丸山暁の「僕の考えるブログ」

いろんな言葉、情報が世界を駆け巡っている今、僕の頭で、巷のこと、都会と田舎、世界のことを考えてみる。脱構築。

現代美術とサルコジと公明太田

2008-10-31 21:28:03 | Weblog
 

先日紹介した蜘蛛の糸のモビールを切り取って机の前につるして見ましたが、なかなか立派な作品となりました。最近の現代美術はというと、大きな倉庫や美術館の部屋一杯に、レールを引いたり布をたらしたり小石をばらまいたり竹を組んだり・・・映像を映したりして時代批評的なテーマに、屁理屈こねたものが多いが、こういう蜘蛛と葉っぱの織り成す造形を切り取ってみるのも立派な現代美術でしょう。皆さんも、身の回りにある何かsomethingをそっと切り取って、具体的にでも心の中でも、自分だけの芸術作品を楽しんでみてはいかがでしょう。今正に芸術の秋です。なぜ芸術の秋なのだろうか?

現代と言う時代、何もかもがお金や権威主義(権威がお金を呼び込み、お金が権威を生む?)に社会が揺れ動く。今まだやっているかどうか知らないが光と静寂の画家フェルメールが来たとやたら騒いでいる。確かにフェルメールはたいした絵描きだが、それ程画期的な作品だろうか、フェルメールの作品の少なさと、贋作の多さで一時期世を騒がせたから、フェルメールもこれほど有名になったのではないだろうか。かの世紀を越えた世界のダビンチのモナリザとて、ルーブル美術館の大きな壁にちょこんと展示しているのを見たが、「ああこれがモナリザ」てなもので、特に感動したと記憶もない。モナリザはすごいとはやし立て学校でも教え行列が出来るからモナリザはすごくなってしまったので、ダビンチの多くのデッサンにこそ魂をえぐるような凄みを感じることがある。

今度の金融バブル崩壊で、成金相手の売れっ子現代美術家が一気に貧乏画家に転落と言う事態の起こるのではないか。この間の日本のバブル崩壊でも、銀座の画廊がバタバタ潰れました。その後の現代美術は、どうも軽薄漫画チックなものがもてはやされたようですが、やっぱり芸術家、特に現代作家は反社会的で貧乏でなければ嘘です。そういう意味では、僕など必要条件は備わっているのだが、やっぱり世に出なくては作品はただのゴミ?

日本では、どうも煮え切らないウナギ犬麻生太郎(漫画好きの麻生太郎をウナギ犬に例える人が出てきませんね)が蛸壺にはまり込んだようだが、海の向こう芸術の国フランスのサルコジ大統領も、穴のアナが小さい男のようです。国内のオモチャメーカーがアフリカの呪術をまねた「サルコジのろいの釘うち人形(釘を打ち付けて呪い殺し遊びをする人形)」を発売したところ、サルコジが怒って裁判所に販売中止を訴えた。裁判所は「サルコジと言う存在を対象としているのではなく、サルコジ大統領の政策や考え方を批判しており、且つ冗談だからいいじゃないの」という判断だったが、サルコジは上告するという。どいつもこいつも世界の為政者は小さくなった。そうそう、公明党の大田代表が解散を延ばしている麻生太郎に「誰のお陰で総理大臣になった」といらついたという、どいつもこいつもである。


お上のいいなりはもう辞めよう

2008-10-30 20:43:20 | Weblog
 

ここの所、朝ゴミだしに行くと、朝霧に包まれた田園風景と出会う。谷間の集落は形は変えなくても、季節の移り変わり、日々の天候で姿を変える。毎日毎日同じことの繰り返しと思えても、そこに訪れる事々、者たちに目を向ければ、そこには大きな宇宙の営みを感じることもある。自分と言うものは、三つ子の魂100までといわれるように、なかなか変われないものだが、自分の外に目を向ければ、相対的に自分も変化していくものです。それもアフォーダンスの範疇でしょう。

