丸山暁の「僕の考えるブログ」

いろんな言葉、情報が世界を駆け巡っている今、僕の頭で、巷のこと、都会と田舎、世界のことを考えてみる。脱構築。

人間をもっと人間として見る

2007-05-30 10:42:07 | 社会批評
春のこの一時だけ花咲く、スピノシマという可憐な白い薔薇は、花開いて数日で散っていく。ZARDの坂井泉水さんが不慮の事故で無くなった。坂井泉水さんの魂にこの白い薔薇を捧げる。
僕は、ポップスはその時代その時代に流行っている曲を聞き流す程度だが、ZARDの「負けないで・・」と歌う、彼女のさわやかで、弾むような歌声は、この十年間何度も心に響いていた。ちょっと、辛くなったり、寂しくなった時、知らず知らずに脳裏に浮かんできては僕を励ましてくれていたのだと思う。そんな曲はそう無いものだ。きっと彼女の音楽にはげまされながら、生きてこられた方々は随分多いことだろう。これからは、天使の声として、現世の人間たちに響いてくることだろう。心から御冥福をお祈りする。

人が一個の人生を生きていくのは、なんと大変なことか、今改めて考えさせられる。そして、生きているということだけでいかにありがたい、幸せなことかと。
しかし、人の一生とは生きていく中で、自ら招こうが、自ら感知しなくても、本当に大変なことがある。それは、大人でも子供でも、金持ちでも貧乏人でも、スターでも大衆でも、人性のどこかでほぼ平等に降りかかってくる。中には、何の心配も無い人生だったと、この世を去っていく大往生の方もあるが、きっとそういう人は、苦難を心の中で回避する方法(そんな方法はほとんど無いと考えているが)を身につけた方々か、人性の終焉を幸せに迎えている方なのだろう。
人が苦しんでいる時、頑張りすぎているとき、精神的にでも、身体的にでも、極限までいって生の臨界点を超えれば、人間は死んでしまう。それが病気でも自死でも。
機械なら、軋みが出たり、検査すれば欠陥が見えてくるのだが(先のジェットコースター「風神雷神」の事故とて、ちゃんと検査すれば自己は防げたのである)、人間が人間であるがために厄介なのは、また良い人間や頑張り屋さんほど、心や身体の軋み、苦しみを我慢したり、理性的に耐えてしまったりしてしまうのである。だから、苦しみが他者にわからず一気に死に至ることがある(あまりいい表現ではないが急に言葉が浮かばない)。
だが、苦しんでいる本人がどんなに耐えようと、隠そうとしても、人間の心の苦しみ身体の葛藤は、表情に出てしまう。
ここで幾つか紹介しておこう(これらは精神医学的に言われていることである)。
まず、目の下に大きな紫色のタボができる。これは肉体的に疲労が重なると共に精神的に頑張りすぎるとでてくる。次に、口がゆがんでくる(これは口をきゅっと結んで左右に広げた時、不自然に口が傾いでくる)。これは精神的に不安になったり追い詰められると出てくる。また、嘘をついたり自分を欺くことへの葛藤から来る表情は、最近の松岡農水大臣の国会での姿のように、落ち着き無くぺろぺろ唇を舐める行動にでる。これは、耐震偽装問題で国会証人喚問された方々に顕著に表れた。
人間は生きていくだけで大変なのである。そして大きな負荷がかかったとき、人は、それを表情に表す(隠していても自然に現れる)。そおいう、身体的表情にもっと、自分も他者も敏感になる必要があるのではないか。そして、それに気づいて自分にも、他者にもやさしくなることである。
ここでは、個々の事例には言及しないが、もっと人間をもっと人間的に見て行こうではないか。地位や立場や経済力など人間に後からついてきた属性でなく、人間の身体そのものとして。
S. Sun Maruyama

