シフト3865

宇宙のシフトについて考える

重力について

2018-04-23 09:21:07 | Weblog

重力について
  -原意識 現象学 量子論 OCOT情報 ラー文書についてのメモ-

20世紀になって、哲学では現象学、物理学では量子論が非常に大きな知の地殻変動をもたらした。
この二つの潮流は人類史においては実は同質の潮流だろうと推測するが、同時に語られることは
あまりない。この20世紀地球上での知的イベントが、太陽系規模と自称されるチャネル情報2つ
(冥王星経由のOCOT情報と金星スタートの「ラー文書」)からどのように見えてくるのか、メモ
してみたい。アカデミックで華やかな二つの潮流と、それとは対照的にマイナーでありつつ科学
についてもラディカルに言及する二つの深層海流を対比してみたい。

1 現象学的還元と量子場

現象学と量子論についての時代をまず見ておく。
1905年 アインシュタイン 光量子の発見
1911年 フッサール「厳密な学としての哲学」として現象学がスタート
1921年 フッサール「内的時間意識の現象学」
1925年 シュレーディンガー「波動方程式」
1926年 ディラック「量子条件の定式化」
1927年 ハイデガー「存在と時間」
1949年 後期ハイデガー「四方域」
二つの学問が主にヨーロッパにおいて同時に展開していることが確認できる。
現象学的還元とは単純化すれば「もの」を「こと」に還元し、それを意識における現象にまで還
元することである。同時代、物理学の世界では全ての物質が量子場の振動に還元された。
フッサールは「こと」を「もの」からいったん切り離し、純粋な「こと」=意識という現象を丹
念に吟味することにした。その方法論を学んだハイデガーは「意識」の基本的構造を代表的著作
「存在と時間」においてシンプルに抽出した。それは「エクスターティッシュホリゾンタール
(脱自的地平的)な世界内存在」である。OCOT情報に翻訳すれば、負荷・対化・等化と読める。
ハイデガーは「負荷」を「エクスターティッシュ・脱自」と言葉化した。これは脱・外へと立・
存・持続・存在 の合成語である。数学物理学ではベクトル的な概念である。1次元ベクトル
(エクスターティッシュ)が2次元ベクトル平面化し(ホリゾンタール)、世界という3次元ベ
クトル立体となっている(In der Welt sein)。この意識の基本動態をハイデガーは現象学的
還元によって抽出した。そしてこの還元をさらにもう一段微分して「時間」を当時の人間が考え
ている根本的な「存在の意味」とした。これがハイデガーの前期思想である。
現象学からスタートしたハイデガーはその哲学思索の後期になると「四方域」という存在分節を
導入する。これは「天・地・神的なるもの・死すべきもの」の4分節である。これは概念的には
OCOT情報における「定質・性質・反性質・反定質」の4分節に相当するとするのが知的には生産
的であろう。


2 意識と重力

この、現象学により「生ける時空」についての考察を哲学が深めている時代、量子論は量子場理
論として完成の歩を進めている。とはいえ、量子場は電磁力、弱い力、強い力、重力の4つのう
ちの3つ(電磁場、弱い力、強い力)を統合した段階である。残りの重力の量子化は数学的に困
難で、いまだスタンダードな理論として決着していない。これは数学的困難さであると同時に実
験・検証の困難さにも起因している。
これら物理学の4つ力はOCOT情報における次元観察子ψに対応させることができ、以下のようにな
る。
ψ1,2 時空重力
ψ3,4 電磁力
ψ5,6 弱い力
ψ7,8 強い力
ψ1、ψ2は時空として語られているが、重力もここに割り当てていいのではないかと私は想定して
いる。実際量子論においても、重力と量子場の統合においては、重力と時間と空間をどう定式化す
るかが課題になってくる。
量子場理論と重力の統合は量子論と一般相対性理論との統合でもある。アインシュタインは重力を
空間の歪みとした。
ψ3~ψ8までに相当する3つの基本的な物理的力が量子論において量子場として統合されたことにな
る。残っているのは量子論でいえば、重力、OCOT情報ではψ1,2である。
ではOCOT情報では重力はどう定義されているか、引用する。

―重力とは何ですか
「中心を持つ力に働く顕質」
OCOTファイル19891122

そしてOCOT情報での次元観察子ψ1,2の定義は、ミクロからマクロに向うベクトルが次元観察子ψ1で、
マクロからミクロに向うベクトルが次元観察子ψ2である。この次元観察子ψ1、ψ2において時空が開
闢している。
このψ1、ψ2は要は中心を持つベクトルであり、重力とはこのψ1,2を開闢させている力に働く顕質と
解釈可能である。顕質とは、充てられた漢字から推測すると、OCOT情報における「観察精神」に近い
概念である。このことから、重力とはψ1,2において働いている「意識化するもの」、「原意識」と
呼べるもの、と推測したい。この原意識であるところの重力がもつ「顕質」がψ3.4の意識が働く場を
用意しているのではないか。重力という空間内部で働く力が意識という空間の外部から空間を見つめ
る機能を生み出している。

この推測をする際に参考になるチャネル情報がある。「ラー文書」と題されるチャネル情報である。
これについて少し解説する。
重力と意識の関係について参考になるのは1984年出版の本、ドン・エルキンズ、他著「ラ-文書」であ
る。これは凄い本である。著者は4つの学位をもち、機械工学、物理、工学の大学教授で、ボーイング
社の機長でもあるという。理系の学術的なバックボーンがある。そのため、質疑応答の内容が論理的に
充実している。関連部分を少し引用する。情報源はラーと名乗る意識体である。チャネラーはカーラ・
L・ルカートという女性で、図書館学で修士号を取得している。
宇宙創造のスタートについてラー文書は以下のとおりとしている。

