水準で言えば清潔とは言いがたいが、耐えられないほど不潔という風でもない。

 朝からビールを飲んでいる客もいて、前日のお昼の食堂の様子を見てもそうなのだが、韓国よりも延吉のほうがビール文化が浸透していそうである。韓国なら、界隈の常連客を相手にしたこうした一膳飯屋では、とりわけ朝食昼食の時間帯では、ビールはあまり見かけない。韓国では焼酎とビールの価格差が大きすぎるのがその一因なのだろうが、延辺ではビールと中国酒の価格の差は大きくないのかしら。

 こうしたビールの普及度、そして朝からアルコールを飲む現象ははたして延吉だけのものなのか、それとも中国の広い地域に通じることなのだろうか。
宿舎で小休止した後、延辺大学にB教授を訪問し、改めて今後の予定を確認したうえで、B教授の紹介を受け、女性研究中心の代表者F主任を訪れることにした。

 先にも記したように、今回の旅の目的である研究題目「中国朝鮮族女性意識の変貌」について説明し、意見を伺うと共に今後の共同研究の可能性などについて協議した。F主任は、研究テーマに強い関心(礼儀上、或いは、これを契機に日本での研究滞在の可能性が開けるかもしれないという実利を見積もってことかもしれないが・・・)を、また共同研究にも前向きの姿勢を示された。その後、関連資料の紹介を受け、その一部は複写した上で返却し、その他はありがたく寄贈を受けた。

 因みに、このFさん、延辺の人というより、韓国女性の「ネムセ(臭い)」があった。ぶしつけながら、韓国との関係について質問したところ、延辺大学を卒業後、韓国の梨花女子大で修士、博士課程を終えて、この職に就いたところだというので、なるほどと得心した。

 最初に少し話を交わすだけで、この人は話が通じそうな印象もあって、僕はあえて失礼の懸念を振り切って、世界では女性学などもう流行おくれになっているのではないか、などと女性学の潮流に冷や水を投げかけたのに対し、それはなるほど事実なのだが、とひとまずは柔らかく受け止めるかと思わせて、息をつかせず、しかし、中国では今こそ女性学が求められている、と切り返された。結局は、僕の挑発などものともせずにむしろそれを利用することによって、今後の中国における女性学の隆盛についての楽観的な展望を、使命感を漲らせつつ自信一杯に展開なさったわけである。

 その対応に、僕は大いに好感を持った。言葉のキャッチボールができたという満足感があった。だがその一方で、日本ではかつて「洋行帰り」の人たちが、西洋を錦の御旗にして披瀝した傲慢と教条主義を、彼女などは韓国帰りを錦の御旗にして備えるに至っているのでなければいいのだが、などと意地悪に思ったりもした。それほどに、延辺では韓国の影が非常に大きな意味を持っているように見えたことが作用したのであろう。

ことのついでに付け足せば、この女性学センターは圧倒的に韓国の梨花女子大との提携・協力で運営されているようである。センターの刊行物を紐解くと、梨花女子大との共同研究にまつわるイベントばかりが目につく。延辺における韓国の全般的なプレゼンスを象徴していると言ってよいかもしれないし、また、とりわけ韓国との関係で特に際立つ延辺女性の問題の深刻さを繁栄しているのかもしれない。

 ついでにいまひとつ。韓国で女性学が果たした役割について、彼女が述べた以下の話は、韓国関係の研究者の間では既に常識となっているのかもしれないが、僕としては初耳で、なるほどと思わされた。韓国では女性学がメディア、とりわけテレビのドラマに大きく反映、浸透し、そうしたドラマを通じて、社会における男女の性役割に関する感じ方、考え方、さらには社会意識総体をドラスティックに変えたのだと。それが事実だとすれば、学問のサブカルチャーを通じての社会への影響力について楽観的な展望が開けるわけで、僕に染み付いた学問の非力という悲観的見方を訂正すべきだろう。或いはまた、それは例外的に韓国にのみ許された幸福であって、日本ではサブカルチャーは社会をますます閉塞化するのに寄与しているだけではと思い返したり。

7.宿舎或いは建築物と文化


1)竜井と延吉

 宿舎を、大学正門横の賓館から学内にある外国人教員用宿舎に移した。Aさんと、1年前から日本語講師としてその宿舎に在住しているK研究員(日本人で、東京の大学で博士の学位を取得しておられる)との共同による奔走のおかげである。

 竜井市の旧間島日本領事館(反日運動家の牢獄、水拷問の施設などが残っているが、現在は、市政府などが使用している)、大成中学校(中国朝鮮族の教育熱の象徴、尹東柱の詩碑などもあって、観光名所となっている)などを見学。竜井市外事処の二人の役職者が共に、たまたまAさんと旧知ということもあり、見学に際して特別な配慮を頂けた。数日来の大雨のせいで、かつては日本軍の牢獄や水拷問の場所で、現在は展示館になっている地下室などは浸水のために参観に苦労したが、それもまた牢獄の悲惨の一端を模擬体験しているような気分になって、いい経験だった。

 小雨の中の竜井の町の印象はすこぶるよかった。雨に洗われた効果もあったのかもしれない。清清しい。輪タクが町の随所で客待ちをしたり、のんびり走ったりしている。距離によって、1元、2元程度である。これは大きな荷物がある場合の近距離の移動や、タクシーを使うほどでもない中距離の移動にすごく便利だし、情緒があって実によろしい。

 その後、何回も利用させてもらったのだが、自転車を漕ぎながらいろいろと話しかけてくる運転手との掛け合いは面白かった。僕は白髪隠しにということで先だってから髪を金髪に染めており、そのうえ、延辺に着くなり失ってしまったキャップの代わりに、この旅の間ずっと図們のみやげ物店で購入したカーボーイハットを被っていて、おそらく異様に映ったのだろう。ドイツ人かと思わぬ質問を受けたりもした。

 また、日本から来たと自己紹介すると、日本人は嫌いだ、話をしない、などと冗談なのか本気なのか判らない言葉を返されて返答に窮して、僕は日本から来たけれど韓国人、などと弁解しようと思いはしたが、それはいかにも姑息だと、口をつぐんだり。
しかし、こうした簡便で安価な交通機関も自動車が増えてくると存続は難しいだろうなあと思わざるを得なかったし、実際、車の量が爆発的に増え、クラクションを大きく鳴らして競争しながら疾駆している延吉ではほとんど見かけなかった。因みに、この輪タクは公的に認められた交通機関であって、ナンバープレートを備えている。

 ともかく竜井は発展を急ぐ延吉の町と正反対に、昔の情緒をそのままに保っているように見えて、人を寛がせてくれる小都市である。

 竜井はかつて日本の植民地主義の出先機関の所在地で、植民地化された朝鮮人の町であったのに対し、延吉は漢族の町であったという経緯が現在の状況に波及しているようである。朝鮮族の地域であった延辺なのだが、主流だった朝鮮族は今や中国の各地、さらには韓国、日本、そしてアメリカへと続々と流出し、逆に中国各地から様々な民族、とりわけ漢族が流入している。つまりは、圧倒的な力を誇る漢族が次第に朝鮮族を駆逐しつつある。

 延吉の繁栄はつまり、延辺における漢族の隆盛・覇権の表れということでもある。それに加えて、韓国系の資本が投下され、その影響力も増大し、漢族と韓国資本を背景にした朝鮮族との競争が、或いは、朝鮮族を飛び越えての韓国資本の延辺定着が実現しつつあるようである。それが深刻な事態、たとえば、韓国資本(或いはそれを背景にした朝鮮族)の力が一定限度を越えるような事態を、中国中央政府が許すわけはありえないから、韓国資本、それを後ろ盾にした朝鮮族の影響力はあくまで副次的なものにとどまるであろうが、ともかくそうした一定のつばぜり合いがまた、延吉の街のダイナミズムとなっているのであろう。

 いづれにしても、朝鮮族がそこで、支配的な力を発揮する可能性は極めて限られており、その影響力は暫時衰退していくことになるのではないか。経済力の強者が、マイノリティ、経済的弱者を欲望で引っ張ると同時に排除する。こうして、マイノリティ集団内部に二極化と空洞化を引き起こし、拡散、分裂をもたらすといったところか。

2)宿舎と文化

 さて、先に軽く触れた宿舎について、もう少し立ち入ってみる。これについては、Aさんが、事前に複数の候補を用意して、下見までするなど、実に細かく気を遣ってくださっていた。一つは最初に宿泊した延大の賓館。ついでは、大学外事処の宿泊施設。もう一つが、延吉で最高級の五つ星ホテル。快適さを問題にするなら、当然、ホテルだろう。朝食込みで500元(6,500円くらい)なのだから、日本や韓国の価格と比較すれば相当に安価だし、しかも、伝を頼れば300元でも宿泊可能だというので、最初に宿泊した賓館の200元(但し朝食なし)とほとんど変わらない。なのに、僕はホテルを選ばなかった。僕の十八番のやせ我慢が作用したのである。それにあくまで研究調査が目的なのだから、快適さを優先するより、研究機関のルートでの宿舎の実情を体験しておくべきだという屁理屈もあった。

 Aさんのアドバイスもあって僕は最初の賓館で一泊の後、学内の外事処の宿舎に移ることになった。1泊80元で格別に安いということもあった。棟内に食堂があり、中国料理と韓国料理のバイキング形式で、一食ごとに5元、これも便利である。もっとも、僕は胃腸の変調に加えて、何かと慌しくて、その食堂の利用は朝食の2回きりだったのだが。

 さて、Aさんがなぜこの宿舎への移動を勧めたのかといえば、先ずは、学内にあって、安全であること、大学内外の研究機関を訪問するのに便利であること、それに宿舎内で食事が可能だということ、とりわけ、朝食時に僕を放っておいても不都合が生じそうにないことがあっただろう。さらには当然のことだが、先に述べた値段の差、最後には、新しさだろう。女性というのは(偏見か?)一般的に新しいもの、清潔なものを好む。とりわけ、中国や韓国の場合、建物が急速に古びるから古いものにそれなりの価値が付加されるということが少なく、ただただ古びて面倒が多い。建て方の問題があるのだろう。外観の豪勢さが優先し、中身はどうでもよいというわけなのか、新築時から細かな問題が既に多く生じるらしいのである。それに加えて維持管理のお粗末さということもあるらしい。だからこそ、新しさは大きな価値ということになりがちである。

 実際、新築されて久しくはなさそうな宿舎に移ってみて、清潔感があるし、6階の窓からの眺望もよい。ところが、そこにしばらく滞在するとなると、問題はいくつもあった。例えば、シャワーはあっても冷水しか出ない。若くて元気ならば、なにしろ真夏のことなので支障はないのだろうが、この文章でしつこいくらいに記しているように、僕の体調はすこぶるよくない。そのうえ、冷え性に長年苦しんでおり、というか、気温の変化についていけないものだから、油断をすると、すぐに風邪を引いてしまう。そこで、水のシャワーにはついつい及び腰になる。結局、僕は延辺にいる間、その部屋のシャワーを一度も浴びない始末となった。

 さらには、トイレの問題があった。韓国でも田舎に行くと同様なのだが、水洗トイレの便器の中に紙を捨ててはならない。詰まるからである。何故そういうことになるのか。一説では、管が狭すぎるからだ、という。また一説では、トイレットペーパーの紙質が悪くて水に溶けないからだ、とも聞いた。しかし、ホテルではそういうことが起こらないからには、技術的な問題はクリアーできているに違いない。そうれだけに余計に不思議なのである。

 がともかく、そうしたトイレでも、一回きりの利用者なら、不始末の責任など知らぬ存ぜずで逃げを打てるが、そこに長期に宿泊となれば、迷惑は自分に帰ってくる。今回もついついそのことを忘れてしまった結果、トイレが何度も詰まって、あげくは溢れて往生した。ただでさえ、胃腸の不調のせいで、常にトイレのお世話になっている身なので、本当に困ってしまった。結局は管理人のおじさんに、なんと呼ぶのかなあ、トイレなどが詰まったときに用いるあの器具を借りて、問題はひとまず解消したが、その後も・・・

 元はと言えば、こうした宿舎の性格と僕の滞在の性格とのずれというものがあった。僕はせいぜい一週間あまりの滞在にすぎないのだが、この宿舎は少なくとも一ヶ月、長ければ一年二年といった長期滞在を前提としている。そこで、生活に必要なものをすべて、たとえば家財道具のようなものまで自分で調達しなくてはならないのである。初めてその部屋に下見に行った時点では、部屋に備え付けてあったのはテレビとベッドだけで実に殺風景。Aさんが管理人さんに、机と箪笥を調達してくれるように頼み込んで、それを叶えてくれるということでその部屋に移ることに決めたのだった。

 ついでに言えば、部屋のテレビはなるほど映りはするのだが、音声が全く出ない。テレビを見るために旅行しているわけでもないから仕方ない、と諦めていたところ、一階の管理人室のテレビでは音声たっぷりで韓国ドラマが放映されているをたまたま見かけて、管理人のおじさんに不都合を訴えてみたけど、「それはおかしいなあ」の一言が返ってきただけで、だからといって何もしてくれそうになかった。というわけで、僕は延辺に滞在中、全くテレビを見ないですごした。

 テレビはともかく、生活するには必須のものがいろいろとある。バスタオルや、蚊取り線香(6階で蚊が出るとは思ってもいなかったが、初日に寝られないほどだったので。もちろん、煙を出す昔のそれではなく、電器を用いるものだが)などはAさんがデパートで調達してくださった。

 しかし、ポットは買わずに済ませた。僕お得意の貧乏根性で、勿体ないからである。ということはすなわち、部屋では湯を使えないというわけで、日本からわざわざ持参していたコーヒー豆、紙フィルター、砂糖、ミルクなど、全くの無駄骨に終わった。タオルはもちろん、洗面用具などもなく、また湯のみやコップなどももちろんなくて、コンビニで最低限のものだけ買って間に合わせた。

3)裸の文化交流

 公共建築物が立派過ぎるという印象を与えるのは、別に中国だけのことではなくて、とりわけ元共産圏の諸国に共通していそうなのだが(但し、僕が訪問したことがあるのは、中国とベトナムくらいで、偉そうなことは言えないのだが)、その一つとして今回特筆すべきは、学内の室内プールである。世界水準のコースと言っても通用しそうな50メートルプールである。しかも、水深2,1m、最浅部でも1.8mだから、泳ぎに相当の自信のある人以外には危険である。尤も、2コース分に限っては、子供や泳ぎに自信の無い大人向けに、床を設置して浅くするという配慮がなされており、婦女子向けのかなり贅沢な水遊び場となっている。
 
 因みに、こうしたスイミングプールの利用にも中国における貧富の差が覗われる。一回15元のプールに通える階層というのは、中国、とりわけ内陸部ではそれほど多くないのではなかろうか。屋台でチジミ(韓国風お好み焼き)が1元で売られていたことを考えれば、室内プールの高価ぶりが推測できる(因みに、その屋台の夫婦は朝鮮語ができそうになく、漢族のようであった)。中国における室内プール、とりわけ、延辺大学の室内プールはその価格からして、昔の日本におけるホテルのプールと似たステイタスを備えているのではないのだろうか。

 更に言えば、中国における大学の位置というものも垣間見えるということにもなる。大学に関係する階層(学生、教員、職員その他)は中流以上ということになりそうなのである。とりわけ改革開放以後は、国立大学と言えども、独立採算制に移行しているらしく、学費も相当の額になりつつあるわけで、農民階層と大学生たちが所属する階層との間には大きな壁が聳え立っていそうに思えるが、あくまで想像の域を出ない話で、このあたりで止めておいたほうがよさそうである。

 プールの話に戻ろう。僕は海外での運動不足と過飲・過食に対する対策、そして気分転換には水泳が最適と考え、海外に出る際には、空振りの可能性を覚悟の上で、いつでも水着とゴーグル、スイミングキャップを持参することにしている。今回も、以前の北京での経験から、中国の大きな大学には室内プールがあると予想していたからでもある。

 その話をひょんなはずみでB教授に洩らしたところ、立派な室内プールが学内にあって、ご自身も通われているとのことで、すぐさま、机の引き出しから利用券を取り出し、3枚も下さった。

 実際に行ってみて、先にも触れたことだが、その大きさに先ず驚いた。その一方で、僕が日常的に通っているスポーツジムのプールよりは随分暗い感じがして、居心地が悪いという感じもあった。もともと、僕はメガネなしでは良く見えないのに、それに加えてうす暗いものだから、ぼんやりした視界の中で、大人や子供の声が大きな室内プールに反響しているのは異様な感じで圧倒された。がともかく、いただいた利用券3枚をすべて使いきった。それには、既に述べたように、風呂代わりという理由、胃のマッサージ代わり、そしてなによりも気分転換という動機が強かった。

 後でも記すように、足首の捻挫に苦しみながらそれを押してまで通ったのは、それほどに気分転換の必要があったわけで、精神的に相当に疲れていたことの証である。最終回など、捻挫で足を引きずっている僕を見て心配になったのか、監視員が小走りで近寄ってきて、「その足で、深いプールでは遊泳してはならない」と厳しいお達し。仕方なく、婦女子用の混雑する浅瀬で20分ばかり遊んで帰るしかなかった。でもまあ、シャワーを浴びることだけは出来たのだから、文句は言えない。

 プールの話ついでに、裸にまつわる話を一席。シャワー室や更衣室で、日本との大きな違いに気づいた。誰一人として、「前」を隠さず、堂々とさらけ出しているのである。僕はメガネがないとはっきり見えないから内心大いに助かったけれど、そうでなかったら、赤面を禁じえず、赤面していることにまたドギマギということになっていただろう。

 「前」を隠すという文化は日本特有のものなのだろうか。だとしたらいつの時代に始まったものなのだろうか。僕は小さいときから銭湯に行くたびに、すっかり隠せるわけもないのに何故隠そうとするのかが不思議で、隠すほうがかえって意識させるのでは思いながらも、どうしていいのか迷ってきた。そこでその中間を取って、隠さない振りをして隠す、或いは隠す振りをして隠さない、というような奇妙な芸当を演じる癖がついて、いまだにその習慣が抜けない。

 さて更衣室で、これまたメガネをしていなかったから、最初ははっきりとは分からないながら、視線が自分に向けられているといった勘だけはあって、居心地が悪かった。そしてほどなくして、メガネだけはかけているがスッポンポンの若者がしきりに僕を見つめていることに気づいた。但し、見つめるというのは、普通は顔を、なのだろうが、彼の目は僕の顔を素通りして、僕の下と上、言い換えれば、陰部と頭髪を交互に見つめている。「前」を隠さない文化だから、他人の「前」を見つめても失礼ではないのかしら、などと一瞬思ったが、いくらなんでもそんなはずもないだろうと思い返した。

 僕の染色した金髪と白髪の混交した頭髪と、陰部を比べて見て、いったいこいつは何人か、ということらしかったのだが、ついに彼は勇気を振るって、話しかけてきた。「この色の違いは?」というのが本意だったのだろうが、出てきた英語は「どこから来たの?」であった。僕は咄嗟に、頭髪は染めているのだと、中国語で答えて、彼はやっと得心したようだった。そのついでに、「僕は日本から来たけれど、韓国籍である」とお得意の自己紹介をすると、やっと彼は長い煩悶に出口を見出してやれやれ。

 さて、その若者は、謎が解けて気分が楽になったのか、「どこに滞在していますか、大学の教員ですか、でしたら、なんとかまたお会いしたいものです、延辺大学の工学部の教員です」と言葉を次々と継ぐのであった。だが、僕はなにしろ裸である。そんな無防備な状態で、ことの流れで責任を負えそうにない関係が出来るのを恐れる気持ちがもたげて、「またお会いしましょう」などと適当にあしらって、まだ肌は濡れているのに慌てて服を着て、そそくさと大きなプールを備えた巨大な体育館を後にしたのだった。

8.国境と民族そして文化遺産

1)観光と国境

 「文学に現われた女性の変貌」というテーマの研究に協力を願おうと、延辺大学の文学関係の研究機関を訪問することになった。待ち受けてくれていた副院長に対して今回の訪問の意図を説明したうえで、今後のサポートなどをお願いすると、早速、関連論文などの紹介、提供を受けることができた。すべて、既述のB教授のあらかじめの配慮のおかげである。

 折りよく、今回の訪問のテーマと重なる修士論文が当の副院長の弟子によって提出され審査を通った直後ということで、早速、その論文を拝借し、複写し、返却した。論文のレベルや内容がどうであれ、修士課程の学生の論文にはその時々の流行がはっきりと現われるから、今の延辺の学生たちがどのような流行の思潮を土台にして研究しているかがよく分かるし、僕のような門外漢には、とりわけ、その注がいたって参考になる。基本的な参考文献がほどほどに挙げられているからである。

 夜に寝付く前にベッドに横になってその論文をぱらぱらとめくっていると、幾つか気になったことがある。筆者はどうも漢語が第一言語らしく、論文で使われている朝鮮語には変な表現が、さらには初歩的な文法的誤りまで散見される。そして、添付された英文要旨のほうはもっとひどく、意味不明、英語としての体裁をなさない部分まで目立って、これは一体どうなっているのかといぶかしく思った。はたして、この英文を審査する教員は英語が読めるのかしら、筆者は英語のネイティブチェックを受けていないのだろうか、などと。

 但し、このあたり、僕の英語、朝鮮語の能力を考えれば、偉そうなことを言えた義理でもないので、相当に割り引いて読んでいただいたほうがよさそうである。

 その文学研究院を辞した後、お昼前には延吉を離れ、北朝鮮との国境かつ交易所でもある図們に向かった。長い道中の車から見える風景は平和そのもので、その豊かな緑を満喫していたのだが、目的地に到着し、一歩タクシーを降りると、一帯はすっかり観光地化している。その中心とも言うべき、図們江にかかる橋の真ん中には境界線があり、それを一歩越えれば越境、つまり北朝鮮の土を踏んだことになるというわけで、多くの観光客がそうしたポーズで記念撮影をする。

 僕もAさんの勧めでそうしたのだから、批判めいた言い方はおこがましいのだが。韓国からの学生の団体旅行客は、引率の教師からの長々とした説明に神妙に耳を傾けていたが、それが終わると一転して弾けるような嬌声を上げながら、その境界線上で無邪気に記念撮影を繰り返している。

 川べりでは、地元のおじさんが望遠鏡を備え付けて、客寄せをしている。望遠鏡の賃貸しである。「動いている、動いている、急いで、急いで、ほらあっち」といったように、向こう側(北朝鮮)に人影が見えればそれが大きな売りになるといった感じで、悪く言えば、北朝鮮の人間は「珍獣扱い」ということになる。観光とは地元の人にとっては儲けにもなるが、その一方で、見世物にも仕立て上げられるわけで、過酷なものである。誰か偉い人物(たぶん、江沢民か、鄧小平か)の訪問記念に作られたらしい大仰なゲートがあって、その屋上に至る狭い階段を登っていくと、その途中にも、また屋上にも、北朝鮮記念グッズを売りにした売店が並んでいる。

 僕は元来がこうしたもの、つまりは、みやげ物や国境といったことに対して冷淡に振舞う性質で、殆ど頑なと言っていいほどである。好奇心の欠如という生来の性格もあるが、それに加えて、とりわけ国というものが絡むと、頑なに心を閉じるといった風情なのである。その病が、すっかり観光地化してしまった国境を眼前にして、ひどくなる。

 しかし、遠路はるばるやって来たのだからせめて記念に、とAさんに促されて、不承不承ながらいざ救命具を羽織ってモーターボートに乗りこみ、対岸つまり北朝鮮の領土の目と鼻の先まで迫ると、それなりの感慨が沸いてきたりもする。僕の頑なさといっても原理原則などとは関係が無くて、自分に対するアリバイ証明の為の「振り」にすぎないのだろう。ともかく、その後、数箇所の口岸(国境の通商地帯)を訪れることになるのだが、この図們が最も観光地化し、それだけに味気なく、白けてしまった。

2)英雄と民族の今

 次いで、竜井郊外の明東村にある詩人尹東柱の生家を訪れ、帰りには竜井市郊外の一松亭にのぼり、そこから竜井と延吉一帯の美景を一望して堪能する。そこで、実際の順序とは逆になるが、先ずは、一松亭でのエピソードから。

 山上の一松亭に上がると、観光客はほとんど見当たらず、老爺と十代前半と思しき娘さんがふたりでなにやら売っている。「どこから来ましたか」とその娘さんは恥ずかしそうに問いかけると同時に、「一つどうですか、おいしいですよ」韓国語で売り込んでくる。日本から来たと韓国語で答えると、驚いたようで、言葉をなくしてしまった。父親なのか、祖父なのか、ともかく彼女の横にいた老爺に問いかけるような表情で顔を向け、他方、老爺のほうは、曖昧な微笑で僕を見ていた。

 亭から竜井の街とその周辺を見下ろし、緑豊かな平原の中に豊かな水をたたえる河といった具合に、清清しい空気と緑豊かな眺望を楽しんでいると、30台前半とおぼしき女性が小学校高学年くらいの女の子を伴って近寄ってきた。「写真を撮ってくれませんか」という。娘さんを韓国に残して延吉の一般家庭にホームステイしながら留学中なのだが、夏休みを利用して娘さんが訪問してきたのを好機に、二人で延辺一帯を旅行中と言う。

 ついでに、尹東柱の生家に行くにはタクシーの料金はどの程度が妥当なのかと尋ねられる。一松亭まで乗ってきたタクシーの女性運転手と値段の折り合いがつかないらしい。そこで、Aさんが助け舟を出したが、その運転手、たまたま横に駐車していたタクシー運転手と口裏を合わして、そんな値段では到底無理と高飛車に出て、横の運転手も「そうだ、それが当然」とはやし立てる連係プレーで攻勢に出る。山の上で、他にタクシーなどないのだから、それ以上、意地を張っても埒があきそうにない。運転手の言い値を受け入れるか、或いはそれがどうしても納得できないなら、いったん市内に戻って、ターミナルで新たなタクシーを、但し、朝鮮族ゆかりの地に詳しい朝鮮族の運転手を探し出したほうが良い、とAさんはアドバイスして、別れた。漢語でほどほどにコミュニケーションが取れそうな方だったし、そもそも娘さんを韓国に残してひとりで留学するほどなのだから並みの女性であるはずもないと、楽観して、僕らは先を急いだのである。

 ついでは、時間的には前後するが、その前に訪れた詩人の生家にまつわる話を。民族的抵抗詩人として誉れ高い尹東柱の例の「序詩」を含めた詩集に始めて触れたのはもう40年も前の大学一年の時で、僕もご他聞にもれず、すぐさま熱烈なファンになったものだった。彼のように美しく、背筋を伸ばして生きたい、といったわけである。大学に入って、遅まきながら民族主義の洗礼を受け、ヒロイズムに酔ったり、その一方で、生来の性格的弱さとそれをどのように折り合わせることができるかなどと煩悶している最中だった。