自己管理社会

2007-05-28 10:04:24 | 社会批評
我が家の居間から見える朝の風景です。きっと、一年中で、今は自然が一番さわやかの彩りを見せてくれる季節ではないだろうか。もう少しすると、緑が濃くなり、花の色も黄色が増えて、自然の息吹きが少々暑苦しくなってくる。自然もやっぱり、濃いめの色彩で埋まるより、薄い色や危うい色や姿の者たちが入り混じっているのがいい。
以前、僕がサラリーマンをやっていたころ(1944年から1989年まで)感じたことだが、景気と世相はリンクするということを感じていた。特にファッション、サラリーマンの服装が、景気がよくなると明るい色が増え景気が落ち込むと黒い色が流行る傾向にあった。このことは、ファッション界でも言われていたことで、卑近な例だが戦時中は見事に暗い暗い服装が多かった。
僕が会社には入った時はオイルショックのチョイ手前、好景気の最後であり、若手サラリーマンはVANやKENTなどのトラッドスタイルの服装が流行り、サラリーマンもファッショナブルになってきて、スーツの基本色はグレーだったようにも思うがワイシャツや靴はかなりおしゃれになってきた。僕などは、ほとんど茶のジャケツで通していた。
それからすぐに、第2次オイルショックが来て、景気が冷え込んできた途端、今度はサラリーマンの服装がぐっと暗くなってきた。茶色のスーツやジャケツ姿が消えて、ほとんど濃紺かグレーになってきた。それと共に、ワイシャツも白かせいぜい薄い縞模様。新橋、銀座界隈の夕暮れ時などサラリーマンが溢れると、見事にユニホームがごとき暗い服装が埋め尽くしたのを覚えている。
それからしばらくしてバブルの狂乱期(僕が会社を辞めた頃)、また少し、服装が多様化したかなと思っていたら、今度はバブル崩壊で一気に景気が冷え込んだ。その後のサラリーマン生活の実態は身をもってはつかんでいないが、TVや洋服屋サンで見る限り、ぐっと黒やグレーが増え、最近も戦後最大の好景気といわれても、サラーリーマンの服装が明るくならない。何故なのだろう。昔は、景気がよくなると気持ちも浮かれてきたものだが、最近は景気ばかりがよくなっても、サラリーマンの心は陽気にならないのだろうか。
それでも、彼らも普通の生活者に戻れば、それこそ多様な服装をしているから、それはそれでいいのかもしれないが。それでいいのかもしれません。でもなんだか、社会全体がアッパラパーの明るさの影、没個性、様式化する自己管理社会、深く暗い闇を抱えているようで気になります。多分、そういう自己管理はあたりまえの社会になったのでしょうが。
S. Sun Maruyama

日本列島改造論「東京兵糧攻め」

2007-05-25 11:14:08 | 田舎と都会
我が家の小さな畑だが、今年も8割方埋ってきた。これも、何もしなくて、茶色の畑に作物が育つのではなく、耕し堆肥(我が家の完全循環有機堆肥)をすき込み、苗を植え種を蒔くから、実った作物をありがたく食べることが出来るのである。そこには「汗糞たらした(当地のがんばるときに使う表現)」百姓の労働があるからである。

さて、最近都市(特に東京)と地方の格差の問題が、それなりに注目されるようになってきた。けっこうなことである。都市は、農村の余剰農産物と余剰人員を吸収して今に至った事は、ほぼ間違いない歴史的構造だろう。これは、これで、特に問題があることではい。農村も都市の発展のおかげで、文明の恩恵を受け、都市的施設も享受してきた。
都市に関心のある方のバイブル、御存じない方は御存じないだろうが、ルイス・マンフォード『都市の文化“The Caiture of Cities”』に「都市は洞窟や錆の流群や蟻塚と同じように自然の中の一事実である。」「華麗を極めた建築偉容が、その建築に汗水たらした下済み連中を無視してしまうことは、今も昔も変わらない。」とある。この本は1938年に書かれた本だが、これからこそ読み解かれるべき本かもしれない。
しかし、今の都市、東京やこの国を動かしている為政者たち、多くの生活者も、この教訓「都市は自然の営みの一形態であり、その影には多くの都市以外の資源(人的・物的)が投入されている」事を全く忘れ去ってしまっている。特に石原慎太郎都知事が反り返って東京を語るときには、都市論の知性のかけらも無い彼は単なる太陽族オヤジである。