※※※
ラー文書
NO1段階
「創造されたもののなかで最初に知られたものは無限です。無限は創造されたものです。」
(原文:The first known thing in the creation is infinity. The infinity is creation.)
No2段階
「無限が気づきを得たのです。これが次の段階です。」(Infinity became aware. This was the
next step.)
NO3段階
第3段階については、訳せば
気づきは「無限のフォーカス」を「無限エネルギー」に導いた。
「Logos」 あるいは 「Love」と呼ばれる存在。「intelligent infinity」(知的無限)とも呼べる
存在。「気づき・意識」原理としての無限の焦点化。
となるが、参考に原文を引用しておく。
「Awareness led to the focus of infinity into infinite energy.
You have called this by various vibrational sound complexes, the most common to your
ears being “Logos” or “Love.”
The Creator is the focusing of infinity as an aware or conscious principle called by
us as closely as we can create understanding/learning in your language, intelligent
infinity. 」
(ドン・エルキンズ他著「ラー文書」P254)参照
※※※

ここで出てくるfocus と infinity は量子場理論にでてくる局在と非局在に似ている。
ラー文書における「創造の第3段階」を量子場理論に変換すると、「意識が無限的広がりをもつ場を量子
化し、そこから無限のエネルギーが生まれてきた」「創造主は場を量子化し、それが意識原理であり、意
識の源は知的無限と呼ぶことができる存在である」といった理解ができる。
以下、この「フォーカス」を、OCOT情報でいう「中心をもつ力」の「中心をもつ」ということだろうと推
定して、思考をすすめることにする。
ラー文書における第1段階と第2段階とOCOT情報のψ1、ψ2の比較は実に興味深い。OCOT情報においてマク
ロ化とされ空間とされているものがラー文書では無限とされている。そしてOCOT情報でミクロ化、中心へ
向かうベクトルとされているものがラー文書では気づき、意識とされている。そしてこの意識は我々がロ
ゴスや愛と呼んでいるものであり、それはラーは「知的無限」とよべるものだとしている。
OCOT情報だと、重力は「中心を持つ力に働く顕質」である。相対論における空間に発生する「歪み」をOC
OT情報は「中心を持つ力」としている。この概念的近接性は明確であると私には思われる。顕質とは観察
精神や意識のベースになっているものと読み替えることが可能だろう。ψ3,4は電磁場であり、意識活動
の場であるから、そのψ3,4のベースになっているψ1,2は中心をもつ空間であり、そこは重力場というこ
とになる。だから、ラー文書でロゴス、愛、知的無限とよばれているものの別名が物理における重力と考
えられることになる。
ラー文書が「気づき」と概念化したものは相対論における「歪み」であり、OCOT情報における「中心を持
つ力」であろう。
ラー文書の特徴的な概念は「歪み」である。ラー文書においては意識活動とは歪みであり、偏差、差異と
呼べる偏りが意識の本質とされている。この歪みについてはラー文書における宇宙創造の次の段階である
第4番目の説明の中に出てくる。解釈が難しい文章なので、まず英文を引用する。
The next step is an infinite reaction to the creative principle following the Law of
One in one of its primal distortions, freedom of will.
(次の段階は創造原理に対する無限なる反応である。それは一なるものの法に導かれる。そして一なるも
のの法の根本的な歪みのうちの一つが自由意志である。という訳になるだろうか。あまり自信はないが。
OCOT情報で翻訳すれば、最初の負荷に対する対化となるだろう。一なるものの法の根本的な歪みのひとつ
が自由意志という歪みだとラー文書は語っている。)
この distortionはラー文書に頻出する語彙である。ラー文書ではこの「歪み」は決して否定的なものと
されていない。文化とはひとつの歪みなのであり、それはそもそもラー文書が個別意識自体を「歪み」と
捉えているからだと推測する。
アインシュタインは重力を空間の歪みとした。ラー文書においては歪みが意識現象における根本的な要素
とされている。「具体的な意識内容」は「一なるものの法に生じる歪み」である。重力と意識発生の密接
な関係をラー文書はかたっていると私には思える。

意識を成立させているものが重力だとすると、どうなるのだろうか。

重力場とは我々にとって最も身近なのは地球重力圏である。地球についてはOCOT情報は観察精神と呼んで
いる。意識活動の根底において意識を支えている「原意識」とは地球の重力であり、地球という観察精神
ということになる。また、衛星である月も重力源の一つであるから意識を構成する要素となることになる。
そしてもうひとつ身近な重力の源は太陽である。意識の源が重力であるのなら、我々の意識は地球意識で
あると同時に太陽意識である。地なるものと天なるものが我々の意識の基本的な領野をなしているという
ことである。現象学のハイデガー後期の詩学的哲学の語る四方域の二つ、天と地である。となるとハイデ
ガーの四方域とはOCOT情報で変換すれば、ψ1,2 が天と地であり、ψ3,4が「神的なるもの」であり、
それ以降のψ5~9が「死すべきもの」と分節できる。このψ5からψ9までの次元観察子はOCOT情報では電子
にはじまるフェルミオン粒子が構成されてくる次元であり、まさに「物」の世界である。ハイデガーはこ
れらを「死すべきもの」としたことになる。

天文学的に言えば、太陽重力圏は、より広範な天の川銀河の重力圏に存在するローカルな重力圏である。
その意味では我々の意識は天の川銀河に属する巨大意識系のなかに位置する一つのローカルな意識現象と
いうことになる。天の川銀河を創り出している重力場を一挙に局所化して、我々は地球に棲んでいる。よ
り正確に言うならば、天の川銀河の重力圏と太陽の重力圏と月の重力圏と地球の重力が一挙に量子化され
た局所として私の意識は、日の光あふれる昼は地上の風景を眺め、夜は月明かりの下で天の川銀河の星々
を眺めている。

意識の母胎が重力であるとの認識が我々に与えるインパクトは鮮烈なものとなる。意識の故郷は地球であ

り、太陽であり、天の川銀河となるのだから。


そうなると、占星術は太陽系内に存在する複数の重力圏(=惑星)が意識に与える影響を分析する天文学
の一種ということになり、将来は量子重力場天文学の一分野になってしまうということである。将来の星
占い師の資格試験には一般相対性理論についての理解が加わるということになる。
死ぬと人は星に帰るという。意識の源が重力であるとすれば、この言い伝えには深遠な意味があるのかも
しれない。我々は生きていようが死んでいようが、意識がある限り、地球の重力と月の重力と太陽の重力
と天の川銀河の重力に支えられている。否、個としての意識が消えてもそれぞれの重力圏は意識の母とし
て広く、永く存在しつづけている。死後、我々の意識は地と天に回帰しているのだろうか、あるいは天に
も属さず地にも属さぬものとして月の重力圏で次の受肉を待っているのかもしれない。因みにOCOT情報は
死んだ後の意識がどこにいくかについて「新しい次元を生み出すための力として月の中に貯えられるとい
うことです。」(「シリウス革命」P325)という謎のようなメッセージを伝えてきている。