 因みに、我が家の書庫を探ってみたところ、手元に残っているのは、伊吹郷による訳詩集で、1984年刊とある。僕が大学生だったのは1970年前後なので、つじつまが合わない。学生時代の詩集は失ってしまったのか、それとも僕の記憶違いで、学生時代に読んだのは雑誌に掲載された一部の詩だけだったのかもしれない。が、ともかく「序詩」の印象は格別のものだった。

 時代は流れた。今の僕には、あれほど好きだった小説を読む元気もなければ、彼の詩に感動する感受性も残っていそうにない。ところが彼の詩は、韓国では今でも大変な人気らしく、日本でも一部の、特に韓国朝鮮通、その中でもいわゆる韓流の流行以前から朝鮮びいきであった女性の中に多くのファンがいるようである。

 とはいえ、彼の故郷である延辺では実際のところどうなのだろうか。民族的英雄、或いは郷土の誉れといった評価が定着していると言われているが、そうした言わば公式的な言辞と一般の人々の心のうちとでは乖離が大きくあるのでは、とAさんの話を聞きながら思った。

 さて、彼の生家を訪れて感じたことを幾つか。
① 尹家は当時の朝鮮人の中では裕福だったのだなあということ。そこが僕のような感傷的な人間には、白ける。但し、それは決して詩人の責任ではなくて、僕の貧乏根性というか僻み根性が、刺激されただけのことである。夭折した詩人は、極貧の中で学業に励み、美しい詩を紡ぎだし、民族的抵抗に生を捧げた、といったように僕が勝手に創り上げた「お話」を後生大事にというわけである。歳をとっても全然賢くなっていないのである、僕は。因みに、この明東のみならず、延辺の農村地域は緑と水が豊かで、タクシーで周遊していると、とても豊かな田園地帯のように見える。

 そして実際、稲作を中心として、豊かな収穫量を誇っているらしい。しかしだからといって、この地の農民たちが豊かで何不足ない生活を送っているかといえば、決してそんなことはないようである。何よりも、厳しい冬がある。僕らのような観光客は、移動が容易で、観光に支障ない季節を選んで訪れ、その裏面である厳しい気候の中のこの地方を見ることはないのだから、見えるのは現実のごく一部にすぎないのである。

 実は、タクシー内で、豊かな農村のイメージをAさんにお話したところ、その豊かそうに見える田園の裏面が見えていないことを指摘されたばかりで、そうした直前の僕の印象訂正といったことも、尹東柱の生家や彼自身に対する僕の感慨に影響を及ぼしていたのかもしれない。自らの不明の責任を詩人に負わせるといったとんでもない自己合理化が僕の内部で働いていたというわけで、全くもって情けない話である。

② Aさんの詩人に対する感じ方、というより、尹東柱を奉る韓国からのお客たちに対する違和感。Aさんは韓国人に対する違和感を声高には言わないけれど、それでもやはり延辺の人であるからか、韓国人に対する複雑な感じ方を内心に秘めているようで、折に触れそれが顔を覗かせる。韓国人は詩人を奉り、大挙して観光に訪れはするものの、その生家や、その村に対して、さらには中国朝鮮族の農民たちに対して一体何をしてきたというのか、といったところなのだった。

③ その家の敷地内に村の精米所があり、そこが村の集会場にもなっているようで、村のおばさんたちが太鼓で伴奏を取りながら踊っていたのだが、その精米所は荒廃するに任せてあった。保存のきいた白壁のおかげもあって清楚な詩人の生家と、その荒廃した精米所のアンバランス、また、客が近づくと恥じらいなのか踊りをやめてしまう村のおばさんたちの純朴さと、観光地化した生家との間もアンバランス。詩人が今尚生きていてこの現状を見たらどのように言うだろうか、どのような詩を歌うだろうか・・・

④ 村の青年が管理人を司っているらしいので、その彼にどこかでコーヒーは飲めないかと聞くと、インスタントコーヒーを出してくれた。まさかサービスなのかな、それなら申し訳ないと思っていると、きちんと代金を請求された。10元と言う。これが管理費の一部になるのだろうし、なにしろ僕らは「裕福な観光客」なのだから、日本円にして150円程度のことで、あれこれ文句を言うのはみっともないか。実際に文句を言わないまでも、そういうことを考えたということだけで僕のさもしい根性の明白な証拠である。

9.庶民の現実(したたかさ)

1)民族博物館と「英語馬鹿」

 延辺民族博物館に到着したのが12時前。昼休みがあると困るなあ、と少々心配しながら足を速めたが、受付に開館時間は9時から5時までと記してあるので安心した。ところがそれも束の間、昼休み時間などどこにも書かれていないのに、職員たちは昼休みだと言い張って、さも当然のように閉館の支度にかかる。但し、工芸品を展示販売している空間だけは入場を許された。何気なく販売用の展示品を眺めていると、臨時に販売員役を買って出た管理職めいた男性は、僕が中国語で、ついでは朝鮮語で話してかけているのに、頑として流暢な英語で話し続け、僕がうんざりして、殆ど降参の体で「NO, thank you」と言うと、ようやく無言で去っていった。

 Aさんは最初、きっと漢族だと言っていたが、後で直接話してみると、朝鮮族だったとのこと。たしかに流暢な朝鮮語を話す姿を、後で見かけた。

 それにしても彼の英語はどういう意味があるのだろうか。どう見ても僕とAさんが西洋人に見えるはずもない。それを承知しながら英語にこだわるのは、世界における英語の覇権状況をバックにして、僕らを威嚇しているつもりなのだろうか。なるほど、韓国からの横柄な客などには、それは一定の有効性を持つかもしれないなどとも思ったりするが。

 或いはまた、彼の同僚に向けて自慢の業を披露しているということなのかも。よくは分からないし、相当に変な男、無礼な男ではあるが、この種の人間は表現の仕方に多少のバリエーションがあるが、どこにでもいそうである。

2) 粉もの

 のんびり博物館見学のつもりがすっかり当てが外れたばかりか、あの「英語馬鹿」のせいで不快感が後を引き、時間待ちして再訪する気分にもなれない。仕方なく、博物館の横にある広大な公園で気分転換がてらの散策をした後、昼食には餃子でもと、中心街までタクシーを走らせた。

 僕は若い頃は、粉ものの大ファンだった。チビの頃は少しでも小遣いがあれば10円で10個のたこ焼きが買えた。少し出世して、中学の頃はお好み焼き屋でたむろして、その日の懐ぐあいにあわせて50円~100円をはたいてお好み焼きに、生きている幸せを思いながら、悪だくみの相談に勤しんでいたものだった。高校生になると更に出世して、週末になると、クラブ活動の野球の試合の帰りにラーメン屋に立ち寄り、餃子の山に埋もれたいなどと思いながら、一人前80円の餃子を2人前奮発するのが、僕の懐の限界だったが、いつか反吐が出るほどに食べる境遇になりたいなどと!などと「口のさもしい」夢を見ていた。

 いまや、歳をとったせいか、或いは長年の不摂生で胃腸を悪くしたせいか、或いはまた、これまでにあまりに食べ過ぎてしまったせいか、たこ焼きやお好み焼きは胸焼けがして胃が受け付けなくなったが、その一方で今でも好物であり続けているのが、餃子である。

 というわけで、待ってましたと言いたいところである。なにしろ本場の水餃子だし、餡が、羊、豚、牛、そして海鮮など、実に多種多様なのである。

 しかし、いざ有名らしい餃子専門店に入って、その賑わいを見ると、それに出鼻をくじかれたのか、食欲は急速に失せていく。しかも、Aさんは僕に、いろんな種類の餃子を堪能させようと、僕がとうてい食べきれるはずもないほどの注文を出す。するとその好意に報いるためにそれを食べつくすのが義務のように感じられたりもして、ますます食欲が消えて行く。隣のテーブルでは高校生くらいのグループが次々と餃子を平らげては、また追加注文。

 向かいのテーブルでは中年の男性グループが、生ビールを次々に飲み干しては、大きな声で議論を続けながらも、餃子を口に運ぶことを忘れはしない。そんな彼らを見ていると、自分の気弱さ、体力のなさを見せ付けられるような気にもなって、せっかくの餃子だったのに、味も半減して、大量に残してしまった。

3) 農村の変貌と農民

 次いで、竜井郊外に位置し、数年前にAさんが博士論文の基盤になるフィールドワークで駆け回ったらしい農村に、現況を確認するために訪問したが、その予想以上の様変わりにAさんは驚くと同時に失望を隠せない様子だった。

 先ずは、その農村を探すのに一苦労だった。Aさんの記憶と、見当をつけた地域の風景がすっかり変わっているという。タクシーで行ったりきたりを繰り返した挙句、一応の見当でともかくタクシーから降りて(行ったり来たりを繰り返したから、始めに契約した値段に加算を要求されて、妥結するのに少々難儀したが)、訪ね歩くことにした。

 国道沿いに新しく作られたように見える集落の随所に人だまりがあるので、Aさんがその昔インタビューした人の名前を出して聞いていくうちに、その当人の奥さんに出会って、家に案内してもらうことになった。その家も以前の場所ではなく、しかも新築されており、Aさんが独力で見つけられるはずもなかったのである。

 後で分かったことなのだが、集落全体が道路から外れた畑の真ん中から、国道沿いに移動し、かつての藁葺き家は捨て去られ、荒廃するに任せてあった。新集落の新居群の外観は瀟洒なもので、農村が栄えて、幸せな生活を送っているような印象を持ってしまいがちなのだが、実際にその中に立ち入って話を聞くと、不満が次々と口をついて出てくる。外国から来られたのだから、このひどい家のつくりを写真に収めて、広く伝えてくれ、といった調子。実際、新築されたばかりのはずなのに、その造作の杜撰さが目立った。しかし、その家族の場合は、家を新築し移り住めたのだからまだしもである。

 かつて集落が位置したところに取り残され、今でも生活が営まれている藁葺き家が2軒あって、得体の知れない人間が壊れた藁葺き家などの写真を撮りながらぶらついているのを目ざとく見つけて出てきた主人は、うまい具合に不満の捌け口を見つけ出したと言わんばかりに、お金があれば政府の補助金を受けて家の新築も可能だが、自分の家にはそのお金もなくて、などと不満たらたらであった。返す言葉もなく、退散するしかなかった。

 といったように、中国の新農村運動の実態、とりわけ、農民たちの不満などの一端を垣間見ることができたわけである。その昔、韓国では朴政権の鳴り物入りの新農村(セマウル)運動があり、それと酷似しているのに、韓国の猿真似と批判されるのを回避するためにというわけで、運動という言葉は外されている。人間というものはなんとも姑息で、その姑息さが面白いなどと、何と言っても当事者ではない僕は、暢気な感慨を!

 さらには、既に述べたことだが、こういう農村に、ある時は泊りがけで、またある時には延吉からバスで日参し、路上での四方山話、さらには家に入り込んでいろんな話に耳を傾け、そうして信頼を獲得して初めて必要な情報を獲得したAさんのフィールドワークの実態の一部なりとも垣間見て、なかなかのものだわいと、今更ながらに感心した。因みに、Aさんのフィールドワークはその農村に限られていたわけではなかった。そこから他の土地へ移住した人々の足跡まで尋ね回ったらしく、同行しているうちに、延辺のあちこちで、ここにも古老を訪ねて来ました、とAさんが感慨深げに呟く言葉を何度も耳にした。
 
 因みに、延辺の農民たちの移住熱、とりわけ、若い世代のそれをここでも確認させられた。Aさんはフィールドワークの際に、雪景色の畑を背景にしてほっぺの赤い小学生たちの写真を撮り、学位論文を出版するに際して、その写真の一枚を出版社が渋るのを押して表紙に用いられたのだが、その表紙の写真を含めた数枚をモデルとなった小学生達に手渡すというのが、再訪の目的の一つでもあった。そして無事に再会を果たしたのだが、いざそれが実現してみると、かつての小学生もすっかり大きくなって、面影を探しだすのに苦労するほどであった。

 勝手な話なのだが、あの写真の可愛い無邪気な子供が少々「生臭く」なったように感じたりもして鼻白む始末。そればかりか、荒廃したかつての集落のあたりから、ため息をつきながら退散してくると、その子が路上で待ち受けている。見送りしてくれるのかと思ったが、そうではなく、「将来、どこか外国に、たとえば、日本に行きたい」と言い、「名刺を欲しい」と付け足したのである。

 その言葉を受けて、僕が名刺を差し出そうとして自分の服やカバンをまさぐっていると、Aさんは力のこもった手で僕の手を押しとどめて、ご自分のカバンから名刺を出し、手渡された。その表情には厳しいものがあり、ここでもか、といった感じだった。将来、この子が日本への出稼ぎもしくは留学の伝を頼って連絡してきても、すべて自分が引き受け、僕に迷惑をかけるようなことは断じてさせない、といった強い意志が現われているように感じた。
 
3)タクシー闘争

 夜は、B教授の招待で、K研究員、Aさんと共に、延吉市のはずれの、朝鮮族の伝統料理と民俗風の建築、インテリアを売り物にした食堂で会食した。外食産業では現代韓国の影響が延辺では著しいのだが、それに飽きたのか、あるいは、それと対抗してのことなのか、この種のスタイルが頭角を現しつつあるらしい。もっとも、こうした伝統風、民俗風は韓国でも流行しており、その影響というふうにも言えそうで、どこでも一定の所得水準に達すると、伝統に化粧を施した流行が起こるということなのだろう。出される料理は、その昔、僕たちも口にしたことのある朝鮮の昔のご馳走に似ている。

 例えば、鶏の丸煮と小豆のお粥といった、あまり技を衒わずに体に優しそうな、薬膳とも言える素朴な料理が次々と出てくる。一定の所得水準に達すれば、昔が恋しくなるし、健康にも留意するようになるのは、どこでも同じというわけなのだろう。

 もっぱら日本で、しかも、日本語で旧間島に関わる日中問題の研究をしてきたK研究員が、一念発起して現地延辺で始めた研究の進捗、韓国語、中国語の熟達などが主に話題となった。また、延辺における伝統回帰の高級レストランの盛況ぶりなどについて、B教授から説明を受けたはずなのだが、薬膳的効能の説明を伴ったB教授の勧めを拒めず、次々と出てくる料理を、酒と共に口に運んだ結果、お腹が苦しくて苦しくて、聞いた内容をほとんど覚えていない。

 体に優しい料理でも、僕のように口にだらしない人間には何の役にも立たないわけである。勉強をする気など全くない学生にいくら懸命に教えても、嫌われるばかりで何の役にも立たないのと同じことかも、と自分を省みる機会くらいにはなったのだが。

 さて、僕らが延辺で用いた交通機関は、先に触れた輪タクを除けば、すべてタクシーであったというだけでなく、そのタクシーに乗ることが大きな心理的な負担を強いたという意味でも、そのタクシーにまつわる話こそは、この旅行記のハイライトの名に値する。
 
 海外でタクシーに乗るのは難しい。今回の僕の旅には現地を知悉したAさんが付き添ってくれて、問題など起こりそうにないし、例えその種のことが起こっても、僕には何もできるはずもなく、ただただ傍観するしかないのだが、Aさんとタクシーの運転手との交渉を見ているだけで十分以上に疲れる始末。

 その昔なら日本でも、そして韓国では最近まで似たようなことがよくあったし、今でも皆無というわけではないのだが、こちら延辺では、ほとんど常に、タクシー運賃闘争を余儀なくされる。要は、資本主義社会の成熟度、というか、ソフィスケイト度に関連しているに過ぎず、国民性論議に短絡するなんてとんでもないのだが、人間というものは、つい先だってまでの自分の姿をすっかり忘れて、現在の他人の悪や落ち度を拾い上げて、それを高みに立って断罪したりする。それは間違いなく愚かなことなのだが、その幣を避けるのは難しいようである。もちろん僕もその例に漏れない。

 さて悪徳タクシー運転手のぼったくりの対象は、主にお上りさんや外国人といったように、現地の事情に疎く、短期の滞在で、後腐れがない場合と相場が決まっている。だから、今回の旅では、現地出身のAさんがすべてを取り仕切ってくれたから、そんな面倒を回避できそうに思えるかもしれないが、たとえ故郷とは言っても、そこに住み続けていないことは一見して分かるにちがいない。というわけで、Aさん同行でありながらトラブルを免れなかった。

 市内のタクシーの場合、メーターがあるから、よほどの場合を除いてはメーター通りに払えばよいのだから、ほとんど問題がないのだが、市外に出ようとすると、問題は多層的である。

① 先ずは、「まとも」な運転手を見つけるのに苦労する。それが難しいようなことを書けば、そんなに治安が悪いのかと要らぬ不安を掻き立てかねないのだが、そういうことではない。文化の差異が関係しているのである。たとえば、服装や、暑さの凌ぎ方に関する文化的差異というものが時には違和感を高じさせたり、あげくは恐怖心を呼び起こす。
延辺では暑さを凌ぐために、男性はシャツをたくし上げて、腹をさらけ出す姿が目立ち、僕などから見れば、あまり気持ちのいいものではない。

 とりわけ、タクシー運転手の場合などは、客商売なのだから、お客に失礼ではないか、少しは客のことを、などと突如「上品な紳士」になったかのような文句を内心で呟きたくなってしまう。しかも、無精ひげを生やし肌は赤銅色といったように、屈強そうな男性が、おまけにそんな格好をしていれば、物騒に思わざるを得ない。そればかりか、そんな「連中」が、客の腕を引っ張ったり、声を上げて、客の取り合いを演じるのだから、細身で小柄なAさんがそうした連中に取り囲まれているのを見るだけで、大いに心配になるし、体力も気力も衰えた僕がそれに対して何の役にも立てないことを不甲斐なく思うと同時に、怖気が出るのである。

 因みに、暑さの凌ぎ方、とりわけ服装の工夫に関する日中の違いについて一言。その昔、日本、とりわけ大阪の下町では、夏の夕暮れには男たちはランニングシャツとステテコ姿で界隈をうろついたものだったが、腹を出すなんてことはありえなかった。日本ではお腹を冷やしてはいけないというわけで、夏でも腹巻をする男が多く、それが一種のファッションにもなっていた。現に中学時代の僕も一人前の大人ぶって、ランニングシャツ、ステテコ、そして腹巻姿で夕暮れの界隈をうろついていたのだった。

 僕の娘たちがそうした昔の僕の格好を写真で見たら、なんというだろうか、「まるでやくざやんか!恥ずかしいし、怖い!」とでも叫ぶのではないだろうか。というように、文化の差異の理解には難しいものがあって、外見から人を判断するのは馬鹿げているのだが、旅行者としてはそれに頼るしかないという側面もあって・・・

② Aさんは朝鮮族だから、朝鮮族の運転手は漢族と比べれば身内だし、安心と考えているらしい。それに、たとえ、ぼっくられたとしても、相手が朝鮮族ならば、「身内」の役に立っているのだから許せるという感じ方があるらしい。それにまた、漢族だと、朝鮮族ゆかりの土地は不案内に違いない、という現実的な予測ならびに便不便ということもある。

 というわけで、極力、朝鮮族の運転手を探すことになるのだが、あまり見当たらない。一般的に、漢族の延吉への流入が激増しているらしいのだが、タクシーの運転手の世界では間違いなく朝鮮族は少数派になっているようである。というわけで、僕たちの目当ての朝鮮族ゆかりの地理に詳しく、「身内」と安心でき、身なりもそれなりの節度を弁え、性格も温厚そうな運転手を見つけるのは相当に難しいのである。

③ 例え、外見は無難な運転者を見つけることに成功しても、次には値段の交渉、つまり、外見ではなく実利のレベルの問題がある。運転手同士で客引き競争を演じながらも、一旦その戦いに敗れて、他の運転手に客を奪われたことが決定的となってしまうと、今度は同じ運転手仲間というわけで、共同戦線を張って値上げ交渉の加勢をしたり(それによって相場を上げることが出来るわけだから、労働者の連帯ということになる)、或いはその逆に、その勝敗に納得できないで運転手同士で小競り合いといったこともあって、どちらにしても、客には迷惑な話である。

④ 値段の交渉が妥結して一安心かといえば、そうもいかない。土地に詳しいという売り文句が嘘だったりもするし、そのほか、儲けを確保するために客からすればとんでもない芸当に及んだり・・・ 
 
 その中でも、とっておきのエピソードをひとつだけ披露しておきたい。北朝鮮との国境の町、開山屯への往復に際してのことだった。植民地期には日本の大きな製紙工場があるなど、相当に栄えていたらしい。因みに、B教授の父上は韓国の全羅道から日本軍によって集団移動を強制されてその近くの山間地へ、ついで、その町に移られて、B教授はそこで生まれ育ったのだと後で伺った。(B教授の父上は既に他界されているのだが、まだ生前のうちに、全羅道の故郷に先祖の墓参をされ、肉親と再会を果たされたとのことであった。)


 先ずは、大学前で市内向けのタクシーを捕まえて、長距離用のタクシーがたむろしているターミナルへ。そこで、客引きに勤しむ運転手の中から、体格(小柄がいい)や表情(目つきは鋭くないほうがよく、温和な表情がいい)や言葉付き(静かな物言いがいい)などの選定基準に則って、安心できそうな運転手をAさんが選別し、微妙な駆け引きを交えた運賃交渉の果て(一度はその値段では無理と拒否しておきながら、その後、考えを変えたのか、逆に呼び止められて)に妥協してやれやれ、一安心の体でタクシーの人となった。

 ところが、そろそろ延吉の街を離れそうな頃になって、Aさんの表情が突如厳しくなってきた。「この道はおかしい」と呟き始め、ついには、「この道は違うのでは」と運転手に抗議めいた質問をしたところ、帰ってきた返答が、「この道で大丈夫。高速を避けているだけのことである。なるほど遠回りにはなるが」とのことだった。一度は断っておきながら俄かに考えを変えたのは、こうした知恵(料金については妥結しても、こちらは高速料金込みのつもりでも、相手はその高速を避ければその分が儲けになるという寸法)によって儲けを確保する可能性に思い至ってのことだったのだろう。

 ともかく、車はどんどん山道に入いっていく。道はしだいに急な上り坂になり、右横は断崖絶壁、身の危険を感じるほどになってきた。しかし、今更引き返すように指示するわけにもいかず、怖気をこらえるしかなかった。冗談で紛らわそうとするが、次第にその口もこわばってくる。ようやく峰の近辺に到達し、上りが終わる。すると視界が一挙に広がり、遠くに図們江らしい川筋が見え、その向こう岸にはひときわ高い山々がそびえ、その中腹には、何かパネルのようなものが設置されている。「あれは北朝鮮です、ということは、目的地に近づいてきたわけです」とAさんの安堵の声。

 その後、開山屯の街に着くまでには、山陰から消えたりまた現われたりと、何度となくそのパネルが見える。そして次第に近づいていくわけだから、文字も判別できるようになる。「我らが首領金日成将軍(金正日ではなかったような記憶が)」の類のスローガンのようなものが書かれていた。

 無事に開山屯に到着した。植民地時代の赤レンガつくりの製紙工場は今尚稼動しているようだが、破れた窓ガラスがそのまま放置されているといったように、かつての栄華の面影どころか、その荒廃ぶりが目立つ。小雨の町の中にはほとんど人影は見当たらない。あちこちに輪タクが所在なげに客待ちをしている姿が淋しく目に映る。

 口岸に近い川岸から、国境をまたぐ橋と対岸を眺める。橋を歩いて向こう側に渡っている人がいる。こちらの河川敷には馬が数頭、放牧されているのだろうか。池の周りにひとつふたつ人影が、釣りでもしているように見えるが定かではない。雨が強くなって、ますます淋しくなる。退散することにした。

 帰路は、まだ記憶に新しい往路の恐怖に懲りて、Aさんが「復路は絶対に高速道路を経由してもらいたい、その料金は別途支払うから」と念を押し、運転手もそれをすんなりと了承したのだが、本当の問題はそこから始まった。

 約束どおり高速道路へ入ってくれたので一安心なのだが、その最初の料金所(そこでは料金を支払わず、高速の最後の料金所で支払うことになっているようである)を過ぎたところで、運転手が突如として、他の道を通っていいですかと言いながら、実は返事を待たずに既にハンドルを切ってしまっている。咄嗟のことであっけにとられているうちに、車は高速道から離れ、斜めに山のほうに向かう狭い土道に差し掛かっている。そこから引き返して改めて高速道に入るように指示するには手遅れである。

 その山道は峰に向かっているようで、どんどん狭くなり、車がようやく一台だけ通れるほどの幅で、しかも荒れた土道の坂道である。いくら車が徐行していても、乗客であるわれわれはハンドルを持たないから、もんどりうつ始末。それに、もし対向車が来れば二進も三進もいかなくなる、どうするのかなどと心配にもなり、それを口に出してみたところ、「そんな心配はいらない」と運転手は平然。「この道を知っている運転者は自分以外には、この道を教えてくれたもう一人の運転手だけだし、高速道から抜け出す車が反対方向から来ることは物理的にありえない」と自信満々。

 峰を過ぎて下りになった。前方遠くに、先ほど離れたばかりの高速道が見えて、一安心。ところが、そう思った途端に、前方で道が溝で分断されていることに気づいた。道の一部が、長さ1m、深さ70cm程、陥没しているのである。

 運転手の横顔に少し不安の影がさしたが、ともかく前進するしかないというわけで、スピードを極度に落として、突っ切ろうとする。しかし、うまくいかない。何度繰り返しても無駄なばかりか、ついにはその溝に車輪を取られて動けなくなってしまった。

 仕方なく、運転手は車から降りて、周辺の板切れを拾い集めて溝にあてがい、今度はバックで、溝から抜け出ようとする。しかし、その程度ではびくともしない。スリップする車輪の音だけが空しく響く。

 そこで彼は何かアイデアを思いついたのか、雨の中を小走りで近辺の農家へ向かった。少しして姿を現せた彼は、大きな板を担いでいる。そして、僕たち乗客に、車から降りて、前方から押してくれという。前進は不可能だから、次善の策として、せめて自動車を確保するために、バックを試みようと言うのである。雨が激しくなってきており、困ってしまったが、高みの見物を決め込むわけにもいかない。というわけで、三人が力を合わせて脱出作戦開始である。

 しかし、それでもやはり駄目だった。こうなると、無事に延吉に帰れるのか大いに不安になる。そこで、客だ何だなどと言っておれない。積極的に事態の解決に取り組まねばと、心を決めた。薄い板だけでは車の重荷で撓んでしまい効果が薄いから、その下から板を支えるものが必要と判断した。周辺を探し回って、転がっている石や岩を拾い集めて、板の下に詰め込んでみた。そして再挑戦である。但し、今度はバックなどと悠長なことは止めにして、前進あるのみ、正面突破である。

