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韓国の反日感情について

2024-06-18 21:31:27 | 話の種

「韓国の反日感情について」

韓国はなぜあのように反日感情が強く、またしつこいのか。
今更ながらのテーマだが、こちら側の感情問題は抜きにして、客観的にその理由を整理してみたいと思った。
(「儒教/朱子学」「恨」「剝奪感」のことが分かると、その理由もよく分かる。)

よく言われるのが、
・植民地時代の被害
・戦後賠償問題
・謝罪問題
・反日教育
・反日感情の政治利用
・儒教/朱子学思想の影響
・恨(ハン)の概念
・剝奪感(バクタルカム)の概念

[植民地時代被害]

日本の統治時代(1910~1945)に日本は台湾と同じように韓国でもインフラ整備や工業化の促進、近代的な教育制度の導入など、韓国経済の基盤強化、近代化の促進などを行ってきたが、問題はそれはあくまでも植民地政策の一環としてのもので、また創氏改名や軍部の横柄な言動などもあり、当時独自の文化を持っていた韓国としては、これらは自国のアイデンティティを抹殺するもので屈辱でしかなかったということ。

[戦後賠償問題]

これは日本と韓国との間での認識の違いによるところが大きい。
「慰安婦問題」や「徴用工問題」などは、韓国側は「強制的にさせられた」との認識だが、日本側には「自発的なものもあり報酬も支払われている」との意見もある。
賠償問題については、日本側は解決済みとしているが、韓国側は国家間ではそうであっても、個人賠償は済んでいないとの認識である。

これらについては、実際のところどちらが正しいのか当方には分からない。歴史的判断を待つしかないが、多分結論は出ないだろう。

[謝罪問題]

これについては、日本側は何度も謝罪していると述べているが、韓国側は充分ではないとして納得していない。

日本側の説明は次の通り。

1.1965年の日韓基本条約:
この条約により、日本は韓国に対して経済協力金として無償3億ドル、有償2億ドル、民間借款3億ドルを提供。この時点で、日本は「完全かつ最終的に解決された」との立場を取っている。

2.1993年の河野談話:
河野洋平官房長官が慰安婦問題について「お詫びと反省の気持ち」を表明。

3.1995年の村山談話:
村山富市首相が「植民地支配と侵略」に対して「痛切な反省と心からのお詫び」を表明。

4.2010年の菅直人首相談話:
日本の統治下にあったことについて「お詫びと反省」を示す。

5.2015年の慰安婦問題に関する日韓合意:
安倍晋三首相が「心からお詫びと反省」を表明し、日本政府は1億円の基金を提供。

これに対して、韓国側の言い分(不満)は、

・誠実さの欠如:
日本の謝罪が公式なものとしても、本心ではなく誠実なものではないとしている。
これは、その後も日本の一部の政治家や公人が過去の歴史を否定する発言をしており、これらが信頼を損なう要因ともなっている。

・法的責任と補償の不徹底:
1965年の条約で「完全かつ最終的に解決された」と述べられていても、それは国家間の問題で、個人賠償の問題はまだ完全に解決されていないとの見解で、韓国大法院もこれを支持する判決を下している。

教育と記憶の継承:
日本国内の教育やメディアで、戦争や植民地支配に関する歴史が十分に扱われていないとして、これを徹底するように要求している。

これを見たら、日本人としては「何を言ってんだ」と思う気持ちが先に立つが、ドイツの例をみると、ドイツは戦争責任を明確に認め、学校の歴史教育でも過去の過ちを繰り返し教えている。
ドイツのホロコーストと日本の戦争責任との違いはあるにせよ、やはり日本の場合加害者意識が薄いような気がする。
戦後生まれの私たちとしては、あれは全て軍部がやった事と片づけてしまいがちだが、多くの国民がそれを支持していたことも事実で、同じ日本人として過去を客観的に見つめなおすことは必要と考える。

このような場合、まずは被害者の言うことに耳を傾けることだが、被害者の言うことを全て受け入れる必要はないが、その心情に寄り添うことは大切だと思う。

*例えば、米国の広島・長崎への原爆投下だが、「戦争を終わらせるためにはやむを得なかった」という意見があるが、これが「必要だった」と居直られると、我々日本人としては腹が立つ。犠牲者についてはどう思っているんだと。加害者の論理があるにせよ、被害者の心情を無視或いはないがしろにすることは許されるものではない。(いきなり人の顔をひっぱたいておいて、お前のためを思ってしたことだと言うようなもの。)

(とは言え、同じことを何時までも何回も執拗に繰り返されると、こちらとしては、もういい加減にしてくれとの気持ちが湧いてくることは否めないが。)

[反日教育]