ただ最近、社会や世の中が改革変革と騒いで見ても、世界情勢がどう変わろうと、変わらないのが、行政、役人だなと、つくづく感じることが多い。ここのところ表面化してきた行政の裏金問題は、2.3年前も大阪や宮崎でも大問題になり、あちこちの役人が頭を下げていたが、今度は、調べたほとんどの県で裏金があり、場合によっては平然と「なにが悪い」という顔をして会見に臨んでいる。特に岩手県の役人面。

確かに、この国の単年度予算の弊害を多少なりとも補完するために、悪意がなくやる場合もあろうが、どうも、やり方が胡散臭い。ごまかしの裏には大きな悪が隠れているものです。この裏金問題がもし、市民のために余った補助金を繰り越すための努力とすても、その根底にあるのは、「今までやってきたから、みんなやっているから」的な惰性的行動の現れであろう。

この問題だけでなく、静岡空港のずさんな計画(測量ミスで飛行制限空域の範囲を間違えた)で、工事が増えたり、工期が延びたりで、とんでもない体たらくが露見してきた。この工事は、県営空港とはいえ、空港本体の設計管理はたぶんJAC(日本空港コンサルタント)がやって、県は書類に目を通すだけだろうが、そこには、責任ある立場で全体を見通す担当者は一人もいないはずである。結局、行政が2、3年で担当を変わるのは、仕事への惰性や関係者との癒着を防止するためと言われるが(それも情けないこと)、それぞれの職責に責任をもてなくするためと疑いたくなる。

大体、大型の公共事業を担当する役人と話をすると「本当はこんなダムや工事は要らない」と口ではいいながら(本音かもしれない)、淡々と職務をこなす。これが役人の姿である。

今地上デジタルとやらが、深く静かに潜行し始めて、北上高地の谷間のムラにもおしよせてきた。数年前に国民の意見も聞かず決めたことだが、受像機や周辺機器の変更(変更と言うものの各家庭が購入することだが)に出費が掛かる上、うちらのような電波障害地区では共同アンテナの敷設で、3.5万円余計にかかる。これは、各家庭が地デジに対応するための設備費に相当するもので、公平な負担だ、というのがお上の説明であった。

さて、地デジの設備更新率は精々まだ30%程度ではないのか。とりあえず富裕層は、30万円、50万円の出費は痛くないだろうが、これから2011年に向けて、日本全世帯が地デジ化への設備変更(受像機の購入や受信設備)が始まった時、どんな混乱が起こるのだろうか、予測もつかない。

地デジ化の時期は正に、この不況期、年金等、社会不安が極限状態に突入する時期と一致する。若年単身者や老人世帯や低所得者層が、TVのために、最低でも一度に10数万円気楽に払える状況だと、この国の政府や行政は考えているのだろうか。来年、再来年、地方だけでなく都市部でも大混乱が起きると思うのだが、行政担当者やお上はいかがお考えなのだろうか。麻生内閣はばらまきの戻し税を考えているようだが、この金額はちょうど地デジの受像機以外の設備費に見合う。これでは、政府の失策による負担を賄うだけで、消費拡大には程遠い。あと10万円ぐらい低所得層には現金給付しなければ。消費拡大など夢物語。麻生内閣即解散大キャンペーン中。

国民も静かにお上に従い、虎の子を叩いてでもTVを見続けるのだろうか。特に、見るべきTV番組も減ってきた今。

 


森羅万象の神に祈るのみ

2008-10-29 21:02:34 | Weblog
 

そぼ降る雨の中の我が家のちいさな石組みの祠です。 僕は、たまに手を合わせ、大地と天の神に祈るのですが、ろうそくは毎日立てているようです。無宗教の僕が、何かに祈ると言うことは、実は自分に祈っていることで、けっこう祈ると言うのは意志がいることです。

本当の?宗教、信仰はただ信じなさい、疑ってはならぬと言うが、どうも、既成の宗教に共感を持ったことはない。

今、イギリスのチャールズ皇太子がカミラ夫人と来ているが、世が世なら、イギリスがカトリックのままなら、彼ははとんでもない極悪人で火あぶりになっても文句は言えない立場だった。イギリスは、チャールズ1世だったか2世だったかが、惚れたスペイン女王だったかと結婚するために、イギリス国教会(ピューリタン革命に乗じて)を作ったから、今のチャールズが生きていけるので、宗教とはそんな権力と結託して広まってきた。

