丸山暁の「僕の考えるブログ」

いろんな言葉、情報が世界を駆け巡っている今、僕の頭で、巷のこと、都会と田舎、世界のことを考えてみる。脱構築。

アキレスと亀、現代美術家への道

2008-09-23 21:20:50 | ART
 

青虫と戦いながら、良くぞここまで育ってきた、白菜よ。白菜はだいたい毎年100株ぐらい植えるが、育たなかったり青虫にやられたりで、まあまあまともなのは50株ぐらいだろうか。それでも、来年の3月ぐらいまでは室に入れて、なんとか持つ。

毎日こんなブログでも書いているとネタが尽きてくる。仕事の話でも書けばいいのだが、皆さんにとって、そんなに面白い話が転がっているわけではない。そうなると結局、世間を騒がせている事件や出来事を書くことになる。

昨日までは総裁選がネタになったが、終わってみれば下馬評どうりで、なにも面白いこともない。あとは総選挙で自民党惨敗を待つだけである。そのときは「祝自民党惨敗」でも書くことにするが、一刻でも早くその時がくることを待つ。なんだか麻生総裁が決まって解散が延びるなんて話も出ているが、もう小手先のことで、この国が変われるわけはなく、少々国民よりの甘い政策を出したとしても、もう騙されてはいけませんよ。

さて、ネタに困ったら芸術の秋、芸術とはなんだろう。

今、芸術といえば北野武監督の『アキレスと亀』辺りから入るのが分かりやすい。ただ『アキレスと亀』を見たわけではなく、新聞やT Vに流れる関連情報から得られる情報からのの推論だが、ただひたすらまとまりのない絵を描く売れない絵描きの夫婦の話のようだ。

映画のコマーシャルで見る限り、あの絵は売れません。なぜならスタイルが出来ていないからです。

現代美術で売れる絵を描くのは案外簡単なことで、これは以前イギリスで買った”Bluff your way in Modern Art”という現代美術をちょっと茶化した本に、現代美術家になるには、「形が大事である」「同じ色で描き続けろ」「ガラクタを集めて骨とう品のように棚に並べろ」「数十年白いキャンバスに黒い○を描きつづけろ」そして運と忍耐力と笑われる覚悟がれば、現代美術かになれるという。

『アキレスと亀』の真知寿の絵は、全ての絵がバラバラだったように見受けられる。画商と言うものは、同じような絵が何枚も描けなければ相手にしてくれないものである。

本当なら、1枚の傑作というものがあってもいいのだろうが、人間というものはいい加減なもので、美を評価するには(特に大衆的に、大衆的というのは画商や美術評論家も含めて)、慣れが必要なのです。

これは、音楽でもそんなもので、1回聴いただけで心に響くものも確かにあるが、普通は何回か耳には言ってきて、その音が心地よくなってきてはじめていい音楽と認識するようです。

この辺りは最近の脳科学でもいっているようで、美しさとか感動とかは、ある種の脳の慣れによるようである。

このあたりが芸術、特に現代美術の臭いところで、画家と画商が結託して「ただの絵」を、何度も何度も屁理屈つけて露出させれば、いくらでも売れる現代美術が生まれるということです。

画商さん、僕の作品はいかがです。ただ、僕の絵は2~3年でスタイルが変わるからダメでしょうね。Artとは生きることですから。本当の芸術とは、売れるからではない。大江健三郎が良い事を言っていた「思うに芸術の修業も要するに自己を鍛練して・・・・如何なる時にもぐらつかない立派な余裕を築き上げること。そして芸術の役割は・・・人々の心に余裕の世界観を植え付けること」。

そういう視点では、僕は正当な芸術の道(道半ばだが)を歩んでいる。

芸術の秋、このぐらいうぬぼれておこう。秋の夜長の徒然でした。


身体とリズム―有賀誠司の聾学校ワークショップ

2008-03-03 10:16:20 | ART
昨日、日本有数の打楽器奏者有賀誠司と超ベテランジャズドラマー猪俣猛のコラボレーションに盛岡聾学校の中学部ワークショップ抱き合わせのコンサートに行って来た。
有賀誠司は打楽器界では超大物だが、僕が暮らす北国の小さな町の「小さな森のコンサート」に毎年やってくる。去年で21回、僕が実行委員長をやってから5~7年経つ。猪俣猛は、僕らぐらいのジャズファンなら知らないものはいないだろう、日本の草分け的モダンJazzドラマーの草分けの一人である。
聾学校生徒のワークショップは、いわゆる音階とメロディーによって構成される音楽ではなく、数種の打楽器を身体的に、体ごとぶつけて自由に音を出すというものだった。
なぜ、そのようなものになったかは、有賀誠司が彼等に指導にきた時、彼等の身体的能力が低いことに築いたという。打楽器を打つための基礎体力、身体能力としての、ふんばる力とか撥を振る力とか、一定のリズムを刻む耐久力とか、跳んだり刎ねたりする感覚とかが育っていなかったようだ。
だから有賀誠司の求めたものは、打楽器を使った聾者の身体能力増強とリズム感の醸成にあったようだ。ワークショップであるステージでは、彼等の躍動が、まだためらいがちながら見事に表現されていた。彼等の打ち鳴らす、統率なきうねりのような音群は、音階とメロディーで抑制、整えられた音世界とは異質の躍動感を響き渡らせた。
多分彼等聾者は、聾者としての配慮ある教育は受けているのだろうが、聾者であることで排除されている教育もあるのではないだろうか。今回のコンサートで見えてきたのだが、身体の動き、いっせいに何か行動を起こすとか、一定のリズムで体を動かすとか、ステップを踏んで一定のリズム飛び跳ねるとかは、人間はリズムを刻む道具として声を媒介としていることが多い。
多分彼等の授業でも、接触や鈍りや振動による身体的活動の教育もあるのだろうが、今回のコンサートを聞いて、彼等の身体能力は教育方法によって、もっともっと引き出せるのではないかと感じた次第。
文部省や教育委員会はそういうことに頭とお金を使うべきなのに、最近学校教育法を改正して「聾学校」という名称を「聴覚特別支援学校」と呼ぼうとして、多くの聾者の反対を受けている。文部省などは、多分、「聾学校」という言葉が差別用語となりうる、という解釈だと思うが、お上は制度や名称を変えれば実態も改善されると思っているようで、教育の実体を見ていないことが多い。
丸山暁〈人間・田舎人・サンチャン〉