画像はアンドロメダ銀河 写真出典
https://plaza.rakuten.co.jp/gingaharuka/diary/200909070000/

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時空の織姫

2017-07-01 11:42:12 | Weblog
時空の織姫


存在の基本分割の筋目を4とするのか7とするのか、両者の等化原理を考えていたら、半田さんがタイムリーにツイートしてくれた。今度出版されるシュタイナー本でその辺について言及があるかもしれない。あるいはあるらしい。期待したい。

半田さんのツイートを引用すると
※※※引用開始
今回、シュタイナーとのコラボをやって、シュタイナーが存在をつねに四つのステージに分けて思考していることを知った。1、2、3、4と進んだら、今度はそこから3、2、1と降りてくる。つまり、1、2、3、4、3、2、1、というように。4が中心となって、7のシステムを作っている。

これはシュタイナーの存在論を貫く根本的な原理と言ってもいいものだ。例えば、私たち人間の自我の構成であれば、物質体、エーテル体、アストラル体、自我、というのがこれに当たる。
※※※印象終了

なるほど。要はウロボロスの蛇の体長を4センチにするのか7センチにするのかの違いでしかないらしい。

太陽系はプレアデスが7の原理で作ったと言われたりする。他方、創造主の創造原理は4だと言われたりする。
この4と7の違いは上昇と下降、上昇と浸透の切り替えポイントをどこに置くかの違いらしい。もしかすると銀河規模だと4、太陽系規模だと7なのかもしれない。銀河規模よりも太陽系規模はひとつ、浸透度合いが高い。進化の裏面は創造だから、メビウスリングの4センチまでを表と定義するか、7センチまでを表とするかの違い。メビウスリングの全体構造を理解・等化できてしまえば、どうでもいい話になる。要はいつ、どこで、誰に対して語るかのシチュエーション、その意味では仏教のいう方便である。

この課題が意識に上ったのは、「デマルケレポート」「デマルケ氏のアブダクション情報」を再読したためだ。(「超巨大「宇宙文明」の真相」ミシェル・デマルケ著 徳間書店)
このなかで、デマルケ氏をアブダクションした存在は創造原理を「4つの高次の力」と語っている。私なりに強引に翻訳すると、この4つは、
第1の力 物質原理
第2の力 エーテル体原理
第3の力 アストラル体原理
第4の力 分霊原理
と翻訳できそうだ。
シュタイナーの4つとほぼ重なる。というか、シュタイナーチックにデマルケレポートを読むとこう解釈できる、と言った方がより正確だろう。
そしてこの第4の力が非常に面白い。基本テキストに比較的忠実にこの第4の力をまとめると、こうである。
※※
第4の力
創造主は物質界を通して精神的な体験を求めた。この体験を得るために、聖霊は自分の霊の一部分を物質的存在に具現化させようとした。これを行うために第4の力を求めた。
この領域では、宇宙の法則が適用される。第4の力は聖霊が想像したことの全てを実現しなければならない。そこで、聖霊の無限小の部分を人間の体に挿入した。
※※

で、この第4の力はハイアーセルフとしてそれ以外の3つの力で創造された領域に浸透していく。要は1,2,3,4、3,2,1 である。このいわば銀河系規模の浸透の下り道を創造の新段階として展開すれば、太陽系規模の1,2,3,4,5,6,7、のプレアデス原理となる。地球人からみれば、だだっ広い空間となっている4原理の銀河時空を、時間的原理7つで折り紙にすると、空間的により狭い太陽系が出来上がるということだ。
こういう折り紙細工を考えたのはもしかすると、織姫・こと座系の知生体グループなのかもしれない。時空の織姫。美しく見事な折り紙細工。だからこの太陽系という7原理の折り紙を開くと、4原理の銀河系の紙に還元されてしまう。そしてこの折り紙技術は太陽系という折り紙細工をもう一度折り返して、地球の生態系という折り紙作品を作り上げている。得意のフラクタル技術を駆使して、この入れ子細工は細胞構造までも作り上げている。このフラクタルな折り紙細工を一挙に串刺しにする視点を持つと仮定されるのが創造主1者となるが、その分け御霊、分霊を宿す我々は折り紙をひとつ開いて、一つ組み立てて、その技術に驚嘆するのが仕事らしい。

童はむかしからこの自らの運命を、幼い時期から刷り込むかのように、楽しげに繰り返し歌ってきた。「むすんで、ひらいて、ひらいて、むすんで、また、ひらいて、手を打って、その手を・・・・」

写真はマトリョウーシカ人形の写真を以下HPより借用
http://health-food-bev.kao.com/visceralfat/1615/

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意識と電磁場2 -記憶の場所ー

2013-11-04 09:45:58 | Weblog

あの人、光ってるねえ、とか、オーラがあるねえ、とか、日常でよく話題になる。
意識活動の指標として電磁波が使えるということは、脳科学の常識。電磁波の中
のごく限られた波長域の光しか通常は意識化できていない。しかし、その感知範
囲はあくまで統計処理的に客観化されているものであって、瞬間的に今、私がど
ういった感知範囲で相手を見ているかを示してはいない。したがって、相手の意
識活動から発せられる電磁波=光の束をどう感知しているかは時間的に変動する
し、場所によって変動するし、各人の感性によって変動する。これは実に常識的
な話である。