本来都市は、地方との循環的関係性があってこそ、成長もし持続可能なのである。しかし、そのバランスが崩れた時、都市も崩壊する。多くの近代都市は、まだまだ地方を搾取(人的・物的)し続けても、維持拡大できているように見える。しかし、東京の繁栄など高々ここ数十年のことであり、歴史的に見ればやっとヨチヨチ歩きである。今の状況が続けば(一方的な、物、人の流れ)農山村は完全に崩壊し、そのときは、都市と田舎の循環どころか、いつまでも続くかに見える一方的な(田舎から都市への)流れが止まり、都市も崩壊する。
ところが、今の国策・政治は、東京を中心とした首都圏を拡大しておけば、地方が崩壊しても国家は成り立つという考えである。その背景には、日本の地方が崩壊してもその代わり(低賃金重労働・食料など)を発展途上国に求めるからである。
そこには、当然、国家間の争い、搾取するもの同士の奪い合いが拡大し、国際紛争、戦争も起こるのであるが。安倍総理の「日米軍事同盟」の目的はそこにある。

このような形の先進国の都市の反映とて、早晩、発展途上国の都市機能だけが残って、日本と同じように発展途上国の地方が崩壊すれば、結局、世界の都市も崩壊することになる。
いわゆる、熱力学の第2法則「エントロピーの増大」によって。まず日本国内の都市と田舎の流れが止まり、次に発展途上国からの流れが止まった時、多分ここ2~3十年で、都市も先進国も崩壊する。
やっぱり、国内でも国際的にも循環型の社会を構築しなければ、日本が世界が崩壊することはちょっと理性的な方々にはわかるはずなのだが、この国を牽引している方々にはわかっていないようで。わかっていても知らん顔というところか。

そんな馬鹿なと思われる方は、頭の中でけっこうですから、次ぎのシミュレーションをやってみてください。「東京を多摩川と荒川で区切り糧攻め(人間と物資、電気、水・・)にしてみる」。さて、何ヶ月持つでしょうか。
S. Sun Maruyama
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〈田舎人(いなかびと)〉通信もよかったら。

石原都知事、お前は日本最高のいなかっぺ

2007-05-23 09:56:13 | 社会批評
北国の僕の村でも、田植えがほぼ終わろうとしている。今年は10日ばかり遅い。その理由が二つある。ひとつは、5月初旬、春先の気温が低かったこと。もう1つは、日本の農業政策が、小規模農家を切り捨て、大規模農家支援に大きくシフトしたこと。こういう小さな集落の田植えは、本来ならお互い助け合いながらも、個別の田んぼ毎に田植えの計画が出来たが、今は無理やり集落営農(農業規模を大きくする)の形をとり、他者に委託して一括して田植えを行うようになった。もちろん、最も根源的要因は、過疎化にあるが。
さて、今日本で、最も気に食わない男が、石原都知事である。なぜなら、彼こそ「日本最高のいなかっぺ」の癖に、東京以外の地方に暮らし、都政批判するものを田舎者と蔑むが如くはいて捨てるからである。このことは、シティーボーイを気取る彼が都知事になってから、気になっていたが、先の都知事選で、浅野知事候補の都政批判に「地方の田舎者に何がわかる」旨の発言をし、今度は東国原宮崎県知事のブログに対し「田舎者が何をいう」旨の発言を、記者会見という公式の場でニヤケながら発している。
まず、そんな場で、自らを批判する者を「田舎者(いなかもの)」と表現する、言語センス、人間性こそ、「田舎者」という言葉を仮に、洗練された都市に比して劣ったものとして用いるなら、「石原よ、田舎者というお前こそ田舎者」である。品が無いし粋じゃない。
石原都知事のやんちゃなべらんめー調は悪くない。僕も、岩手のかなり古臭い集まり(組織的)や、公式な会議の場でも、なんだかちんたらした煮え切らない人間たちに「全く、しっかり考えて、ちゃんとしゃべれ(方言であっても)」と思って、べらんめー調になることがある。僕は江戸っ子ではないが、広島の仁義無き戦いと神田での粋な飲み屋体験が身に追いている。
要するに、石原都制というのは東京がただでっかく、派手になること(排ガス規制は自慢しているが、都民が死んでしまったら元も子もない訳で)、カジノ開いて東京オリンピックでドンちゃん騒ぎして、建築規制を野放し同然にして成り金歓楽街を作って・・・ああ、もういいか・・結局彼の政策は、東京オール太陽族化(欲望都市化)である。それは、もっとも幼稚な無能な人間の生き方である。もちろん若い時はそれでもいいが。
僕が、神田で飲んでいた頃、「菊正」に来る鳶の親分や、つるっぱげで無口な「辰巳」のオヤジには、粋な江戸っ子を感じたが。石原都知事には「いなかっぺしか感じない」。
そのうち、東京が温暖化して水没して大震災で壊滅したら、きっとあなたは「ヨットに帆かけて逃げ出す」ことでしょう。そんな石原都知事をまた選んでしまった都民の皆様、あなた方こそ、日本最高のいなかっぺ集団ですよ。
僕は北上高地早池峰山の麓も小さな村に暮らす「田舎人(いなかびと)」である(最近blog〈田舎人通信〉を開設)
S. Sun Maruyama 〈市民ジャーナルもよろしく〉