以前にも書いたことがあるが、僕が無宗教で生きることから揺るがないのは、広島の南大橋の上から「神か仏よ、何故広島に原爆を落とした」と何日も問い掛けたのに、神も仏も、何一つ答えようとはしなかった。僕は、それ以来既成の神は信じていない。ただ、宇宙創造、森羅万象の神、somethingは信じている。

最近超ひも理論なる宇宙創造の物語が解き明かされつつあるが、やっぱり、今、僕がここに生きているということは、奇跡以外の何ものでもない。奇跡が神の信仰の証のようにキリスト者は言うが、実は奇跡は人間そのもので、神こそ人間の創造物なのです。

このことが分かれば、アホな宗教もなくなり、文明の衝突などと、戦争を煽る馬鹿な思想も生まれないだろうに。ハンチンソンだったか『文明の衝突』という言葉は、日本の識者や政治家の間でも利用され、アメリカかぶれがやたら増えたが、結局今はアメリカの思想家なども、「いやー文明の衝突などと言っている場合ではない」などと、頭を掻いている。

世の、世界の時流に乗ったエライサンより、巷を生きる僕たちの思想の方が正しいことが多いですよ。

そろそろ、普通の人々の世界革命が起こる時期に来たのではないだろうか。


食欲無くす麻生太郎

2008-10-28 18:47:58 | 社会批評
 

昨日紹介した日本1大きな茅葺屋根の名刹「奥の正法寺」は岩手の方々はご存知だろうが、他県の方々にはなじみがないかもしれないので、写真を乗っけておきましょう。この寺は南北朝時代に開かれたそうだが、この大屋根は今の日本のありようをどうみているのだろうか。 

神はこの国を見放したのだろうか。以前最悪のシナリオとして書いたが、麻生内閣がどうも長持ちしそうになってきた。一般的に考えれば、この経済恐慌とも思える現在、解散総選挙など出来るはずもなく、ついこの間まで解散総選挙を望んでいた国民も、仕方なしに解散よりは経済対策といい始めた。当たりまえに考えれば当たりまえの反応です。

しかし、今、麻生内閣が付け焼刃的に打ち出す経済対策に期待するより、一刻も早く、挙国一致体制で、「もう一度日出国を」をスローガンでもいいから、国民もそれなりに納得した、やる気のある内閣のもとで、この国は再出発すべきである。

また、僕の四半世紀の経験での「全体主義的管理主義的管理化社会の閉塞性を生む好景気不景気のスパイラル」をこの時こそ述べておかなくてはなるまい。高度経済成長後の第1次オイルショック後、会社人間的反省から個人の自立的動きがあったが、第2次オイルショックでまたまた経済が冷え込み、企業の管理体制が強化されサラリーマンは静かになった。その後バブルを迎え、勤務形態がかなり改善されてきたと思ったら、バブル崩壊で、今度はリストラの嵐サラリーマンは競争原理で締め付けられてきた、またまた戦後最長の実感なき好景気は派遣労働者を拡大して格差社会を定常化した。

要は日本の政治は、景気が良くなっても、社会基盤の整備を行ってこなかった。その間フランスやドイツなどヨーロッパは、労働時間の制限、産休、休暇保証、最低賃金保証などなど、働きやすい社会の構造を作ってきた。日本には、それがない。

そして、サブプライムローンがはじけた今がある。多分日本社会はもっともっと管理は厳しくなり労働環境は劣化していくだろう。それは、この国の政策が、国民の暮らし幸せにあるのではなく、経済成長のためにあるからです。

株は下がり景気は落ち込んでも、今度は円高で輸入食品やワインが下がりビトンやエルメスなどブランド品が下がったと、マスコミやYVが囃したて、海外旅行に出かけようと、浮かれる族も出てきて、結局今度景気が持ち直しても、もしくは下方であっても安定すれば、日本社会は又何事もなかったように国民は経済活動の中で自由を失っていく。

