シフト3865

宇宙のシフトについて考える

道元とヌーソロジー -「而今の山水は、古仏の道現成なり」の量子論 あるいは「山河」はなぜ名曲なのか-

2020-10-12 08:34:14 | Weblog

はじめに

今回のテーマについて語る前に、ひとつ歌を引用する。というのも、今回のテーマを語るとき訪れる予感はこの歌と共振し、我々の心に深く響いてくるからである。小椋佳作詞の「山河」である。

人は皆 山河に生まれ 抱かれ 挑み

人は皆 山河を信じ 和み 愛す

そこに 生命をつなぎ 生命を刻む

そして終には 山河に還る

 

顧みて 恥じることない 足跡を

山に 残したろうか

永遠の 水面の光 増す夢を

河に浮かべたろうか

愛する人の瞳に 愛する人の瞳に

俺の山河は美しいかと 美しいかと。

♬(小椋佳作詞「山河」より)

山河は視覚的に美しく、心地よく、それは倫理的美しさの規範ともなっている。視覚的絵画的美とは空間的な美である。他方、倫理的美とは生き方の美であり、時間軸を含んだ動的美である。薬師寺東塔に「凍れる音楽」という表現が相応しい如く、山河には生き様という時空連続体の4次元的な美が相応しいとされてきている。

この自然観、山河への思いは日本においては普遍的である。小椋佳の「山河」が強く支持され愛される国。この伝統のもと、道元の正法眼蔵にある唯一の「経」、「山水経」の冒頭の句は覚者の言葉として直観的に受容されている。

「而今の山水は、古仏の道現成なり」

我々の心に真理を予感させるものとして響くこの言葉を、情緒の次元から論理の次元へもたらすことをこの小論では目指している。そしてそれと同時に、現代の科学的論理の到達した究極的な論理的式を情緒的内実をもった式として味わうことを目指している。この無謀ともいえる冒険の旅を背後から照らしつづけてくれるのは、「山河」を愛する情緒的実感である。この実感を手放さず、最後まで目をとおしていただけることを願う。

この「山河」が道元の「山水経」の導入に相応しいとの直観の源泉のひとつは

「永遠の 水面の光 増す夢を河に浮かべたろうか」

の部分。「永遠の水面の光」とは道元のような宗教家、神秘家やその研究者にとっては有名なイメージで、それは没我の境地で展開される意識内容、魂が還る意識の全体性、宗教家だと神からの恩恵、啓示など、意識の究極、超越的境位を表すイメージである。そして量子場理論ではディラックの量子の海のイメージでもある。

そしてもうひとつ「愛する人の瞳」。これは作詞者ご本人にも意外な解釈となると思うが、「愛する人」は「私が愛している人」だけではなく、「愛」を「する」人と解釈してみたい。そう解釈すると、「愛をする存在」とは愛の究極的なイメージ、「無私的な一方的恩寵」を絶えることなく放射しつづけるもの、とも読める。それはまさに太陽のイメージが相応しい。この解釈だと、「愛する人の瞳に 俺の山河は美しいか」という問いかけは、「太陽にとって地球は美しいか」という究極的なイメージになる。このスケールにまで「山河」を広げると、それは道元の「山水経」のスケールに一致する。そしてそのスケール感をもつと、そこから量子場の普遍性と「シリウスから冥王星経由で地球に届けられたというチャネリング情報、OCOT情報」の究極性への微かな予感を聴きとることができるかもしれない。

 

今回テキストとして考察するのは3つ。

道元の主著「正法眼蔵」における唯一の経典、「山水経」。

量子論における金字塔、ディラックの量子条件。

そして現代に降ろされた超越的なOCOT情報。

 

3つの現代の知的課題テキスト。これを同時に読み進めると、ホログラフィックな立体像が現れてくる。

ディラックの量子条件については量子論の専門家吉田伸夫氏が著書でこう評している。

「ディラックが導いた量子条件③は、現代物理学の神髄である。これまでに人類が書き記した関係式の中で、エントロピーを表すボルツマンの関係式S=klogWと並んで、単純にして深遠の極みと言えるであろう。正直な話、この量子条件に秘められた真の意味を理解できる人間が地球上にいるとは思えない。量子力学に見られるさまざまな不思議が、ここに凝縮されているのだ。」

(吉田伸夫著「光の場 電子の海 新潮社 P107」)

 

そして半田広宣氏がヌーソロジーとして精力的に読み解いているOCOT情報はまさに吉田伸夫氏が「地球上にいるとは思えない」と表現しているとおり、情報源がシリウスの知生体OCOTである。その情報は難解の枠を飛び越えて、異様、異貌であり、我々の常識を砕くインパクトがある。たとえば、古生物として地下から発掘されるアンモナイトの化石は生けるアンモナイトの化石ではなく、アンモナイトは地上に生存したことなどない、と語る。そして人類の歴史は1万年より短いと語る。

 