国会改革

2007-05-21 09:57:27 | 社会批評
さえわたった春の朝の空に映える、紅葉(楓)の花です。もう少しすると、小さな赤いブーメランのような花が、風に吹かれて飛んでいき、我が家の畑には毎年、きっと気づかないだけで、数百本という楓の苗が出来ているのですが、ほとんど畑にすき込んで死んでいく、これも運命。生きるも死ぬも生命の「大河の一滴」のようなもの、じたばたしても仕様が無い「他力」です。
今日これを書き始めるとき、こんなことを思ってしまった。こんなブログ誰が面白いと思ってくれているのだろうか、多分、お義理でか、偶然か、見てくれている方々が5~60人ある。とにかく、それはありがたいことだ。本当にありがとう。
この間、数面前ベストセラーになった、五木寛之の「大河の一滴」と「他力」を百円で買ってきて読んだのだが、あれだけの大作家の本でも「大河の一滴」を読み終えたら、「他力」は少々食傷気味になる。五木の本も「さらばモスクワ愚連隊」や「海を見ていたジョニー」辺りは、青春真っ只中、一気の読んだが、五木も僕も年をとったのだろう、人性がちょっと解かったつもりで、何かを書きたくなる。
この、ブログのそんな程度と諦めてきださい。それじゃ、大作家五木寛之に失礼だが。
さて、やっぱり、「僕の考えるブログ」を書きましょう。
この国に今必要なのは、憲法改正でも教育改革でも社保庁改革でもありません。今必要なのは「国会改革」です。しかも、国会の制度をいじることではなく。国会議員の研修制度です。
国会議員の研修というと、ヨーロッパのリゾート地と相場が決まっているが(ディズニーランドやラスベガスのカジノに行く族もある)、そうではなく、まず、日本社会の現実の暮らしを1年間体験することを義務頭ける。
例えば、厚生労働関係で頑張りたいという議員は、病院の雑用係か介護士や派遣の工場労働者のお手伝い、国土交通政関係は、最低賃金地域の土方や配送助手、文部科学関係は過疎地の教員助手、農水省は米農家にホームステーして農作業、防衛省はイラクでアメリカの民間団体に雇ってもらって軍需物資の運搬、などなどなど・・・。自分が政治世界で活躍したい分野の、もっとも過酷な現場で1年間研修を積まなければ、選挙に立候補できないか、今の議員は在任中に体験しないと、給料を剥奪、というのではどうでしょう。
そうでないと、いつまで経っても、役人の書いた、これまた大学での机上論、原稿の投げ合い、言い合いに終始し、現実の暮らしがよくならない。
「政治は国会で起こっているのではい、国民の暮らしの中にこそあるのだ」。ま、これも夢物語かな、でも、国民投票法案が通ったり、憲法草案を公募と言い出したので、ただ今の政治のPC、PIは当てにならないが、ひょっとしたらひょっとするかも、これも国民次第。
S. Sun Maruyama


