丸山暁の「僕の考えるブログ」

いろんな言葉、情報が世界を駆け巡っている今、僕の頭で、巷のこと、都会と田舎、世界のことを考えてみる。脱構築。

次官殺害小泉被告の罪と罰

2009-11-27 21:11:27 | Weblog
 

今日は白菜を収穫し、わが家自慢の半地下の室に収めました。この白菜は来春までの貴重な野菜となります。

元厚生事務次官夫妻殺害の小泉被告が、「保健所で殺された愛犬チロの敵討ちで、犬を大量に虐殺する悪魔をやっつけた」から無罪であり「動物を虐殺してよい分けを説明せよ」と主張している。

彼が確信犯なのか狂言的演技なのかは分からないが、かれの幼稚な論理をあながち否定できないところもある。もちろん、これは彼の殺人を弁護するものではなく、彼の犯罪は日本国の現行法において裁いて、罰を与えなければならない。

命の大切さは、一体何を根拠にいうのか。そのあたりが結局は人間社会は未来永劫の課題なのである。

僕が小学生の頃、学校の花壇の手入れで先生曰く「花はそのままで雑草を抜きなさい」という指示が在り、僕は「雑草とて花が咲き命あるから生かしておいてもいいではないか」と疑問を呈したことがある。

多分、先生の答は「花は奇麗で、雑草は雑草である」てな答で、納得できなかった記憶がある。

このことには、いまだ釈然としないが、わが家の畑や花壇の雑草は、たとえ奇麗な花が咲いても花壇や畑に咲けば引っこ抜き、草地では可愛い奴と愛でている。

さて、今は、僕の勝手な分類で、同じ雑草、生き物が生かされたり殺されたりしていくが、子供の頃の価値観のまま今あれば、小泉と同じではないか。

小泉被告は、心から、そのように信じているなら、彼の犯罪はさばけても、彼の心は裁けなくなる。

ただ、人間には、人間の命と動物の命と植物の命には、同じ命と言いながら序列をつけている。そうであれば、命の序列、人間とは何か、という問いをもっと子供の頃からやるべきではないか。

命は大事だから大事なのだ、ではいつまでたってもラチがあかない。最近の様々な事件は、命の大切さなどでは解決できない。人間とは、という問いかけを現代人は忘れてしまったのかもしれない。


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