しかし、これらの現代の難解テキストを3つ、並べてみると、たとえば、ディラックの量子条件は、「真の意味を理解できる人間は地上にはいない」のかもしれないが、地上を越えた知性からの知的光により、その意味の片鱗を垣間見させてくれるように思う。そしてそこで見えてくるホログラフィックな概念群は道元の山水経をも照らし出し、より明確な像を見せてくれる。まさにそれぞれの全体を見ることのできない断片を複数重ねると全体の輪郭がより明確になってくるホログラムのようだ。

 

 

「山河」が与えてくれる感動、情緒的共感。この情緒は道元の山水経にも共鳴し、「山河」はまさにお経のように、概念的理解なしでも我々の体に染みこんでくる。そしてこの歌詞にある「永遠の 水面の光」はディラックが見せてくれる「量子の海」へと我々をいざなう。その海面の下にはOCOT情報の語る異貌なる存在が広がっている。名曲には我々の全身全霊を一挙に全存在の時空と共鳴させる響きがある。この「山河」が心に響くように、今回のテーマがこころに何らかの共感を残しますように‥‥

 




インド哲学には「宇宙には始まりと終わりがあり、その周期を呼吸のように繰り返している」とする存在観が古来よりある。

シリウスを発信源とするOCOT情報でも同様の生成消滅する宇宙を語っている。そして現代にシリウスが干渉した理由を「現在の宇宙の終わりの告知」としている。一つの宇宙が終わる段階はこの情報では「最終構成」と呼ばれている。

 

最終構成という時節がなぜ巡りくるのか、を説明するためにOCOTは降りてきた。その軌跡が半田広宣著「2013:人類が神を見る日」であり、「シリウス革命」であり、一連の著作である。

インド哲学から発展してきた仏教にも、始まりそして終わり、また始まる宇宙の円環的時間構造が取り入れられている。そしてこの円環する宇宙は道元の正法眼蔵にも採用されている。しかし、道元の正法眼蔵はいまだに難解な書であり、そのなかの「山水経」の解釈は特にも曖昧なままである。

そして、現代、やっとこの山水経を理解するツールがそろってきた。それは量子場理論であり、OCOT情報をテキストとするヌーソロジーである。そして両者をつなぐ哲学基盤となっているのがハイデガーである。

 

道元の存在認識を理解するうえで参考になるのはヌーソロジーの覚醒期と調整期が巡る存在周期の考え方である。

実際、

「あなたがたの歴史に残っている宗教的知識というのは、覚醒期における変換人の知識がベースとなったものです。」(シリウス革命 p57)

とのOCOTの直接的言及もある。

では、量子場理論とヌーソロジーをツールにすると、山水経はどう解釈されるか。

まずは山水経の原文、冒頭部分を引用する。

 

 

 

而今の山水は、古仏の道現成なり。

ともに法位住して、究尽の功徳を成ぜり。

空劫已然の消息なるがゆへに、而今の活計なり。

朕兆未萌の自己なるがゆへに、現成の透脱なり。

山の諸功徳高広なるをもて、乗雲の道徳、かならず山より通達す。

順風の妙功、さだめて山より透脱するなり。

 

 

用語解説をしてみる。

而今:いま

法位:法としてのあり方

究尽の:究極の

空劫已然の消息:

 仏教の宇宙観は 

1成劫:宇宙が生成して生物が出現する時期

2住劫:宇宙が安定して存続する時期

3壊劫:宇宙が壊れていく時期

4空劫:一切が亡くなった虚無の時期

となっている。だから直訳すれば、「空劫已然の消息」とは「前の宇宙が消える以前」ということになる。

活計:いきいきと活動していること

朕兆未萌:朕兆はきざし。未萌は萌える前。

 

次に直訳してみる。

 

現在の自然環境というのは、古い時代の覚醒者の達成した成果が現成しているものである。

山にしろ水の流れにしろ、かつての覚醒者の究極的な功徳が生成したものである。

今の宇宙が成立する以前の情報であるため、現在の活動の基になっている。

「自己」が潜在的状態で活動しているため、現成している存在の背後にある。

山が持っている様々な「功徳」は高く広いため、雲に乗って訪れる「道徳」は山から発せられたものである。

風に乗って訪れる「妙功」は山から発せられる存在が背後にある。

 

といったところだろうか。

追記が必要な単語がある。

透脱:

「朕兆未萌の自己なるがゆへに、現成の透脱なり。」は透脱の定義とも読める。「現成」とは「自己」が発現したものであり、まだ「自己」が発現していない兆し、萌えである状態が「現成の透脱」である。要は現成の「透明で、超越論的な根拠」を指し示している言葉であり、ハイデガーが時間の本質とした「エクスターティッシュホリゾンタール」のことである。透脱の透はホリゾンタールな開けの空けのことであり、脱とはエクスターティッシュな脱自のことである。ハイデガーが「存在と時間」で論じたように、意識を成立させている自己、その自己の成立以前の超越論的根拠は、意識として現象化しているこの世界の現成がもつホリゾンタール(地平的=透)で、エクスターティッシュ(脱自=脱)な時間性である、と道元は語っているように読める。ハイデガーの言葉を借りるなら、「而今の山水」として現成しているこの現象世界とは自然的に人類史的に「時熟した」ものである、と道元は言い放っている。