方法は「歴史教科書」「抗日記念日」「慰安婦記念館」「独立運動記念館」「抗日映画やドラマ」など様々だが、目的はナショナリズムの高揚ということ。
事実を淡々と述べるだけならよいが、煽る形で執拗に繰り返されると反発心の方が強くなる。
これでは友好関係を築くことは難しい。

[反日感情の政治利用]

韓国の政治家は、国内の支持を得るために反日感情を利用することが多い。
特に選挙前や政治的な危機の際に反日的な姿勢を強調することで、国民の関心を内政問題から逸らし支持を集めようとする。
どの政権も末期になり支持率が低下してくると、必ず反日を言い出し国民を扇動するのが韓国政府の常套手段である。

[儒教/朱子学思想の影響]

儒教は「五常」「五倫」を唱え、「五常」(仁・義・礼・智・信)を守れば「五倫」(父子・君臣・夫婦・長幼・朋友)などの人間関係が上手くいくとの考え方。

*「五常」

「仁」:人を愛し、思いやること。(「五常」の中でも特に重んじられている)
「義」:利や欲にとらわれず、世のため人のために行動すること。
「礼」:謙遜し、相手に敬意を払って接すること。(「仁」を具体的な行動にしたもの)
「智」:偏らずに幅広い知識や知恵を得て、道理をわきまえることで、善悪を判断すること。
「信」:人を欺かず、人からは信頼してもらえるように常に約束を守り、誠実であること。

朱子学は儒学から派生したもので、考えの基本は「大義名分論」で、君臣・父子の別をわきまえ、上下の秩序や礼節を重んじるということ。
特に身分秩序に関しては、自然や万物に上下関係・尊卑があるように、人間社会にも同じように上下関係や、差別があって然るべきという考え。
これを君臣父子の別といい、「君主の言うことを臣下は絶対聞くこと」「父の言うことを子供は絶対聞くこと」を意味する。

*儒学は家族を中心とした父母兄弟、さらには友人君子を大切にするところに重きを置くのに対し、朱子学では上下関係を大切にすることに重きを置いている。

これの何が問題で、反日感情に繋がるのかということだが、呉善花氏は著書の中で次のように述べている。
(「韓国を蝕む儒教の怨念: 反日は永久に終わらない」 (小学館新書))

(要旨)「韓国・北朝鮮の理解に苦しむ言動の大部分は、「李朝500年」の伝統に深く根差しており、韓国・北朝鮮のおかしさを理解するには李朝を知ることが不可欠。
李朝は、それまで仏教文化を誇った高麗王朝にとって代わるや、儒教=朱子学のイデオロギーを持って、完璧な儒教国家の建設を目指した。国家ぐるみの儒教への総改宗が行われ、朝鮮半島の政治・社会・文化・習俗は、儒教=朱子学に基づく倫理・価値観に沿ったものへと変質していった。」(Waka氏の書評の部分を抜粋)

つまり、韓国では李朝時代に儒教の影響で「何よりもまず道徳が上位にある」とされ、「情が何よりも優先される」という社会になってしまったということ。(情が法やルールよりも優先されるということ。)

このWaka氏の書評は、私が韓国について常々思っていたことを的確に要約してあるので、以下抜粋して引用させてもらう。(いささか偏った断定的な部分もあるかも知れないが。)

「朝鮮半島はその地勢から常に外敵の侵入に脅かされる状況にあり、また文化的にも政治的にも圧倒的な中華帝国の影響を受け続けてきた。李朝は朝鮮半島の歴代王朝がそうであったように、独立国ではなく、中華帝国を宗主国とする属国の一つだった。徹底して中国に礼をもって仕えることで国土の安泰が確保されたので、大国には臣従すべしという考え方(事大主義)が李朝外交の根本を形づくった。
この事大主義が国家の価値観として定着した李朝は、やがて自らは中国と文化的同質性を持った「小中華」であるという自負を持つようになっていく。中華主義の世界観では、中華から文化的な距離があればあるほど野蛮と見なされるので、朝鮮半島諸国は、日本を自らよりも劣った野蛮な国として蔑視するようになった。」

(*更に私見だが、韓国には古代日本にいろいろと中国など大陸の文化を教えてやったのは俺たちだという自負があるのかも知れない。)

「儒教では「道徳を天の法則とする普遍主義」としたため、韓国では「法よりも道徳が上位にある」とイメージされ、裁判でも政治的決定でも、「情が法より優先される」という悪弊が社会に蔓延した。だから、他国との間で決まった約束事を勝手に破ったり、後でルールを自分たちに都合よく変更したりすることなど意に介さないのである。」