記憶の場所については脳科学の一つのテーマだ。脳神経系のネットワークのなか
にパターンとして記憶されているのではないか、といった仮説も提示されている。
これはこれである種の真相に近づいているようにも思う。記憶の物質的基盤は何
なのか?コンピューターのメモリーチップのようなハード的基盤を持っているの
か、といえば、多分そういったハード的基盤に依存した記憶もあるだろう、とは
思う。
しかし、ふとしたきっかけで、30年以上もまえの高校時代にバレーで突き指した
指先の痛みの記憶を思い出すことがあり得るが、その記憶は脳神経ネットワーク
のどこかにデータとしてハード的基盤をもって保存されていたのだろうか?
 他方、量子場理論など、素粒子物理学が科学的厳密さをもって積み上げてきて
いる体系によれば、意識活動の根拠は電磁波にあり、その電磁波の実体は時間軸
を一つの自由度をもって実在している。電磁波の根拠にあっては未来も過去も一
つの任意の座標点でしかない。肉体が前後に移動できるように、電磁波は未来と
過去に広がっている。
 頭脳の襞の奥の奥は量子場的な時空連続体に直結している。ここをハード的記
憶基盤と呼ぶのか、ハード的基盤なしの情報源と呼ぶかは、光が粒なのか波なの
かという前世紀の議論に退化することだ。光は波でありつつ粒である。
 私によみがえった指先の痛み、それは36年前の意識活動に刻まれた情報を意識
の本体である電磁波の海原から拾い出してきた記憶断片ではないのだろうか。
 とすれば、アルコールという概念から想起されてくるイメージは、数年ぶりに
味わうアルコールの過去記憶からの情報断片かもしれないし、明日という未来軸
と共鳴して一体化している電磁波からの予感情報かもしれない。
 昨日の記憶でさえ、すでに内臓ハードディスクの容量を溢れてオーバーフロー
して思い出せないと思えるような小さな頭脳に、半世紀分の膨大な画像動画デー
タが蓄積されつづけていると考えるのか、最近のクラウドコンピューティングの
ように、ネットワークの巨大記憶装置から呼び出していると考えるのか。近年の
量子物理学の進展によれば、どちらととらえるかは単なる趣味の問題になってい
る。意識活動の基盤となっている電磁波は我々の宇宙全体に空間的にも時間的に
も満ち満ちていて、そこには距離の制約も時間の制約もないらしい。そういう科
学的常識の世界に我々はどうも生きているようだ。

そしてこの電磁波の海から記憶を引き出して、脳の通常意識活動の領域にまで引っ
張り上げ来る感応装置は多分、水であり、その水を構成している水素原子だろう。
なにせ水素原子は最もシンプルな分子で、もっともシンプルな量子体である。そ
れは電磁波のちょっとした動きを感知することから、人体の画像診断装置として
使われているほどである。その意味で、機能的磁気共鳴画像(ファンクショナル
MRI)の開発を手掛けている中田力氏の研究が期待される。

アルコールがなぜ意識活動に影響を与えるのか、中田氏によれば、アルコールが
水に溶けて大脳に侵入して水の量子的振動に影響を与えるからということになる。
アルコールがいかに大脳に作用して意識活動に影響を与えるか、この実験は日々
人類によって実証されている。

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意識と電磁場

2013-11-03 22:36:37 | Weblog

意識と水素の関係はこれから理論展開が必要な分野です。ここで重要なのは量子力学、量子場理論の動向です。意識活動と脳波の相関性は現代では自明化しています。この脳波すなわち電磁波と意識の関係がキーになると思います。

(因みに半田広宣氏の著書「2013:人類が神を見る日」には
「 電磁場(光)とは人間の意識が生み出されているところです
      シリウスファイル:19910805    」
があります。)

この関連で押さえておく必要のあるところを一般向け入門書から引用します。
出典は、講談社ブルーバックの「場の量子論とは何か」(和田純夫著)です。

 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
「我々が通常電磁波とよんでいるものは、一つの光子ではなく、無数の光子の集団です。」
(前掲書 P61)

「共存度の分布(つまり波動関数)でも、‥(中略)・・・共存度は、どの状態が存在するのかという存在確率をあらわすのではなく、実際に複数の状態が共存しているようすをあらわすものです。したがって、共存度には確率という概念よりも実質的な意味があります。」
(前掲書P62)
「このような光子の集団が、従来の電磁波の実体なのです。19世紀には、光も含めて電磁波は、電場と磁場の波だと考えられていました。しかしそれは結局、光子という粒子の集団であることがわかりました。そして電場と磁場というのは、光子という粒子のもつ、ある二つの性質をあらわしたものになっていることもわかりました。くわしくいえば、光子の共存度の時間的変化(共存度を時間で微分したもの)、および空間的変化(共存度を空間座標で微分したもの)がそれぞれ電場と磁場に対応します。」
(前掲書P62)

    ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
          
4次元時空連続体における光子の集団の動きが電気の流れや磁場の変化として現れている。意識活動の指標として観測できる脳波は、したがって、意識活動という光子集団の動向を計測していることになる。この光子集団は脳で集中的に処理されているが、その信号のスタートは全身にある神経細胞であり、その神経細胞に刺激をもたらす全身の細胞群である。緑茶の味わいや蕎麦の味覚は大脳で処理されてはいるが、その大脳内部に味の正体があるわけではなく、舌や喉に張り巡らされた細胞ネットワークが感知した「緑茶」や「蕎麦」こそが味の正体である。
同様に、腹が据わった人物とか、心が痛む、という表現のもつ豊さ。我々は全身でもって生きて感じているわけであって、脳の情報処理だけが生きているわけではない。相手の心を感じ取るセンサーは自分の心(心臓?)にある可能性を決して否定してはいけない。

4次元時空連続体に源をもつ我々の意識活動が過去の記憶や未来の予知をどこからくみ取るかと言えば、4次元時空連続体として定式化されている波動関数的量子場からである。その数式においては、すでにない過去といまだ到来していない未来は時間軸は変換可能な存在である。すくなくとも、我々の意識活動は過去に開かれていると同様に、未来にも開かれている可能性は否定できないことになる。

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蜘蛛の糸の如く

2013-10-14 11:13:56 | Weblog
蜘蛛の糸はよくよく目を凝らしてみないと見えないことがある。糸がみえないと、蜘蛛は空中に静止しているように見える。夜空の星々と同じ。蜘蛛がそうであるように、夜空の星々、否、日中の星々もそれと地球との間に張り巡らされた糸は見えにくいだけで、ある種の感覚を研ぎ澄ますと、そこに張り巡らされた関係が見えてくるのではないだろうか。その関係が古来星座やその物語として語り継がれている。
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蛆虫もまた