 

山水経の冒頭の4文は「而今の山水」の説明であり、その説明の根拠、観点が示されている。その際の4つの理解軸は2×2の論理を採用している。

2文づつの対になっていて、量子場理論で言われる双対構造と同形である。

概念化して抽象化するならば、対原理は「動くもの」と「動かざるもの」のことで、一対は時間的なこと、空間的なこと、でありもう一対はエネルギー的なこと、場的なことと言える。この2×2構造である。「山河」でいえば河と山のことである。この対構造は存在の基本分節であり、ハイデガーの「存在と時間」の概念枠を使うなら、「動くもの」とは未来・到来性=エクスターティッシュなるもののことであり、「動かざるもの」とは過去・既在態=ホリゾンタールなことのことであり、神秘学・宗教的な概念枠でいえば、光と愛、エネルギーと愛のことである。道元の言葉でいえば、脱と透、即ち彼が「透脱」と表現したのはこの根本的な存在・意識構造のことであろう。

具体的に語れば、

 

1対目:

「而今の山水は、古仏の道現成なり。

ともに法位住して、究尽の功徳を成ぜり。」

 

而今の山水を「道」という開かれた空間とし、「功徳」という時間的なもの、と説明している。

 

もう1対目:

「空劫已然の消息なるがゆへに、而今の活計なり。

朕兆未萌の自己なるがゆへに、現成の透脱なり。」

 

而今の山水を「而今」のエネルギー根拠としたのが「活計」であり、「透脱」はその量子場理論が場と呼ぶところの場の特性を語っている。

 

 

要は道元は目の前に展開している存在の全体を、

「時間的空間であり、空間的時間である。その根拠は量子場であり、その量子場とは場のエネルギーであり、エネルギーの場である。」

と語っている。時間と空間の本質的な同一性を語っている点ではアインシュタインと同値である。因みにこの時間と空間というカントの感性形式の枠の解体と再生を目指したハイデガーは「存在と時間」においてこの時間をエクスターティッシュ、空間をホリゾンタールとして、時間性の一元論へと現象学的に還元している。そしてこの「エクスターティッシュ、ホリゾンタール」との「時間性」へのハイデガーの洞察は、同時代に発展した量子論の文脈でいえば、光と呼ばれている現象が電磁波として理解され、この電磁波とはエクスターティッシュな電場と、ホリゾンタールな磁場の融合された存在とされている。この意味で言えば、ハイデガーが時間と空間の共通の根とした「時間性」とは光の事だったのである。「初めに光ありき」の聖書文化のしからしむるところともいえる。そしてこのハイデガーが後期には「言葉が存在の棲家」と深化するが、これもまたハイデガーが「初めに言葉ありき」の聖書文化の申し子だったからともいえる。アインシュタインにしろハイデガーにしろ、量子論にしろ、それぞれ、難解であるが、これとて、我々が日常的に使っている言葉、光や愛、河や山を丹念に精緻に理解しているだけとも言えるし、逆に愛や光、山河として了解されている我々の言語空間の根本分節をそれぞれの探求する領域においてこれほどまでに丹念に精緻に理解しようとする誠実さに最大の敬意を払いたい。そしてそれと同じ境位を見ていた日本の先達、道元の叡智的到達点にも深く頭を垂れたい。後期ハイデガーが語るように、まさに言葉は存在の棲家である。

 

因みに量子場理論というときに私が想定しているのはディラックの量子条件定式後の量子論の達成状況を念頭においている。とはいえ、ひとまず、道元の山水経のこの冒頭部分とイメージが近いのはシュレーディンガーの波動方程式段階での量子理解の方だろう。なぜかといえば、波動方程式においては自由電子の位置と時間を求める際に利用されている数式の変数部分は

px-Et

であり、

x:位置

p:運動量

E:エネルギー

t:時間

の4つの基本概念から構成されている。

この4つを道元は

 

x=古仏の道

p=究尽の功徳

E=而今の活計

t=現成の透脱

 

と概念づけ、名づけていると推測することが可能だ。透脱はハイデガーの時間性のこととの先の推測がここでも示唆される。

 

後半の2文は 雲のようにおぼろげながら確実に見えている道徳は山からの明確な通達であり、その行動がベクトルを定めるときに耳をすまして聴きとる「風の声」もまた山からの見えざる通達である、と語っている。実はこの境位はハイデガー後期の思想をすでに先取りしている。仏教の知的伝統が色濃い京都学派がハイデガーに傾倒する理由もこの辺にあると私は推測する。