 運転手の合図で、車を懸命に押した。排気の轟音がなんども鳴り響き、これでも駄目かと諦めかけながら最後の力を振り絞って押すと、一気に車が軽くなった。車輪はその溝から脱したのである。運転手のシャツは雨と汗とでべっとりと濡れていたし、さすがにこたえたのか、二度とこの道は通らないと呟いていた。その後、車は高速道近くの側道を走り、料金所を過ぎたところで、またもや高速道に復帰した。そこから延吉までは料金所がなく、運転手の思惑通りに、高速道の料金は払わずに高速道の恩恵を受けて延吉の街にたどり着いたのである。だが、それで事件が終わったわけではなかった。

 延吉市内に入って程なくして、運転手が速度を落として、しきりに車の外側の前方をうかがっている。こころなしか、車体が傾いでいるようにも感じられる。がともかく、周りの車の流れに乗れないのろのろとした速度ながら、無事に目的地に着いた。ところが、気持ちよく降車してバイバイというわけにはいかなかった。

 延吉へ入ってすぐの頃に、安心したせいもあってだろう、Aさんは別のことを気にかけて僕に相談を持ちかけられた。「約束どおりの支払いはいくらなんでもよくないのでは」と150元の約束なのだけれど、30分以上も雨の中を待たせるばかりか、心配までかけ、さらには、車を押したり、石を拾い集めたりの難儀まで押し付けたのだから、120元でも払いすぎなのでは、というのである。僕は、「おっしゃるとおりだけれど、ややこしいことはやめにして、最初の約束どおりにしておきましょう」といたって弱腰。

 日本なら、おそらく、運転手のほうが平謝りで、無料に、と自ら言い出すだろうと思いながらも、文化の違いもあれば、こちらは「金持ちの旅行者」という「弱み」もあって、正論を主張するのは傲慢になりはしないかという懸念もあった。でもAさんは「いくらなんでも、それでは腹の虫が収まらないし、運転手の今後のためにもよくない」と、さすがに故郷の社会に対する責任感を発揮されて、交渉に入ることになったのである。

 運転手のほうでいろいろと不手際があったので、30元ディスカウントして120元でどうか、とのAさんの提案は至って妥当な線であるとこちらは思うけれど、それを運転手が受け入れるはずもない。「前輪がパンクしたのだから、その修理費を考えると、一日の儲けがなくなる。骨折り損のくたびれもうけ(こんなことを言うはずもないから、意訳です)」と懸命に弁じたてる。

 その時になってようやく、彼の延吉市内に入ってからの挙動不審の理由が分かって、なるほどそうだったのか、やれやれという気分。彼の言い分に理があるなどとは到底思わないけれど、これ以上、話が長くなっても、不愉快が募るだけだし、今日の予定にも差しさわりがあるからと、Aさんは予想通りに降参する羽目になった。

 最終的には10元だけ割り引いた140元で落着した。敗北したような気もするけれど、日本円に換算するとたいした額でもないし、運転手氏にとっても予想外の難儀に加えて、工夫を重ねながら結局は儲けにならなかったに違いないと同情するのだから、僕らはなんともお人よしというか、まさしく「金持ちの観光客」なのであった。


玄善允の落穂ひろい3-1(延辺旅行記1)

2018-03-14 14:48:57 | 玄善允の落穂ひろい
 今回は旅行記である。
 2007年8月に初めて中国東北の延辺に赴いた。中国朝鮮族の現状の中に身を置いて、朝鮮半島からの流浪民である在日二世の自分を考え直そうとした。

 そこで目にしたものは、国家と国家、民族主義と民族主義、そしてエリートと大衆の激しい争闘、とりわけ、金と政治、建前と本音とが入り混じったものであった。

 その後、僕はそうした世界をもっと詳しく知りたいと思うようになり、中国朝鮮族の女性を対象とした共同研究を組織することに努めているが、なかなかうまく進んでいない。「在日」も「朝鮮族」も傷を多く抱えているが、そこに輝く何かを見つけ出したい。

 しかし、その後には中国朝鮮族関連の共同研究に継続して参加して、共に調査して議論して学ぶ時間を楽しんでおり、その契機になった文章であるから、内容に何ら新しいものがなくても、少なくとも僕にはすごく愛おしい。


1.口上、或いは予めの弁解

 以下の作文は、この夏に企てた中国・延辺地方への旅(2007年7月30日~8月10日)見聞したこと、感じたことを旅行記めいた体裁で書き並べたに過ぎず、他人様にお見せしようとするならば、全体の構成を含めてすっかり書き改めるべきものである。

 しかし、当面、そうした時間が取れそうになく、この程度を書き継ぐだけでアップアップの状態である。そこで、あくまで中間報告として、身近な方々に僕が勝ち取った(あるいは与えられた)自由の成果の一部なりともお伝えして笑いの種にでもなればと、お送りすることにした。

 うまい具合に、何かにコツンと当たっている部分が少しでもあれば、僕がいつか書くかもしれない大作のための心覚えにもなるかもしれない。

 尚、この文章は頻繁にご登場願うことになるAさんにご一読いただき、プライバシーなどの問題がないかどうか、また、大きな事実の間違いや歪曲がないかどうかを確認のうえ、公表の了承をいただいている。そのご好意に心から感謝しているのだが、それだけに、この文章がそのご好意にこたえるものになるように、いつかもう一度、徹底的に改稿せねばと思っている。(いまだにそれが果たされていないし、今後もその時間が取れそうにない。記して、お詫びしたい)

2.のっけからの脱線
 
 延辺への旅が第一義の目的なのに、往復ともにソウルを経由した。つまり、先ずは関空からソウルへ。1泊した後に延吉へ。9泊した後にまたもやソウルで1泊した後に関空へ、という旅程だったのだが、その理由をまずは明らかにしておきたい。そこに既に、今回の旅の記述にあたっての方向性が現われるに違いないからである。

 ソウル経由にしたのには大別して3つの理由があった。
① 関空から延辺地域の中心都市延吉へは直行便がなく、どこかで乗り継ぎの必要があった。韓国のソウルか、中国ならば大連や瀋陽、あるいはまた、距離や搭乗時間の長さを無視すれば、便数の多さではずば抜けているから便利な北京や上海経由というように。そこで、僕の場合、言葉の障害が少ない韓国がベターというのが第一の理由である。但し、こうした他都市での「ストップ」は、1泊につき1万円の料金が加算されかねない。24時間を越えると加算されるとの事で、今回はそういう事情を知らないままに、偶然にその範囲内の滞在だったので、往復共に加算金を免れた。ラッキー!

② 第二には、韓国の銀行に貯蓄してあるお金を利用したいという経済的な理由。韓国円が高いという為替状況を利用して、少しでもお金を節約したいというわけである。往きには中国で必要と予想される金額をインチョン空港の銀行で通帳から引き出して韓国円を中国に持ち込み、帰りは、インチョン空港の銀行で通帳から取り出したお金を日本円に換えて日本に持ち帰って、当座の小遣いにしようというわけである。

 お金にまつわる細かな工夫をしてそのせいでかえって要らぬ苦労を背負い込む「ケチ」な人間なのである、僕は。ついでに言えば、他人様が興味を持ちそうにないこうしたお金の話を(もっとも、そんなこと気にすれば、この文章全体もそういうことになりかねないので、実は言わずもがな)わざわざ記すのには僕なりに「積極的な」意味がある。表向きは高尚なことばかり口にしながら、そのくせ裏ではお金に恐ろしく細かいばかりか汚い、といった「立派な方々」のお偉い我侭(或いは分裂症的言動)に右往左往させられたあげく、それが耐えられなくなってついには職を辞すことになった。

 だからこそ、自らのお金に対する執着、あるいはお金に翻弄される姿を記すことが、そうした人種(あるいは自分の中にも十分にあるその種の「ええ格好しい」の癖)に対する解毒剤になりはしまいか、というわけである。

 実際、延辺はお金と権威主義とイデオロギーと政治が露骨に顔を覗かした、欲望が渦巻く世界というのが率直な印象で、そうした世界に少しでも関心を抱く人間は、自らのそうした性向を相当に厳しく自覚したうえでものを言ったり、動いたりしないと、ほとんど意味を持たないような気がする。

 但し、これは延辺に限られた話であるはずもない。ある社会にすっぽりと組みこまれてあくせくしながら生きている人間には、その社会の一部しか見えないことが多く、外の社会に異様なものを発見して思いをめぐらしているうちに、それが自らの社会の写し絵であることに気づいたりする。要するに、僕が生きているこの世界(僕の場合には日本の社会であり、また、「在日」の社会でもある)も、延辺と比べれば多少はソフィスケイト度の違いくらいはあるだろうが、大して変わりはないに違いないのである。

③ いまひとつは、ソウルに用事があった、つまりは、会いたい人物が4人いたことである。一人は、後に長々とご登場願うことになる僕の大学時代の後輩。次いでは、韓国の民主運動家(あるいは歴史研究家)の女性。それに加えて親戚の2名。一人は従兄で、大学教授を定年退職した小説家で、現在はソウルで暮らしているが、もともと済州島で教員生活を送っていたから、済州島の文化や、教育に詳しい。そこで、僕が今関わっている科研の共同研究における僕の担当分野、「植民地化の大阪における「在日」の教育が解放後の済州島の教育に与えた影響」に助力をいただけないかと。

 もう一人は従妹で、フランスでパスカル研究で文学博士号を取り、ソウルの大学で仏語・仏文学を教えている。僕は彼女とは20年ほど前にフランスの片田舎で初対面を果たした。つまり、親戚と言えども、同じ環境に育ったわけではない。それもあってか、話題に応じてフランス語と韓国語を使い分けて話を交わしたりと、親戚の上下関係といった窮屈さを免れた同学の年下の、それも異性の友人といった感じで、会って話すのがすごく楽しい。

 ところが、後でも書くように、往路のソウルで再会を予定していた後輩を除いて、帰路のソウル滞在では、体調の悪化に加えて、ある不幸な事件も絡んで、誰とも会うことが出来なかった。だから、帰りのソウル滞在は無駄になったのだが、実は、疲労の極の姿を妻に見せて心配をかけたあげく叱られるよりは、帰阪するに先立って多少なりとも心身の調整ができたという意味では、かえってよかったのかもしれない。

3.旅行の動機、或いは、中途半端な自由

① 最大の動機は、数年間、迷いに迷ったあげく、ようやく今年の3月末に職を辞して獲得したはずの「自由」の行使である。若い頃から、55歳を期して、それまでの「しなくてはならないこと優先」の生活から「したいこと優先」の生活への転換をひそかに目論んでいた。予定より2年遅れ、しかも、職を辞すと言っても、生計の都合もあって中途半端なものにすぎないのだが、それでも、やっと獲得した自由である。それを享受しない手はない。

 そこで、海外での学生もどきの生活をというわけで、語学留学がてら、1ヶ月程度の生活感のある滞在を楽しもうと思った。老後のささやかな夢というわけである。但し、どこでもいいというわけではない。僕が少しは言葉を操れそうな韓国、中国、フランス、アメリカ(もしくは英語圏)の4カ国へと、これまでの日本という「牢獄内」(僕は学生時代の政治運動もどきのせいで20年以上、韓国政府から旅券の発給を拒まれていたから、その意味で)での本を通しての勉強もどきの実践篇、あるいは自己満足の機会となるはずなのである。

 そんなわけだから、「自由」という言葉が連想させる「冒険」とは程遠い。冒険を極力避けながらの冒険もどきというように、いつだって中途半端な奴なのである、僕は。

③ 今回の旅が延辺である必然。いい歳をしていまだに、と笑われそうなのだが、僕がものを考えたり行動したりする際の準拠枠のひとつは「在日二世の自分」という事実であり自覚である。だから、民族マイノリティ集団、とりわけ同じ「血統」である中国・朝鮮族の現状を知り、「在日」との差異と同一もしくは類似を検討することで、これまでとは別の角度から「在日」の姿をあぶりだしたいと思うようになった。そして関心が向くから人間関係も次第に濃くなったりもして、延辺に一度は行ってみたい、行かねば、ということにあいなった。

 更には、朝鮮語と中国語のバイリンガルの地域は僕には二重の意味で都合がいい。数年来取り組んでいる中国語の練習舞台にもなりそうだし、その一方で、朝鮮語も使えそうだから、不便が少なくて気楽だろうとの利点も想定された。

④ 長年の夢である自由の行使の第一弾が延辺になったのには、上記の理由以上に、いまひとつの、しかも、はなはだ現実的な理由があった。ひょんなことから大学付属の研究所の職員として働き始めて10年を越えたのに、何一つまともなことができなかった。
 研究所として外見はそれなりの活動をしているようには見えるが、内部にいると、その空洞化に堪えられない思いが強かった。だから、その是正に懸命に努めたつもりでも、ついつい投げやりにもなったりして、結局は、状況を変えるには至らなかった。そこで職を辞すにあたって、最後のご奉公というつもりで、研究所としての蓄積、つまり「研究」遺産とネットワークを掘り起こした共同研究を企画できないかと考えた。その一つとして、中国朝鮮族の変貌を、とりわけ女性の意識の変化に焦点を絞っての研究を思いつき、その育成に努力してみたが、あえなく頓挫した。

 しかし、退職後も残影というわけなのか、その夢は消えず、今後は、職場に厳然とある位階制度とそれに伴う無責任や言いたい放題などとは縁を切って、信頼できる人、やる気のある人と真面目かつ自由に、同じ趣旨の企画を育ててみたいと考えるようになった。
 それはなるほど研究ではあっても、成果を挙げることが目的というより、いわば老後の趣味・道楽という側面が強いから、僕を拘束することなく叱咤激励してくれるだろうというわけである。しかしそれならいっそ、研究などという七面倒なことに関わりあわずに自由を謳歌すればいいじゃないの!と突っ込みをいれられそうで、確かにそのとおりなのである。

 ともかく、その頓挫した企画を活かすための研究費が少額ながら今年限りの限定つきで予算化されたのが、実はこの延辺への旅の現実的理由なのである。つまり、自由云々の能書きを垂れながら、この旅は一部「ひも付き」なのである。一部というのは、経費の一部しか支給されないからで、まさに僕の、そして僕の置かれた位置の中途半端さが露呈している。

⑤ さて元に戻って、先に話題にした企画をもう少し具体的に言うと、二つの方向性を想定していた。一つは、中国朝鮮族の文学に現れた女性意識の変貌、いまひとつは、アンケート調査による女性意識の変貌の跡付け。そうした思い付きの実現の可能性を探るというのが公的な目的であった。

 因みに、この女性の意識の変貌というのは、僕が幼い頃には母を、そして結婚後は妻を見ながら、或いは彼女たちと格闘しながら、考えてきたテーマである。その二人は世代も思考方法も大きく隔たる。しかし、僕にとって一番大事だからこそ一番理解が難しい二人の「在日女性」という共通項を有しており、そうした二人を参照にしながら僕が「同胞社会」に関して心中で育ててきた問題意識とつながっている。

 つまりは、「在日の女性」が強いられ抱え込むに至った、個々に特有のように見えるけれども、実はマイノリティ女性に(そして共に生きている男性にも)普遍的でありそうな問題、それに対する関心に根差したものであって、一時の思いつきというわけではない。

 ただし、長年考えてきたといっても、その考えを常に追求し、成熟させてきたなどとは到底言えず、その研究の実現の可・不可と、テーマの抱え込みの時間の長さとは全く別問題である。

⑥ ①で述べた自由の実現とはいうものの、実際には、当初の想定よりは縮小を余儀なくされた。その理由の一つは健康問題。3月に職を辞して以来、それまでは一時的で間歇的に姿を現すにとどまっていた心身の病状が全面的、かつ持続的なものとなった。様々な検査を繰り返しても病名は定かではなく、医者によっては、いわく男の更年期障害。いわく慢性疲労症候群。いわく自律神経失調症。3月末に職を辞して1,2週間で体重が5キロも減り、いろいろと治療を試しても、回復の兆しはない。こうして心身に対する自信が著しく無くなった。それに加えて、日程上の問題が大きく立ちはだかった。

 9月の初旬には文科省の科研費による共同研究のフィールドワークもどき、そして家庭の用事、さらには友人たちとのサイクリングといったようにいろいろな目的を兼ねて、韓国・済州島に8日の滞在予定。帰ってきて早々、今しがた触れた科研費による国際シンポジウムの準備、開催、さらには事後処理など、次々と予定が詰まっており、日本を長期に離れることが難しくなった。しかしなによりも、僕お得意の「怖気」が夢の縮小の最大の理由だろう。

 若かりし頃に旅行の習慣、もしくは経験が殆どなかったことも原因の一つなのであろうが、家と職場を中心として慌しく営んできた日常を離れると、思考が止まり、その空洞に得体の知れない不安が忍び込み、膨らむ。いわゆる観光にはほとんど興味などなく、例えその種のものが少しあったとしても、土地の酒と料理に対するもので、しかも、それが度を越す。その結果、胃腸の変調に苦しめられる。とりわけ、下痢との戦いが旅の中心テーマといった感になってしまう。これは大げさな言い回しではなくて、事前に警戒し自分に繰り返し言い聞かせていながら、いつもその轍にはまり込み二進も三進もいかなくなる。

 しかし、話は堂々巡りを繰り返すことになるが、そうした怖気や体調の変調や心理的惰性(酒飲み的メンタリティ)を乗り越えるためにも、ショック療法のつもりもあって、最終的に旅立ちを決心した。馬鹿みたいな話なのだが、その意図が実現したかどうかが、以下のお楽しみというわけである。

4.「在日」と「元在日」のソウルでの夜

1)韓国人と「在日」
 ソウルでの用事は既に述べたように、お金を仕入れること、そして旧友と、ソウルで一緒に飲んでしゃべることであった。
 旧友とは、専門は全く異なるけれども、同じ大学の1年後輩で、25年ほど前に韓国の大学教授になって以来韓国ソウルで暮らしている「元在日韓国人二世?」である。彼は酒好きではないし、僕ほどおしゃべりでもない。だから、もっぱら僕の意向を優先した酒席なのである。そのあたり学生時代の先輩後輩という古臭い関係がいまだに効力を保っている場合もたまにはあって、先輩なるものとしては、便利だし、暢気なものである。

 彼は韓国の地方国立大学に勤めていて、長期休暇の期間を除いては週の大半を勤務大学が位置する地方都市で下宿生活をし、週末にはソウルに帰るという暮らしを20年近く続けている。当初は夫婦共にその地方都市で暮らしていたのだが、やがて、子弟の教育問題なども絡んでの奥さんの強い要望で、ソウルに本拠をおくことになったのだという。

 奥さんがもともとソウル生まれのソウル育ちで、地方都市の生活に耐え難いといったことの他に、奥さんの主張では、ソウルでそれなりの地域でそれなりの生活をしている家(つまりは上流)の子供たちとの交友こそが将来の子供の生活に大きな利点をもたらすといった、子供が韓国社会で生き抜くための、将来を見据えた「合理的」な教育環境の選択といったことだったらしい。

 旧友と会えば、各々が特に近しい共通の旧友の近況話の交換が相場なのだが、そういう前座話が終わると、なんとなく時事問題へと話は移った。特に当時マスコミを騒がしていたアフガニスタンでの韓国人拉致問題と韓国のキリスト教の現状についての話題。彼は当初は奥さんの影響もあって信者になったのだが、現在では奥さんとは関係なしに、自ら積極的に、週末には貧困者への奉仕活動に従事しているという。因みに、奥さんは毎年、カンボジアに救援活動に通っているというから、相当に熱心で、活動的ということになる。それが韓国で一般的なのか、彼女が突出しているのか、にわかに判断はできないが。

 さて、彼の家族はソウル江南のかの有名な「アックジョン」の「ヴィラ」(韓国では相当に高級なマンションのことをそう呼んでいる)に住んでいる。メゾネットタイプ(建物の3,4階)で広くて豪華である。そのリビングは、奥さんが伝道師として集会ができる広さということを条件に設計されたものだという。

 昔一度、そのヴィラに泊めてもらったことがあるのだが、その広いリビングで、奥さんが僕に対して挑発的な議論を吹っかけてきて困ったことがある。但し、困ったというのは、議論を吹っかけられたこと自体ではない。その程度なら、むしろ僕にとっては面白い。韓国語で議論するなんて事はよほどでないと生じない。

 とりわけ、韓国の女性たちと本音で議論する機会など一生ないかもしれないのだから、得がたい機会でもある。それに僕の拙い韓国語のレッスンの場にもなる。ところが、後輩、つまり亭主のほうが、お客さんである僕を相手にした厳しい議論を見て(まさに韓国流とでも言うべきか、鋭い突っ込みが続き、それに拙い韓国語で対応しているのを見れば、誰だって僕が困っていると見るだろうが、実はそんなことはなかった)、割って入いろうとして気疲れする様子だったので、これでは夫婦喧嘩になりかねないと大いに心配して、困ったというわけである。

 というわけで、それ以降はソウルを訪問しても、彼のお宅へ行くことは遠慮している。というより、彼が二度とは泊まるように勧めない。当然か!

 要するに何を言いたいかといえば、韓国の男性でも女性でも、奉仕活動に献身する人が珍しくないということ、それだけに、自分の生活や考え方やその他に大いに自信を持っているように見える。それが、いつまでも自分の小さな問題に悩んであくせく、右往左往のわが身と比べて甚だ大きな違いだなあ、というわけである。

2)徴兵制と親離れ子離れ

 現在の彼は、息子、娘、奥さんと彼、そして日本から呼び寄せたお母さんの5人家族の生活である。数年前までは、息子さんが「自立しそうにない」とほとんどお手上げの様子だったのに、「そんな息子でも」徴兵で入隊し、2年後に帰ってきてからは、「すっかり変わった」という。家族への気配りができるようになったし、将来のことを考えて勉強に励むようになったと。僕が電話したときも、丁度、その息子さんに数学を教えていたそうである(彼は数学の教授なのである)。

 韓国では医療保険の管理、処理業務などの病院関連のシステムが次第に脚光を浴びつつあって、息子さんはその方向の職に進むつもりらしいのだが、それには数学とコンピューターの実力が必須で、しかも、その息子さんの所属ではない特定の名門大学がその分野の業界を支配する傾向があって、そこに自力で参入するためには、よほどに能力を高めなくてはならないというわけで、懸命に勉強中だそうである。

 こんな言い方をすると徴兵制の利点を言挙げしているように思われかねないし、実際、そう思われても仕方がないところがある。現代の高度産業社会、というより、一定の豊かさが保証され、核家族化が進行した社会では、子供の親離れ、親の子離れがすごく難しい。そういう社会の状況の影響を脱して、一家族、一個人がそれを達成する例はもちろんあるだろうが、しかし、全体として、親子共々の幼児化現象が蔓延することになる。

 そこで、何らかの機関が、そうした契機を構造的に与える必要があるのではないか。出来ようことなら、貧富の格差とは関係なく、誰にでも与えられるものであれば理想的である。そういうものとして、一番手っ取り早く、一番見えやすいのが徴兵制なのである。しかし、徴兵制以外にも、軍隊などといった非人間性の生産基地ではない制度があってもおかしくないはずである。現在の社会でそれが可能なのは教育機関以外に考えられないのだが、僕が長年生息していて僕がそれなりに責任を負う立場にある日本の高等教育機関がその役割を果たしているとは到底言えそうにない。むしろ事態の悪化に加担している気配さえある。

 ともかく、この甘え社会、依存社会、集団的情緒過多のこの社会では今後さらに問題が深刻化するであろう。そうした現状を省みて、何か手立てはないものか、と役立たずの応答を反芻するばかりなのである。

3)韓国における「在日」

 ついでは、韓国へ永住帰国した在日韓国人の現状と意識といった具合に、後輩に引き寄せての話題になった。長年(ここ数年は毎年1回程度の頻度で、ソウルで会っているのに)聞きたいと思いながら、いざとなると遠慮のようなものがせき止めて、なかなか切り出せなかった質問なのだが、ひょんな弾みで(おそらくは酔いのおかげで?)この話題になった。というより、後でも述べるが、ごく最近のある経験が、その躊躇いを振り切らせたのかもしれない。

 ともかく、彼が何ゆえに韓国から奥さんを娶り、ついでは韓国に職を見つけ、そしてついにはそこに永住するに至ったか、そして現在どのような心境にあるかなどを相当に率直に話してくれたのだが、その多くを忘れてしまった。既に酩酊状態になっていたのだろう。彼の顔が次々に変化して、ある一瞬などは、彼が全く知らない人のように見えたり。僕にはこういうことが多くあり、相手が女性の場合だと、微笑みを浮かべているように見えたりもする。それは相手が自分を全面的に受け入れてくれるサインというわけで、相手の女性にとって、そして僕にとっても、危険極まりないのだが、幸い今回は相手が男というわけで大事に至るわけもない。

 もっとも、相手が女性でも実際は大事に至ったことなど一度もなくて、父親の女癖の悪さの反動というか、トラウマというか、尋常以上に「貞淑?」なのである、僕は。こんなこと、別に自慢になりそうなことでもないのだが、ともかく、これは僕がひどい酩酊状態に陥った明らかな兆候である。

 とはいえ、一つだけ彼の言葉をはっきりと覚えている。「在日であり続けることが嫌だった」と。それがどのように嫌だったのか、そもそもその「在日」とはどういう意味なのか、そして、「在日」でなくなった彼が、「在日」のように根無し草的ではなく韓国にしっかりと根を張って生活している実感があるかどうかを問うと、曖昧に、自分でもよく分からない、という返事しか戻ってこなかった。彼は、ただの「在日二世」であることは止めたようだが、「在韓在日二世」というように形容がさらに重なる存在になっているのではないのだろうか。但し、これは彼を批判するための物言いではない。

 翻って僕自身が、生き方の指針としての「在日」などと言いながら、その「在日」が何を意味しているのか、はたまた、その「在日」なるものにこだわる意味があるのかを改めて自らに問うてみても、確とした答えが出てくるわけではないのである。そのようにしてこれまで生きてきたから、この歳になって今更変えるわけにはいかない、といったような事情、つまり、節操などという一種の硬直、あるいは惰性に過ぎないと批判されてもほとんど返す言葉がないほどなのである。

 因みに、韓国のいろんな分野で「元在日一世二世三世」が活躍しているはずなのだが、その消息について彼はあまり知らないという。その人たちの祖国(?)帰還の理由、その後の変貌、現在の意識などに関する調査はないのだろうか。