MD計画は誰のため

2007-05-18 11:03:20 | 社会批評
アメリカがチェコにMD(ミサイル防衛)施設建設を計画し、それに反発するロシアと協議に入ったという。一昔前なら、ロシアがチェコにミサイル基地をおいて、アメリカがそれを批難するのだが、時代は変わったものである。
ところで、アメリカがチェコにMD基地を作るのは、対ロシアのためではないというが、いったい何処から飛んでくるミサイルを打ち落とそうというのだろうか。もちろん、アメリカやフランスがロシアに向けて発したミサイルを打ち落とす筈がなく、やっぱり、ロシアがNATO諸国に打ち込むミサイルを想定しているのだろう。それを、そんなこと無い、といったって、他に考えようがない。考えようのないことを押し付けて、わかってくれ、というのが今のアメリカだから、話にならない。
結局、これは、アメリカ型の内憂外患政策、外部に脅威を作り出し国内の憂いを回避(ごまかす)する作戦の広域番(アメリカのテロとの戦いしかり)であろう。一応、ロシアを仮想敵国においてNATOの引き締めをはかる。ロシアとて、民主主義市場経済とはいえ、一部特権財閥(政府をバックにした急激な成金)が牛耳る新帝国主義化しているので、国内的にはアメリカを仮想敵国として内政を掌握するしかないだろう。権力者の頭は今だ、ギリシャ、ローマ時代と変わらない。
日本も、アメリカのMD計画の片棒を担ぎ、これから1兆円だか2兆円のお金を投入するが、このMD計画こそ、日本にはまったくメリットのない、日本はアメリカ軍需産業のお得意様でしかない。
仮に、北朝鮮がミサイルを日本に打ち込んだとしよう。太平洋上での実験ではアメリカは一回成功したというが、北朝鮮から発射された数分後に日本海上空でミサイルを打ち落とすなど不可能である。せいぜい、アメリカに向かうだろうミサイルに間に合うかどうかである。このMD計画にかこつけて日米政府は集団的自衛権成立を急ぎ、そのために憲法改正までしようとしているが、馬鹿げたこと、日本とアメリカに向かうミサイル和形や色分けでもしているのだろうか。
中国かロシアが日本に核ミサイルを打ち込むことがあったとしたら、それは一発ということは無いだろう、一発打ち落とすのも難しいのに、数発打ち込まれたミサイルを迎撃できるはずもない。そして、その時、アメリカが報復核攻撃することはまず無いだろう(日米同盟派は正にアメリカの核に期待しているが)。日本は、核によって消滅した国家として、世界の人身御供として捧げられるだろう。核大国は、核が使えないことを知っている。
MD基地計画は、単なるアメリカ軍需産業の消費基地でしかない。一回配備すれば、かならず、メンテナンス、更新しなければならなくなる、美味しい産業なのである。
冒頭の太陽は、僕のシンボルである。宇宙が核のゴミで汚されないように、祈っている。
S. Sun Maruyama
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一段落した地球温暖化?