やはり、この国は欧米に憧れ、ブランドを欲しがり、貪欲に世界の食材を集める習性を辞めなければ、いつまでたっても成熟した社会は作れないのではないか。

麻生太郎は言っている、日本にはまだ底力がある円は強い、コミック文化で世界へ打って出ようなどと、この国の改革とはそういう問題ではないことが、麻生太郎には全く分かっていない。上サンがこれだけ書いておけと言っていた「食事中に麻生太郎がTV画面に出てきた途端食欲がなくなる、麻生太郎はTV画面に出てくるな」と。


アメリカかぶれはもうこれっきり

2008-10-27 21:38:20 | Weblog
 

こういう風景を懐かしむ人は、もう随分少なくなってきたでしょう。僕も田舎暮らしの少年時代だったが、ここまでの土間はなかった。この写真は日本一大きな茅葺きの屋根を持つ、東北の名刹正法寺の庫裏です。今も修行僧たちの食事はここで作られている。明日から天気が崩れそうなので、紅葉狩りに行ってきました。我が家の当たりは、ちょうど見ごろだったのですが、家の周りばかりでもと足を伸ばしたしだい。水沢(我が家より南)辺りは、まだ早かったようですが。

ここまでの、昔の日本の暮らしでなくても、ついこの間まであった、日本的社会構造がガタガタと崩れてきた。最近、日本は何故、派遣労働者が増え、格差社会が広がってきたのか、という論評で、やっと最近、アメリカの言いなりになり、派遣労働を緩和し、終身雇用制度を破壊したからだと言い始めた経済学者や識者が出始めた。時既に遅しです。

もちろん年功序列や終身雇用がすべて良かったわけではないでしょう。やはり、どこか惰性的になる部分もあったでしょう、では、競走原理とやらを導入して、派遣労働を増やしたら、日本人の労働効率があがり、労働環境が向上したかと言えば、残念ながら先進国へは、かなり低い位置にある。

何故なのだろう。終身雇用で安定していても、競走社会になっても、どこかに、日本社会の不思議さ、不自然さがあるように思うのです。

なんと言おうか、日本社会というのは、対話が出来ない社会に思えるのです。腹を割って話さなければ本当のことが見えてこなかったり、酔って話さなければ本音が出ないとか、冗談のようなことが、実は実社会の大人の世界に横行しているのではないでしょうか。

僕も四半世紀以上社会人として生きてきて(今は少々世捨て人かもしれないが)、大企業の会議や通産建設省など官僚を交えた会議や県や市の公的な会議に出てきて思うのだが、ほとんどの会議が会議の態をなしていない。まず、議長が会議をちゃんとコントロールできない(コントロールというのは誘導ではなく創造的発展的に会議が進行するように運営する)。会議に参加しているメンバーに無駄なメンバー(たんなる組織や体裁あわせ)が多すぎる。会議が早く終わらないか、授業でもなかろうになるべく刺されないようにうつむいて、時の過ぎるのを待っている。結局主催者の作為的結論で会議はおわり、そこには閉塞性やマンネリ、虚飾だけが残る。以前斎藤孝が『会議革命』と言う本を書いたが、正にそのとおりである。        

石原都知事や橋本大阪府知事が討論や議会でも、簡単に切れてしまう。この国で切れるのは、実は子供ではなく、いい大人、しかも地位権力のあるものたちなのです。

今日書きたかったのは、本当はアメリカとオサラバしなさいでしたが話がずれました。結局日本の政治家や経済屋が追いかけたアメリカとは何だったのか、レーガン以後は単に富裕層の拡大でしかなかった、それを見て日本の政治家はアメリカは経済発展を遂げていると考えていた。その頃既に拡大し始めていた、表の経済ではカウントされないアメリカの下部層、ヒスパニックや黒人の下層労働者は意識に入っていなかった。今、移民なき(多少はあるが)日本では、たった一度チャンスを逃がした日本人(就職氷河期や倒産に会った社員やフリーターであった若者)がアメリカのヒスパニックや黒人の地位を演じている。