 一世の場合は概ね、余生を過ごすためにといった理由で帰国するようだが、二世以降の場合の様態と当事者の意識については殆ど伝わってこない。但し、そのバリエーションの一つとして、プロ野球選手に限っては、関川夏央の評判を取った一連の本があるのだが、それだけではやはり不十分で、もっと広範囲の調査があってもよさそうなのにと思う。

 因みに、一世(あるいは二世)で戦後早々に帰国した人々のインタビューがある日本人の女性によって一冊の本にまとめられており(『釜山で聞く元在日の詩(うた)』菊池和子、かもがわ出版)、それは抑制が効いて、なかなか好感が持てる仕事なのだが、それに続いて、もっと包括的なものが現われるのを期待したいのである。

 そういえば、大阪の韓国系の民族学校である、白頭学院建国では、創立記念何十周年かに、昔の創立時の16ミリフィルムを発掘して、それをベースにビデオを作製しているのだが、そこには、韓国で活躍している卒業生が顔だけだけれど何人も出ていたなあ、と記憶が蘇った。先にも述べたが、そうしたごく最近の経験が、僕をして長年気になっていた質問を後輩に向けさせたのであろう。

 何はともあれ、そうした調査をする人が現れないかな。因みに、僕が先にも触れた共同研究で振り当てられた研究テーマが、「植民地時代における大阪の在日朝鮮人の教育が、解放直後の済州島の教育に及ぼした影響」となっており、調べれば調べるほど難儀で短期間では不可能ということを思い知らされるばかりなのだが、やはり何かテーマを抱えていると、それに関連する事柄に興味を自然と抱くようである、当たり前か!何であれ、テーマらしきものを自覚していると、いろんな経験がそれなりに深みや広がりを持って、楽しくなることだけは間違いがなさそうである。
 
4)失敗の始まり(食い意地)

 ソウルの夜は、後輩氏と久しぶりにあれこれと話を交わして、いい気分で飲めたのは幸いだったのだが、楽しいことの後には辛いことが待っているのが相場というものらしく、とりわけ僕のようなだらしない酒飲みの場合には、その美酒の代価で苦しみを抱え持つということになってしまう。

 その夜はすっかり酔いつぶれて、せっかくのホテルの風呂にも入らず、延辺でゆっくり湯を浴びようなどと暢気なもので、それが大きな誤解であることなど、全く予想もしていなかった。

 翻って考えてみると、前哨戦から問題が多かった。4月以来の体調の悪さはさておくとしても、珍しく10日以上も家を空けることになるのだから、片付けておくべき用事も相当に多く、大いに気疲れしていた。それに旅行となると、慣れないせいか、何かしら緊張し、何もしないのに疲労感が強い。というわけで、ソウルに到着し、ホテルで後輩が現われるのを期待して待ちうけながらも、気だるく、まるで食欲がわかない。

 彼が微笑みを浮かべて現われた。彼の立派な体躯といささか不釣合いな幼顔に浮かぶ微笑が、僕は若い頃から大好きで、ホッとする。ともかく飲みながら話そうと、明洞の混雑の中を歩き、韓国の若者がたむろする居酒屋に入り、飲み始めた。韓国の焼酎は好きでないけれども、ビールは既に随分以前から、体が冷えるような感じが強く、一定量以上は体が受け付けない。というわけで、長時間アルコール飲料を飲み続けようとすると、そして僕の場合は、酒は十分以上に飲んでこそその値打ちがあるというような固定観念が居座っているらしくて、いつもそうなるのだが、それが韓国でのことならば、仕方なく韓国の焼酎を選ぶことになる。

 どの国にもその国の酒文化というものがあり、中国では白酒が、日本では清酒が、フランスではワインが、といったように現地で飲むとそれなりにおいしい(食文化もしかり)。同じように韓国に行けば焼酎のはずなのだが、韓国の焼酎に関しては、先にも記したように進んでそれをというようにはいかない。

 韓国焼酎を好む人には申し訳ないが、仕方なくそれで済ますというのが、正直なところなのである。胃腸の調子に加えて、そういうことも手伝って、日本では数ヶ月なんとか続けていた禁煙も、自ら解禁にし、タバコを肴にしての酒ということにあいなった。タバコを肴にすると、どんな酒もおいしく頂けるというのが僕の酒飲み的信憑で、それが最悪の飲み方であることを重々承知しながらも、またもやその穴に落ち込んでしまうのだった。

 当然のごとく、翌日はインチョン空港に到着したときから、常にトイレに頼る状態に。なのに、僕は二日酔いになるとそれから逃れるためにというわけで、空腹でなくとも、やたらと麺類が欲しくなる。普段から「麺食い」で、体が辛ければついついその麺に救いを求める。麺と温かい汁を飲むと、少なくとも食べている間だけは、二日酔いの辛さを忘れている。

 その昔、亡き父が二日酔いの時には、早朝に工場に出かけて仕事の下準備を終えて帰ってくると、生の牛肉かイカの刺身を冷やし汁仕立てにして、さらに大量の唐辛子、酢を入れて、ビールと共に豪快に飲み干す。一気に出てくる汗が酔い覚ましになって元気が出るのか、改めて工場に出かける、といったように回腸汁(ヘジャングと呼び、街中の随所の食堂の表にはたいてい、それがメニューとして記してある。

 しかし、漢字でどう書くのか僕は正確には知らないので、この漢字はとんでもない誤解かもしれない)の効果を果たしていたのだが、僕の場合は父ほどの豪快さはないけれど、似たようなことかもしれない。何をしても一世の縮小版に過ぎない二世というわけか。
 
 ともかくそんなわけで、下痢症状があるのに、値段と反比例するように高くて味のない「うどん」で、食べ残すべきと思いながらも、習慣の力か、ついつい最後の汁まで飲み干してしまう。

 その効果はてきめん、搭乗を待つ間、トイレからできるだけ近い椅子に陣取って、トイレとその椅子の間を行ったりきたり。なんとか搭乗にはこぎつけたものの、やはりお腹は不安定。なのに、昼食に出された機内食にも、おなかの調子と相談して用心しながらもついつい半分ほど手をつけてしまい、それが体によいはずもない。というわけで、既に中国に到着以前に僕の胃腸は悲鳴を上げていたのであった。
 
5.不吉な雨と酒とで始まった延吉滞在

1)接待、或いはサポート

こうしてたどり着いた延吉空港は生憎と雨だった。僕が予め知らせておいた日程に合わせて、前日に東京から大連経由で到着していた知人で、今回のナビゲーター役を買って出てくださったAさん(東京在住、20年近く前に日本に来て、最近、博士の学位を取得して研究成果を出版)と、彼女の知人の延辺大学B教授の出迎えを受ける。B教授の奥さんが運転する車で、大学正門のすぐ横にある宿舎(延辺大学賓館)へ着いた。

 そしてすぐさま、到着以前から予想して、断じて固辞すると心に決めていた接待攻勢がまさに予想通りに始まった。荷物を部屋に置くと、直ちにすぐ近くのレストランに直行となった。「食事は既に済ませました、絶対要りません」と懸命に固辞したつもりでも、聞く耳を持ってくれそうにない。我を張る勇気もいざとなると尻すぼみ。そこで、妥協の産物というわけで、「少しだけ、形だけ」と言いはするものの、その声は小さくなって、見事に降参となってしまった。

 お昼時を過ぎているはずなのにレストランは盛況で、アルコールの勢いもあってか、喧騒状態である。とてもその中で話をするというわけにはいかず、個室に入った。しかし、そこもまた宴の後の乱雑さ。大量の食べ残しを含めて、皿や鉢が卓上にどっさりと並び、昔日本であったスタウトだったか、それに似たすごく大きなビール瓶が転がっている。店員に片づけを急がせて、直ちに、注文とあいなった。それが最低限の歓迎のしるしというものなのだろう、僕からすれば限界を超えた大量の料理、それに加えて、昼間からビールまで。面倒なのは、僕が出されたアルコールを無視するなんてことができないことなのだが、それに加えて、幼い頃からの親の唯一の教育というわけで、食べ物を残すということができない。残しでもしたら、気分がよくない。他人が食べ物を残す姿を見ても気分がよくないのだから、ましてや自分がそうするなんて・・・

 「お陽さんの高いうちの酒」、これは相当に呑み助の僕、いいやむしろ、だらしない呑み助と自覚しているからこそ自分に禁じていることで、昼間から酒が出るような席は極力回避しているのだが、海外では話が別。いつも何かしら緊張を強いられ、それでいて、特にすべきことがない。長年の自転車操業的な生活が身にしみついた僕はこの空白の時間に慣れておらず、リラックスできない。負担にさえ思える。そこでついついアルコールに助けを求めてしまう。

 そんな僕なのに、この日は飲めないし食べられず、注文した料理を半分以上残したまま席を立つことになった。それでも、不調を極めつつある胃腸に相当の打撃を与えたに違いないのだが、ともかく、食事は終了し、再び、宿舎へ戻り、滞在中の日程に関して、協議を終えた。ところが、僕のひそかな願いに反して、夜の食事会の約束が取り付けられることになった。

 さて、僕を歓迎してくれたお二人は、共に延辺の中国朝鮮族の一員で、その朝鮮族の教育を中心に研究なさっているという関係もあって、日中の国境をまたいで研究上の協力を進めておられる。僕はBさんとは初対面だが、Aさんを通じて、Bさんの日本での研究滞在に際して便宜を図ったことがある。

 他方、Aさんについては、久しく職務がらみで研究のお手伝いをしてきた。それは単なる職務意識に加えて、僕自身が「在日二世」がゆえの屈託を抱え持っていると自覚しているからこそ、海外から日本にいらした方にはそれなりのホスピタリティを、という自らに課した原則があってのことである。しかし、今回の旅の計画を相談したところ、Aさんにはこの機会にそうしたお手伝いへの「恩返し」を果たしたいという思いが強くあったようで、僕の予想をはるかに超えた全面的なサポートをして下さった。それはもちろんありがたいことなのだが、サポートの延長にはいろいろなことがあるもので、言葉の問題に加えて体調、さらに年齢など、いろんな弱点を抱えている僕を保護しようという気持ちが強く出てきたりということもあって、かえって負担、といった身勝手な感じ方もあった。但し、そんなことを感じるだけで、罰が当たる。それほど献身的なサポートであった。

 僕は生来、人間以外のことについては好奇心が甚だ薄い。たとえば、名所旧跡などの観光にはほとんど関心がない。そのうえ不十分な体調ということもあって、放っておくと、ずっと宿舎に立ちこもるなんてことも十分にありえた話である。現に、僕とよく似たタイプで、僕と同じくフランス語教師で生計を立てている友人など、憧れのパリにやっと赴いたものの、言葉に始まる様々な文化的差異に圧倒されて、パリに滞在していた一ヶ月間、映画に行くことを除いては、ほとんどホテルの外に出ずに、スーパーで買ってきたワインとビール、そして中華の総菜屋で仕入れた惣菜を食べながら、テレビを見、雑誌を読んで過ごしたらしいのである。同じようなことが起こっても不思議ではない僕なのである。

 がともかく、そんな僕を労わったり励ましたりで、あちこちへ案内して下さった。そのおかげで、予想もしていなかった事実を知ったし、既に知っていた事柄についても肌で感じることで新鮮な感慨も多々あった。とりわけ、中国朝鮮族の現実の諸相を垣間見ることができたのは、ひとえに彼女、そして彼女が故郷で培ってきたネットワーク、そして、独力で切り開いてきた彼女のフィールドワーク歴の賜物である。

 さらに言えば、朝鮮族の世界から離れて暮らしながら朝鮮族を改めて見るAさん、その彼女を僕が見るという重層的な関係によって、僕の眼は必然的に多角的なものになった。

 そのあたり、当たり前のことではあろうが、整理してみる。僕はこの旅で、延辺を見ると同時に、Aさんを見、自分を見ていた。既に延辺を離れて長年になる異邦人Aさんが故郷の延辺を見、それを解釈する姿を見ながら、Aさんの延辺解釈と僕の目に見える延辺を比較していた。

 さらには、そこに、僕自身の在日に対する見方、僕の両親たち、つまり在日一世たちの故郷済州島に対する見方、日本に対する見方と重ね合わせていたのである。但し、その経験を真に対象化して、世界と自己に対する眼差しを更新できるかどうかは、僕自身の問題であることに変わりはないのだが。

 ついでに言えば、百聞不如一見とは、まさに真理であることを痛感した。よほどに想像力を備えている人を除けば、大抵の人間は自分が知らないことは矮小化、或いはその逆に誇大化しがちで、だからこそ、現場に赴くことは、そうした心理的な惰性に対する防波堤になる。今回、その類のことが幾つもあったが、その一つがフィールドワークに関する僕の思い込みである。

 僕がもっぱら文学テクストだけを相手にあれこれ思いをめぐらしたり屁理屈をひねり出したりしてきた人間ということもあって、現場に赴いて、その情報をレポートすればいいのだから、フィールドワークなんてなんとお手軽な、という偏見としか呼べない思い込みがあった。それになんら根拠があるわけもなく、ただ、自分のしてきたことを何が何でも自己肯定するために、他者の苦労とその成果を貶めるという防衛本能に過ぎないのだが、そうした固定観念の馬鹿さ加減を今回、Aさんにとことん教えられた。

2)故郷と異郷(民族なるもの)

 というようにAさんに教えられたこと、考えさせられたことがたくさんあって、そのあたりのことを詳細に記すと同時にじっくり考え直してみるべきところなのだが、うまく展開できそうにない。そこでその課題を箇条書き風に挙げて、心覚えにしたい。

①先ずは、Aさんの変貌ぶりに僕は少々驚いた。Aさんとの職務絡みの付き合いは10年ほどになるだろうか。その間のAさんの言動には、異郷で生きる術というわけか、自分を抑えて、少しぎこちない、という感じが否めなかった。ところが、今回は、故郷の延辺に帰り、勝手知ったる我が家というわけなのか、あるいはまた、僕に対する保護者意識のなせる業なのか、さらにいえば、そうした両者の混交の結果なのか、延辺の人々に対して、感情や主張を強く表現されているように感じた。さらには、旅の途中でいろいろお聞きした話からも、朝鮮族のみならず、対日本人、対韓国人、対中国朝鮮族、対漢族に対する感情をまっすぐに押し出しされていた。

 異郷と故郷とでは人間の挙動は変化するもので、それ自体はごく普通のことかもしれないが、そうしたAさんの変貌振りを在日朝鮮人に引き寄せてみたい。たとえば僕の亡父は日本では、とりわけ、日本人に対しては平身低頭を常とし、怒りを爆発させる姿などほとんど見たことがなくて、そのおかげもあって「紳士」という世評を得ていた。ところが例え日本においてでも、在日韓国人に対しては正論を主張して譲らないことがあった。また、20歳前に去って既に60年以上も経ているから実際は異郷になっているはずの済州島では、現地の人々に対して声を荒げて怒ったりすることがあった。Aさんの変貌振りは、そうした亡父の変貌を僕に想起させたのである。故郷とは、他郷では圧し隠さざる得ない生身の姿を引き出してくれるところということなのだろうか。

② 上述の延長上で、故郷に対するアンビバレントな心情について。Aさんは既に延辺を棄てた身であるとご自身がおっしゃっておられたし、元来が、延吉の人ではなくて、延吉に「敗北し、おいてけぼりくらっている」竜井の人ということも与って、発展に向けてひた走る延吉の現状には溶け込めないといった感情をお持ちのようである。とは言え、その延吉も中国の延辺地方という大きな故郷の一部であることに変わりはなく、その故郷総体に対する愛憎は相当に複雑な気がした。

 特に故郷とそこの人々の否定的な側面に対する彼女の怒りのようなものが今回の道行きの随所で強く感じられた。もっとも、それは外部、つまり他の国の人間、たとえば僕に対しては、その故郷の欠点を恥じらうがあまり、という要素があるのかもしれない。これまた翻って僕自身に考えを向けさせる。僕は在日韓国人の欠点に対してすごく神経質で、それを話題にすることが多い。それは、おそらく、身内を恥じるという感じ方に由来しており、とりわけ、日本人を相手にするとそれが嵩じて、その結果、「けったいな在日」などといった評価を受けたりする。

 そうした評価はどうでもいいことなのだが、そうした恥の感覚を丁寧に解きほぐしていけば、自らの思考・感情・行動の洗い直し、さらには柔軟性を生み出しもするのだろうが、それにはやはり時間と注意力と忍耐が必須で、そこにはなかなか行き着けず、自己批判には至らないのが現実である。ともかく「身内」といった感じ方(そしてそれが備える潜在的暴力性)、それをしっかり解きほぐさないと、僕が長年のテーマとする「在日朝鮮人の自己批判」などは夢の夢ということだけは確かなことのようである。

③ 朝鮮族と漢族、或いはマジョリティとマイノリティの軋轢。知識としては知っていたつもりだったが、朝鮮族の漢族に対する警戒心、或いは敵愾心がこれほどのものであるとは、延辺に来て、肌で知ったような気がする。しかし、それを素朴に単純化、固定視すると危険なことになりかねない。為政者はしばしば、意図してそれを煽り、利用する。しかし、それだけではない。

④ 民族間の軋轢は、必ずしも権力者の意図とは関わらず、細胞分裂するように再生産されて、特に少数者、つまり弱者の内部分裂を促進する。ここではつまり、朝鮮族内部の亀裂のことである。生き残るために、或いは社会的上昇を図るために、素直に(或いはまた、自分を抑えて)マジョリティである漢族に取り入る人たち、これについては改めて言うこともないのだが、民族主義を鼓舞する人たちと言えども、実は自民族の人々を擁護するのではなく、むしろ、民族主義を盾にすることによって、マジョリティに取り入るといった場合があるのではなかろうか。つまりは、民族を「囮」にして自らの栄達を図るといったことである。これは「在日」に関しての僕の従来からの固定観念を中国朝鮮族に反映させた妄想にすぎないのだろうか。

⑤ 韓国と朝鮮族についても強者と弱者の問題がある。中国朝鮮族が韓国ドリームに踊らされた結果、韓国人をひどく嫌うようになったというのは殆ど常識となっているようである。延辺朝鮮族と比べてみれば、経済的繁栄を謳歌していると見えてしまう韓国に憧れる気持ちと、その一方で、同胞と呼びながらも実はその同胞である朝鮮族を搾取し、差別する韓国(人)を憎む気持ちが表裏一体となっているようである。もっぱら民族問題に限定しなくても、こうした愛憎関係、憧れと裏腹の憎悪、嫌悪はほとんど普遍的な現象である。少しずれる懸念もあるが、連想ゲーム的に言えば、中国人はアメリカを嫌うというが、中国人こそが最もアメリカを好きなのでは。或いはまた、「在日」の民族主義者が日本を憎む振りをしながら、彼らこそが一番日本に憧れているようなふしがあったりもする。

 強者は弱者を吸引し、その一方で、弱者を排除しつつ、格差を大きくする。格差が大きくなればなるほど、欲望、羨望に基づく競争心が増大し、そのエネルギーが社会にダイナミズムをもたらす。しかしながら、決定的に排除された弱者は、そのダイナミズムとは関係ない位置に追いやられ、まるで存在していないかのように忘れ去られる。そこにこそ、実は、共感を、たとえば、あたかも自然に誰にでも備わっているかのような同胞感情を発動させて、眼をやる、そして動くことが求められている。その先には、同胞感情なるものが、民族に限定されない地平が現われてくるに違いない。

⑥ 甚だ乱暴な言い方ではあるが、「中国を一番嫌っているのは中国人、中国人を一番信用していないのは中国人?」と言いたくなったりする時がある。しかしながら、外部に敵を想定するや否や、そうした彼らも見事に一体化するような感じもある。我らは中華の民、中華は一つの世界である、というわけである。そうした矛盾というか、二重性が、為政者によっても活用され、さらには個々人がそれを活用する。多様性と統一という民族の力なのかもしれない。

  因みに、そうした中国を「在日」に置き換えても通用しそうな側面がありそうな気がする。ただし、それは前段の「在日は在日を嫌う」にとどまり、後段の「その時がくれば一体化する」といったことは起こりそうもないような気がするが、どうだろうか。

 3)延吉の現在

  ところで、延吉に対する僕の初印象に大きな影響を与えたのが、先ずは天気。先にも書いたが、延吉空港は雨天で僕を出迎えてくれた。宿舎に向かう車中で、「雨季が始まり、そうなると当分雨が続くかもしれない」などと聞いて、この旅行大丈夫なのかしらと、不安の影がさした。僕は国内外を問わず、新しい土地へ行くと、先ずは歩き回ってそこの空気に肌で馴染むように努める。そうしないと不安になるといった臆病な人間である。

 そんなわけで、雨だと歩き回る機会、そして範囲がすごく制限されて、その町に馴染めない。とりわけ延吉の街は、下水道の不備のせいか、雨が激しくなると、道は、特に道端は川のようになって、道の横断に際しては足がずぶ濡れになって難儀する。更に言えば、僕の活動範囲の中心とも言うべき延辺大学は、正門から上り坂になっていて本部棟の威容を見上げるような形に作ってあるのだが、その坂道がまるで川になってしまう。実用性よりも外観が、といった発展途上地域特有の病弊の表れなのかもしれない。

 次いで、立ちはだかった障害は、携帯電話が不通になったことである。今回の旅行の為にと、海外でも使える携帯電話に替えて準備万端のつもりであったし、現にソウルでは実際に使用できて大いに喜んでいたのに、延吉に着いてからは、画面上には常に圏外の文字が現れる。ひとたびソウルで安心していたからその反動もあって、ここ延吉は、海外といってもレベルが違うのでは、一事が万事では、と不安が募った。そしてその後、その予感は的中することが数多く生じることになるのだが。

 ともかく、日本との連絡を確保しなくてはならない。我が家に一人残している妻、そして年を取るにつれて心配製造機と変貌してしまった老母に、折に触れて無事を知らせねばならない。それに加えて、9月に予定している国際シンポジウムの準備作業との関連で、研究所との不断の連絡も必須である。そこで先ずは、国際電話の可能なところを捜した。Aさんの案内で、大学の正門の向かい側のビル(そのビルの前の広場にはなんと屋台のタコヤキヤさんがあって、大阪たこ焼きソングという曲を大音声で繰り返し鳴らしていた)の界隈でそれを見つけた。

 店員は恐ろしく無愛想だが、通話が出来さえすればいいわけで、試してみてOK。これで日本との連絡は確保されて、一安心となった。ついでに、その横のビルの二階に大規模なネットカフェも見つけることができた。このカフェ、若者たちのネット人気を反映していて、人並みが途切れない。24時間営業のようである。職員たちもまだ幼い顔つきながら、コンピュータに熟練し、親切である。日本語のメールが読めるように、更には、日本語でメールが打てるように教えてくれた。但し、日本語で打てるように設定できる能力を持った職員には初回にしか会えず、それ以降は、誰に聞いても埒が明かず(もっとも、僕の中国語能力の問題も大いに関係していたのだろうが)、ローマ字で日本語の文面を打たざるを得なかったのだが。

 僕は既に年寄りの域に足を踏み込んでいるのに、若者のメール病が遅まきに伝染したのか、尋常以上に電子メールに頼って生活しており、いざそれが使えないとなるとすこぶる居心地が悪い。但し、この種の障害などは一流ホテルに宿泊すればすぐに片付く問題なのである。そこでは最低限、コンピューター、とりわけ電子メールくらいは気軽に利用できるに違いない。

 つまるところ、僕自らの意思で一流ホテルに泊まらなかったことが、問題の多くを生じさせたのであって自業自得であることが明らかである。しかし、そうした不便のおかげでいろいろと体験することができたわけで、言葉の使い方としては適当ではないのだろうが、これまた逆の意味の自業自得ということになる。一言で旅と言っても、また、たとえ同じところに旅しても、旅に何を求めるかによって大いに違いがあるもので、見えるものも正反対なんてことも多々ある。

  因みに、このネットカフェが入っているビルの前の広場で、朝夕、揃いの赤いTシャツを身にまとった若者たちが整列して、声を揃えて何かを叫んでいる。Aさんその他にお尋ねすると、全国チェーンのそのネットカフェの従業員教育らしい。「昔はこの種のものは全くなかったのに」という話で、日本流の、あるいは、日本から韓国を経由して伝わった韓国流の点呼、そして挨拶の訓練である。その昔、韓国では「在日」系のデパートや銀行が先頭を切って日本式接客と社員教育のノウハウを取り入れるのに躍起となっていたがいまや、その韓国式の接客サービスを中国の大衆向けサービス産業が取り入れているというわけである。


玄善允の落穂ひろい2(人生の同伴者)

2018-03-14 06:57:47 | 玄善允の落穂ひろい
玄善允の落穂ひろい第2号

2010年に大阪桜宮の「在日」一世女性の巫俗祭儀場に関する個人的な記憶を「済州島出身在日一世の習俗の断片」(『コリアンコミュニティ研究第1号』)を文章化したことがきっかけとなり、「在日」の生活世界を「母シリーズ」と銘打って書こうと思い立ち、その第一弾として2010年夏に書き終えた。

第2弾の「母子関係の悦びと・・・」は夫婦雑誌「しましま模様」に連載中で、さらに残りの4篇もそちらに掲載の予定です(以上はすべて全面的に改稿して、『人生の同伴者』(同時代社、2017年)としてまとめて刊行したので、その本を読まれた方は、以下の文章との違いに興味がある方以外は再読の印象が強いでしょう。)

またそれらとは別に、上記の巫俗祭儀関連の「龍王宮再考―聖性を欠いた場所での孤独な祈りの共同性」(『コリアンコミュニティ研究第2号』)、「龍王宮から済州へ、そして再び龍王宮へ―済州に関する「常識」と「在日二世的信憑」と「村の共同体」―」(『龍王宮の記憶』)が2011年7月に刊行された。


人生の同伴者
                        
1.母と自転車
 1922年生まれの僕の母は、20歳頃(1940年頃)に生まれ育った済州島から、生き別れになっていた生母を頼って来日して以来、70年近くの間、大阪に住み続けてきた。その間、同じく済州島の近隣の村から出稼ぎに来ていた父と、なんと東北地方で出会って結婚に至り、6人の子どもを生み、生後100日を経ずに亡くなった4番目の男の子を除いた残り5人を育てあげた。

 激しい愛憎劇を演じあっていた父が亡くなって既に10年近く、僕ら子供たちを育てた家、ただし、僕が生まれてから二度も建て直したので、昔の面影は全くないのだが、ともかく、同じ場所に住み続けている。ただし、子どもたちはすべて独立してしまったので、今や彼女は実家で一人ぽっちというわけなのだが、そんな彼女にいつでも付き添っているかに見える存在がある。