2007-05-16 16:34:25 | 社会批評
この時期、そろそろ丸太がやってきて、冬に備え、切って割って写真のように積んでおくのだが、今年はまだ丸太がやってこない。今年も、今は無き、かの有名料理番組「どっちの料理ショウー」に出演したチーズ(早池峰醍醐)作りの名人、ユキオ氏に丸太雑木2tユニックで一杯頼んでいるのだが、まだ来ない。山国なのに、けっこう薪を手に入れるのが大変なのである。
ちなみに、僕のようにボーットしてバケツを被っているのは我が家の守り神である。我が家は、暖房の大半は薪ストーブで、これを面倒臭く言えばバイオマスエネルギーというそうで、温暖化防止におおいに貢献している。我が家は、相当の循環型暮らしである。
さて、IPCC(気候変動に関する政府間パネル)が今世紀末には、気温が6℃前後上昇して、地球環境は壊滅的打撃を受けると発表したあと、今度は、2050年までに温室効果ガスの排出を、たしか今の半分にすれば、地球環境悪化は食い止められる。そして、それは技術的に可能である、報告した。その後、大きな動きは報道されていないので、あれ、これで地球温暖化問題は、めでたしめでたし、と思ってしまうが、これでいいのだろうか。
ここのところの一連の動きは、最終的に、「地球温暖化は危機的状況にあるが、技術的に、2050年までに温室効果ガスを半減できるので、地球環境は大丈夫」というように世間は思ってしまったのではないだろうか。
しかし現実は、待てよ、である。京都議定書の温室効果ガス規制とて守られず、議長国の日本とて温室効果ガスは増加し続け、いまだ、ほとんど、効果的な対策を出せづ、京都議定書すら維持できないのに、京都議定書以降の規制脇組みを考えようなんて、いったい、何をどう考えれば、2050年には半減できるという結論がでるのだろうか。
今の世界の向かう方向は、決してエネルギー使用を減らそうという方向には動いていない。全く、そのような兆しも無い。やっぱり、エネルギーは拡大し続けて、便利さはあくまで追求し必要なエネルギーを十分に消費した上での「温暖化防止」なのだから、そんな方法があろうはずが無い。
団塊世代へのアンケートで、定年後車を買うなら3百万円以上の高級車だと多くが回答している。結局、豊かになるということは、お金を使って大きく便利なものを手に入れるということに変わりは無い。決して、ゆとりが出来たからと、人間的に豊かになるものではない。これは、世界の趨勢であろう。ああ、貧しきものはゆたかなり。
S. Sun Maruyama
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貧者の軍隊

2007-05-14 08:59:02 | 社会批評
この写真は一昨年の秋のものであるが、我が村でも炭焼きが復活した。最近僕は、集落と言う言葉にどこか記号的な空々しさを感じて、村とかいう言葉を使うようになってきた。本来ならという言葉が合うのかもしれないが、は、やっぱり被差別との関係が曖昧になるので使わないほうがいいのだろうが、村という言葉は使いたいと考えている。写真右端に見えるトミヨシさんは若い時、大日本帝国の軍隊にとられた。
ここでは、集落、、村の社会学的言語論をするものではなく、村と呼ぼうが、集落と呼ぼうが、村は、国土の中枢(特に東京を中心とした首都圏)からすれば、常に権力的に負の構造をもっていたのではないか。今でこそ、環境問題や自然回帰など文明論的な田舎礼賛はあるものの、現実には、過疎化が進み、産業基盤が脆弱で、未来に向けて、ほとんど持続不可能な状況の地域が拡大している。いわゆる10年だか20年後に崩壊する限界集落とやらが3,000だか5,000だかあるという。今僕が暮らす村とて、引っ越してきて、やっと14年目だが、ここで人性をまっとうできるかどうかも疑わしい。できれば天寿を全うし、僕たちが耕した畑に墓穴を掘って、自ら土にかえる、そんなことを夢想したりもするが、それ以前に、村自体が崩壊しかねない。
ただ、現代という時期、視点を変えると数十年後には、僕の村が崩壊する前に、地球温暖化で、巨大都市、特に関東平野はかなりの区域が水没するか熱帯化して、我が村こそが楽園となることも現実味も帯びてきた。
相当話がそれたが話は前回の続きです。いずれにしても、経済基盤が弱い村の若者たちが(都市部でも成績の悪い貧しい中高生)自衛隊に入っていくのである。僕が東京で暮らしてきた時、友人や知人の家族に自衛隊関係者はいなかったが、ここの村では、家族の誰かが自衛官という家がけっこうある。これは、地方の貧しさがそうさせるのであり、これは日本だけでなく、軍隊が志願者で成り立つ国で起こっている現象である。要は、何処の国でもまず貧しいものが軍隊に入って、戦になれば死んでいくのである。
僕は本来非武装中立派であるが、国家が軍隊をもつなら全国民くまなく徴兵制をひくべきだと考えている。貧富の差や地位によって、国を守る義務や責任、兵士となって死んでいく確率に差があってはならない。たとえ天皇家であっても。
特に、政治や国家や経済の中枢で、愛国心を鼓舞し軍備強化を画策しているものたちは、自分の大切な家族、子や孫をこそまず自衛隊員にして国家防衛の先兵として立たせ、その次に初めて、一般国民に志願をつのるべきである。あなたたちのいう愛国心とはそういうものではないのか。
残念ながら、還元水どうのこうのと、「法律に違反していないから何も言いません」と逃げ回る松岡農水相程度が政治家では微塵もそんなことは考えられないし、特攻隊の映画の脚本だか監修だかした石原新太郎都知事とて、自分の子供を優遇こそすれ、子や孫を兵隊に出すことなどありえないだろう。
彼ら愛国、軍備を強いる時の権力者は、自分の身内は血を流さない地位を確保した上で、国民(特に貧しき国民)に血を流すことを当然のこととして要求するのである。最近、憲法改正や自衛隊の軍隊化に傾いてきた国民が増えてきたが、自分ではない誰かが人を殺し殺されるのではなく、自分や家族が人を殺し殺されることを想定しての、議論であって欲しいのだが。
S.Sun Maruyama
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愛国心と国民皆兵