2013-03-08 05:48:43 | Weblog
風になって、草原を移動。羊の群れ。子羊が勢い余って柵から飛び出て、川に落ちた。溺死して、死体が水たまりに浮かび、蛆虫が分解作業にはいる。頭蓋骨の眼窩から出てきた蛆虫。彼も神の子、私の前世、私の一部。とのイメージ。
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謹賀新年

2013-01-07 05:07:01 | Weblog
新銀河創成
蝶の如く、対称に、フラクタルに
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コケシのしがく

2012-09-01 10:38:12 | Weblog

コケシのしがく

 瀬見温泉で宿泊した朝、コケシで著名な鳴子を通っているとき、「コケシ」の名前の由来がふと気になった。と、直感的に思い浮かんだのが「子消し」であった。
塩素殺菌技術が普及する前、乳児を含めた子供の死亡率は高かった。思い半ばで早世した子供達の魂は自宅を漂流し、母体に寄り添いっていたことだろう。その漂白の魂とその家族の思いに漂流する子の魂と姿を雑木のむくろに託し、土に還って往った躯に替える儀式、それがコケシの文化ではなかったろうか。子の魂を鎮魂し、封じ、この世から消し去ること、「子消し」がコケシの源流ではなかったろうか。水子地蔵の原点はコケシにあるように思える。(「むくろ」、美しい言葉である。これは「み・身」「から・殻」との説もあるが、「むく・無垢」「ろ・蘆」(無垢なる宿)、「み・御」「くら・蔵」(聖なる器)など、イメージの広がる言葉だ)
 乳児死亡率減少に強力な効果を発揮した塩素殺菌技術は安全第一信仰時代にあって、水道水への上限なき塩素投入という愚行にまで暴走し、天然水に含まれている有用ミネラルを水道水から消し去ることになっている。技術は常に暴走する危険をはらみ、命は微妙なバランスのうえに成立している炎の如きものである。我々の体に取り込まれ、細胞を生き生きとさせる非常に小さな子供達の如きミネラルの分子たちが命の水から消えて逝っている。大地の骸から生まれ、人間の躯へと流入し、生き生きとした命の営みを担うはずだったミネラルたちの魂はどこに行くのだろう。

東京の水道水がおいしくなったという。そこに使われているのは活性炭である。炭とは木々のむくろである。炭はもともと木という生命体のむくろだから、生命にとって有用なミネラル群の宝庫である。コケシという文化装置により、雑木たちは早世した子供達の最後のむくろとなる。その雑木たちがここでは水へのミネラル供給源として活躍している。木と人間との新しい共棲の形である。技術の暴走をとめるのもまた技術である。バランス感覚は文化の命である。

ミネラル群の生命体での機能はひとつには電子の供給である。細胞内ではミネラルと水素が共同して、細胞のエネルギーの源である電子を供給し、流通させている。そして、この生命のエネルギー源でもある電子という素粒子・量子の特徴はそれが粒としての自己同一性を持っていないことである。電子には個々の区別がない。あの電子、この電子、という区別がそもそもない。波のごとく、波動のごとく、全体的な総称でしか存在しない量子である。
となれば、コケシのむくろを構成している物質群に存在している電子群と東京の水道水を作っている雑木のむくろである炭に存在している電子群は決して別々の電子とは呼べない。これは物の確固とした輪郭と個別的存在に目を奪われている現代人からすると一瞬想像をこえることがらである。しかし、この電子の奇妙な性質を活用することで、現代人は日々携帯電話端末の便利さを享受している。


 鳴子の職人達が作り上げる現代のコケシ達に宿るもの。量子力学的現実から言えば、その山里で凛として立ち尽くしているコケシを構成している電子群は、東京スカイツリーに昇って携帯電話からその眺望を家族や友人に伝えている人間の網膜を構成している電子群とは同じ電子群なのである。鳴子のコケシ屋さんの店頭にならぶコケシ達の涼やかな目線の先には東京スカイツリーから展望される巨大なビル群が映っている。そして、その先の東京湾で最近増え始めた南洋のサンゴ虫がせっせと作り上げているサンゴの巨大ビルディングもまた映っていることだろう。コケシにとっては人類が創り上げたビル群とサンゴ虫が作り上げたサンゴ礁はともにカルシウムと炭素をベースにした命の躯・住まいである。そしてもうひとつ、スカイツリー展望台から歯が痛いとメールした女性の歯に棲みついて、増殖しすぎつつある虫歯菌が作った虫歯コロニーもまた等しくカルシウムベースの生命のむくろとして見えている。空間的自己同一性を持たない電子は時空連続体としての自己同一性ももたない。したがって、コケシの涼やかな目には、巨大化しすぎて歯科医師に一挙に殲滅させられた虫歯菌コロニーと、東京湾に棲みついた新種の生命体が創り上げた巨大コロニー群の最期が同時に映っていることだろう。

 残暑の夏、鳴子の緑陰を飛ぶセミたちはいかに鳴きくらしているのだろうか。地球上での数十億年にわたる生命歴史において円環した如くに、2012年の夏もまたゆく。


2012 8 31
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クリシュナムルティvs中田力

2012-07-21 09:53:36 | Weblog
「クリシュナムルティの生と死」読みました。「水は水のことは語れない」
といった水への言及がクリシュナムルティにはよくある。なぜこの比喩は
水なのか。中田力氏に「脳のなかの水分子」という著書がある。二人が水
について対話したことは多分ないだろうと推測する。では、二人が水と意識
について対話したらどうなるか。興味がわいている。とりあえず、ボームと
クリシュナムルティの対話を読んでみようと思う。
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それぞれの山河ー永遠の水面の光増す夢ー

2012-02-05 14:44:57 | Weblog

それぞれの山河
―永遠の水面の光増す夢―
                 
 
    人は皆 山河に生まれ 抱かれ 挑み
    人は皆 山河を信じ 和み 愛す
    
   そこに 生命をつなぎ 生命を刻む
   そして 終には 山河に還る
   
    
       