 自転車である。ある時期からは、外を歩いている彼女の横、あるいは、下にはいつだって自転車があった。遠くから見ていると、彼女が主なのか自転車が主なのか判別がつかない。自転車と彼女の大きさの対比、それが彼女の老化の指標といった感じである。もっとも、僕ら子どもたちにとっての彼女の存在感の大きさは、まともな孝行もしていないという後ろめたさも作用して、ますます大きくなっている気配すらあるのだが。

 彼女の自転車との馴れ初めは、僕が小学校時代のことだった。僕ら子ども達が先ずは父、ついでは兄、そして次男の僕、さらには、といった具合に指導者、或いは補助者を受け継ぎながら、我が家から2分ばかりの小学校の校庭で習得したように、彼女もまたそこで、僕たちのサポートを受けて自転車の乗り初めをした。

 当時小学生であった僕が後ろから自転車を支え、彼女は発進する。しかし、なにしろ「こわごわ」なのだから、ペダルをしっかり踏み込めず、車輪の回転速度は上がらない。そうなると母を載せた自転車は、よろめき、幼い僕の力では支えきれないほど重くなる。ハンドルもブレーキも操作がままならない彼女は、ついには「アー!」と叫び声をあげ、自転車はなだれ込むようにして横倒しになる。

 母は顔をゆがめ、擦り傷を負った腕をさすっては息を吹きかけながら、「お前がしっかり持っておいてくれへんからや」と僕に八つ当たり。こちらはこちらで、「そんな怖がってたら、自転車は前に進むわけないやんか」と言い返す。

 母は、年端の行かない自分の子どもを前にして情けなく、恥ずかしくもあるのだろう。しだいに気を取り直す。その顔色を覗いながら、僕は「今度は本気の本気やで、さあ!」と促す。そんなことが繰り返された末に、自転車は相変わらずふらふらと蛇行しながらも、倒れないで停車するに至る。母は色白の頬を上気させ「乗れた」と、ため息まじりで呟く。その声を受けて、僕も「さあ、もう一回、今のうちに覚えてしまわな」と声をかけると、「ううん、そうやな」とすっかりその気になっている。

 但し、ここではもっぱら僕のサポートによって彼女が自転車をマスターしたかのように記しているが、実際はそうではなくて、僕ら兄弟たちが代わる代わるサポート役を果たしたというのが事実に近いのかもしれない。兄弟それぞれの母のサポートにまつわる苦労話、それは逆から言えば、幼いながらも母を支えることができた誇らしい話でもあるのだが、折に触れそれらを披露しあっているうちに、僕ら子どもたちの集合的記憶としてまとめあげられ、しかも、主人公はあくまで自分というような「誇らしい」物語になってしまったといった可能性も十分にある。

 ともかく、それ以来、自転車は彼女の足となり、彼女は自転車と共に生きてきた。我が家から徒歩で5分ほどのところにある我が家の工場(ぼくらはコウバと呼んでいたのだが)、そこへ彼女は一日に何度も往復する。朝、家事が一段落するとコウバへ。そして昼前になると、昼食の準備の為に家に戻り、父が帰宅して昼食を済ませて改めてコウバに出かけるとその片付けをして、父の後を追ってコウバへ。夕刻になると、またもや帰宅して、買い物籠やお金を準備して徒歩で10分足らずの市場へ買い物。家で夕食の準備をして、家族の夕食を済ませても、コウバの仕事が立て込んでいる時には、夕食の片づけを済ませて、慌ただしくコウバへ。そんな際には必ず自転車。

 それ以外に彼女が足を伸ばすことはあまりないのだが、でも希なそうした機会、例えば、70歳頃に通いだした都心の夜間中学に通う際にも、徒歩でたった2 分あまりの最寄の駅へも、なんと自転車だった。

2.消えた同伴者

 そんな彼女の同伴者が突然に消えた。盗まれたのである。彼女の最大の同伴者であった父が亡くなって、3年後のことであった。
父を失って彼女は喪失感に苦しんでいた。あれほど諍いが絶えなかった二人なのに、長年の連れ合いというものはやはり特別な存在であるらしい。

 まだ父が存命だった頃、あまりに激しい諍いが連日続くのを見るに見かねて、当時まだ同居していた弟が「そんなに憎みあってるんやったら、いっそ、別れてしもたらええねん!」と割って入ると、弟はその喧嘩していたはずの両方から、こっぴどく叱られということがあったらしい。また、父が亡くなって2年ぐらい経ったある日、母は僕に出し抜けに、「あんたが何を言うても何をしても、あんたのオトちゃんの方が上や」と僕に言い放った。

 因みに、オトちゃん、オカちゃんというのは、「在日」の一世、そしてその影響をうけた二世たちの父母に対する呼び方である。おとうちゃん、おかあちゃんと彼らは発音できず、その子ども達はそんな事情など知らないままに受け継いだわけである。肉体化された母国語の干渉であるのだが、僕ら二世は育つにつれてそれが周囲の言葉と異なること、さらには、それが出自を露呈させかねないと、大いに警戒心を発揮して、人前では、つまり日本人の前では、その呼称を使えなくなる。だからと言って、普通のおとうちゃん、おかあちゃんと言うのも、嘘をついているようで後ろめたく、いろいろと工夫を重ねたものだった。そのあたりについては、拙著『「在日」の言葉』を参照していただきたい。

 ともかく、僕はその言葉に大いにショックを受けた。父の不始末の処理の為に、父の生前から母の命を受けて彼女とタッグを組んで10年ばかりも頑張ってきたこの僕になんてことをと。しかしその一方で、いくら苦しめられても、そしてそれを僕らに執拗に訴えても、その母が父を深く愛しているということは僕ら子どもたちにとっては自明すぎることであった。だからこそ、そうした愛憎の激しさに、彼ら一世の人生の厳しさを思い、それと引き比べて自分たち二世の軟弱さはなんともしがたいと、感傷にふけることにもなる。

 父は生前、まぶたの故郷である済州島に土葬されることを強く望んでいた。しかし、母は僕たち子どもに命じて、父には内緒で日本に墓地を確保させた。父の希望を叶えでもしたら、韓国在住の僕たちにとっての異母姉妹たちとの関係など、後々まで問題を引きずりはしまいかと懸念してのことだった。父もまた、死期が近づいてきたと察知した頃からは、自分の墓のことを口にしなくなっていた。死にまつわることを口にすればそれが現実になるのではと父はすこぶる恐れていたからなのだが、それに加えて、母に対する罪責感もあって、口にしたくてもできなかったのだろう。

 だがしかし、その一方で、済州島から見舞いに訪れた親戚などには、その話を蒸し返し、彼ら彼女らの口を通して母や僕たち子どもに自分の意思が伝わるように図るといった形で、自分の希望の実現に向けて、腰を引きながらの努力も続けていた。しかし、母も僕らも遠からぬ父の死を迎える心の準備に忙しく、そんな話は完全に聞き流していた。

 ところが、父の死後一年ほどして、事態が急転した。父の死後、母は天国、あるいは女性問題その他で彼女を苦しみ続けたから地獄にいるのかもしれないのだが、ともかくその父との対話を続けていたらしい。「昨日も夢でオトちゃんがえらい怒ってた」などと母は僕らに憔悴しきった顔つきでもらすのだった。そしてある時突如として、済州島に父の墓を作ることに決めたと、母は僕に告げた。

「あんだけ済州島が好きな人やってんから。そんでも何であんなに済州島が好きやったんやろか。飛行機から下を一生懸命見て、「ハルラ山や、済州島や、見てみ!」言うて、ホンマに子どもみたいやった」と、老後には二人して済州島で暮らすことを夢見て、連れ立って済州島通いをしていた幸せな時代を思い起こすのだった。

 その後、墓の話はとんとん拍子に進んだ。韓国の宗孫である従兄がいつからか仏教に入れ込み、済州島の山腹にある大きな禅寺に通いつめており、そのお寺が大規模な墓地を造成しているという話が、その話を加速させた。というより、そうした情報が母に翻意を促したのかもしれない。その墓地に日本式に似せた墓を作ることになった。

 というわけで、父は彼の生前の希望通りに故郷で永久の眠りにつくことになり、僕ら家族、ならびに親戚などが大挙して父のお骨を抱えて済州島へ向かった。禅寺での納骨の儀式に参加し、そのついでに、観光バスを借り切って、済州観光を共にするという、我が家では珍しい大行事をやってのけた。久しぶりの一族の再会が、そのように母と亡き父との連係プレーで果たされたわけである。

 それはたしかに目出度いことではあったが、その反面、大阪近辺の山の墓地に大枚はたいて確保しておいた墓地をどうするかといった面倒を残すことになった。墓地の確保のために支払ったお金の名目は永代供養料ということになっているから、不要になったからといって売買というわけにはいかない。だから、そのお金を無駄にしないためには、その墓地を僕ら残された子ども達が使用するしかないのだが、すでに述べたように、母の心積もりでは母も僕らも済州島の父の墓に入ることになっており、墓地は無駄になってしまうわけである。

 しかし、その程度の現実問題など、母の気持ちと天秤にかけることができるわけもない。ただ問題は、そのようにすべてを仕切り、「あんたらも入れるように大きな墓にしてもらおう」と言っていた当の母が、いつからかすっかり考えを翻してしまい、今では父のお墓に入る気などさらさらなさそうなことなのである。

「あんたらの近くで眠りたい」と母は言う。とすれば、無駄になった日本のあの墓地を利用する可能性が改めて生まれたことになるのだが、さて・・・

 彼女にとって、人生の大半を暮らし、その実りなのか失敗なのかはともかく、その成果であることは否定しがたい子ども達がいるところ、つまり大阪が彼女の生と死の世界のようなのである。男は自分の母の懐に抱かれて眠るのを夢想するのに対し(言い換えれば過去に)、女は自分の子ども達を永遠に見つめて眠りたいと夢想する(言い換えれば未来に)、といった男女の違いというものがあるのかもしれないが、こうした「感じ」を一般化できるはずもない。

 がともかく、そうしたことが一段落した矢先に、彼女にとってのもう一つの相方である愛車が消えた。

3.交番所

 母から電話があった。「どうしたん?」「違うねん、あんた、忙しいところ悪いけど、ちょっと頼みがあるから、家に寄ってくれへんか」
 彼女はいつでも、違うねん、で言葉を始める。何が違うのか訳がわからないのだが、おそらくは、「たいしたことではないのだけれど」くらいの意味なのであって、気に掛ける必要もないことなのだろうが、それが僕はすごく苦手である。

 僕は母を「心配事製造機」と密かに命名している。いつだってなんだって、物事を否定的に見る。たとえ喜び事があっても、その後には悪いことが起こるのではと既に心配しているのだから、喜びも半減してしまう。そういったところが、生まれついての厳しい人生が彼女に強いたものの象徴のように感じられて、その重さに僕は圧倒される。そればかりか、そんな彼女に要らぬ心配ばかりかけてきた己の情けなさを思い知らされもし、気持が萎えてしまうのである。

 でもとにかく、お呼びがかかったのだから、無下にするわけにもいかない。それも出来るかぎり早く片付けないと、重い気持ちをひきずりながら毎日を過ごす羽目になりかねない。

 実家に立ち寄ると、案の定、ソファーに縮こまって横たわっていた彼女は辛そうに体を起こすが、その表情は普段にまして暗く、打ちひしがれて見える。「忙しいのに、ほんまに悪いねんけど、ほんで、盗られた自転車が見つかることはないやろけど、一応、交番所に届けておいてくれへんか」と、彼女は弱々しく切り出した。「ほんでも、交番が無くなって淋しいし、怖なったなあ」と、彼女は本当に心細げに言葉を継いだ。

 実家が位置する集落は、僕が子どもの頃には、国鉄の駅を中心にして周辺に散在する幾つかの集落群の中心だった。その集落の真ん中に唯一の小学校があり、その門前には交番所と郵便局と新聞集配所、そして米屋、酒屋、八百屋、文具屋が並んでおり、いわば教育、通信、そして保安の拠点であり、日常生活に必要なものはほぼまかなえることが可能な唯一の集落であったからなのである。

 我が家の前には左右どちらへ向かっても10分から15分で、一方は先にも触れた国鉄の駅、その反対方向は私鉄の駅へ至るといったように、地域で最も古く舗装された幹線道路がほぼ一直線に伸びている。玄関を出てその道を左に1分ほど行くと、左手に小学校の正門がある。その正門に向かって左手には文具店兼タバコ屋さん、右手には交番所があって、その間には一辺が8メートルほどの正方形の空間があり、そこは地域の人々の待ち合わせや子どもの遊びの場所でもあった。

 僕ら兄弟姉妹は一人残らず、その文房具屋さんと交番所を左右に見ながら校門を入り、左手の植樹に囲まれて聳える忠魂碑を横目に見ながら校舎へと、我が家から2分とかからない距離を通い、そこを卒業した。夏休みなど、僕らは家で水着に着替え、そのまま裸、裸足姿で駆けて、当時としては珍しいからその小学校が誇りとしていたプールに向かったものだし、帰りも、濡れた水着姿で家まで一目散に走って戻った。

 そればかりか、給食に出されるパンとあの脱脂粉乳にどうしても慣れることができなかった僕などは、低学年の間は至近の距離だからと特に許されて、わざわざ家まで昼食を食べに帰ったりしたものだった。そんなことが何故許されていたのか今となってはすごく不思議なのだが、幼い僕の社会的不適応の兆候が誰の目にも明らかで、先生もそれを見るに見かねて特別に許してくれていたということなのだろう。

 ついでに言えば、僕はあの味気ないパンがどうしても喉を通らず、かと言って食べ残しは厳しく禁じられているから、食べ残したパンを密かに机の中にしまいこむのが習慣となって、ついには机の中が溢れるほどに溜め込んでしまう。そして、それが露見しそうになると、例えば、父兄懇談会などが近付くと、その処理に往生するということを繰り返したものだった。年老いた今でも何かの拍子に、何でも先送りにしたあげくにあたふたするといった局面に至ると、あのカビの生えたパンの山を前にして冷や汗を流していた自分の姿が蘇り、いたたまれなくなったりする。

 話を戻そう。兄と末弟までの年齢差が10年なのだから、兄が小学校に入学し、末弟がそこを卒業するまで、わが家は丸々16年の間、その小学校にお世話になり続けてきた。授業は言うまでもなく、放課後には日が暮れるまで僕らの最大の遊び場であったし、夏には先にも触れたプール、移動映画会やラジオ体操、そして親切な教師が宿直の日には、宿直室にまで押しかけ、校舎の夜回りについて回ったりして遊んでもらったものだった。

 小学校の門番をしているかのような交番所もまた僕らにとっての得がたい遊び場であった。僕らは交番の「巡査さん」(何故おまわりさんと呼ばなかったのだろうか、おまわりさんなんて何か澄ましこんだ言い方だといった語感があってのことではなかったのだろうか。それにしても巡査さんというのはなんともおさまりの悪い言葉なのに、実際そのように呼んでいた)の警邏について回り、その途中で捕まえてきたイナゴを宿直室で焼いて、醤油をつけて口に入れてはその苦さに吐き出すということもあった。但し、巡査の誰もがそんなに気持ちよく相手をしてくれたわけではなく、「中村の巡査さん」が飛び切りの優しさで、理想の兄ちゃん、おじちゃん像として記憶に刻まれている。

 ところがそんないわば「黄金時代」も遠い昔となってしまった。なにしろ僕が小学校を出て既に50年近い。先ずは、東京オリンピックのために、元からあった駅のすぐ近くに新幹線のターミナル駅が建設されて、それに伴い、蓮池と水田と広大な荒地などの大半が姿を消した。僕にとって一番印象深いのは、駅近辺の水田で悠々と餌を啄ばみ、僕にとっての「故郷」の象徴となっていた白鷺がいつの間にか姿を消したことである。

 次いでは、大阪万博を前にして、高架の自動車道とそれに並行する「高架の地下鉄」が開通し、そしてその駅が我が家から学校とは反対側の徒歩2分ほどの所に新設されたりもするというように都市化へ向けての大規模土木工事のラッシュが続いた。

 随所にあった朝鮮人の集落もほとんど姿を消した。とりわけ、かつては朝鮮人の中でもとりわけ極貧地域であった小学校の裏手にあった「チョーセン」が、地上げによって一掃され、その跡地を中心とした周辺の畑地には高層マンションが次々と建設されたし、そのと「貧しさ汚さ」では双璧をなし、「鳥小屋」と呼ばれていたもう一つの「チョーセン」の前面には、いつの間にか、新左翼の中核派の「いかにも物騒な砦のようなビル」が居座り、の姿はすっかり見えなくなってしまった。といったように、この地域周辺の変化にはすこぶる大きなものがあった。

 但し、我が家が位置していた集落は、その周辺地域の中では際立って家が建て込んでいて再開発が難しいからなのか、昔のたたずまいを多く残している。言い換えれば、周辺の激変からは取り残されたのである。例えば、先にも触れたように、昔は裏門があった周辺には続々と高層マンションが立ち並び、新住民、それも幼い子供を抱えた若い夫婦が増えた結果、そちらが正門になり、かつての正門は裏門となって中心の地位を失ってしまった。

 また、警察の機動化で、随所にあった交番所が一箇所に統括され、その統括された交番にはパトカーが常駐するというように大型化した。その結果、その正門脇の交番も一時期には統括交番になって、かつては遊び場であった正門前の空間はパトカーの駐車場になっていたのだが、更なる大型化、機動化に伴い、その交番もついには廃止され、どこか他所の派出所に統括されてしまった。といったように、この集落は地域の中心としてのかつての役割、あるいは栄光をすっかり失ってしまったわけである。

 そんなこんなで、昔はその集落では犯罪など皆無だったのに、今では空き巣どころか凶悪な押し込みなどの被害といった話もちらほら聞かれるようになっていた。

 さて、盗難の届けをという母の頼みを受け入れたものの、新しい交番がどこにあるのかも定かではないから、それだけでも気が重くなる。しかし、母のしおれきった様子を見ると、先延ばしにするわけにもいかない。そこで兄弟の中では最も地域の現状に詳しい末弟に尋ねてみることにした。

 彼は所帯を持ってからは子供の「教育環境」を最大の理由として「在日」の集住地区に住居を移しはしたものの、僕を含めて上の兄弟が全員、長時間労働で将来がない家業から「とんずら」を決め込んでしまった結果、貧乏くじというわけで否応なく父のコウバの後を継ぐことになってしまい、毎日実家の近くのコウバに通勤を続けている。だから、今や、遠くへ逃げた兄弟の中では飛びぬけて地域の情報に詳しい。でもそんな彼でも新しい派出所の所在地を正確には知らないようで、「噂では」という条件付で大体の場所を教えてくれたので、ともかく出かけてみることにした。

 その新しい派出所の位置というのは、高架の自動車道の脇に並ぶ大規模な公団住宅の裏手あたりだと言う。だとすると、高層建築群の陰になって目立たず、犯罪の予防にはなりはしないなどと、ついつい愚痴が心の中で芽生えてくる。しかし、そうした不満は、母の頼みを面倒に思っているからに違いないと思い返すと、後ろめたさも兆してくる。といったように、不満と後ろめたさを行ったり来たりしているうちに、高層アパートの裏側に差し掛かった。そして、遠方にパトカーの車体がかすかに見えた。予想外に容易に見つけることが出来て拍子抜けするほどだった。おもむろにそちらに足を向けた。

 警察に行くことを好む人など多くはないだろうし、「在日」の場合はなおさらである。「在日」はいつだって犯罪者、あるいは犯罪者予備軍と見做されてきたのだから。それに僕らの世代なら、14歳からは3年に1回、両手の10本の指を1本ずつ役人に掴まれて指紋を捺させられた思い出もあって、自ら犯罪者という自覚が心身に染み付いているのか、警官を見るだけでついつい気が引ける、あるいは、あの不当な屈辱感を思い出しては、激情がこみ上げたりもする。

 僕もまた例外ではない。それどころか、さらに特別な理由もある。学生時代には外事課の刑事に我が家に日参されるという不愉快な経験を持っている。

 帰宅すると、見知らぬおっさんが我が家に居座っている。僕を見ると何か皮肉な微笑を浮かべる。当時の我が家では玄関に鍵をかける習慣はなく、昼夜を問わず実にいろんな人が出入りした。家人が留守なのに他人が居間に座って、帰りを待つということも希ではなかったし、僕の在日の友人達も頻繁に我が家に寝泊りしていたから、見知らぬ人が家にいても、それ自体としては何一つ不思議なことではなかった。但し、それはほぼ例外なく朝鮮人で、何となく姿かたち、表情、振る舞い、そして「臭い」で僕らには分かる。何より、父親の知人、友人の同胞の大人が僕に愛想笑いをするなんてことは希にしかない。ところがそのおっさんは僕を見て浮かべた「にやり」は愛想笑いであると同時に、何かを掴んでいるぞといった風で気味が悪い。それに朝鮮人の臭いがない。当然、僕は警戒し、すぐさま、その場を去る。

 そして後で父に尋ねる。あの「おっさん、何やのん」。父は「外事課の刑事や」と何事でもないように答える。「何でそんな刑事が家に座ってるのん」と僕は不満げに言う。父は何も言わない。それ以降、「そいつ」は時には父と談笑していたり、あるいは、父は知らんふりなのに、まるで自分の家のように一人テレビを見ていたりすることもある。僕は開いた口がふさがらず、「そいつ」がいなくなると、懸命に憤懣を抑えながらも父にぶつける。「なんであんな奴を家に入れるの」。ところが父の台詞はこうである。「そんなこといちいち気にしてたら、朝鮮人やってられるか、あの連中も仕事や、勝手にさせておいたらええんや」

 それだけに留まらない。「そいつ」は、なんと僕の結婚式にまで祝儀持参で参席した。それにはさすがに我慢がならず、父に追い返すように頼みはしたものの、父は「お祝いの席でややこしいこと言うな、ほおっておけ」と言うだけだった。

 そんな経験のあるものにとって、警察は不愉快の源泉のはずで、憎き日本の官憲たちという風に僕の感情が固まっているとでも言えば話は分かりやすいのだろうが、ところがそうではない。なるほど、そうした「人種」に対する拒否感、嫌悪感が僕にないわけではないのだが、僕は性格的にすこぶる融和的なのか、あるいはまた、あの「中村の巡査さん」の優しい記憶がいまだに効力を発しているのか、あるいはまた、「常識人」としてこの日本の世界で安穏に暮らしたいという願望のなせる業なのか、派出所に、そして警官にさほど抵抗感はないのである。それどころか、税金を払い、「まっとうな市民」として暮らしているのだから、そんな「在日」を保護するのも彼らの義務の一つであるといった「まっとうな主張」が作用してのことかもしれない。

 それにまた、長じて後には、地域で自治会会長などを押し付けられたりした結果、警察官と僕とは「まともな」地域住民を守るための「同志」関係になったりというわけで、警官たちは実に親切に対してくれるし、僕もまた、彼らを頼りにしたりもする。要するに僕は完全な体制派というわけである。

 それにしても、僕などが関わった学生運動など、当時の日本人の学生のそれと比較にならないほどに微温的なものだったのに、外事警察がそんな僕を日常的に監視するという事態には、日本の「在日」に対する眼差しが如実に現われていたことに今更ながらに驚かずにはおれないのだが、そんな経験を持ちながら「体制派」に自ら進んで入ろうとする僕の奴隷根性にはもっと驚いたりもする。でも僕はいつだって同じ理屈、「仕方ない」との居直りを決め込むわけで、性懲りのないこと甚だしい。

 さて、やっと見つけた派出所である、近づいてドア越しに中を覗いてみた。一人の若者が机の前に座り3人の警官が取り囲んでいた。何か事件でもと思いはしたが、よくよく見るとそれほど切羽詰った感じでもない。被害の申告にでも来たのかなどと思い返しながら、僕は中に足を踏み入れて警官達に声をかけた。一番若手らしい警官が僕のほうにやってきたので、用件を述べた。ところがその警官は、「なるほど、でも、少し待って下さい」とだけ言って、改めて例の若者の方に戻っていく。

 僕は仕方なく、指名手配のポスターなど壁に貼り付けてある掲示物をぼんやり眺めて待つ事にした。すぐ来てくれるだろうと思ってのことである。ところが、警官がこちらに戻ってくる気配はない。そこでついつい、若者を取り囲んでの警官達の尋問に気持が向かい、早く片付くことを願うのだが、どうにも進展がありそうにない。

 その若者の物言いがいかにも曖昧なばかりか、自分の言っていることが何を意味しているのかも定かではなさそうなのである。だから、傍で聞いている僕には、何が問題になっているのか想像もつかない。それに、緊急の事件でもなさそうで、僕を待たせてそちらにかかりきりになる理由など全くなさそうなのである。僕はうんざりし、腹が立ってくる。

 だがしかし、僕は声を荒げて何かを主張したり自分の願望を何が何でも押し付けるといったことが出来る性質ではない。ことここに至っても、しばしの辛抱と自分に言い聞かせる。あげくは、どこまで自分が我慢できるか試してみようといった馬鹿げた心境になる。こうした気持の処理の仕方そのものが底知れない融和主義と繋がっているのだろう。

 若者の証言に基づいて、警官達は確認の為に若者の携帯電話の通話記録などを頼りに、どこかに電話を入れたりといろいろな手立てを講じているようなのだが、証言の真偽を何一つ確認できないようで、改めて同じ質問を繰り返す。若者は言葉を詰まらせて、途方に暮れる。

 警官たちには攻め役、懐柔役といった役割分担があるようで、阿吽の呼吸で入れ替わり立ち代わりの質問を続ける。マニュアルでもあるのだろうか、なるほど見事なものだと、舌を巻いたりもするのだが、事態は一向に進展しそうになく、そろそろいくら僕でも辛抱の限界、口を挟もうかと思った。すると、そんな気配を見て取ったのか、一番年嵩かつ一番上役らしそうな警官が、他の警官達に指示を与えて、その若者を奥の椅子に誘導した後、ようやく僕の方にやってきてくれた。

 その50歳前後らしい恰幅のいい警官は、僕の説明を聞き終えると、一息おいて、包み込むようなやさしい目で僕を見つめ、静かな口調で口を開いた。

「お名前をお聞きしたところ、失礼ですが、韓国のお方ですよね。それでお母さんはいくつになられました?」「そうですか、その世代でしたら、さぞかし、苦労なさったのでしょうね。お母さんはそれでお元気にされておられるのでしょうか。正直言って、盗難自転車が見つかる可能性は著しく低いのですが。なんとか見つかればいいですね。いえ、なんとか見つけるように努めてみます」。