2007-05-11 09:19:25 | 社会批評
この写真の水平線の向こうには北朝鮮がある。政府が憲法改正を急ぎ、集団的自衛権、自衛隊の海外派兵を急ぐ相手国の1つ北朝鮮が、正に僕が手を広げた先にある。まるで僕が、日本海を渡ってくる敵を一歩も日本の大地を踏ませない、と言っているようである。この写真は秋田県男鹿半島で日本海を背にしたワンショットである
これまで僕のブログを読んでこられた方は、きっと僕は‘60~’70年代でいうところの左翼か脳天気な平和主義者と思っておられるのではないだろうか。もちろん、今の政府やいわゆる国粋主義的右翼に比べれば左翼だろうが、僕が考える、僕が本当に求めている、自国を守る防衛形体は国民皆兵である。いざという時、日本の大地や家族を守るためには、日本人全てが武器を持ち兵士となって侵略者と戦うのである。僕は決して攻撃してきた人間に、無抵抗で殺されるガンジー的平和主義者ではない。もちろん、ガンジーの平和主義、無抵抗主義は人間として敬意に値するが。
では、僕の国民皆兵と自衛隊の軍隊化(集団的自衛権を持ち海外まで派兵できる)と何処が違うのだろうか。「おまえも国民皆兵なら、自衛隊が軍隊として、日本を守るのだから、今の政府、安倍首相の憲法改正に賛成したらどうだ」とおっしゃるかもしれないが、それは違う。
まず、僕が国民皆兵という考えを持つに経った経緯を述べておこう。これがけっこう早い時期なのである。それは、今から40年前中学生の頃である。
僕は幼少期、原爆の傷跡が色濃くのこる広島市(ケロイドの人々、原爆スラム、2次被爆で髪の抜け落ちる友人の美少女・・・)で過ごした。僕が泳いでいた大田川や元安川の川底には貝殻に混じって、小さな人骨が揺らめいていた。僕は子供心に原爆を落としたアメリカに復讐する方法を考えていた。それと、何故、日本は負けた途端アメリカになびいたのか。その頃岩国に近かったこともあり、広島にもMPがいた。日本の人口を考えたら、アメリカの兵隊を一人一人やっつけるのは大したことではない。なぜ、日本国民は、1億玉砕と言っていたのなら、そうしなかったのか。それは、国民が武器を持っていなかったからだと、子供心に考えた(当然竹やりではお話にならない)。
スイスという永世中立国では国民皆兵であるとならった。国民が成人すると男女を問わず軍事訓練をして、地域ごとに兵器庫がある。これだと僕は思った。
また長くなったが、愛国心、国家防衛といったって、2次大戦後否、2次大戦でも、兵士となり、戦場に赴くのは、多くはその国の貧者である(こういえば軍人、自衛官に失礼にあたるが、これが現実であることは暗黙の了解事項である)。その証拠に、愛国心を声高に叫ぶ国会議員や経済界の御曹司や大手企業、官僚の息子が自衛官になったという話を聞かない。これはアメリカとて同じこと、イラク戦争でも南部の貧しい若者が兵士を志願している(『イラク戦争従軍記』野島剛著、朝日新聞社)。愛国心から自衛隊、軍隊に入るものはまれであろう。
僕の国民皆兵は、どうせ軍隊をもつなら、金持ちや権力者は陰に隠れ、貧しいものが死に行く体制は許されない、という論点も大きいcontinue.
S. Sun Maruyama
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憲法改正、守るべきものとは