              「山河」小椋桂・作詞 より冒頭部引用


今頃になって恐縮なのだが、小椋桂氏の「山河」、いい曲だと思う。なぜ今頃かといえば、当初耳に入ってきたころは、歌詞の一節「永遠の水面の光増す夢を河に浮かべたろうか」に背筋がゾクッときたが、一方、「あいするひとのめに、おれの山河はうつくしいかと」の一節にナルシスティックな違和感を覚え、直ちにCDを求めるまでの思いにいたっていなかったから。
最近、小椋さん本人が歌う「山河」をユーチューブで聞き、イメージが変わった。そこで遅まきながら、DCを買い、じっくり聞いたり、歌詞を目で確認したりしたところだ。たとえば「あいするひとのめに」は「愛する人の瞳に」であることを知った。「俺の山河」も「俺の個人的業績」というよりは「俺の歩んできた道のり」という自省的ニュアンスが作詞者の意図に近い気がしてきた。

「永遠の 水面の光 増す夢を河に浮かべたろうか」

「永遠の水面の光」とは神秘家やその研究者にとっては有名なイメージで、それは没我の境地で展開される意識内容、魂が還る意識の全体性、宗教家だと神からの恩恵、啓示など、意識の究極、超越的境位を表すイメージ。小椋氏はこの一節を書きたくてこの詩を作ったのかも。
かなり堅固な自我意識を時代のモードとしてもっている現代の我々にとって、「永遠の水面の光」は死後に魂が帰っていく究極の場所という意味合いが強い。その究極の全体性の地上端末として肉体に宿り、様々な経験を積んでいるのが生前の我々。その生涯が究極の全体性にどのような情報をもたらし、影響を残すか。その究極的なるものの予感として、少なくとも地上端末として在るとき、我々が自ら感得できる我々の生涯を貫く価値基準のひとつは「美」なのかもしれない。

「水面の光増す夢」

素粒子理論的に言えば、光、即ち光子はボーズ粒子であり、同じ位置に無限に同時存在できる性質をもっている。即ち光の輝きには限度がない。では、意識覚醒の究極的イメージである光る水面、あるいは一在的に躍動する生ける時空連続体的な水面の「光を増す」とはどんなことなのか。それは輝きに乏しい物質群に輝く時をもたらすことなのだろうか。自由で全方位的な躍動状態から定常波的ループ構造に落ち、全体との親和性が低下している物質群に再び共鳴的創造的躍動を喚起し、輝きをもたらすことではなかろうか。各々離散的に存在する物質群の持つ物質的特性を、より広い物質群との交響的共鳴、共存へと結び、美しいタペストリーを織り上げること。固有性を維持しながら、自由に他と交わること。固有の振動数を獲得し、安定し、慣性をもち、重力と反応する物質群の、その安定性を維持したままに、全体との共鳴を喚起し、調和的に共存させしめること、これが「永遠の水面の光を増す夢」を河に浮かべることではないか。

こむずかしい概念が並んでしまうが、要は、たとえば、路傍の紙片を砂丘の砂粒のごとく放置せず、ごみ箱に導き、資源リサイクルの循環の輪に復帰させること。こういった些細でありながら勇気のいる行為が美しい行為であり、永遠の水面の光を増すことなのではないか。物に問いかけ、物に命をあたえること、物に形と機能を与えること、意識の海に浮かべること。物を慈しむこと。物を厭離すべき汚れた存在とせず、人生の伴侶として慈しむこと。そして、これは「物」だけでなく「事」においても同様だろう。この世にあることで出会う様々な浮世事、その全体としてのこの世の生そのもの、これを苦として遠ざけるのではなく、苦は苦として味わい、快は快として味わうこと。
固有であり自由であるという一見対立する特性を調和させる比ゆ・メタファーに相応しいのは人の持つ「私」という概念の固有性と開放性である。このユニークな創造物を地球はいかにして獲得したのか。これを直感的に理解するために、再びメタファーを援用し、自己意識を可能にしている生命現象に学びたい。

私が私としての慣性と安定性を維持しているのは、肉体的自己の安定性に拠っている。では生物体としての自己同一性を生物はどう獲得し、維持しているのかといえば、重要なのは、高度な生命維持機能であるところの免疫機能である。これにより、生物は環境との複雑で高度な動的平衡状態を維持している。

意識の起源は生命にある。自意識の母は免疫学的生命維持機能であると推測する。即ち、生命体としての私が環境との絶えざる動的交渉にあることを起源として、自意識が生まれてきていると推測される。この免疫における生命の自己同一性維持原理、即ち免疫学的「自己」維持の原理は明確である。免疫的自己とは「非自己でないもの」である。一個の生物体を維持している膨大な物質循環、新陳代謝の機能と共存ができないものは、自己ではない「他」として排除される。即ち、自己に組み込めない「他者」は抗原抗体反応でもって体内から排除される。排除されるのは、免疫的自己と共存できない免疫的非自己である。そして逆に、非自己として排除されることのない物質群は生体内に取り込まれ、個体内の物質循環と共存し続ける。「非自己ではないもの」として、自己を構成する要素となる。「Aとは非Aではないものである」という二重否定が生命において動的平衡を維持し、新たな環境への適応を可能にしている。開かれた自己の起源は開かれた免疫機能にある。
我々の自己も同様である。私とは非私ではないものであり、この二重否定となる定義の開放性が自由という意識を生んでいる。因みにこの二重否定は宇宙の存在自体にも関わっていると推測する。「ゼロとは非ゼロではないものである」「ゼロとは1ではないものである」といった定義が時間軸を産み、時空の開闢を可能にしたのではなかろうか。

「AはBである」という硬直した定義には自由の発生する余地がない。それに対して、Bが「非Aでないもの」かどうかは直ちにはわからない。空間的直感だけではなく、時間的経過をみなければならない。たとえば、この異物が食えるかどうは実際に食べてみないことにはわからない。しかも体に悪いかどうかは直ちにはわからない場合もある。
ヨウ素と放射性ヨウ素を区別する免疫能力を生物は獲得していない。なぜなら、生命の長い歴史において放射性ヨウ素など遭遇することはほとんどなかったからだ。3.11以前にはヨウ素は有用で無害な物質として生体に蓄積され、利用されてきた。ヨウ素は生物学的な免疫学的自己を構成することの可能な原子であった。仮に放射性を出し続けるヨウ素が自然界に高頻度で存在していたならば、生物はヨウ素を生命活動と共存できる元素とはみなすことができず、ヨウ素の代わりになる元素を利用してきたことだろう。