この4つからなる双対概念装置を位置と運動量の1対とq数の関係に整理したのが、ディラックの量子条件である。この位置(x)と運動量(p)について、通常の数であれば、xp=px の交換法則が成立している。この交換法則が成立しない「非可換な数」をディラックは導入した。これはq数と呼ばれている。具体的な数ではなく、数式で表される抽象的な数である。ディラックはハイゼンベルグが不確定性関係を表すために導入した行列やシュレディンガーが導入した波動関数をq数を表現する数式として統合した。そして、この非可換なq数の交換積の差(px-xp:pもxもq数)が現象世界開闢のスタートだとディラックは鮮やかに示した。その際「現界」と「幽界」を変換する装置が虚数単位「i」である。(逆にえば、xp=pxを当然の前提として営まれている我々の日常からはこの等式がなりたたない量子論の世界は理解が困難であるということである。)

この点を具体的に説明してみたい。

量子が粒でも波でもない量子なのだ、ということを端的に示したのが、ディラックの量子条件といわれる式である。

 

これは  px-xp=h/2πi

という極めてシンプルな式である。

 

この式においても

x:位置

p:運動量

である。

あとは

h:プランク定数 連続的な波動が不連続な粒になる最小の単位

π:円周率(パイ)

ⅰ:虚数単位

である。この式を満たすxとpが量子として現象してくるということである。このxとpがq数と呼ばれる「数」である。

 

ここでπが式に登場するのは実に神秘的であり、かつ理解の切っ掛けにもなる。

というのもπといえば、最もシンプルで周知の式は 円周(L)と半径(r)の関係

L=2πr

である。

この直観的に分かりやすい形に習って、ディラックの量子条件をちょっと変形すると、

 

h=2πi(px-xp)

 

となる。

これから容易に直観的に見えるのは 半径(r)が

r=i(px-xp)

である円の円周の長さがhということ。

「非可換的な位置と運動量を掛け合わせた積の差(px-xp)に虚数iをかけたもの」が半径になっている。この半径である長さが回転した円周Lが現象の最小単位(h)だといことである。実に美しい。このシンプルで美しい式は存在と非存在の関係、いわば現界と幽界の関係を語っている。日本の量子理論を牽引した二人の巨頭、湯川秀樹の晩年のテーマは現象世界の最小単位である「素領域」であり、朝永振一郎の著書の標題は「スピンはめぐる」である。粒から成り立つ現実世界の最小単位プランク数(h)を構成しているものは実的実体の回転(単純なスピン)ではなく、i(px-xp)という虚的なもの幽界的なもの、「もののけ」の「めぐり」である。ディラック方程式は「素領域においてめぐっているもの」を鮮やかに定式化している。「もの」を構成している「もののけ」を定式したのがディラック方程式である。

 これを先の道元の概念で置き換えてみると、

 

p:究極の功徳

x:古仏の道 

と、置き換えることができるかもしれない。これの可否はもう量子場理論を説明しつつ道元本人に聞くしかないのだが。さて、どう問うか。たとえば、

「究極の功徳と古仏の道が織りなす非可換な交換積の差を半径とした構造が幽界には存在し、それが「虚数界と実数界の変換装置であるⅰ」により現象界へと降りて来て、その「差」が回転してできる円の軌跡、それが泡のように立ち現れているのがこの衆生世界ということでしょうか?」

とでも語れば、道元との対話が成立するのかもしれない。

 

この非可換な関係が現象界として立ち現れてくるということになる。究極の功徳といえば、日本では西田幾多郎の著書「善の研究」の「善」という概念が連想される。西田幾多郎の言葉を使うなら、究極の功徳とは究極の善のことである。この「究極の善」と、今我々が存在している世界を成立せしめている「古仏の道」、この2者の非可換な関係によって現象は現象界に送り届けられてくるということになる。道元が山水経で語ろうとした風景は量子場理論の完成を待たなければ深い理解がえられない境地であったことになる。

 

 この道元の境位をヌーソロジーはどう語るのか。ヌーソロジーにおける「究極の功徳」とは「場」でいえばオリオン、「力」でいえばノウスであろう。そしてそれに対置されるのは場で言えばプレアデス、力でいえばノスと推測される。だから、「古仏の道」はプレアデス的な関わりをもって現象してくることになる。「古仏」という場、「道」という力で。この対で分析すれば、道元のいう「究極の功徳」の方は、「究極」という「場」、「功徳」という「力」ということになる。

 

このオリオンとプレアデスの関係は、OCOT情報は「タカヒマラ」と呼ばれている。このタカヒマラとは

 

「およそ存在と呼べるもの、そのすべてを送り出している宇宙精神のシステムのようなもの」

「素粒子から銀河に至るまで、あなた方に観測されるすべての現象世界は、このタカヒマラにおける共鳴波動として存在させられている」

(2013:「人類が神を見る日」 p68)

 

と語られている。

 究極の功徳と古仏の道が織りなす根源的な差異を動因としてその「距離」が半径となる円がプランク定数となってぐるぐると巡り、螺旋的に高まりながら、あらゆる現象が現象化していく。その相貌を道元も量子論もヌーソロジーも語っている。

 

 ディラックの量子条件の美しさが提示する存在の神秘を道元は座禅というツールによって悟っていたのだろう。我々がカミオカンデの巨大水瓶装置によって素粒子の挙動を捉える800年も前のことである。このカミオカンデ、飛騨(ヒ・ダ=日田=太陽と地球)の神岡町の山深くに造った巨大な地下人口湖である。これもまた現代における「山水」、「而今の山水」であり、「山河」なのだ。