2007-05-09 16:55:53 | 社会批評
今日あたりは軽いテーマでいこうと思っていたのだが、またまた、安倍総理が靖国神社に真榊を奉納しておいて「奉納したことを否定も肯定もしない」と言っている。これは以前からの「靖国神社に参拝するともしないともいわない」と同じのらくら戦術である。こういう大事なことに、こんないい加減な受け答えしか出来ない首相の国だから心配なのである。そんなこんなで、写真だけは明るくいこう。これはエリカである。
最近富に憲法論議が盛んになった。けっこうなことである。
数年前から自民党を中心に右翼系の団体、知識人、評論家などなどが、押し付け憲法改正を声高に叫び始めた。60~70年代と違って、近年、右翼左翼という思想的分類もしにくくなってきたが、ここでは、天皇を祭りたてて(象徴であろうが元帥であろうが神であろうが)愛国心に満ち満ちた国民(時の政治体制に素直に従う国民)で構成される国家を構築しようとするものたちを右翼と呼んでおく。
これら右翼が求めている国家体制、何が悪い、「国民が天皇を中心にした国を愛する」けっこうなことではないか。そう、一見けっこに見えるが、このことを、言葉を変えれば「国民は天皇を頂点とする国家の体制を守るためにある」ということである。もっとはっきりいえば、戦争をしてでも、命をかけて国民は、「天皇と国家体制」を守りぬく、ということである。
では、まず、天皇は守るべき存在なのだろうか、もちろん、人間一個の命としては、今生れたどこかにいる子供と同等に貴重な命である。しかし、いざ、事が起こった時、一般的には戦争であろうが、天皇を守るために、一般国民の命が犠牲になっていいのだろうか。多分、戦争になれば、天皇を守るために、数千人、否、数万人、否数十万人の都市が犠牲になることもあるだろう。現実に、2次大戦では、国体、天皇の維持のために、戦争が長引き、そのために数十万、数百万の死ななくていい命が犠牲になったのも事実である。
僕は、小学生を広島で過ごした。
では次に、国を守るとは何なのか、大日本帝国は第2次大戦で連合軍、具体的にはアメリカに負けた。その時大日本帝国という国は崩壊したが、日本の主権も大地も国民も日本として残された(もちろん一時の占領はあったが)。日本の大地(ここでは国家体制ではなく)に暮らす人間が、愛国心という名のもとに命をかけて守ろうとした、天皇とは国家体制とは何だったのか。もし、日本の大地に暮らす人間たちは、大日本帝国の国民であり続けたら(少なくとも、大日本帝国の為政者がもっと大日本帝国と降伏を引き伸ばしていたら)それこそ日本の大地、そこに暮らす人間はもっともっと壊滅的悲劇を味わっていただろう。
押し付け憲法は日本人のアイデンティティーから生まれたものではない。だから自らの手で憲法を改正するのだ、という論点もあろうが、日本人が愛して命をかけて守るものが何なのかも考えなくてはならない。それは、天皇でも、国家体制でもないはずである。
さてさて、愛国心、憲法論議はそろそろオサラバと思っていたのだが、まだまだ続きそうである。次は、仮想敵国が攻めてきたら・・・いったい僕たちはどうやって、何を守るのか、その辺りを考えてみたい。
Satoru Sun Maruyama
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