幸も不幸もたいしたことはない

2008-10-26 21:21:45 | Weblog
 

夜空に浮かぶ紅葉、まだ赤くなっていないが、来週辺りには真っ赤に染まるのだろう。

人間と言うものは不思議なもので、どんな状況でも、幸せ(全ての状況に不平不満もなく満たされて満足している状況)であり続けることは出来ない。このあり続けるというのは、何年もたって、ああこの間は幸せだったではなく、1分1秒連続的に幸せであることである。

何かの状況で、ああ、幸せだと感じる瞬間があっても、数秒後には、大体の場合その幸せ感はあせている。であれば、不幸も似たようなもので、ああ、不幸だと感じる一瞬は不幸を実感していても、継続的に不幸感の中に埋没することは出来ない(ただし精神的病でそういう状況はあるかもしれない)。

やはり、不幸を数秒感じても、数秒後には気も散るし、空を見上げれば雲の動きに目をとらえられれば、その間は不幸を感じていないはず。

特に何かを書きたいわけではないが、人生なんて、幸せなんて、そんなものだと思うことがある。移り行く雲のようなもの。だから、あんまり気にしないで生きていこう。

世界がどう変わろうと、日本の政治状況がどうなろうと、関係ない、と思う時も必要かもしれない。特に、株がいくらだ為替がいくらになっただのは、どうでもいいことだ。


自然主義現代美術とグローコミカル

2008-10-25 21:17:44 | Weblog
 

さて、この造形はなんでしょうか、モスラの突然変異のようでもあり、新種の蛾のようでもあり、実は、これは、蜘蛛の糸に絡まった葉っぱたちなのです。この造形が、風にユラユラ揺れる姿は、まるでコルダーのモビールのようです。コルダーのモビールは中学の現代美術辺りで習ったのではないでしょうか。

以前、商業主義にとことん乗っかった現代美術を批判したが、人間の手でなしうる芸術行為は、基本的に、自然のなかにもともと織り成されているものを分解したり切り取ったりしたり寄せ集めたりして出来上がるものであり、そこに、芸術以外の意図が見えてくれば、その芸術はいやらしいものになる。

それに比して、この自然の造形(モビール)は、まったく何の意図もないから、最も純粋な芸術作品といえる。ただ、芸術はARTであれば、ARTは人為的なものであり、自然のモビールは芸術と呼べないのかもしれない。しかし、この造形をそっと取ってきて、人工の空間に納めれば、それは芸術になる。現代芸術なんてそんなもんだ。

話し変わって、昨日最後のところで、「これからはグローコミカル」な社会を目指そうと書いたが、この事を少し説明しておこう。

まず、グローバリズムは説明入らないだろう。今の経済恐慌(もうそう呼んでもいいだろう)を生んだ現況がまさに、世界経済(物や金の流れ)が利益を利益を求めて世界中を動き回るグローバル社会であった。

その反省からグローカリズムと言う言葉が数年前からいわれ始めた。これは、グローバルな経済、思想的視点にたった、地域資源に根ざし自立した循環型社会とでも言っておけばいいだろう。これがなかなか自立するのは難しい。

そこで、次に、グローコミカル(global  comic local community  )はその上を行く思想です。これを日本語にすると、グローバルな視点にたって原始共産主義的暮らし(物々交換や人と人の協力)を維持し地域の循環的社会を楽しんでしまう、ということです。これは、経済的状況をいうのではなく、面白おかしく暮らす思想なのです。まあ、世界的にはいろいろあるが、身近な人間たちが協力しあいながら、愉快に生きようではないか、そんな暮らしの運動です。

要するに、グローバルだけではダメ、ローカルでもダメ、物々交換的共同体を基盤にして愉快に生きよう。この仕組みは、夫々が3分の1の重みをもち、どれかが狂っても、破壊的なダメージを受けない社会体制、どれかが、暮らしの、心の支えになるのです。そんなあり方を「グローコミカル」と呼んでおきましょう。


