シフト3865

宇宙のシフトについて考える

コケシのしがく

2012-09-01 10:38:12 | Weblog

コケシのしがく

 瀬見温泉で宿泊した朝、コケシで著名な鳴子を通っているとき、「コケシ」の名前の由来がふと気になった。と、直感的に思い浮かんだのが「子消し」であった。
塩素殺菌技術が普及する前、乳児を含めた子供の死亡率は高かった。思い半ばで早世した子供達の魂は自宅を漂流し、母体に寄り添いっていたことだろう。その漂白の魂とその家族の思いに漂流する子の魂と姿を雑木のむくろに託し、土に還って往った躯に替える儀式、それがコケシの文化ではなかったろうか。子の魂を鎮魂し、封じ、この世から消し去ること、「子消し」がコケシの源流ではなかったろうか。水子地蔵の原点はコケシにあるように思える。(「むくろ」、美しい言葉である。これは「み・身」「から・殻」との説もあるが、「むく・無垢」「ろ・蘆」(無垢なる宿)、「み・御」「くら・蔵」(聖なる器)など、イメージの広がる言葉だ)
 乳児死亡率減少に強力な効果を発揮した塩素殺菌技術は安全第一信仰時代にあって、水道水への上限なき塩素投入という愚行にまで暴走し、天然水に含まれている有用ミネラルを水道水から消し去ることになっている。技術は常に暴走する危険をはらみ、命は微妙なバランスのうえに成立している炎の如きものである。我々の体に取り込まれ、細胞を生き生きとさせる非常に小さな子供達の如きミネラルの分子たちが命の水から消えて逝っている。大地の骸から生まれ、人間の躯へと流入し、生き生きとした命の営みを担うはずだったミネラルたちの魂はどこに行くのだろう。

東京の水道水がおいしくなったという。そこに使われているのは活性炭である。炭とは木々のむくろである。炭はもともと木という生命体のむくろだから、生命にとって有用なミネラル群の宝庫である。コケシという文化装置により、雑木たちは早世した子供達の最後のむくろとなる。その雑木たちがここでは水へのミネラル供給源として活躍している。木と人間との新しい共棲の形である。技術の暴走をとめるのもまた技術である。バランス感覚は文化の命である。

ミネラル群の生命体での機能はひとつには電子の供給である。細胞内ではミネラルと水素が共同して、細胞のエネルギーの源である電子を供給し、流通させている。そして、この生命のエネルギー源でもある電子という素粒子・量子の特徴はそれが粒としての自己同一性を持っていないことである。電子には個々の区別がない。あの電子、この電子、という区別がそもそもない。波のごとく、波動のごとく、全体的な総称でしか存在しない量子である。
となれば、コケシのむくろを構成している物質群に存在している電子群と東京の水道水を作っている雑木のむくろである炭に存在している電子群は決して別々の電子とは呼べない。これは物の確固とした輪郭と個別的存在に目を奪われている現代人からすると一瞬想像をこえることがらである。しかし、この電子の奇妙な性質を活用することで、現代人は日々携帯電話端末の便利さを享受している。


 鳴子の職人達が作り上げる現代のコケシ達に宿るもの。量子力学的現実から言えば、その山里で凛として立ち尽くしているコケシを構成している電子群は、東京スカイツリーに昇って携帯電話からその眺望を家族や友人に伝えている人間の網膜を構成している電子群とは同じ電子群なのである。鳴子のコケシ屋さんの店頭にならぶコケシ達の涼やかな目線の先には東京スカイツリーから展望される巨大なビル群が映っている。そして、その先の東京湾で最近増え始めた南洋のサンゴ虫がせっせと作り上げているサンゴの巨大ビルディングもまた映っていることだろう。コケシにとっては人類が創り上げたビル群とサンゴ虫が作り上げたサンゴ礁はともにカルシウムと炭素をベースにした命の躯・住まいである。そしてもうひとつ、スカイツリー展望台から歯が痛いとメールした女性の歯に棲みついて、増殖しすぎつつある虫歯菌が作った虫歯コロニーもまた等しくカルシウムベースの生命のむくろとして見えている。空間的自己同一性を持たない電子は時空連続体としての自己同一性ももたない。したがって、コケシの涼やかな目には、巨大化しすぎて歯科医師に一挙に殲滅させられた虫歯菌コロニーと、東京湾に棲みついた新種の生命体が創り上げた巨大コロニー群の最期が同時に映っていることだろう。

 残暑の夏、鳴子の緑陰を飛ぶセミたちはいかに鳴きくらしているのだろうか。地球上での数十億年にわたる生命歴史において円環した如くに、2012年の夏もまたゆく。


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