 こんな台詞がこの日本で、それも警官から聞けるなんて全く予想外のこと、夢かと思うほどだった。先だってからの若者に対する尋問の光景などの異様さもあって、それらがすべて夢であったとしても自然と思われるほどだった。しかし、夢ではなかったし、そんな警官が受付けてくれたおかげであるはずもないのだろうが、そんなことすっかり忘れてしまった頃になって、なんとその自転車は発見されることになるのだが、そこに至るまでの話。

4.自転車屋

 僕は派出所からの帰り道、一刻も早くこの件にケリをつけてしまいたくて、ただちに馴染みの自転車屋さんに向かった。

 その昔、我が集落には2軒の自転車屋があった。他の集落には全くなかったのだから、さすがに中心集落だったからなのだろう。1軒は我が家のすぐ近く、5軒隣にあった。もうひとつが、コウバと我が家の中間にある店で、そこへも徒歩で3分程度。といったわけで、便利さでは殆ど変わりがない。

 しかし、なにしろ古い集落のこと、隣組の誼というものがある。自転車を買ったり、修理を頼んだり、タイヤに空気を入れたり、僕の家族は頻繁にその店を利用していた。我が家は既に述べたように夫婦と5人の子ども、そして時には我が家に住み込んでコウバで働く兄ちゃんまでいたりして大所帯だし、いくら小さくても、一応はコウバの経営者なのだから、コウバの製品の運搬などの為には、バイク、次いで小型トラックを購入するに至るまではウンパンシャと呼ばれた大型で頑丈な自転車は必需品、さらには、コウバの職人さんたちの通勤用の自転車もある。というわけで、その店にとっては、すごく上得意であった。なのに、ある時を境にして、その店とはすっかり関係が切れることになった。

 その店の主人は代々の地の人で、地元の世話役であった。それもあってか、集落の誰に対しても態度がでかい。大人の日本人に対してもそうなのだから、女子ども、とりわけ、その集落に3軒だけといったように紛れもないマイノリティの朝鮮人の一家に対しては、ひどく意地悪だった。

 もっとも、当時はまだ壮年だった父に対して既に老年にさしかかりつつあったそのおっさんが、一対一でまともにその意地悪を発揮できるわけもない。朝鮮人に対して悪意を持っているという意味で同類のおっさん(例えば、その隣の米屋のおっさんがそうである)たちがたくさんいる隣組の集まりなんかの際に、その片鱗を示すだけだったようである。

 そんなわけだから、父などからすれば、「日本人とはこんなものだ、永年そうした日本人を相手に生きてきたのだから」といった具合に許せる範囲だったらしい。ところが、そのおっさんは「朝鮮人、それも女、子ども」に対しては、父などに対してはなんとか抑えている意地悪を人見よがしに発揮することになる。僕などは、そのおっさんを目にするだけで緊張したものだった。

 そんな積み重ねがよほどに腹に据えかねたのか、もちろん、何かひどい出来事がきっかけとなったのであろうが、母が目をむき、肩をそびやかして、そのおっさんに食って掛かることがあった。自分の子供以外に声を荒げたりするような母ではないし、そのおっさんの常日頃の僕らへの対し方もあって、よほどのことがあったに違いないと思いはしたが、それでもなお、幼い僕は内心、母が恥ずかしい、と思い、すぐさま、それが母への裏切りだと、後ろめたく居心地の悪い思いをしたことを覚えている。

 父は酒が入れば相手構わず口論したり、「女にだらしなくなる」といった側面はあったが、素面でいる限りは、すごくまっとうで、いつも背筋を伸ばし、他人、とりわけ日本人にはいつでも笑みで対していた。だから、「紳士」の定評があったし、父の悪い癖でいろいろ苦労を強いられた母にしても、そうした父のまっとうさには相当の信頼を持ち続け、それが誇りでもあったようである。だからこそ、父に「清く生きて、死んで欲しい」という願いは並々ならぬものがあり、父が晩年にその場しのぎの対応を重ねたあげくに窮地に陥るのに対して、体を張って対抗することで「まっとうな父を守る」といった趣があった。

 体を張って家族を守るということで言えば、こんなこともあった。父の経営するコウバで小規模な労働争議のようなものがあった。ある時期までは、そのコウバに働くのは親戚や知人の一世の朝鮮人が中心だったが、次第に朝鮮人二世や九州や奄美から流入した日本人の若者達がそれにとって代わり、そんな若者達が、酒の勢いを借りて徒党を組んで我が家に押し掛けることがあった。そんな時に、酒で上気して目を血走らせた若者達の脅迫めいた言動に怯むどころか、一歩も引かず、むしろ若者達の無礼をなじり、さらには諭す毅然とした態度は息子から見ても天晴れだった。そんな対応の効き目ということなのか、その若者達も酒から醒めた翌日には、お土産を持ってしおれた姿で詫びを入れにやってきた。

 そうした特殊な場合を除けば、母は周囲の人に対して父と同様に柔和な表情を崩さなかったし、人の悪口を言うことも殆どなかった。日本人、朝鮮人という分け隔てもあまりなかった。

 そんなわけだから、近所の人たちも既に登場したおっさんたちとその家族などを除いては、この夫婦に対しては、他の朝鮮人に対するよりははるかに親切だったし、信頼を置いていたはずである。朝鮮人なのに、界隈の商店(米屋、酒屋、自転車屋、電気屋その他)は我が家に対しては掛売りを喜んで受け入れてくれていた。また母が日本の漬物を習得したのは、薬局を営んでいた隣家のおばあさんの親切な教えの結果で、そのおばあさん一家が遠くへ引越しをして後も、遠路はるばる訪れたりと、長く付き合いが続いたほどである。それにまた、僕は朝鮮人の子倅なのに、界隈の神社の祭礼の際には、土地の日本人の子ども達と同じく、浴衣を羽織り、顔に白粉を塗られて、神輿に乗って太鼓を叩きながら界隈を廻るという光栄にも浴していたというように、隣組の一員として遇されていたのである。

 とは言え、その付き合いと言うのにもやはり限界があった。個々人の誠意とか善意などとは別のところで、はっきりと一線が引かれていることは幼い僕らにも肌で感じられた。両親が心を許して頻繁に付き合うのは、何といっても朝鮮人たちであった。日本人と分け隔てなく、などとは到底いえなかったのである。

 がともかく、繰り返しになるが、我が家はそれなりに地域の日本人には「いい朝鮮人」として受け入れられていたのである。なのにそんな我が家に対しての自転車屋の親爺の限界を弁えない意地悪に対して、母は「何が何でも」と言い張り、最初は事なかれに徹しようとしていた父もついにはそれを受け入れ、我が家ではその自転車屋への出入りを絶つことになった。こうして遠いほうの自転車のお得意さんになって既に40年近くになるだろうか。

 意地悪おっさんの店は今や店をたたみ、その遠いほうの自転車屋も今では二代目の時代である。中学を出てそのまま家業の見習い、そして奥さんを娶るとその奥さん共々、店で油と汗にまみれて働いてきた二代目の主人はもちろん僕とは顔なじみである。自転車盗難の事情を述べた上で、「兄ちゃん、うちの母親も自転車はこれが最後になるやろうから、いいものを選んで」と頼むと、「そやな、お宅のおかあちゃんやったら、この程度がええんちゃうか、張り込みいや」と相談に乗ってくれた。僕は事故などの心配もあって、母は嫌がるかもしれないけれども、できるだけ派手な色彩の、そしてケチな僕に似合わない高価な自転車を選んだ。つまりは主人の言うように、張りこんだのだが、そのお金は僕が出すわけでもなく、僕が管理している母のお金だからこそ、「張りこめた」というに過ぎない。

 母の家に戻り、交番に届け出たこと、さらには新車購入のことを話すと、「これから先、何年も乗れるはずが無いから、買うのはもったいないやんか。そやけど自転車がなかったら困るし。ともかく安いのでええのに、中古でもえんねんけど」と気が進まない様子。しかし、「その程度のことでケチることはないやんか。まだまだ長年、お世話になるねんから」と、僕自身の願望が多分にこもった言葉で駄目押しに努めた結果、母はしぶしぶながら了承したのだった。

5.発症

 僕としては、それで一件落着のつもりだった。母の落胆の気配は残っていたが、それも時間が経てば消え去るだろうと思っていた。というより、そう願っていた。ところが、それで終わりでなどではなかった。むしろ、それが始まりだった。

 僕が母の家に立ち寄るのは多くて週に1回、でも忙しくなると、ついつい間が空いてしまって、月に1回程度になることもあって、平均すれば月に2回程度である。それも、長居することは殆どない。仕事と仕事の合間、あるいは遊びに出るついでに立ち寄り、母に生活費を手渡さねばならない。但し、これは彼女の年金や貯金や彼女達夫婦の長年の労働の果実である不動産からの収入からであって、僕が稼いだお金を出しているわけではさらさらない。その他、さまざまな郵便物その他の整理、お金の支払いなどの用事を済ませると、いかにも慌しそうに実家を後にする。多忙は丸っきりの嘘ではないのだが、しかし弁解の色合いも濃厚である。長居をするのが怖いのである。

 昔は人の悪口を言ったり、愚痴をこぼしたりすることなど殆ど無かった母の口から、その種の言葉がとめどなく流れ出てくるのを耳にするのが耐え難いということもあるし、その「口撃」が兄弟たちに、さらには僕に向けられることになりかねないからである。

 実は、そうした愚痴が一段落すると、厳しい顔つきの奥から次第にやわらかな表情が顔を覗かせ、言葉つきも柔らかくなる。僕の話にも耳を傾けてくれ、物分りもよくなるし、希には僕に対する慰労の言葉まで出てきたりして、僕に大きな安堵と束の間の幸福感まであたえてくれる。ところが、そこに至るまでには相当の時間と辛抱を要する。だから、僕の自転車操業的な生活がそれを許さないという口実で、逃げを打っているのである。

 親不孝な息子と思わぬでもないし、母もそうした僕に対する不満をもらしたりすることもあるのだが、今ではすっかり慣れてしまったのか、或いは諦めてしまったのか、そうした形でこれまでなんとかしのいできたのである。

 ところが、自転車の盗難以来、そんな彼女の様子がはっきりと変わりだした。他人の悪口を言う気力もないのか、話はもっぱら体調の悪化に限られ、しかも、これまでには見ることも聞くこともなかった症状まで訴えるようになった。それでもなお僕は、それを老齢によるものと高を括っていた。既に永年、母の病院通いに付き添うのに、うんざりしていたということもあった。

 先ずは、長年の膝の痛み。そのために、あちこちの病院に連れ回ってみたが、一向に改善の兆候もない。そこで、最後の頼みというわけで、僕の高校時代の友人で、近所で開業している医者に診てもらうことにした。学生時代にラグビー選手として膝を何度も痛めた経験もあって膝の治療には自信があると自ら吹聴し、現に僕は膝の痛みで困っていた時に、彼お得意のブロック注射で、すこぶるよくなったことがあって、その事情を母も知っていたからである。

 しかも、実際に母も彼の治療のおかげで、少しは膝の痛みが軽減したようだった。ところが、ある時、その医者の「お母さん、歳やねんから、その程度のことは仕方のないことやと思って、気にしやんと、前向きに元気に暮らしなはれ」という励ましのつもりの言葉が、苦しんでいる患者の気持ちを無視していると大いに気に障ったらしい。でも相手はなんと言っても「お医者さん」であり、面と向かっては何も言えないから僕に八つ当たりして、うんざりさせられたし、それ以来、その医者の話は禁句になったりもした。

 更には、腰の問題が続いた。どの医者に行っても、高齢による骨の変形で処置のしようがないと匙を投げられた。しかし、母は痛くて歩行にも支障をきたすのだから諦めきれず、あちこちの朝鮮人一世のネットワークで仕入れてきた情報を頼りに、あそこの医者に連れて行ってくれ、これで駄目やったら諦めるから、としきりに言う。そこで、僕は仕方なく、ネットでその医院の情報を確認した上で、少々遠くに位置するその医院まで車に乗せて通ったりもした。

 その医院は高齢者をお得意としていて、それなりに評判もよいらしく、いつも満員である。そこで、予め僕が車で出向いて診察券を入れて、その足で母を迎えに行き、医院まで連れて行き、さらには車で連れ帰らねばならないといったように、すごく手間がかかる。ところがそんな面倒にもかかわらず、治療はほんの数分に過ぎない。しかも、その医者はルーティン仕事を機械的にこなしているといった様子で、効果を発揮しそうにはとうてい思えない。なにより、患者に対する態度が横柄だから、何故、お年寄りに評判がいいのか不思議なくらいである。だから僕としてはついつい、在日一世のネットワークに恨み節でもぶつけたい気持ちになったし、僕が予想したとおり、その治療で症状が改善したようにも見えず、ついには母も通院を諦めてしまった。

 それに加えてもうひとつ、僕には対処の方法の見当がつかない症状、母が長年にわたってコウバで働いてきたことに由来する特殊な後遺症があった。コウバはプラスチック成型の下請けである。粒状(或いは粉末状)の化学原料を高熱で溶かして型に流し込み、主に電化製品の部品を成型する。それだけのことなら、原料の補給などの際に、狭くて天井の低いコウバ内に原料が狭くて飛散して空気は悪いとしても、ただちに体に支障を及ぼしそうにない。

 ところが、母がコウバで自ら買って出る仕事は、誰もが嫌がる粉砕機の仕事である。一つの型からは数個の製品がつながって出てくるので、製品と製品とをつないだり、製品の外角部にバリと称される不要部分が伴う。それに加えて不良品などが大量に生まれることも希ではない。

 そんなものは破棄してしまえば簡単なのだが、経済効率を考えるとそうはいかない。それらを粉砕機で粒状、あるいは粉末状に戻して、新しい原料と混ぜ合わせて再生利用しなくてはならないのだが、その仕事は、粉砕の際の轟音と、飛散する化学原料の粉塵とで、耳も口も鼻も開けてはおれないほどである。

 だからタオルで口と鼻とを覆ったりと、さまざまな工夫はするのだが、それでもその粉塵を吸い込まないわけにはいかない。そこで、誰もがそんなことは嫌がり、いきおい粉砕待ちの不用品が山となったままに放置されて、ただでさえ狭いコウバが満杯状態となりかねない。そこで母は、その種の不用品の粉砕を自ら買って出て、コウバを下から、そして裏から支えているという自負を糧にして生きてきたのだが、その化学原料の中には、ガラス樹脂なども含まれており、その近くにいるだけで目がチカチカするほどで、それを長時間、そして長期間にわたって吸い込んで体にいいわけはない。科学的知識など皆無の母でもそんなことは実感的に分かる。なのに、それを長年にわたって引き受けてきたのである。(今から考えると、それは今では有名なアスベストだったのではなかろうか)

 その結果、肺の壁がすっかり変質してしまい、絶えざる息苦しさ、胸の痛みを訴える。しかし、治療の方途がないと方々の医者に何度も匙を投げられている。それを重々承知しながらも、苦しさに付き纏われ、ついつい誰かに訴えずにはおれない。その誰かとは息子達しかないわけなのだが、それを始終聞かされてきた僕ら息子も手立てがないから聞き流さざるをえない。それどころか、すっかり食傷気味となって、ついつい、そんな気持が顔に表れる。時には、口調に露骨に表れたりもする。息子達のそんな態度が、母の孤独感、絶望感を深める。

 それだけでも十分に頭が痛いのに、あの自転車の盗難事件以来、さらに大きな変化が加わった。それまでの症状は傍からは分からないものだから、「気持の問題が大きいのだろう、何といっても年齢が」などと聞き捨てにすることもできた。ところが今度は、顔が歪み、口元が窪み、口がとめどなくもぐもぐと動く。すっかり見ず知らずの老婆のようなそれになった。さらには、声も聞き取れないほどに小さくなり、起き上がるのにも難儀するようになった。だがそれでも僕ら兄弟は動かなかった。「なんでもない」と自分に言い聞かせて、やりすごそうとしたのである。

6.入院

 僕は長年、あちこちの大学を駆けずり回って小金をかき集めながらの自転車操業的生活を送ってきたということもあって、時間のかからない手っ取り早いレジャー?である酒以外には何一つ趣味らしいものを持たないままに中年を迎えた。だからこそ10年ほど前に、「これでは駄目だ」と一念発起して、僕と同じく在日朝鮮人である旧友達とサイクリングを始めた。

 一年に数回、あちこちへと遠出をする。またその準備のために、日常的に自転車で心身の訓練に努める。その最大のイベントが年一回の韓国済州島一周と琵琶湖一周サイクリングであり、体力と気力の限界に挑戦し、友情のかけがえのなさなどを痛感しながら走り、そして酒を酌み交わすことが最大の楽しみとなった。当初は3人の親友だけだったところへ、先ずは僕の弟二人が加わり、体力気力が著しく失った僕を監視、サポートしてくれるようになったし、さらには、友人の輪が次々と広がって、総勢10人を超える大所帯となった。そんな琵琶湖サイクリングの最中のことだった。母の世話に定期的に訪れてくれるヘルパーさんから電話がかかってきた。

「お母さんのことですけど、このままでは駄目ですよ。なんとかしないと」

 恥ずかしいことながら、切迫した様子が口ぶりにはっきりと現れたそんな連絡にも関わらず、僕はこの待ちわびていたイベントを切り上げて直ちに実家へ向かうというような孝行息子ではない。以前から分かっていたことだし、一刻を争う事態ではないはずだからジタバタしても始まらないと、居直る始末。そんな心配はひとまず忘れて、サイクリングを堪能してからでも遅くないと、自分に言い聞かせた。

 琵琶湖畔で大いに酒を飲んで一泊して、予定通りに琵琶湖一周を果たしてから、母のもとに向かった。なるほど、一見して母の病状の悪化は明らかだった。そこで直ちに電話で兄と相談し、その翌日に大きな病院に連れて行くことに決めた。しかし、ことここに至っても、僕は自分の都合を優先する。翌日は仕事があるからと、自営業で時間の都合をつけやすい末弟に、母を大きな病院に連れて行ってくれるように頼んだのである。

 そしてその結果、母はパーキンソン病症候群という診断を受けて、直ちに入院の運びになったと、弟から電話で知らされた。発症の原因は定かではないのだが、薬の副作用の可能性もなくはないので、ともかく様子を見る必要があるとのこと。そこで医師である兄のお出ましとなった。

 兄は急遽病院に駆けつけて担当医と相談のうえ、これまで母があちこちの医院で処方されてきた数々の薬の把握に取り掛かった。服用してきた薬の種類と量は並ではなかった。胃腸の不調と高血圧の為に長年通い続けてきた医院、膝と腰痛のせいで次々と渡り歩いた数々の医院、緑内障による眼科医、全てが大量の薬を処方していた。それらを検討した結果、自宅の最寄の医院で長期に亘って処方されてきた胃薬がパーキンソン病症候群を惹き起こしたという事例報告を発見し、母の入院先の担当医にその旨を告げ、今後の対策について相談し方針を決めた。

 何よりもその胃薬の服用を止め、経過を見て、その薬が本当に原因なのかどうかを確認すること、言い換えれば、何もしないというのが、大まかな治療の方針ということになった。母が痛みのせいで特に辛がっている唇や口腔内の荒れと腫れ物に対する処置、といっても塗り薬くらいのものなのだが、それはもちろん直ちに実行されたが、その効果はあまり見られなかった。何であれ触れると痛いものだから、母は食べ物を口にすることを厭い、他の症状の悪化で相対的に苦痛の比重が軽くなっていたはずの腰痛の激化まで訴えるようになった。

 それでも医師たちは、胃薬の副作用が収まるのを待つしかない、それには短くても1、2ヶ月かかると言い、当事者でない僕たちは医師の言い分を易々と受け入れたが、当事者である母にとってはすこぶる酷なことであったに違いない。

 よくよく考えてみれば、そんな副作用の症例報告がある薬を長期に亘って処方していた医者に責任があるのだから、それを追及しようとすれば十分に可能だったろう。しかし、そんなことに神経を遣う余裕はなかったし、我が家では兄と弟が医者であるという事情もあって、医者の責任を追及するというような方向に気持ちが向かいにくかった。誰にでもミスはあるもので、医者もしかり、といったところか。こういうところにも、母の苦しみに寄り添ってそれを理解することよりも、自分達の事情その他を優先して考える傾向が僕らには強いことが明らかで、我ながら薄情さを改めて思い知らされたが、仕方ないと、ここでもお得意の居直りを決め込んだ。入院生活が始まった。

7.ディスコミュニケーション

 遥か昔の、苔むしていかにも由緒を誇る外観の記憶があった都心外れの有名な病院は、しかし久しぶりに行ってみると、場所が少し移動し、新装されたばかりで、まるで高級ホテルと見まがうような外観だし、内部もすごく機能的な感じだった。10階に位置する母の病室は6人用にしては十分以上に広いし、個々のベッドのスペースも僕が知っている他の病院と比べれば余裕がある。

 それだけを見れば、患者としてはすごく恵まれていると正直思ったのだが、病室の端のベッドにうずくまる母の体を包む布団の盛り上がりを見ると、信じられないほどに小さい。恐る恐る声をかけると、その布団の端から、母はゆがんだ顔を覗かせて、苦しそう。本人の意思とは関係なく絶えず口がもぞもぞと動き、辛うじて話そうとする言葉も、きちんと聞き取れない。僕としては、治療については兄と医師たちに任せるしかなく、見舞いとは言っても、実際には何もできることがなく、所在なく母のベッドの横にしばらくいるだけのことだった。

 幸いにも、その病室のガラス張りの大きな窓越しに、淀川が、そしてそのこちら側にそびえる高層ビルディングが見渡せる。昼時には、少し霞がかった淀川ののんびりした光景、そして夕刻には、そのかなたの山並みの向こうに沈んでいく夕陽が望める。

 僕はその解放感のある展望の中で、もしこのまま母が身動きの取れない体になったらとか、さらには、ボケが始まったらとか、そんな心配ばかりしていた。母の苦しみに同情するよりもむしろ、子どもである僕たちに今後のしかかってくる責任の重さに圧倒され、あの広々とした河川敷を、風を受け、水面を見ながら自転車で走ればどれだけ爽快だろうかなどといった夢想に逃げ込もうと努めるばかりだった。

 看護師が巡回してくる。母は質問にか細い声で答えるついでに何かを訴える。看護師は親切そうにその訴えに耳を傾け、いろいろとアドバイスしてくれる。それを見ながら、僕は少し安心する。そして看護師の姿が見えなくなると、話題を探しあぐねていることもあって「よかったなあ、看護婦さんも親切そうやし」などと声をかける。しかし、そう言いながら、母の表情に浮かぶ陰りに気づく。内心「これは拙い、ミスった」と後悔し始めている。

 母は老齢になって夜間中学に通いだしはしたものの、それ以外には、生まれ育った済州島でも、青年期に渡ってきた日本でも学校経験が全くない。つまり、彼女は長年、「文盲」として生きてきた。だからといって、身を小さくして生きてきたなどということでもない。生きるためには人間は自分が備えた限られた資源を活かす工夫をするもので、彼女も彼女なりの自衛戦略を工夫・実践してきた。

 話し言葉に関しては、僕が物心ついた頃には、全く訛りのない日本語を体得していた。もちろん、その語彙は限られていたであろうし、抽象的な言葉などは、お手上げだったし、何よりも、文字の読み書きが全くできなかった。そこで、文字を書かねばならない際には、それを回避するために様々な手立てを講じる。子どもを同行させて、目つきでその子どもに代りに書くように命じるといったように。或いはまた、一定の教育を受けた人にしか分からないような語彙に対しては、その限られた資源だからこそ研ぎ澄まさざるをえなかった勘を働かし、コンテクストで了解したり、或いは、全く分からなくても、自尊心が傷つかないように分かった振りをして済ます。

 そして、たいていの場合、その後で誰かに聞いたり、他人の対応を見ながらそれを真似るといったようにして、やり過ごしてきたわけである。それにまた、彼女の日常世界はほとんど家庭とコウバ、そして彼女の知人友人に限られており、見知らぬ他人を相手にするのは、彼女の生活の大きな部分を占めるはずもなく、殆ど不都合はなかったのである。

 ところが病院では、四六時中、他人の世界で、しかも、動けなくなった彼女にとっては、何をするにも他人の助けが必要で、その際にはコミュニケーションが必須である。ところが、母の語彙と、若い看護師たちの語彙とのギャップ、そして、言葉の速度の違いは歴然としており、マニュアル化された「親切対応」は母の必要を殆ど満たせない。いいや、実は満たせていることも多々あるのだろうが、母にとってはたとえ僅かなことであれ満たされないこと、それが大きな不安と不満とをもたらす。

 一見して親切そうな看護師さんたちなのだが、母の不満を垣間見た後で彼女達の対応に改めて注意を向けると、母のいらだちの由来が分かってくる。看護師さんには、自分の言葉が相手に理解されない可能性が頭にないようなのである。語彙ばかりか、話し方のスピードであったり、聞き手の難聴の可能性であったりが、全く頭にはないのである。たとえ少しは気づいていたとしても、忙しい仕事の段取りに合わせて、そして彼女達が予め分類した患者の要求に対して予め用意してある言葉で処理しがちなのである。それはなるほど親切そうな言葉なのだが、聞き手に対する配慮が十分でないから空っぽの言葉となり、それを機械的に差し出す、というより投げ出すわけである。

 それに対して母のできることは、わかった振りをすることだけである。問い返したり、要求を繰り返すことは、すごく難儀だし、嫌がられるかもしれないから口ごもらざるを得ない。それにまた、何が分からないのかを説明する語彙が彼女には欠けている。第一、分からないということを明らかにすることは、彼女の自尊心に関わってくる。

 というわけで、彼女は自分の実際的な必要が満たされないことばかりか、自分がこの世界から落ちこぼれて暗い穴に落ち込んでしまったかのような孤独感に苦しむことになる。傍から見ている僕にも想像がそうしたことはある程度推測がつくのだから、実際に、心身ともに弱ってしまった母にとって、それはきついことであるにちがない。

 そんな彼女でも、少し元気そうな頃合を見計らって、「何か食べたいものはない?」と問いを差し出すと、「ううん・・・そやな、マグロの寿司やったら」と答えてくれることもあった。それは見舞いの体裁が整うのだから、僕にとっては勿怪の幸いである。次回に見舞う際には、デパートで張りこんだ上等のマグロの寿司を持参した。

 母は歪んだ顔の奥でかすかに喜び、「悪いなあ、気つかわせて」と震えるような声で言った。そして、そのまま寿司を口に入れるほどには口を開けないので、箸で寿司を細かくつぶして、おそるおそる口に入れて、ゆっくりと噛んでいたのだが、それもふた切れが限度、三切れ目の途中で顔をゆがめて、箸を置いた。「どうしたん」と尋ねると、口腔内の腫れ物と荒れた唇に「醤油が染みて痛うて」と言う。「それやったら、醤油なしで食べたら」と勧めたが、いったん痛みを覚えると、なけなしの食欲もすっかり引っ込んでしまうのか、「もう寿司も食べられへんな、あんたが食べ」と悲しそうな声で呟くのだった。