「「韓国併合」は国際法上合法だったが、韓国は「無効、不法」を主張し続けている。従って日本の韓国統治は不法行為であり、法律に基づいて戦時に日本企業で働いた朝鮮人労働者の問題に過ぎないものが、不法な「奴隷労働」を強いられた被害者個々人の問題という人権問題に化けてしまうのである。慰安婦問題も「人道に対する罪」だとして断罪活動をしている。「性奴隷にされた」「多くが殺された」といった明らかに事実でない話が世界中で広められている。」

「儒教文化の社会では、メンツを保つことが重要で、メンツを保つためなら嘘をついても恥にならない。メンツを保つ、威信を保つために、「虚言と欺瞞」が蔓延していった。中国や韓国では、国家や家族にとって都合の悪いことや不名誉なことは隠すのが正義であり、そのために嘘をつくのは正しい行為なのである。
また儒教では、高い徳を持って品位ある生活を送ることが人生の目的であり、そのためには汚い儲け方をしても構わないという考え方で、詐欺や贈収賄が習慣化している。論文の盗作、試験の不正、偽造も模倣も李氏王朝以来の伝統と言っていい。」

[恨(ハン)の概念]

(定義)
「恨(ハン)」は、朝鮮文化においての思考様式の一つで、単なる恨みや辛みだけでなく、無念さや悲哀や無常観、悲惨な境遇からの解放願望など、様々な感情をあらわす朝鮮語の概念。
(「序列で下位に置かれた者の不満の累積とその解消願望」との説明もある)
しかし実際には、人を恨めば自身が楽になるという意味で使われる事が多い。(Wikipedia)

韓国大統領を務めた金大中は、その著書のなかで次のように述べている。(「金大中哲學與對話集」)

「韓国の文化は「恨」の文化です。私たちの民族は憂患と苦難の民族であり、「恨」は挫折を味わった民族の希望、「恨」は挫折を味わった民族の夢を実現するための準備なのだと思います。確かに私たちは、歴史のなかで「恨」とともに生きてきたことは事実です。…しかし、常に自分自身を慰め、励まし、その結果、未来に向かって生きていくことができた。私たちの民族は、畑の雑草のように、踏みつけられ、そして蘇る。 …韓国人は2000年間、文化的アイデンティティを捨てなかった。…韓国人は、大きな苦難に耐え、あらゆる方法で忍耐してきた。」(Wikipedia)

[剝奪感(バクタルカム)の概念]

(定義)
「剝奪感(バクタルカム)」とは、「当然、自分のものであるはずのなにかを、奪われたとする感覚」のことで、韓国語にしかないと言われている言葉。(心理学関連の専門家などは、「相対的剝奪感」と言う)

作家のシンシアリー氏は、著書のなかで次のように述べている。(「韓国の借金経済」(扶桑社新書))(要点のみ抜粋)

「この剝奪感の核心は、実際に持っている権利や資格ではないにもかかわらず、いま自分がそれらを所有していないのは、「持っているはずなのに、いま現に持っていないのは、誰かに奪われたからだ」と思っている点です。ハッキリ言って、勘違いです。」

「なにせ、持っていたわけでもないのに、「奪」された(うばわれた)と書く時点で、すでに矛盾しています。「持っていた」に相応するなにかの理由が無いなら、それは奪われたものとは違うし、実際に奪われたことが無いなら、奪われた感じがどんなものなのか、分かってすらいないでしょう。いろいろ不自然です。
でも、剝奪感を訴える人たちの論拠は、実に簡単です。「当然、持っていたに違いない」と信じてやまないからです。そんな人たちに「いや、違うでしょう」と言うと、「なんで人を見下すのだ。お前は悪い人だ」と怒られます。」

「実はこれ、韓国では「民族情緒」とされる、恨(ハン)の基本的な心理そのものでもあります。韓国内では、恨(ハン)の民族だとする主張に反対する人はそういません。優秀な民族なのに、他の勢力、主に日本のせいで、正当に持つべき権利のほとんどを奪われてしまった、そんな民族だと信じているからです。」

「恨(ハン)は、「私が持っているはずの正当な権利を、不当な方法を使った誰かに奪われた」とする心理から始まります。その「誰か」がどこの誰なのかは分かりません。だから、ハンは消えません。」

「このように、恨(ハン)と剝奪感は高い相関関係を持っています。しかし、基本的には「誰が悪いのか」をはっきりできないし、実際に何か出来ることがあるわけでもないので、そのまま抑え込むしかありません。だから、鬱状態になったり、病気になる人も少なくありません。韓国ではこれを、鬱火病、または火病といいます。最近はまったく逆の意味で、ちゃんと抑え込まず何でもカッと怒り出す人を火病と言う場合もありますが。」

 


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