 

道元が山水経で語ろうとした風景は量子場理論の完成を待たなければ深い理解がえられない境地であったことになる。

近代の西洋的科学思考が練り上げた量子場理論の概念構成を東洋の思想家は独自の概念で練り上げ、現象の本質に迫っていた。哲学はギリシャ以来、言葉の言い換えにしかすぎない。

あるいは「新たな言い換えによってみえてくる新たな世界を告げるもの」であり続けている。

しかし、「空劫已然の消息」の意味は量子場理論だけでは理解できない。これにはインド哲学の伝統がベースになっている。一つの宇宙の誕生から消滅、そして再びの誕生というそれこそ空前絶後のスペースオデッセイのベースがまず必要である。

しかし、それだけでは

而今の山水は、古仏の道現成なり。

空劫已然の消息なるがゆへに、而今の活計なり。

も理解不能である。これを理解させてくれるのがヌーソロジーの一連の知的努力の結晶である。

まず、「而今の山水は、古仏の道現成なり。」をOCOTはどう語っているのか。

「仏性とは確かに人間が認識の完全化を起こすことを意味しますが、それは決して正体不明のものではありません。実はこの力を生み出すことが新しい太陽系の創造と深く関係しているのです。-中略- あなたは宇宙創造という言葉を聞くと、すぐに物質的なイメージで宇宙を生み出すことを考えてしまっています。しかし、あなたが物質・エネルギーと呼ぶものと、あなたがた自身の意識とは、ある巧妙な空間構造の中で一体となって動かされているのです。

」(人神p160)

「現在、あなた方が認識している物質的宇宙はアトランティス人達の意識進化の結果として生まれた反映のようなものだということです。

-中略-

あなた方がミクロ世界に見ている素粒子や原子のスピン構造は、アトランティス人たちの次元上昇の意識によって作り出されたスピン、つまり定質の射影のようなものだという意味でお話しています。-中略-現在、アトランティス人の意識はオリオンに入り、真実の人間の意識として働かされています。」

(シリウス革命p120)

 

このシリウスからのOCOT情報のインパクトは凄まじい。道元が古仏と表記した存在をOCOT情報はアトランティス人としている。ここは実は少し正確に言えば、アトランティス人のなかで、物質世界を卒業していった存在が古仏ということになる。卒業できなかった留年組が現在人類の肉体的祖先ということになる。道元は冥界にあって、この現代の知の最先端をどうみているのだろうか。

 

「而今の山水は、古仏の道現成なり」

 

量子場理論もなくOCOT情報もない鎌倉時代、西暦1200年代に相当する末世の日本にあって、この一文を刻んだときの道元には存在の神秘はどのようにみえていたのか。先達への感謝は先達を越えて「古仏の道」を明らかにしていくこと。牛歩にも価値はあると信じたい。


道元は鎌倉時代の曹洞宗の教祖であり、日本における宗教・哲学の代表的な思想家である。その道元が主著「正法眼蔵」で

「而今の山水は、古仏の道現成なり」

と語っている。「現在の生態系は先哲が歩んだ道が現実化したものである」とのテキストが現代の知の最先端からどう読み解けるかを前回少し書いた。当時の国内の最高知識人が海外留学を経て帰ってきて、その後、彼がいうこの発言を当時の人々はどう受け止めたのだろうか。色即是空は直観で理解できるが、空即是色は知力で空を色づけないとわかったことにはならない。

 

では、「古仏の道」はどのようにして「而今の山水」となるのか。これを理解するときに現在使えるツールは少ないし、おそらくこれまでその意味射程を解説した文章も今の時代では少ないだろう。「古仏の道」という意識的なものが、「而今の山水」という物理・化学・生物・地学的な自然科学的存在と「成る」プロセスを語る既成学問は皆無だからだ。

近代学問の流れはむしろ、自然科学的なプロセスによって意識が成立しているとするパラダイムで進んできている。意識的精神的な現象を物理化学的法則に還元して理解することに近代科学はひた走ってきた。道元のテーゼは逆である。精神的なものが物質を形成していると宣言している。

この道元の宣言の理解において重要なのは意識と物質の相互関係、両者を一元論的に語る論理構築である。この一元論を精力的に展開しているのが現代ではヌーソロジーであり、その理論的なバックボーンはOCOT情報である。

シリウスが情報源とされるこのOCOT情報のインパクトは凄まじい。どの程度に凄まじいか。

 

ここ数百年我々は天動説から地動説へと知の枠組みを切り替えてきた。そして、動かざること山の如しの山、不動の大地が現代科学的知見ではすさまじい速さで宇宙を移動していることになっている。