8.反乱

 好転の兆しが少しはあるとも言えるし、殆どないとも言えるといった状態が続き、入院は長引き、次第に母は不安を募らせた。そのまま病院に缶詰になるのではないかと。あげくは、そこで・・・

 その病院には、リハビリ用の設備が完備している高齢者用の長期入院施設が付設してあるから、兄は担当医と相談の上、そちらに移って長期の治療が最善であると判断した。それは、母の介護に対する恐れを持っている僕などにも好都合だったから即座に賛成した。ところが、兄がその話を持ち出すと、母は機嫌を悪くする風だった。しかも次第に、恐怖の色を露にし始め、あげくは、兄に対して激しい拒否反応を示すまでになった。

「兄ちゃんの言いなりには、絶対になれへんからな。はよ、退院させてくれ。ええか、あんたが医者に話して、兄ちゃんの話なんか聞いたらあかん」と母は、追い詰められたネズミのように、顔を痙攣させながら、攻撃的な目つきで僕をにらむかと思うと、哀願の目つきで僕に訴えたりもした。僕を盾にして、兄や担当医など、つまり周囲を包囲した「敵たち」と戦うことに決めたかのようだった。

 僕はうろたえて、「絶対にオカちゃんの気持ちを無視するようなことはせえへんから、安心し。兄貴にもそのように伝えておくから」と防戦に努めざるをえなかった。随分以前から、僕は母に対して子どもの頃の「オカちゃん」という呼称を「オモニ」に転換していたのに、その時には、本当に久しぶりで、オカちゃんと呼んでいた。そしてそのことに気づいて、自分でも驚いた。それほどに僕はうろたえの程度はひどかったのだろう。しかし、母は僕のそんな「お為ごかし」を信じていそうではなかった。

 僕は急を要する事態だと考え、直ちに電話で兄にその旨を伝えた。兄はそれに驚いて「何もそんなこと言うてないのに。設備もスタッフも完備しているあの病院でしっかりリハビリを受けたほうが、本人にとっても楽なはずやのに。子どもを全然信用してないみたいやな」と落胆を隠せない口調だった。

 兄は日曜日になると病院に駆けつけて、改めて母とその件で相談と説得を試みたらしいが、母のあまりにも激しい拒絶に、提案を引き下げた。すごくショックを受けている様子だった。それ以来、母はしきりに退院を口にしだした。一刻の猶予もなく退院、その一点張りで、それを宥めるのが精一杯となった。

 それでも少しは興奮が鎮まると、「こんな状態で家に帰っても、あんたらに迷惑をかけるだけやなあ、悪いなあ、長生きしすぎたなあ」などと言い、「もうちょっとだけ、お医者さんの許可が出るまで、ここで我慢しやなしょうないな」と、僕らの宥めを受け入れてくれることもあった。

 そんなこんなで、殆ど諦めの境地になった頃、母の顔の歪みが改善しだした。口のもぞもぞは相変わらず続いていたが、ほんの僅かながら、軽減しているようだった。入院して2ヶ月を越えていた。医師も兄も、やはり薬の副作用だったと当初の判断の正しさを確信し、母にもう少しの辛抱と励ました。母は半信半疑ながら、その励ましを受け入れているようだった。そして、早く元気になって家に戻るために、食事に手をつける努力を始めた。口腔内の炎症など、母にとって最も苦痛だった問題に大きな変化はなかったが、傍から見て、パーキンソン病の症状が改善していることは明らかだった。
退院して、通院治療する許可が出た。

 母は久しぶりに自分の家に戻り、さすがにほっとしていた。身の回りの世話をする者がいないことを気にしていたが、それだけにかえって、何でも自分でやらねばならないと、持ち前の気力をとりもどしつつあった。

 そのついでに、長年の懸案の腰痛に関しても、またしても在日一世のネットワークから情報を仕入れ、大阪でその種の治療では名高い専門病院で受診してみたいと言い出した。最後の努力をやってみようとしているようだった。そして「駄目元」を覚悟して実際に診察を受けてみると、今まではどの病院に行っても年齢のせいと匙を投げられていたのに、母の年齢でも手術が可能だと言う。母はすぐさまその話に乗った。兄は高齢の身で手術など無理ではないかと躊躇っていたが、実際に担当医に会って説明を受けると、信頼に値すると判断し、手術に同意した。そして、ほんの数日の入院で手術を終えて退院し、長年の腰の痛みも相当に改善することになった。

 そしてその頃になってなんと、盗まれた自転車が見つかったという知らせがもたらされた。無灯火で自転車を走らせていた人物に警官が不審尋問をしたところ、盗難車であり、登録番号で母のものだと判明したとのことであった。
母は「もう必要ないし邪魔になるけど、あれにはもう20年近くも世話になってきたんやから・・・どこかへ置いたってくれへんか」と僕に頼んだ。

 そんなわけで、その母の長年の同伴者は我が家近くに保管してある。他方、その跡継ぎである新しい自転車も、一時は無用の長物になるかと危ぶんだのだが、母はその後、それをいわば介護人代わりにして、腰と膝などの治療に鍼灸院へ通いだした。車椅子の購入を勧めても、それを頑として受け入れない母にとって、それは車椅子代わりでもあるし、彼女の自分の力で生きるという意地のシンボルでもありそうなのだ。

 実家の前の赤い自転車、それが母の在宅の徴であり、母は殆ど家を出ることがないのだから、ほとんどいつでもそこにある。母は二階にある住居から、改築の際の設計ミスのせいで危険なほどに急な階段の手すりをしっかり持ち、一段一段、その階段のステップに腰を下ろしては息を整え力を蓄えて、一階の階段脇にある自転車にたどり着き、その自転車を引いたり、乗ってヨロヨロと走らせたりと、足代わりに使っている。何も解決していない。でも次々と難事が待ち受けていても、ともかく母にとっての自前の生活がまたもや始まったわけである。

 同伴者とは本当に得がたいものだが、人生にはそんな存在がなんとしても必要であるらしい。



玄善允の落穂ひろい(序文、富士山の和尚、済州イヤギ1)

2018-03-13 15:41:36 | 玄善允の落穂ひろい
 ブログを始めるにあたって、言わば準備運動として、約10年程前に、試みた個人雑誌である『玄善允の落穂ひろい』の内容を貼り付けていく。今回はその雑誌の毎号の冒頭に貼り付けた序文、そして1号の説明と内容です。

 僕は仏文を学び、長らく仏語を教えて辛うじて生計を立ててきたが、それは偶然の積み重ねの結果に過ぎず、元々が文学青年などとは程遠く、何かを書こうなどという気持ちはなかったし、書ける人間と思ったこともなかった。ところが中年にさしかかった時期から、何かに翻弄されるままの自転車操業生活に耐えるために、ものを書き始めた。自分が一体何を考えて生きてきたのかを確認したいし、苦しみや日常の些細なことなどを文字に認めることによって、少しでも楽しさを見出してそれを糧に生きたいと願い、懸命に時間をやり繰りして書いていた。そしてその一部は幸いにも小さな雑誌や通信に掲載されたり、拙著の中に繰り込むことができたのだが、残りはパソコンの変更などで四散したり、草稿状態でパソコンの中に眠ったままだった。

 ところが昨年60歳を迎えて、それらが急に愛おしくなってきた。それを書くことで、少なくとも僕はなんとかこれまで生きのびてきた。なのに、それらの原稿は死産のままに捨て置かれている。それでは、計算が合わない。それらに日の目を見させてあげるのが、義務だなどと滑稽で未練たらしい考えが芽生えて、離れなくなった。

 要するに、日常を凌ぐのに懸命なあまり、ついつい忘れがちなかつての自分の「落ち穂」を拾い集めながら反芻し、あわよくば再出発の起動力にしようというわけである。

 幸い、材料はたっぷりとある。それが僕以外の人々にとって何の意味があるのか全く分からない。でもともかく、続けようと思っている。

 お付き合いいただければ幸いです。何かの偶然でこれを目にされて興味を抱かれた方はメールで連絡をくだされば、その後は継続してお送りいたします。 また、厳しいご意見でもいただければ、了承を取り付けたうえで、それを掲載するなど対話の構造も創りだせればなどとも考えています。どうか忌憚のないご批判を!

創刊号

 10年くらい前(だから今からすれば20年弱前)のエピソードをその直後に記したものである。登場人物のプライバシーに抵触する懸念もあって公にすることは控えていたが、そろそろ時効だろうし、それにそもそもが、特定の人物について書くことが主旨ではなかったから、問題はなかろうと掲載することにした。書き上げた直後に、登場人物の一人に草稿をお見せしたところ、大いに笑いながら読んでくださった記憶の助けを借りて、創刊号に「抜擢」した。

 もう一つは、10年以上も前に、両親に同行して済州に通っていた頃に聞いた話を、その約10年後に母がこんどは日本で蒸し返したので、それらを総合してメモしたものである。

富士山のお寺の住職との会見
1.妙な電話 
 先だっての月曜日の朝に、仕事場である研究所に奇妙な電話がかかってきた。電話を受けた研究所スタッフが交換手を相手に、殆ど呆れながら「富士山のお寺の住職から?(その後に、うっそー、そんなあほな、と続きそうな口調で、声は笑っている)ヒョン先生に?」こちらに向けられた視線を受けて、電話を受ける旨を表情で伝えた。この研究所にいると、変な電話がよくあって、とんでもない間違い、あるいは瓢箪から駒のようなことも再々あって、何だって驚かなくなっている。  

 いざ受話器を耳にあててみると、韓国語で「玄先生ですか?」と、耳に大きな声が飛び込んできて、思わず受話器を耳から遠ざける。その辺りはばからぬ大きさに加えて、永年にわたって鍛えこんだと思わせるだみ声は、まさしく韓国人、それも相当に年配の人という印象。咄嗟に、腰が引けそうになる。しかし、それと同時に、好奇心も。というのも、電話というのは便利なもので、やばいと思えば、相手の意向など無視して切ってしまえばよいわけで、イニシアチブをこちらに保持できる。そこで、余裕の産物としての好奇心が、という具合なのだろう。                      

 さて、話はこうである。富士山の麓で、特に「知恵遅れ」の人々に関与しているお寺があって、その住職と言う。35年前に韓国から日本にやってきて、宗教活動を継続しているのだが、ひょんなことから拙著『在日の言葉』を購入して読み、是非とも僕と会わねばと思い立った。所要で大阪に来て、今夜、夜行列車で大阪を離れる予定だから、是非とも、今日中に会いたい。せめて2時間は話さないと、自分を衝き動かしている何かが晴れない、時間を取ってくれないか、とまくし立てる。

 有難い話なのだが、僕はその前の週の木曜日以来、国内外から次々とやって来たお客さんの接待、ガイド役そして会議、宴会などで、週末の遅くまで丸々潰して相当に疲れている。しかもその週も、時限が迫った仕事がひしめき合っており、そのことを考えるだけでもうんざりするほどで、せめて一日くらいはおとなしく帰宅して休養しなければと自分に言い聞かせていた。そんなわけだから、「今日はとても時間が取れないので、またの機会にしてください」と掛け値なしで断ってみた。しかし、先方さんはこちらの言葉には全く耳を貸してくれない。自分の言いたいこと、というより、自分の気持ちをぶつけてくるだけで、会話が成立しないのである。

 こういう際にきっぱりと断ることができればいいのだが、それができないのが僕の僕たる所以であるようだし、拙著の読者だという殺し文句もある。褒め言葉を聴きたいと、既にやに下がっている気配まである。というわけで、結局は押し切られ、不承不承、夕方に大阪で会うことにした。しかし、約束が成立してしまうとたちまちに後悔が押し寄せる。先にも書いたように、すごく疲れている。それに僕は夕食時に人と会って、酒なしでおれるような人間ではないから、またしても酒が続くことになるにちがいない。そうなると、木曜日以来、5日連続の酒びたりとなってしまい、いくら酒飲みとは言え、これでは体が保つわけがない。さらに言えば、先方からの誘いではあっても、遠来のお客なのだから、当然、こちらがもてなさねばというのが、いくらけちな僕であれ一応の常識と心得ている。酒食の出費も覚悟せねばならないだろうし、夜行列車を用いるというのは、経済的余裕がないからだろうとの推測もある。ひょっとしたら、ただただ夕食をねだるカモにされているのではという猜疑心も。もう10年以上も前に、よく似たような経験があって、その記憶がたちまちのうちに蘇ってきた。

2.詐欺未遂、あるいは怖気
 見知らぬ人から自宅に電話がかかってきた。韓国在住の僕の親戚からの伝言があって、最寄の駅まで来たから、是非会ってもらいたいと言う。これまた韓国絡みだった。駅まで既に来ているというのは殺し文句で、いくら押し付けがましいと気分を害したり、腰が引けても、断りにくい。しかも、はるばる韓国からの来訪者に関係しているとなれば、よほどに止むにやまれぬ理由でもなければ、断ることを情が許さない。我が家を探して来るというのを、何やかやと言いくるめて押しとどめるくらいが関の山。急いで駅まで自転車で駆けつけた。速く駆けつけないと、逆に我が家が急襲されるのではといった妄想に追い立てられるような気分だった。
いざ会ってみると、僕が聞いたこともない親戚が韓国にいて、その人から是非とも僕を探し出して会い、伝言してくれるように頼まれた、と言うのである。その親戚が韓国から博多へ、博多から東京へと飛ぶついでに大阪に立ち寄るので、空港でほんの短時間でいいから、なんとしても会ってもらいたい、と畳み掛ける。

 緊急というのは、熟考の余裕を与えてくれず、そのスピードに翻弄されてついつい深みに引き釣りこまれかねないから要注意と警戒心が芽生える。それにその人の人相風体に不信感もある。一応は背広姿なのだが、薄汚れて見える。なのに、その口から出てくる話はいやに滑らかで威勢がいい。僕の親戚なる御仁は韓国で幅広く事業を展開していて、今後は日本にも事業を拡大する予定で、そのために東奔西走しており、そんな多忙な日程をやりくりして、重要な用件で僕との面談を望んでいる、と言うのである。そんな話が実に達者な東京弁ですらすらと流れ出てくる。大阪ローカル人間に特有の東京に対するコンプレックスの裏返しか、僕は東京弁の滑るような弁舌にはついつい眉に唾したくなる。

 がその一方で、貧すれば鈍するという諺通りに、僕にはさもしい根性が染み付いているようで、こういう話にはついつい涎を垂らしそうになる。その偉い親戚の富のおこぼれを頂戴して、将来が開かれるかも、というわけである。しかし、これまたその一方で、そうした自分のさもしさに対するアリバイ証明というわけで、金持ちや社会的ステイタスを鼻にかける人物への不信感をひけらかす。世間の価値観に惑わされる男じゃないぞという、弱犬の遠吠えくらいのプライド。といったように、電話で僕を呼び出した主も外貌と話の内容がアンバランスだけど、僕自身も内面に少なからぬ矛盾を抱えているわけである。

 40年の馬齢を重ねて遅まきながら、人間不信、そしてその延長で自己不信に苦しみ始めていた頃であった。自分が生まれ育った場所ならば、人を見る目はそれなりに培っているつもりである。いやむしろ、それが唯一の財産で防御の盾といったように、自信さえ持っていた。しかし、父親絡みで、韓国のややこしい問題に足を突っ込み出すと、そんな自恃など木っ端微塵。もちろん拙い言語能力の問題もあるのだが、情のこもった言葉や表情や仕草と、その奥に隠されているかもしれない欲望、憎悪、嫉妬といった裸の姿との落差の計算ができない。

 それに何よりも、僕は日本で生まれ育った二世だから韓国人としては「偽者」或いは「赤子」であり、相手こそが正真正銘の韓国人だという妙な固定観念が干渉して、彼らの常識を尊ぶことを要求されているよう気になってしまう。その結果、こちらの主体は投げ飛ばされて人形同然のものになり、気がついてみると、手足をもぎ取られて穴にはまってしまっているといった感じに縛り付けられてしまう。韓国における僕の関係世界はあくまで両親の肩代わりに過ぎず、自分で作り上げたものではないからなのだろう。

 とは言え、この東京弁ですらすらと語られる美しい話がもし本当のことなら、僕の生来の臆病のせいで貴重な出会いの可能性を捨ててしまうことになる。伝言を抱えてはるばる訪れてきたその人の好意を台無しにするばかりか、その人を疑ることで傷つけることになる。しかも、僕の意気地のなさを伝聞したりでもすれば、韓国の人は、「在日」を韓国的信義、仁義に悖る意気地のない人間と思ったりするだろう。とりわけ僕に関してそうした風評が勢いを持てば、あちらで解決しなくてはならない諸般の問題に悪影響を与えかねない。そもそも、今になって断るくらいなら、初めからはね付けるべきだっただろうに・・・などと迷いに迷った。それでもやはり、詐欺師に操られた己という想像には耐えられなくて、先約を口実に逃げ帰ったのであった。

 帰路、胸中は複雑だった。彼が詐欺師だとして、何故僕を選んだのだろう。週日の昼間に家に電話して、僕が在宅していると考えたのは何故なのだろう。ちょうど大学の休暇中で、三文教師は家にいると考えたに違いないといったように、状況を考え合わせると、先方は僕に関するかなり正確な情報を持っていたという結論に至る。とすれば、例え今回は逃げ帰ったとしても、これで一件落着にはならないかもしれない。ともかく、気持ちが悪かった。そしてその後もしばらくは、僕の頭の中では、その余震が続いていた。

 幸い、その後は全く音沙汰がなく、やはりあれは詐欺だったのだろうというのが、僕の判断の振り子の落ち着き場所となった。詐欺を免れたということになる。しかし、だからといって気分爽快というわけにはいかない。詐欺師が僕のようにあくせく暮らしている人間に目をつけた理由が分からない。僕に関連して詐欺師に目を付けられそうなのは、父が韓国に所有している財産絡み以外には考えにくいから、やはりその線かもと思うと、僕がその種の輩に適切に対処できそうもないあの国、そこに残された問題処理の困難さを今さらながらに痛感せざるを得ず、ますます気が滅入ったものだった。

3.再びの怖気と酒飲み同士の気遣い
 受話器を置くや、すっかり忘れていたそうした記憶が一瞬のうちに蘇ってきた。だから当然、警戒心が兆したのだが、逆に一度よく似たことを経験し、免疫ができているからなのか、何だって後学の為に、という好奇心が怯みに勝ったわけである。

 とはいっても、面倒に巻き込まれる不安が次第に募ってくる。それに、電話での一方的な話し振りを想うと、それが電話ではなくて実際に対面となると、ひどいことになるかもしれない。都心の店であの大きなだみ声でがなり立てられると、恥ずかしさのあまりもっぱら受身になって、その場しのぎを繰り返しているうちに相手のいいなりになってしまいかねない。

 そんな重い気分を持て余しながら、スクールバスに乗り込むと、親しい先輩同僚の顔が目に入った。酒飲み友達でもある。少しは躊躇ったが、これ幸いと誘いをかけた。妙な話で申し訳ないのですが、ちょっと付き合って助けてくれませんか、と。

 いくら調子のいい僕だって、誰にでもそんな付き合いを求めるわけにはいかない。普段なら関係の密度を考慮して、それなりに選ぶ。それにまた、その先輩、どちらかといえば、恥ずかしがり屋で人見知りするタイプだし、このところ、いろんな問題を抱えて、元気がない。案の定、あまり気が進まない様子。僕はその雰囲気を見て取りながらも、「もしよかったら」という出だしの言葉の舌の先が乾かないうちに、追い討ちをかけた。「少しだけでいいんです、相手してくれませんか。そのあとで、愉しく一杯を!」と。先輩、そこまで言う僕のすがるような気持ちを斟酌してくれたのか、ついには「お供しましょう」と言ってくれた。

 僕と彼は、もちろん二人とも酒好きということもあるのだろうが、性格が大きく異なるからかえって気楽ということもあって、折に触れて杯を交わし、愚痴をこぼし合ったり励ましあったりしながら、中年の受難の時代をしのいできた。ところがこのところ、とりわけ先だっては、飲み方がまずかったのか、或いは、二人ともいろんなことで屈託を抱えていたからなのか、限度を越した酒の常で、少々まずい別れ方をしてしまったという事情もあった。そんな時には、こわばりが傷痕として固まってしまわないように、早めに酒で溶かしてしまわないといけない。そのためにも、そろそろ一緒に愉しく酒を傾けねばと思っていたこともあったから、ちょうどいい機会だったのかもしれない。長年の酒の付き合いで培われた阿吽の呼吸というものがある。だらしない酒飲みではあっても、それなりの微妙な気遣いを育んでもいるのである。

4.対面
 さて、初対面の上に写真も見たことがないのだが、電話では、僧侶特有の袈裟懸けで笠をかぶっているとの由で、都心の繁華街、とりわけビジネス街では異様な風体のはずだから、見つけるのに手間取る心配はなかった。しかし、約束の時間より早くついて待っていると、ますます気が重くなってくる。そこで、念のための「保険」を考えつく。1時間後には仕事で別のところへ駆けつけねばならないという仕事話をでっち上げて、先輩と口裏を合わせるなどという姑息な策も用意して、これで準備万端整った。

 すると、その「密談」が終わるのを待っていたかのようなタイミングで僕の携帯電話が鳴りだした。一瞬、ひやりとする。例の声が、「待ち合わせの場所に近いはずの公衆電話にいるから、探し出してくれ」と言う。こんなにわかりやすい待ち合わせ場所も探せないのか、それにそんなに近くなら、こんなに大きな声を出さなくとも、などと理屈に合わない難癖を心中で呟きながらも、ともかく探し出さねばならない。なるほど、待ち合わせた駅構内から出たところにある、夜行バスのターミナル近くの公衆電話の傍に、笠をかぶり、たくさんの荷物を左右に控えて立っている僧侶がいた。

 近寄っていくと、先方の顔に笑みが浮かぶように見えた。駆け寄ってきそうな気配もあったので、それを手で制した僕の顔にも、まるで久しぶりの友人にあったような表情が浮かんだはず。但し、別に無理してではなく、このところ、お客さんの相手をすることが多くて身に着けたものなのか、或いは、久しぶりに会った昔の友達がよく言うように、年を取ってすっかり丸くなったせいなのか、人と会うと、自分でも不思議なほどに笑みが浮かぶようになったのである。

 朝の電話では、僕の携帯電話番号を、近くの誰かに口伝えで書かせていた様子だったから、当然、連れがいるものと思いこんでいたのに、そんな様子の人が見当たらない。そこで、お連れはと尋ねると、「菩薩(ポサル)」が荷物をロッカーに預けに行っているから、少し待ってくれという。とその時、和尚さんの口から、仄かなアルコールのような臭いがした。相当な酒飲みの僕でも素面の時には、他人の口からアルコールの臭いが立ち上るのを不快に思うものなのに、僧侶の口元からほのかに匂うそれは何か甘い味が混じっていそうな奇妙な臭い。僧侶が昼日中から酒を!などと反発も生じなかった。初めに抱いた「カモられるのでは」という不安がここで、現実感を増したというような感じもあったが、それよりむしろ、酒を飲まない人を相手にするのが苦手な僕としては、安心したというのが正直なところだった。

 それに勇気を得たわけでもないのだが、何でも召し上がりますか、と尋ねると直ちに、なんでも結構、と実に元気な声。さらに、薬酒(ヤクチュ)はいかがですか、と付け加えると、またしても、何だって結構、と屈託のない返事。そのお墨付きを得て、気楽な居酒屋を選べると大いに安心した。

 そこへ「菩薩様」が現れた。50代の半ばくらいか、若かりし頃にはさぞかし美形であっただろうと想わせる。どちらかといえば、ぱりっとしない服装なのに、背筋が伸び凛としていて、気品を漂わせている。両手を胸のあたりで合わせて、かすかな笑みを浮かべながら「アンニョンハセヨ」とおっしゃった。

 じゃあ、軽く酒と食事をしながらお話を、と適当な店を探す。雑踏の中でこんな異様な風体の人と歩くのは少々恥ずかしいし、混雑した店は避けたい。その風体だけではない。先にも記したように、声がすごく大きい。後で分かったことだけど、随分耳が遠くなっているようである。歩きがてら、予め例の保険をかける。「恐縮ですが、1時間ほどしか時間がとれません、この同僚と別の用事に駆けつけないといけないので。」先輩が素早くアシストしてくれる。「なにしろ年度末でいろんな雑用が」と。先方も、「それは残念だけど仕方ないですね、ともかく会えてよかったのだから、少しでも話ができさえすれば」と気持ちよく受け止めてくれて、第一関門は通過した。

5.直感と冗談
 笠を外して椅子にお座りになって対面すると、やはり相当の年輩であることが見て取れる。年齢を聞いてみると、82才、1922年の生まれだとの答え。僕の亡父と同じ年である。ここで奇遇などと喜んでいるわけにはいかないが、それなりの感傷も覚える。生前の父に優しくできなかった後悔といった僕には似つかわしくない心の揺れもあって、ついつい懐かしく優しい気分になってしまう。

 ビールで初対面を祝っての乾杯。和尚さん、直ちに、持参のずだ袋を次々にまさぐり、取り出したのが拙著『在日の言葉』、丁寧にカバーが施されている。それをめくりながら、和尚さん、まくし立てる。この本を書店で見て、心が動いたのだが、そのまま帰ろうとした。ところが、出口で突然に気持ちが変わり、きびすを返して、購入するに至った。パラパラと目を通すと、これはよくある「在日もの」とは違う。そこには何かがある、との直感が働いた。直感には自信があり、それだけを信じて生きてきた自分としては、是非とも著者に会って、自分を突き動かしているものの正体を掴まねばと思い立った。会えてよかった、と。

 僕は、こういう話を「お世辞」として聞き流せる人間ではない。但し、悦びながらも、一方では落胆も。パラパラなんて、きちんと読んでないのか、などと。しかも、そんな内心を胸中にしまいこんでおくような僕ではない。それに、話があまりに真面目なものになってしまうと、途中で逃亡などできなくなるとの危惧も働いた。「じゃあ、きちんと読んでないのですか?それで僕の本の真価など分かるはずもないのでは?」もちろん、僕の顔は笑っている。先方もまた、それを予想以上にうまく受け返してくる。「パラパラでも、私には直感が働く。こんな気分になったのは、20年ぶりくらいだ」と。今度はそれを受けて、僕が切り返す。「そんな有り難い坊様のお話を聞いたら、僕はもう明日にはこの世を去ってもよさそうですね!」相手は、僕の言葉が聞き取れなかったのか、曖昧な顔をしている。 そこで、僕も少し冗談が過ぎたかと考え直し、「菩薩」様に話を向ける。