月に水がなくて良かった

2008-10-24 21:23:49 | Weblog
 

我が家の点景、石組の祠(右下)、室(中央)から畑を見通す。ちょうど写真の上の方に見える白菜が紅い扉の室に収まることになる。そして、来年の春まで蓄える。例年なら、収穫の半数は収まるのだが、今年は出来がよく3分の1程度入ればいいでしょう。今年は、葉物の出来がいい。春菊もホウレンソウも水菜もターサイもすくすく育っている。大根は毎年いい出来ですが。

この大地が雪に覆われる頃には、室の中で白菜はぬくぬく冬越しとなります。雪も水、地球は水の大地、水があるから生命が生まれ今我々も生きていける。しかし、もう直ぐ地球上の10億の民が水不足に陥ると言う。

世界は宇宙、宇宙と言っても直ぐ近くの宇宙で、水のある星を探している。アメリカのNASAが地球に最も近い月には氷がなかったと発表した。けっこうなことだ。インドが月探査衛星を打ち上げ、中国も月へ人を送る計画があり、アメリカも月面探査を加速化し日本も当然乗り遅れまいと(しかし、科学技術の先進国の割には、日本は遅れ気味のようだ、これも全く行政科学研究の縦割りのせい)月探査計画がある。

もし、月に水があり、人が暮らせる条件が整えば、当然月は、各国の資源争奪基地となり、今の人類なら、かぐや姫そっちのけで、月面戦争を繰る広げるだろう。これは夢物語ではなく、地球人は月で暮らしてもしょせん戦争好きな地球人である。

地球上の水さえ管理(人類遍く利用できない)できない人類が、もしあったとしても月の水を管理できようはずがない。まず、月にどこかの国が核を持ち込み、それに対抗して別の国が核を、いつしか月面核戦争の火の玉を地球上から仰ぎ見ることになるかもしれない。

ということで、地球上でさえちゃんと生きられない人類は、月や火星や金星は豊かな地球から眺めていればいい。それが神の摂理でしょう。

今度のサブプライムバブルではっきり分かったことがある。金を儲けるシステムは世界を駆け巡り、国家、それに縛られている国民は、国家間のレートや金融状況に縛られる。そうであれば、世界金融市場に縛られない市場(物々交換でも市場は成り立つ)と余剰を交換するグローバル市場の二つを、我々個は持たなければならない。このグローバルな時代、もう、国家すらあてに出来なくなってくる。地域社会の再構築、地域通貨(地域独自の交換券)や隣組がこれからの庶民を救う道かもしれない。これからはグローカル社会ではなく、グローコミカル社会でしょう。


世界に見捨てられた麻生日本、早期解散勧告

2008-10-23 21:21:21 | 政治経済
 

今日上サンが「紅葉を見に行こうか」と誘ってくれたのだが、窓の下にはこの紅葉、家の周り中紅葉では、出かける気もそがれるが、近いうちに田沢湖か奥入瀬にでも行ってこよう。自然の真っ只中、観光地のような自然の中で暮らすのも考えものである。紅葉などあまりありがたくない。それでも、やっぱり、美しいと思う風景には感動を覚える。これでいいのだ。

麻生太郎は北朝鮮にもアメリカにも捨てられ、拉致被害者は一体誰を当てにすればいいのか。元中山拉致担当大臣はその後何か動きをしているのだろうか。彼女も、担当大臣でなくなればなす術がないのか、気力も萎えるのか。彼女が失言男(失言ではなく人格欠落男)の前中山国交大臣の上さんだったとは知らなかった。なんだか、そう聞いた途端、彼女にも期待を持てなくなった。

北朝鮮が「ころころ変わる内閣では、信用できない」と拉致被害者再調査を白紙撤回し、それでも何もいえぬ日本、アメリカは北朝鮮のエネルギー支援の日本分担分をオーストラリアやニュージーランドに肩代わりさせ、核交渉を進めようとしている。日本は完全に蚊帳の外である。金融問題でも「日本で金融会議を開いてもいいですよ」なんて気楽な事を言っていた麻生さんを尻目に、金融会議をアメリカ、ブッシュとフランス、サルコジに持っていかれてしまった。