およそ4百年前まで人類は地球の周りを太陽が回っていると思っていた。それが現在では地球は球形で、赤道付近では時速1600kmの速さで自転しており、太陽の周りを時速10万km(秒速30㎞)で公転しており、その太陽は天の川銀河において秒速240㎞で移動しているという科学的知見となっている。仮に4次元時空において1秒「自分だけ」「時間軸だけ」移動すると、地球は240±30㎞遠くに行ってしまっていることになる。地球成層圏の厚みは10キロオーダー、地球内部だと200キロ内部へ移動したらマントル対流層なので、1秒の時間のみの移動は命取りになる。我々は寝ても覚めても地球にしがみついていないといけない存在になってしまっている。仮にタイムマシンに乗る時には充分取説を読まないと非常に危険だということ。いずれ時間的には138億年前のビックバンで発生した宇宙で、45億年前に発生した地球に住んでいることになっている。これが現代自然科学が提示する我々の時間的位置である。

 

他方、OCOT情報が示す人類の位置は全く違う。天動説から地動説へのパラダイムチェンジにあるいは匹敵するような世界観をあっさりと情報提示していて驚きである。とはいえ、一昔前に天動説を誰もが疑わなかったように、今では誰も地動説を疑わないが、こういった知の枠は時代によって逆転してきている。これを振り返れば、そのうちOCOT情報が常識になる時代がきてもおかしくはない。認識枠切り替え時期の人々「だけ」がしばし右往左往し,口角泡飛ばす議論をする「だけ」のことなのかもしれない。OCOT情報が示しているのは、ある意味、地動説から天動説への回帰ともいえる。その意味では前回の天動説から地動説へのインパクトを相殺する程度のインパクトともいえる。

 とはいえ、OCOT情報が告げている今回の知のパラダイムシフトにおいて現代科学的知識が染みこんだ頭が受け入れがたい変化が幾つかある。そのうちの一つは宇宙の歴史スパンである。前回の「天動説から地動説のパラダイムシフト」においては、太陽の恒久性や大地の永遠性については問題とされなかった。昔から太陽は天に輝き、大地も久遠と呼べるタイムスパンで安定していることに疑問はなかった。その半恒常的な太陽と地球のどっちがどっちの周りをまわっているかというだけの議論だった。

他方、OCOT情報は現在の物理的次元が始まったのはわずか6500年前だという。これは驚異的な情報である。

数百年前から、宇宙時空連続体に占める我々の場所は天動説から地動説で一挙に地球という小さな球になったが、その代わりに人類は広大な宇宙スペースを手に入れた。

他方、今回OCOT情報が提示している世界像においては、空間軸に続き、今度は時間軸が一挙にタイトなものになってしまうらしい。この時間的な肩身の狭さを受け入れる時、こんどはどのような広がりをもつ次元を我々は得ることができるのだろうか。

前の地動説においては、我々はマクロ的には広大な宇宙時空間の座標軸を獲得し、ミクロ的には原子構造を覗き込む思考枠を獲得した。他方、今回獲得することになる新たな次元軸は物質と意識を包括する存在階層次元である。OCOT情報によれば、その座標軸はタカヒマラと呼ばれ、オリオンとプレアデスの2極により張り渡され、シリウスによって媒介されている。

 

我々が現在使っている無限大時空と無限小時空という二極の認識の枠組みが今度は「オリオン的なもの」と「プレアデス的なもの」という全く異質な認識枠に切り替えられる。

具体的には、現在の自然科学においては「物質に寄生虫のごとく張り付いているものでしかない意識」をよりまっとうな扱いで見直し、むしろこれまで「物質と呼ばれてきた存在」を「意識の特殊な形態」とみなすことになる。半田さんの言葉を借りれば、これまでは物質が「幅」をきかせてきたが、これからは「霊」がその「奥行き」で物質を包み込んでしまう。

この認識・存在のパラダイムシフトについてOCOT情報はこう語っている。

 

 

※※※引用開始

コ:六千五百年先の未来には、世界は全く違ったものになる‥‥・ということは、そのときに、僕らが現在、物質世界と呼んでいるものは、すべて消滅するということですか。

オ:はい、付帯質の力の反映、つまり人間の意識が創り上げてきた創造物は全て消え去ってしまうでしょう。しかし、もはや物質という概念は、その時の変換人の意識には存在していません。変換人たちにとっては、視覚に映し出されている物質よりも、それらを生み出している空間構造の方に意識が傾いていますから。-中略-

定質の働きによって、物質は空間の不要物となります。変換人の意識においては物質と意識の関係が、丁度あなたがたとは正反対になっているということです。

コ:ということは、アトランティス人たちもそれと同様の体験をしていったということですか。

オ:もちろんです。今からあなた方が経験することと同様にことが、約1万3千年前から始まったとお考え下さい。その時期を契機に彼らの意識はプレアデスから、シリウスへと進化していったのです。

コ:なるほど‥‥そして、彼らがオリオンに到達した紀元前四千五百年頃、プレアデスに現在の人間が生まれてきた‥‥つまり、そういう筋書きですね。

オ:はい、全くその通りです。

  (「シリウス革命」p577~578)

※※※印象終了

 

 