生命体は二重否定原理によって固有の構造という緻密な拘束性と自由を共存させている。我々の自己もおそらくは同様の原理で、他者と共に世にありつつ、自由と自覚される開放を感じている。経験によって自己を形成し、様々なきめ細やかなきまりや法則性を自己と共存する原理として許容し、しなやかな自己を練り上げている。身体が絶えざる免疫学的交渉によって自己を維持しているように、我々は経験により自己を作り上げ、自己を発見、自己を創造している。この経験へと開かれた自己存在の様相を我々は自由と呼んでいる。その意味で、自由な社会とは安定した法治国家においてしか実現しないと考えたほうが確実である。禁止則が網の目のように張り巡らされた場にあって、その禁止則をすべて習得した時、人は自由を獲得できる。みんなが交通ルールを守って走行する道路と誰も交通ルールをまもらない道路でどちらが車を快適に乗り回せるかは自ずから明らかである。

場に張り巡らされている多くの禁止則をすべてマスターしたとき、我々は自由にその場でふるまうことができる。それはフィギアスケーターのあの自然な滑りが長期的訓練により獲得されることと似ている。そしてそのプロセスを経て、はじめて自発的で創造的な自由な行為が可能になる。いわば、この宇宙に存在する「理」を自らの拠る「理」として許容することにより、我々は宇宙の自由な住人となる。この理をわきまえ、自己を構成する要素としたうえで、なお開かれている無限の可能性を探求すること、より美しい宇宙へと宇宙を創造していくこと、宇宙の創造行為の先端として宇宙創造に参加すること。それが「永遠の水面の光を増す夢を河に浮かべること」ではないだろうか。苦行的学習を許容し、自然に、軽やかに、美しく。苦と快とは同じ紙面の裏表である。苦を苦と許容したとき、快は快として全的に訪れる。


 ―ふと想う 悔いひとつなく 悦びの
  山を築けたろうか
  くしゃくしゃに 嬉し泣きする かげりない
  河をいだけたろうかー
               (小椋桂 作詞 「山河」より引用)
           
   

結局、世界として我々が許容し、ともに生きているものたちとは、自己を構成する要素の裏返し、ゲシュタルトチェンジにおける、図と地の関係にあるものたちである。とすれば、机上のキーボードに「あなた」という態度で接することができたとき、路傍の芥に自己の影を思うことができたとき、我々の肉体を含む「固有の慣性をもつ物体たち」は、「時に、全体性の海へと喜んで飛び込み、時に、再び固有性へと回帰する」、という勇気を獲得するのかもしれない。愛がベースにあるときにのみ自己否定の勇気が可能となるのではないか。そのとき、「肉体次元を意志的に還元し、永遠の水面に回帰し、再び肉体次元の固有性に回帰する」という夢のような自由度を人は獲得できるのかもしれない。これは聖者の神秘体験と似ているし、テレポーテーションと呼ばれている能力とも似ている。これが特殊な個人の特殊な体験ではなく、地球に棲む人すべてが共有できるごく普通の経験となる時代、それが弥勒時代と呼ばれる時代かもしれない。
関連で付け加えれば、顧みられることなく隅に捨てられた紙片は銀河系の情報ネットワークから切り離されている天の川銀河系の辺縁の惑星、地球に似ている。



「二階の鐘樓一宇。
  廿(二十)釣の洪鐘一口を懸ける。
 右に、一音の覃所(たんしょ)は、千界に限らず、苦しみを抜きて、樂を興   
え、普ねく皆平等なり。官軍と夷虜(いりょ)の死の事、古来幾多なり。毛
羽鱗介の屠(と)を受けし、過現無量なり。精魂は、皆他方の界に去り、骨
は朽ち、猶もって此土の塵となる。鐘の聲(ね)の地を動かす毎に、冤霊(え
んれい)をして、浄刹(じょうさつ)に導かさしめん。」
(「中尊寺落慶供養願文」より引用)

およそ千年前に奥州の地に安倍の血を引く藤原清衡が大乗仏教的知を基盤として平泉中尊寺を建立した。その際にその建立精神を述べた「中尊寺落慶供養願文」には敵味方の戦死者の魂だけではなく、人間により生命を落とした生きとし生けるものすべてを浄土に導くことが目指されている。全衆生が救済されない限り、自己の救済はありえない、とする古の大乗的仏教思想。そしてその日本的展開としての清衡の「生きとし生けるものすべてを浄土に導く」という浄土平泉の思想。その思想の延長上にある究極的思惟は全物質を済度せんとする弥勒の思惟である。その意味で、弥勒は究極の未来仏である。この未来仏が到来する時は仏教的には56億7千万年後といわれている。いつから数えて56億7千年後なのか。現代科学の知見では宇宙が誕生してから137億年、太陽系の年齢は46億年だという。

因みに核力による物質の崩壊、エネルギー化は物質の固有性自体を消滅させる技術である。エネルギーへと変換されてしまう物質たちは再び物質としての安定性と固有性を獲得することはない。彼らはエンタルピーとエントロピーのしじまのなかに消えていくのみである。仏教的概念で語れば、成仏せずに不浄なる存在のままに消されていく存在と比喩できる。この技術によりいわば「屠を受けし」物質たちを浄土に導く「鐘」は少なくとも現在の地球にはなく、生命原理と共存できない放射能を帯びた塵芥が山河を汚し続けている。人間活動への貢献により核廃棄物化した物質群を汚いものとして封じ込めたまま、次世代に遺していく営為は私には美しい行為とは思えない。他に糧を得る方法があるのであれば、そちらを選択することが人間的英知だろうと私は思う。経済性などというその場しのぎの甘言により見切り発車することと、刹那的ゲーム遊びに興ずる子供とに違いなどない。


 こういった思考展開を許容するような哲学や宗教領域における究極的なイメージを歌に乗せてしまう小椋氏の醒めた感性はすばらしい。そして、そもそも「うた」とは古来自己の内と外にできた電位差を解放するスパーク、ささやかな発光現象だったはずで、小椋氏のうたづくりは古来のやまとうたの伝統を引き継いでいると言える。