安倍首相の時だったかKY(空気が読めない)という言葉が流行ったが、麻生太郎はKYでも、空気すら読もうとしないKYではないか。この時期「ホテルのバーはご存知のとおりそんなに高くないでしょう」とこともなげに言ってのける。いったい、この御時世高級ホテルのバーしかも会員制のバーで毎晩飲めるものが巷に何人いると思っているのか。それは、ぼったくりバーや銀座の高級倶楽部よりはホテルのバーは安いだろうが麻生さんは会員制倶楽部を飲み歩いているようで、自分で金を払うわけではなく、バーボン1杯数千円するでしょう。僕が行っていた銀座のルパンやサンスーシーは精々500円か千円だった。

国の政治と言うものは、共感が必要である。彼の功罪は別にして小泉元首相の「改革」という叫びには多くの国民が共感したが、麻生という政治家に共感するものがどれだけいるのだろうか。自民党員とて、仕方なくではないか。

なんだか、国会も泥沼化してきたが、国民の一人として早期解散を神に祈るのみである。このままでは本当に本当に日本は無気力で孤立化して沈没していく。皆で祈ろう早期解散キャンペーン中。


脳を鍛えても人格は育たない

2008-10-22 21:24:36 | Weblog
 

朝靄に霞む林檎畑。見渡す限りの丘陵地の林檎の木には、この時期たわわに色づいた林檎が実っている。この林檎が、また美味いのです。東京のセンビキヤさんや高野やピーコックなどで売っている大きくてピカピカの林檎など、林檎のうちに入らないほど、この辺りの林檎は果汁がジュットっと出てしゃきっとして実に美味いのです。しかも一個60円ぐらいで。

林檎がどんなに美味しいからと言って、年に2回も林檎を収穫することは出来ない。林檎の木の1年ごとの自然のサイクルに人間の丹精こめた営みから美味しい林檎は生まれる。花をつけ実をつけ熟すまで、じっくり待つしかない。

それが、どうも最近の世情は、頭の回転を早くとか記憶力増進だとか、どうも脳まで先を急ぐ傾向にある。

最初はクオリアなどと、人間の感性のひらめき(感覚が降りてくる)的な、脳の自立、無意識化の意識とでも言おうか、そんな脳のひらめきを教えてくれて、なかなか面白い脳科学のスーパースターと思っていた茂木健一郎だが、最近は『脳を生かす仕事術』だの『脳を生かす勉強法』だの100万部売ったとか、いつの間にか脳をせっせと働かせるための先導者になった感がある。

みんなの頭の回転が速くなったら何かいいことがあるのだろうか。勉強したい奴はやればいいしぼうっとしてたい奴はぼうっとしてればいいではないか。ここまで急ぎすぎた世界、ますます、脳を鍛えて記憶力を競ってどうするの。まあ、茂木健一郎は純粋に、脳と言う奴の面白さ、脳の働きと人間(意識)の関係性を分かりやすく解き明かしくれているだけで、世の人々を働き蜂に洗脳しようとしているのではないことは分かっているが、どうも近頃の、さて「脳を鍛えて」というのも、なんだか過剰な健康ブームの尻馬に乗った脳版の様で、ちょっと食傷気味である。

脳を鍛えることも大事だが、人間とはどう生きるのか、人間が生きる社会とはどんな社会なのかをじっくり考えるゲームでも編み出してもらいたいのだが。頭の回転の速い奴が編み出したサブプローンが世界経済を破壊したのだし、最近の犯罪も短絡的結論を急ぐ思考体系での犯罪とも考えられる。脳を鍛えても人格は育たない。

麻生太郎は庶民の苦しみを知ってかしらずか(先日物価の値上がりを視察してますとTVでニタッテイタガ)毎晩料亭豪華ディナー、飲み歩き出そうだが、ゆっくりこの国のことを考える時間があるのかしら。僕らでも緊急の仕事は飲まずにやるのだが、今の日本は緊急どころか危機的状況ではないのかい。麻生さんは、急に投げやり的ばらまき政策を乱発しはじめたが、自民党も民主党に似てきたようだ。民主党も政権奪取のためとはいえ、給油法案では自民党に擦り寄ったりして、これが日本の2大政党政治なら、どっちが勝ってもこれまたお先真っ暗ですね。