簡単に言えば、道元のいう古仏とは、ここでいうアトランティスであり、オリオンに到達した意識体によって、現在の地球環境が現成したということになる。


道元を理解することは、西洋哲学的文脈でいえば、近代科学の危機を乗り越えようとして現れた現象学の一つの到達点、ハイデガーの存在の時間分析(還元)の思惟の発展形としてOCOT情報を理解することでもある。具体的にはハイデガーは存在の根拠として「時間性」を位置づけ、その時間性について「エクスターティシュホリゾンタール」という還元結晶を析出させた。そのハイデガーの思惟が到達した成果を引き継ぎ発展させること。即ち、具体的には、エクスターティッシュを無限小ベクトル、ホリゾンタールを無限大ベクトルと読み替えていくことになる。

前段でこんな頭の柔軟体操をしてから、OCOT情報を見ていくことにする。

ヌーソロジーのアポリア、長期タイムスパンと長距離空間、要は長時空問題、これ一つの解釈法は

「我々の認識とOCOTでは、ミクロとマクロが逆転しているので、長時空のマクロは超微細のミクロに反転してしまうので、観測困難なミクロとなっている」

として理解する方法。しかしこれは観測できないだけなのではないか?という問題を孕む。もうひとつは存在論的解釈。最終構成時に時空の再定義が行われるとする理解。これはOCOT情報では正当な理解らしい。

後者について、考えてみる。参考文章を引用する。

 

 

引用開始※※※※

コ では銀河系とは何ですか。

オ 前次元において生まれた力の変換作用と転換作用の反映の次元です。生命を作り出すための力の抽出のようなものでしょうか。

コ 生命を作り出す‥‥‥?銀河系と地球の生命が何か関係があるのですか。

オ もちろんです。銀河系が無ければ、生命は存在することができません。

引用終了※※※※

(半田広宣著「シリウス革命」P194-195より引用)

 

 

OCOTは自然科学的な意味で「銀河系がなければ地球もなく、地球もなければ、地球上の生命もない」ということを語っているわけでは決して、断じて、「ない」。

我々の身体を構成している細胞のひとつひとつと天の川銀河は密接な関係を維持しているとOCOT情報は語っていると思われる。

 

無限とはそもそも超越である。端的にそれは経験できない。無限大と無限小、ともに経験できないが、この超越軸を我々は空間認識におけるベースとして採用している。認識の図地構造における地、これは無限大と無限小のベクトルによって開かれている。この二つの超越軸をOCOT情報は同一存在とみなす存在・認識枠を提示している。だからOCOT情報にとっては銀河系と細胞構造は同じ存在となり、単に人間への見え方が違っているだけだということになる。

これは認識の図地構造の話なので、それはそれでいいとしよう。

他方、時間軸への改変は異様なものに映る。いかに異様であるか、骨子を引用する。

 

 

※※※引用開始

コ では、アンモナイトとは何ですか?

オ -中略-レムリア人たちが生命を失ったときの次元です。

コ どういうことですか、生命の力を失うと言っても、アンモナイトは生物ですよ。

オ いいえ、アンモナイトは生物とは呼べない次元に存在しています。

コ 確かに、今は生きてはいませんけれど、化石として残されていますが‥‥。

-中略-

オ ‥‥‥どのようにお答えしておきましょうか‥‥アンモナイトが生物として、この地上に存在したことなど一度もなかったということです。

コ え?‥‥どういうことなのでしょうか?現に地層の中から化石が発見されていますが。

オ 生物の死骸が化石になったという考え方はまちがっていると言っているのです。地層とはタカヒマラが交替化を行った次元の投影です。化石とは次元の交替化が作り出されたときに生み出された次元です。アンモナイトが実際に存在したのではありません。

-中略-

コ ‥‥?‥‥では、恐竜はどうなるのですか‥‥恐竜もいなかったということですか?

オ はい、そのようなものが生物として存在したことなど一度もありません。

※※※引用終了

(「シリウス革命」p557~559)

OCOT情報は明確にアンモナイトや恐竜などの化石が「この地上に」生物として存在していたことを否定している。では何物か。6,500年前に「この世界」がスタートしたときに、生ける生態系として「動結晶化」せずに、死せる化石として結晶したもの、と語っているように解釈できる。

結局、6500年以前の歴史についての研究はそれ以降についての歴史学・自然科学とは全く別の、いわば「交替化」学という学問領域でなされるべきものだとOCOT情報は告げている。分かりやすい言葉に言い換えるなら、いわゆる進化論、古生物学は生「物」学ではなく、「生命」の構造化の歴史の反映だということ。その意味で古生物学は生物学ではなく生命学であるということになる。だから、別に古生物学が積み上げてきた知識・データは無意味なものではなく、生命の構造化・高次化の仕組みを理解する貴重な学術成果だということ。物質ベースにだらだらと展開された「数十億年の物質的生物体の歴史の断片」ではなく、生命という実体が生命を構造化し、自己認識してきた生ける歴史学となる。「3次元空間+1次元的時間軸」という直線的な時間の妄想からより洗練され、流動する4次元時空・4次元空間の自己組織化の在り様を認識する4次元生命科学へと古生物学はシフトアップする。それは蝉が地下生活を終え、羽化したイメージに似ている。