「こんな方と生活を共にするのはなかなか大変なことなのでは」と。すると菩薩様、ちょっと恥ずかしそうな笑みを浮かべながら、「まあ、その・・・」。すると菩薩様に代わって、「仏」様が僕の冗談をきちんと受け止めてくれる。「私のような人間は他人と一緒に暮らせる人間ではない。コレくらいなものです。実はコレが三人目で、25年前に会って、それ以来一緒に。コレは日本人だけど、並の日本人じゃない。日本の罪科をしっかり受け止めて、我が国の統一の為に献身することを厭わない。半分は韓国人みたいなものです。私の考えていることは何でも理解して、反対することなど一度もない。昔は立派な舞踊家だったのに・・・」

「じゃあ、和尚様は奥さんに足を向けては寝られませんね」、と僕はどこまでも冗談がしつこいのだが、これまた、きちんと受け止められた。「そうそう、私はコレの寝顔を見ながら、毎晩、合掌しています。」その姿をイメージして不謹慎な想像を働かしかけたが、そんなことはお構いなく、和尚の話は転換する。「そうだ、録音を」というや、やおらずた袋から録音機を取り出して、正真正銘のインタビューの形を整える。

 そこで、僕も先輩も少なからず緊張する。予想していなかった事態なのである。そこで僕は、「失礼ですが、タバコを吸ってよろしいでしょうか」と問いかける。和尚は「どうぞどうぞ」と全く頓着する様子もない。韓国の道徳では、年上の人を前にしてタバコを吸うなんてとんでもないということになっており、敢えてそうした礼儀に反したのは、緊張を解いて、自分のペースを保ちたいということもあったけれど、今ひとつは和尚さんをテストするという動機も含まれていた。長幼の秩序を含めていろんな常識に対する距離の取り方を見て、こちらの態度を決めようといったところか。だから和尚さん、僕のテストに見事に合格したわけである。

6.統一と分裂
 自分は東京で生まれ、その後、韓国へ帰ったのだが、元々は咸鏡道が故郷、と改めて自己紹介が始まる。「最近この日本では、あの大日本帝国の亡霊が蘇っていることをひしひしと感じている。今や、日本の大新聞のすべてが右傾化しており、読むに耐えない、と僧侶としては珍しそうなお話。「私は統一がすべてだと思う。もちろん我が国の統一が」と力が入る。「自分は韓国語でも日本語でもいろんなものを書いており。それをいつかお送りするから、どうか読んでください」などとひとしきりの演説の後で、「そうそう率直なご意見を伺いたい」とようやく本当にインタビューが始まる。

 だが、こういう話を、所や相手構わずにまじめくさってやるなんて僕の性に合わない。それに録音に対する猜疑心もある。そこで、僕はまたしてもお得意の変化球。

「僕は統一よりも分裂のほう遙かに好き。統一なんてろくな結果をもたらしはしない。殺し合いさえなければ、分裂と多様性こそ豊穣の源」と、半分本気、半分冗談で話を逸らそうとする。さらには、「和尚様のような統一大好き人間の方々がかえって、いろんな人々を、例えば、奥さんのような善良な人を苦しめているのでは」とまたしても菩薩様に話を向けて逃げ口を探る。菩薩様、その名の通り、またしても、肯定しているのか否定しているのか曖昧な微笑を浮かべ、和尚様に顔を向ける。和尚、「なるほどそういう意見もあるかな、やはり仏文学徒、なかなか皮肉好きですな」と言いながらも、気分を害した様子など微塵もない。しかもうまい具合に、話は僕の得意な私事に向かい始めた。

「二人の間に生まれた息子が今20才で、ソウルで大学に通っている。日本で民族学校を終えた後、ソウルへ送り出した。」それを聞いて待ってましたとばかり、僕は茶々を入れずにはおれない。「その息子さんはこんな父上をお持ちだったら、相当に反発心を密かに隠し持っているのでは。僕だったら願い下げにしたいと思うかも」と厳しく切り込むが、和尚、またしても鷹揚に受け止める。「そういう可能性は十分にあるが、現在までのところ、反抗したことはない。だがいつか、反発するだろう、それはそれでいいことだ」と率直な反応。そしてやおら、質問を僕の同僚に向ける。「この日本で生まれ育った人間として、現在の祖国や日本に対して言うべきこと、言いたいことがたくさんおありでしょう」と。我が先輩、こういう話にはすこぶる真面目。ちょっと緊張したのか、背筋を伸ばして、おもむろに語り始める。要点は二つ。日本人は朝鮮人のことはなにも分かっていない、ということ。もうひとつは、「北」への幻滅。

 自分はかつては「北」に希望を託し、その運動の一翼を担ったこともあったが、そこを訪問して幻滅した、とすこぶる真面目に気持ちを吐露しはじめる。しばらくその話を傾聴していた和尚、「なるほどそのお気持ちはよく分かります。日本ではいろんな悪評が飛び交っており、その中には正しいものもあるが、しかし、「北」、とりわけ自分の故郷は実によくなりつつあることは伝えられていない。私は何度も訪れているから、その改善の実態を目で確認し、体で実感できるのです」と言い切り、菩薩様の方へ顔を向け、同意を求める。菩薩様、ここで始めて実に明快に賛意を述べる。「たしかにそうです、良くなっていますよ」と。

「なにが、具体的にどういうところがよくなっているのでしょうか?」と反論を試みたが、そういうところへ話を持って行くと厄介なことになりかねない、と自制心が目覚める。そもそもが、こうした話を酒席でするのが苦手である。それもこんなに年の差があって、短時間で話が通じるはずもないと思っている(和尚さん、ご免なさーい!)。そのうえ、周りにはサラリーマンの姿が目立ちはじめている。同僚同士の愚痴や上司の悪口や、仕事の話が酒の勢いを借りて盛り上がっているところへ、こんな場違いな話がそれも大きな声で飛び込んでくれば、興ざめになりかねない。僕はこうしたよけいな心配をするのが殆ど病的なほどなのである。そこで、またしても冗談に逃げこもうとした。

「僕は政治は大嫌いだし、大きな問題に頭を悩ませる余裕などありません。自分の小さな世界で、人を理解し、自分を理解しようとする努力以上に貴重なものなんてなにもない、そう思って生きています」と話を切りあげようとする。和尚、ここでもなかなかの人。こちらの意志をきちんと受け止めくれたようで、その話は沙汰止みとなった。「貴方は仏文学を勉強されたはずで」とまたもや拙著に話を転換し、そこに記された僕の経歴を指でたどって見せ、仏文学について話して欲しいと言い出す。「僕はそんなもの、とっくの昔に放棄して、今や全く興味がないし、昔なにをやっていたかもすっかり忘れてしまいました、ご免なさい」と言って切り抜ける。

 すると、和尚さん、ずだ袋からまたしてもなにやら取り出した。それは手書きの原稿のコピーで、日本語もあれば、韓国語もあって、小さな文字がアリのように密集している。

「こうした原稿が幾つかの本になっており、寺に帰ればすぐに送るから、こちらも書いたものがあれば、どんどん送ってもらいたい。それに是非とも、お寺を訪問してもらいたいと」繰り返す。僕は「そんな余裕のある生活をしているわけではなくて、気の向くまま間に旅行するなんて夢のまた夢。せいぜいが、夏の休みを利用して、一日二日が関の山」と答えると、「いや、すぐにでも、遅くとも5月に来て、何日でも気の済むまで滞在してもらいたい」と、これまた繰り返す。そろそろ引け時と考えた僕は、テーブル上に残った料理を勧め、和尚様、菩薩様、思い出したように、その勧めに気持ちよく応じてくれた。こうして、なんとか一時間の対談が終わった。

 大阪に不案内そうなのでバス乗り場への道を案内しながら同道していると、その途中で和尚様、またしても何かを思いだした様子で立ち止まり、ずだ袋をまさぐりながら、少し待ってくれと言う。取り出されたのはカメラ。衆人の行き交う地下街で、代わる代わるカメラマンの役をしながら、何度もカメラの中の人となり、ついに、別れを告げ、たくさんの荷物を抱えて去っていくお二人を見送ったのだった。

 僕ら二人の酒飲みの肩の荷が下りた。早速、次の仕事へと向かった。つまりは気楽な居酒屋にである。近頃流行の、若いアルバイトを使い、創作料理などとしゃれ込んだ店ではない。手慣れたおばちゃん、おっちゃんがテンポ良く客を迎え、時には冗談を交えながら客を愉しませてくれたり、旬の肴を勧めたりしてくれる安価な店。掛け合い漫才のようなやりとりと酒と肴で、先ほどまでの緊張が解けていき、実においしい酒だった。先だっての二人の気まずい別れなど跡形もなく消えてしまった。和尚、菩薩様、御両人の後味のいい印象のお陰でもあったのだろう。 それで終わりかと思っていたが、そうは問屋が卸さない。

 数日後、厄介な用事を抱えての韓国旅行から戻ってみると、拙著の出版社からメールが届いていた。なんと、僕らと別れた翌日に、あの和尚さん、富士山に戻ったのではなく、東京へ直行し、なんとその出版社にまで足を延ばしたというのである。何かのついでに立ち寄ったのか、それとも、その出版社を訪れるためにわざわざなのか、よくは分からない。もし後者であるとすれば、これは一体、どういうことなのだろう。ともかく、その出版社の編集者と社長は、突然現れた和尚の迫力に圧倒されたとのことで、それがこの先、どのような軌跡を描くことになるのか、期待が募るといいたいところだが、少々、怖くもある。そしてその怖いもの見たさも作用して、少々愉しみでもある。怖じ気に負けたらこういう機会は得られない。少しは「冒険」もしてみるもののようである。(完)


済州イヤギ、その1

1.イヤギと言えば、最近では韓国で『韓国イヤギ』という本が韓国版歴史修正主義などと物議を醸す一方で、『韓国歴史イヤギ』という実によくできた近現代歴史読み物がよく読まれたりと、「イヤギ」は持てはやされているようなのだが、僕の話がそんな高尚なものであるはずもない。でもこのタイトルには出所がある。韓国で小説家をしている従兄(玄吉彦)の数多い著作の中に、『済州島イヤギ』と題された数巻に及ぶ挿絵入りの済州島の伝説のリライトがあって、それにヒントを得てのことなのである。但し、今から述べるのは実際に起こった話である。少なくとも、僕にその話をしてくれた人の意識においては、実話である。
 ところが、それを僕が聞いた時には、まるで伝説のように聞こえた。そもそも実話と伝説との間に明確な区別ができない場合がこの世に多々あると言うのが、歳をとるにつれての僕の実感でもあるのだが、まあ、そうした曖昧でいい加減な話なのである。ともかく、イヤギの本来の意味とずれているかもしれないが、僕の語感ではイヤギというタイトルがすっぽり当てはまるような気がして、今後この種のものを継続してメモしようと思い立ち、その第一弾である。

2.さてのっけから連想ゲームによる脱線。イヤギで思い出したのが、前々から気になっているヤギのこと。
① 僕が生まれ育った地域に散在していた「在日」の集落には随所にヤギがいたことをふと思い出したのは2年ほど前のこと。50年以上も前のことなのに、いったん思い出すと、それは一体何であったのか、折に触れてそれが気になる。そこで、いろんな人に尋ねてみたのだが、その探索の成果はいまだはかばかしくない。それほど真剣に調査したわけではないから、当然のことなのだろうが、だからこそ、今でも気にかかっている。

② ある人の話では、大阪と京都の間にある桂あたりからヤギが大阪に運ばれて来たらしいというのだが、それなら、その桂(おそらくは桂川の河川敷なのだろうが)には何故ヤギがそれほど大量にいたのか、また、それは生きたままどのようにして運ばれたのか。当時、トラックで運ぶなんてことがありえたのか、或いは、紐で引っ張って運んできたのだろうか。そしてそのヤギはいったい何のために飼育されていたのか。それは日本人、朝鮮人を問わず、重宝されていたのか。

③ ヤギは「在日」の集落で何故必要とされたのか、つまり食用だったのか或いは他の用途があったのか。「在日」の集落で目立ったというのが僕の記憶なのだが、それは「在日」の集落に固有のことであったのか。「在日」の集落に固有のものだったとすれば、それは韓国の習慣の延長なのか、それとも「在日」に固有の事情のなせる業なのか。

④ もし韓国でヤギを飼う習慣があったのだとすれば、どのような利用のされ方をしていたのか。今でもそれがなされているのか。少なくとも僕は韓国でヤギを見かけたことがないのだが、僕は韓国と言っても、済州以外の地方は殆ど知らないのだから、僕の見聞は一般化できそうにもない。

⑤ また日本ではどうだったのか。今、どうなのか。


⑥ ヤギに対する見方は、牛や馬に対するそれとどのような差異があったのか。

⑦ 数年前に一ヶ月間滞在した中国アモイのあちこち(とりわけ海岸付近)でヤギを見かけて驚いたことがあった。そこではおそらく乳を利用しているようであったが、ヤギの飼育とその利用のされ方には、アジア全域、あるいは世界的の規模での共通性があるのだろうか・・・

といったわけで、この連想ゲームによる脱線も実に曖昧な話なのだが、どなたか、このあたりの情報をご存知の方はいらっしゃいませんか。

3.さてようやく今回の本題に。
 話は10年以上も前に遡る。当時僕は、父が生まれ故郷の済州島で惹き起こした問題を解決するために、父母の済州島通いに重い気持を抱えて同行していた。だが何をするでもないし、できるわけでもない。そもそも、母が「一切口出しはならぬ、ただひたすら目に焼きつけておいて、父の死後にお前が処理しろ」ときつく命じていたからである。だから、いろんな辛い場面を目撃しながら、自分が将来解決すべき問題が一筋縄ではいかないことを日々知らされるばかりだった。そしてあげくは、ほとほと神経が参り、済州島に降り立つ度に、神経性の下痢が始まるほどになった。

 そんな済州滞在中のある日、親戚の女性が母を訪ねてきた。母の従妹の娘(つまりは姪)にあたるその人と母が話しているのを横でぼんやりと聞きながら、不思議な気分に浸ったことがある。そしてそれから10年以上も経たつい先日、実家を訪れて母と四方山話をしているうちに、いきなり母がその話を蒸しかえしたので、今度は忘れないうちにそれをメモしておこうと思い立った。遅まきながら始めた僕の済州学の一環というわけなのだが、このどこが「学」なんだとお叱りを受けるに違いない。でも、僕にとっての「学」とは日常を生きる人のため息に耳をすましながら、自分の頭でっかちを修正することくらいが関の山というように居直るしかなくて・・・
 
① 主人公は済州島のある一族の宗孫である。相当に裕福で、その親も相当の学識、つまり、儒教的規範を身につけた人である。主人公は宗孫にふさわしく、学ばかりか、偉丈夫で、地域代表の相撲の選手として済州島の大会などにも出ていたという。

② その人が結婚して数人の子どもを得てからの話である。

③ 急に病に伏して、病名どころか原因も定かでなく、いろいろと医者に診てもらい、薬を試してみても一向に埒が明かない。

④ その人は次第に誰とも会うのを嫌がり、家族でさえも部屋に来るのを拒むようになり、あげくは、家を出て、実弟の家の離れに閉じこもった。母屋と離れの間に糸を張って、それを振動させると御用を伺いに家人が訪れるという形で、全くの世捨て人の生活を送るようになった。そんなことが10年ほど続いたらしい。

⑤ 妻をはじめてとして周囲の人は、鬼神に取り憑かれたに違いないと、最後の頼みの綱で、巫俗信仰のお祓いをしてもらいたいと思ったが、当人の父親は儒教の考えが強く、迷信だと頑として許さない。そうした巫俗信仰は「学のない女・子供」の世界であって、とりわけ儒教的「学」のある男共はそれを唾棄したのである。

⑥ 相変わらず病状は全く好転せず、ついには父親も息子の嫁の執拗な懇請を受けて、神房(巫俗信仰の祭者で、一般的には巫堂(ムーダン)、済州語では神房(シムバン)を呼んでのお祓いをすることを了承した。

⑦ 数日間に亘るお祓いの間、病人は自分の部屋(つまり弟の家)には戻らず、そのお祓いの現場で寝食をしていたのだが、神がかりとなった神判は、その病人に対して、「お前は何かを隠している。何かの霊がお前にとり付いている。それがお前の病気の原因だ」と追及し、病人は誰にも隠していた過去のある出来事を披露する。

⑧ ハルラ山にあるお寺に参った時の話である。当時から10年ほど前、今からすれば60年ほども前で、たぶん、植民地時代のことだった。当時はバスなど、ましてや車などあるはずもなくそこへ行くには一日以上の徒歩の行程だった。但し、何故にして彼がお寺に行ったのか、そもそも仏教徒だったのかどうかといった詳細は全く定かではない。

⑨ 途中で雨に降られて、その近くにたまたま見つけた自然の洞窟の中で雨宿りをしていると、何かが眼に入った。お墓のような石(あるいは木かもしれない)で、墓碑銘が入っていた。洞窟の中に何故墓が、何か特別な意味でもあるのかと怖くなって、それを誰にも口外しないと心に誓い、それを実践してきた、と言うのである。

⑩ それを聞いた神房が、その墓の霊の祟りだと言い、その墓碑銘の人物の成仏を願うお祓いをした。ところが、期待に反して、病状が好転するなんてことにはならなかった。

⑪ そこで、病人の妻は藁にもすがる思いで、夫が口にした墓碑銘の名前を頼りにして、済州島の四方八方を探し回り、ついにはその墓の人物の遺族を探し当てたところ、その家ではその墓とは別に新たな墓を作っているとのことで、その墓に丁重にお参りをしたのだが、その際に思わぬ事実を知った。夫が記憶していた墓碑銘の名前、それは韓国語の「音」としては正しいのだが、漢字表記では一字、間違っていたのである。

⑫ その新情報を持って改めて神房に相談したところ、今度は正しい名前でその霊に対するお祓いの儀式をした。するとそれ以降、病人の症状は次第に回復しだした。完全とはいかないが、歩く程度のことは出来るようになり、妻がいる家に戻って暮らし始めた。

⑬ とはいえ、家業の農業をするほどにはならかった。しかしそれ以降は、村人の墓の場所やさまざまな儀式の日取りの相談に応ずる風水師のようなこともしながら、集落で信頼されて余生を過ごした。

⑭ ただし、既に傾いてしまった家勢を回復するまでに至らずに、その子女などは相当に苦労するようになって、上記の娘なども苦労に苦労を重ね、さらには、嫁いでからも、何度も日本に出稼ぎをしてなんとか生計を維持する羽目になった。
 
4.さてこの種の話をどのように理解するか。

 済州で初めて聞いた時に、母の相手をしていたのが、冒頭でも述べたように、母の姪で、「ヨンジョ」と母は呼び、日本に何度も密航やオーバーステイで滞在し、暇を見つけては我が家を訪れてきたから、僕とは顔見知りであった。「ヨンジョ」というのは標準語ではおそらく「英子(ヨンジャ)」であるはずで、僕らは「ヨンジャ姉さん」と呼んでいて、大柄で農婦そのものといった頑丈そうな体格、そしてなんとも屈託がない人であった。上記の話の主人公の実の娘であり、そのお父さんが相撲の選手で名を馳せたというのも、さもありなんといった外見の人である。

 その二人が韓国語、それも済州島訛りを存分に使って昔話に花を咲かすのを僕は横でそれとなく聞いていたのであった。
母はその主人公の母親(つまり母からすれば叔母)から聞いたらしく、他方、ヨンジャ姉さんにとっては、実の父のことで実際に体験したに違いないのだが、まだ彼女が幼い頃の話である。というわけで、どちらも一次的な情報というよりは、二次的、或いはその後、主人公の周辺で何度も話されていくうちに集合的記憶となったといった気配が濃厚である。つまりは、物語に昇華したからこそ、僕の「イヤギ」の語感にピッタリというわけである。

 母が父に同行して済州通いをしていた頃、1960年代から70年代にかけての頃に、つまりは、その物語が実際に起こってから既に30年も後になって、主人公の母親が昔の苦労話をするついでに、跡取り息子の妻に対する感謝の気持を、すごく久方ぶりに再会した母に伝えたとのことである。「あの嫁のおかげで、息子は生き返った、あの嫁でなければ、とうてい我慢できなかっただろう」というわけである。

 母はその話を記憶をまさぐりながら自分のバージョンで話し、ヨンジャ姉さんもまた、昔の記憶をまさぐりながら、「ええ、そうでした、そう・・・」などと相槌を打ちながら、時折、夢の中に落ち込んだかのように言葉をとぎらせたり。

 そんなやり取りだからこそ、横合いで聞いている僕にもすごく幻想的でいて同時にリアルに聞こえたのだろう。二人とも済州島訛り丸出しで、それを僕が完全に理解できるはずがないのに、僕はその時、そうした言語的障害など全く感じずに、その物語世界に没入していた。

 ちなみに、なんでそんな話になったのかと言えば、母にとっては済州滞在が辛いことばかりだから、そんな昔話でもって、気持を現実の問題からほんの瞬間だけでもそらしたかったのではなかろうか。そしてそれを傍で聞いている僕もまた、ひと時でも済州での無力な自分の現実を忘れさせてくる話に入り込んだのだろう。

 ただし、不思議なのは、その話だけではなかった。当時の僕にとっては、済州島の身内にまつわる問題ばかりか、済州島の社会自体が得体のしれないものに映っていた。僕などには太刀打ちできないメンタリティと社会に一時的に身を置くに過ぎない僕としては、この話の不可解さが済州社会を理解する糸口のように思えたのではなかったのだろうか。

 その一方、先だって母が僕に話したのは大阪の僕らの実家で、安定した日常の場であって、それだけに幻想がつけいる隙間は少なくなる。それに、話しているうちに次第に朝鮮語それも済州訛りのそれが強くなってくるとしても、やはり中心は日本語である。それになにより、信憑を分かち合い、その信憑性を高める対話者がいない。あの掛け合い、そして絶妙の間といったものがない。

 だから「イヤギ」の面白さは半減していたし、だからこそ今回これを書くにあたって、箇条書きにせざるを得なかった。「語り」といったものは、場、互いの関係、そして、掛け合いなどが絡まってこそ、面目を発揮するようで、それを文章で表現しようとすれば、相当の工夫が必要なわけなのだが、今の僕には手に余ることというわけで・・・
 
 因みに、この種の不思議な話は、韓国在住の従兄(玄吉彦)の小説の中でも頻繁に出てくる。例えば、彼の長編小説のひとつで韓国の大きな文学賞を授けられた『女の江』などは、そうした不思議さが横溢している。シムバンの娘が、その運命から逃れようともがき、それがゆえにますます解放以後の済州島の現代史に翻弄される物語であり、僕などは余りにつらくて何度も投げ出してしまったのだが、そうした出口なしの閉塞感というものは、済州島の現代史に通底しているような気もする。とりわけ、僕が亡父の問題に翻弄されて済州に滞在していた頃の心象風景が・・・

 歴史と伝説と実話の線引きはどのようにして可能なのか。それらを総合してものを書くことがどのようにして可能なのか・・・

追記1(2009年10月10日)

 先日またしても母と話していると、済州島の親戚の近況話が次々と。叔父(父の弟)と従兄(父の姉の次男)が重病で、もう長くなさそうといった話など。
 そしてそれに関連して、葬儀に参加するか否かという心配事が母に取り付いているようで。とりわけ叔父のそれに関して。一時は唯一の頼りにしていたのに、いまやその家族は母にとって、微妙な心遣いが必要になったらしく、それでも葬儀となると、日本からも行くべきではないか、でも行っても、歓迎されないかもしれないし、下手をすると不愉快な思いをするかもしれないなどと心配はつきず、僕の意見を聞きたがる。僕としては、大した意見などあるわけもなく、母の意思に従うとしか言いようがない。そこで、母を元気づけるためにも、「したいようにして、文句が出ても無視すればいいのでは」と付け加えると、母も少しは安心した模様で、話は別のことに、つまり「ヨンジャ姉さん」のその後の話になった。

 彼女が亡くなったと言うのである。随分以前から癌という診断を(何処の癌なのか分からない)受けながら、治療を受けていそうにないので、電話で叱っても、はかばかしい返事がなかったらしい。
もともと、どこか「抜けた」感じで、何だって、なるようになるといった雰囲気を漂わせていた人なのだが、癌の診断を受けて、治療を受けないなんて、一体???

 子供達は全員、アメリカに移住しており、一人、畑仕事を続けていたのに、ある日に限って姿が見えないのを不審に思った近所の人が、家を訪ねても不在。そこで、改めて畑を見回っていると、ヨンジャ姉さんが倒れているのを発見したのだが、その時にはすでにこと切れていたというのである。人生にもいろいろあるようで??? 

追記2:ある知人のメール(2011年5月)

 おはようございます。原稿ありがとうございました。ヨンジョ姉さんの死、ある意味で、すばらしくないですか? 
かのボブ=マーリーも治療を拒みました。彼のファンは残念がりましたが、治療を受けることが正しいとは限りません。

追記3:その知人への返信メール(2011年5月)

 駄文を読んでいただいたようで、ありがとう。おっしゃる通りで、僕もそう思います。父が多発性の肝臓がんで、小さな癌をつぶしても、癌はどんどん抵抗力を増して新たに次々と再生するし、その治療はひどい痛みを伴うので、母は兄に治療を一切するなと、きつく言ったのですが、医師である兄としてはそうもいかず、それに父は兄を絶対的に信頼していたから、その痛みにひたすら耐えて生きようと懸命でした。ある時は、その治療が、何を間違ったのか、健康な胆嚢をつぶすようなことになって、激痛に苦しんでいたのに、父は兄が信じている同僚の医師を信じて、耐えて、またもや同じ治療を繰り返していました。今では、兄は、あの時、母のいうことを聞いていたらよかったのに、と後悔の言葉を漏らしたりもします。

 ヨンジャ姉さんの場合は、彼女のお父さんの話の延長で、近代的合理主義とは全く異なった時空に生きていた人だなあという印象があって、そのあたりがうまく書けなかったようですね。それはおそらく、僕が近代合理主義というか、科学主義にどっぷりとつかっている一方で、どんなことをしても生き延びたいという我執が強いこともあって、ヨンジャ姉さん父子のイヤギを、物語世界に封印して現実世界に侵食しないようにしたいという底意があった結果なのかも。(完)

注:付記をも含めて、この物語の主人公の娘である人物に関しては「ヨンジャ」「ヨンジョ」という二種類の呼称が使用されているが、それは誤記ではなく、各人がその人物をどのように捉えているかを表している言わば主張ともみなしうるものなので、統一すべきではないと考えた結果である。