「愛する人の瞳に俺の山河は美しいかと」

「愛するひとのめ」の「め」は目でも眼でもない瞳。自己と他者の明確な区別を前提とし、鋭い視線が交差し、主観と客観の対峙のかまびすしい「目」ではなく、瞳である。あたかもブラックホールのごとき無限のキャパシティで光を受け入れる瞳。
ナルシスティックな思いというのは主客峻別の誤解から生まれる妄想である。自己とは非自己でないものでしかなく、自己陶酔とはループ構造に落ち込んだなにものかのショートした幻想である。
「自分の輝かしい業績」といった妄想を連想させる「俺の山河」のギラツキと偏光は、しかし、「俺即ち自己」の座標をひとつ上げてしまうと、透明感がまし、違和感が薄れる。たとえば、「山河」とは「個人的業績」ではなく、故郷の究極である「地球そのもの」とみなす展望点に上昇してしまうというテクニックである。「俺の山河」とは「地球」のことだとしてしまう。とすれば、「自己」を見守る「愛する人の瞳」とは、広大な天の川銀河を共に旅する恒星、永遠の伴侶、即ち太陽となる。その地平に立つならば、「愛する人の瞳に俺の山河は美しいか」という一節は「永遠の伴侶たる太陽からみたときに、地球はより美しくなったろうか、美しく映るだろうか、という意味を持ってくる。「俺の山河」の「の」は所有を意味する言葉ではなく、「私の故郷」といった使い方、所属を意味する言葉となる。

もうひとつスケールを上げて、「愛する人の瞳」を「天の川銀河の中心・グランドサン」としたときには、「俺の山河」とは太陽系が属する天の川銀河全体となる。グランドサンという瞳にみえてくる光景、それは地球を含むこの太陽系全体を山河として生きる意識体にしかわからない光景だろう。それは、太陽がグランドサンを一周する2億2千6百万年を一年の年月として刻む意識体である。これはある意味、我々の抱く時間意識とは違ったスケールである。

とはいえ、その超大な時間軸を理解不能として把握不可能ととらえるのは早計ではないだろうか。掴むのではなく、触れること。比ゆ的イメージを抱くことは可能ではないか。物質の総体としての宇宙がフラクタルな構造をもっているとすれば、グランドサンと太陽との関係は太陽と地球との関係にフラクタルダウンできる。太陽を鏡として地球生活をおくることができているならば、それは同時に銀河中心と太陽との関係にもふれる境位となりえるだろう。太陽意識の境位に生きること。

因みに、この太陽意識をもって地球に棲まうとき、地球という惑星環境はどう把握されるのだろうか。太陽と月が同じ大きさとなって見える絶妙の均衡点にある惑星。その惑星の表面に非常に薄い水圏と大気圏をまとい、そこに無数の炭素ベースの生命体を抱えている地球。これは決して偶然の賜物ではない、との直感は素直で自然であると私は思う。宇宙全体を貫く何等かの意志的意識の存在が予感され、それが永遠の水面とイメージされるとすれば、それはそれでリーズナブルだろう。あたかも永遠の水面が地球に流れ込み、地球という山河を抱き、慈しみ、命を産み、刻み、うたかたの夢をその表面に描いているが如き印象を受ける。この星の在り様は意識的営為の極み。美しさが満ち溢れている。天の川銀河の中心で輝くグランドサンからみるならば、銀河の水面に一瞬結ばれ、浮かび消える泡沫のごとき一瞬の輝きと映るのではなかろうか。それは幼子が戯れに飛ばすシャボン玉のように美しく、はかない。シャボン玉のあの危うい薄さは地球における水圏大気圏の薄さに似ている。シャボン玉が日の光を受けて美しく輝くように、地球は太陽の光を浴びて、七色に輝く。銀河はこの一瞬の輝きを放つ泡沫にかくも美しい衣をまとわせてくれている。おそらく、美にとっては永遠も瞬間もない。永遠即瞬間。4次元時空連続体(特にも時間軸)に垂直に差し込む光のごとき存在が美。その意味で美は5次元的な存在である。

蛇足を覚悟で加えるならば、天の川銀河のセントラルサンからみれば、太陽のまわりを公転している地球は螺旋軌道を描く自転球体である。この球体表面に展開している生命圏はその全体が4次元時空連続体に垂直に差し込む生命次元の射影ともいえ、その意味では生命自体が5次元的存在である。


ひとは世に在ることを宿命としている。そこで時を重ね、何らかの軌跡を残す。その軌跡のうち重く沈殿していく分画を「山」と呼び、軽く流れていく分画を「河」と呼ぶ。もしくは、世と人との交渉において空間的形象を残すものを「山」と呼び、時間的軌跡を描くものを「河」と呼ぶことも可能だろう。とすれば、「山河」とは「私の生涯」という4次元的断面に刻まれた四次元的な結晶体のことである。この時空結晶体の意味での「山河」は美しいか、という問い。この問いは四次元結晶が第五の次元である美の次元にどう写像されているかを問う五次元的位相幾何学の問題を提起していることになる。この問いの純粋理性的な解釈は難しいのかもしれないが、実践理性的回答は充分に可能と思う。具体的には、その山河を美しく残すということは、自分のすまいを美しく保ち、行住坐臥を美しく保つことであろう。苦を苦として許容し、快を快として享受し、自然に、軽やかに、そして美しく。

古来、日本において、美とは単に空間的造形物として鑑賞したり、時間的造形物として音楽鑑賞の時を持ったりするだけではなく、生ける現実世界に展開され、日常化されるものであり続けてきている。そしてお茶をたてたり、花を活けたりする日常的行為において時空的に美しく結晶化させることを「道」として大切にされてきている。きわめて五次元的な営みである。
その永遠の今を美しく生きる行住坐臥とは、不断の自己開放、自己探求の痛みを受容することで実現される苦行でもある。快と苦はもともと同じ事態の裏表、透明な白色光のプリズム分光によりあらわれる赤と青のようなものなのだ。苦を快とし、快を苦とする境位に立つとき、我々は光となって輝くことができるのかもしれない。太陽意識とは、そしてその先の銀河意識とはこの光の境位にふれことができる美しき意識のメタファーではなかろうか。

3.11と平泉世界遺産登録を同時に経験した東北の山河にて
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