 

細胞が定期的に分裂して増殖するように、我々がそこに棲み込みつつ、我々自身でもある生命実体も定期的に分裂するらしい。その分裂周期が1万2千年という意外なほどの短さと、OCOT情報は語っている。通常の体細胞分裂は縦や横や上下という同一空間内での分裂であるのにたいして、この生命実体の分裂は、いわば現幽軸での分裂と呼べるような奥行的分裂となり、一方の細胞は上位次元にシフトアップしていく。もう一方はシフトダウンして現界に出現する。

この生命実体の細胞分裂の起こったのが、直近だと6500年前くらい前だとOCOT情報は告げている。それがあまりにも最近のことなので、驚きである。前回シフトが起きたのがアトランティス時代。その際にプレアデスサイドに出現した世界が今の我々の存在している地球。その時にシフトアップした存在のなかにOCOTもいるとのこと。

今から6500年前に新たに出現した「この時代」において、生命実体のマクロ方向に見えてきているのが銀河系であり、ミクロ方向に見えているのが細胞。6500年前から新たな時空がスタートしていて、現代の自然科学的な一次元的時間軸を採用して推測すると、過去方向には宇宙開闢のビックバンが想定されてくる。地下には「これまでの生命実体のなかで、生ける地上の生態系とならない様々な相」が化石となって大地化し、地層化ている。だからアンモナイトも恐竜も6500年前にはじまった現在の物質界には生命体として存在したことはない。あるいは、彼らの原型となった存在は今の物質世界に先行するいつかの世界においてその当時の生命実体であったのかもしれない。その歴史モニュメントが地下に形作られている。その存在的な「先行性」が物質的な反映として古さの兆候を身にまとっていて、それを現代の科学者は生命の歴史として直線的時間軸の上に整列させることができている「だけ」のかもしれない。しかし、その古代生物たちすべては、生命実体からの情報により6500年前に地層として作られたいわば「レプリカ」なのだ。この時間軸妄想からの目覚めがもたらす異様な相貌のインパクトは凄まじい。

 

こういった知のパラダイムチェンジによって我々は何を得、何を失うのか。

アインシュタインの提案にしたがって時間を第4の次元と設定すれば、そしてOCOT情報との整合性をはかるとすれば、およそ1万2千年程度のスパンで周期的に訪れる時間軸のなかで、前の最終構成から「今の次元」は開始していて(今からわずか6千年程度しか経過していないとのこと)、そこから第4の物理次元軸としての時間軸の設定が再スタートし、過去と未来へとその物理化学的タイムラインが広がっているというイメージになる。だからアンモナイトの化石が物理的時間軸上では3億年前に位置するのはそれはそれでOK。その仮定された時間ポイントにそれが配列されるというだけなのだ。いわばプラネタリウムの星空がスクリーンに投影されて広がっているようなものだろう。そもそも時間軸が未来へ「のみ」無限に伸びるというのは誤解でしかないでしょうから。過去時間軸も伸びる。そしてそのどちらも妄想的な反映、妄映にしかすぎないともいえる。寝そべってプラネタリウムに興じているうちに、我々はそれが天球に投影された光にしかすぎず、その光源は枕元、頭の後ろにある無数の孔と唯一の光源光であることを忘れてしまっているらしい。ギリシャ時代のプラトンが人間の認識について、洞窟に壁を向いて縛られ、壁に映る影だけを存在だとおもっている囚人にたとえていた。昔から我々は洞窟の壁にうつる妄映を見続けているらしい。
そして、その現在上映中のプラネタリウムの上映時間がそろそろ終了するらしい。

そのアンモナイトの3億年スケールを通り越して、物理的時間軸は宇宙開闢の瞬間まで伸びていく。おそらく、過去からの結果によって現在があるという因果的時間軸もまた、物理的時間軸からする幻想の一つなのだろう。未来の「結果」から現在が規定されてくることを別にアインシュタイン的時間理解は否定しない。だから我々が空間を移動可能なように、時間軸の移動が可能な知生体が存在すれば、11時に東京で落ち合う時空を設定すると、10時30分頃に大宮で上り新幹線に乗っているのは、その11時という未来からの設定の「結果」となる。

しかし、このOCOT情報が告げる最終構成関連情報の展開は「存在」ということ自体の独自の再定義をもたらす。具体的には6千5百年前に再スタートした時空は存在とされるが、その時空ポイント以前に開かれいるように見える地球の歴史は単なる反映であり、生命存在とは言えないらしい。道元のいう「而今の山水」の「而今」にはそういった思いが籠められていたのだろうか。道元にはこの存在の相貌はどこまで見えていたのだろうか。

ここで、全体のまとめの意味で、冒頭に引用した「山河」の二番を引用する。

 

歳月は 心に積まれ 山と映り

歳月は 心に流れ 河を描く

そこに 積まれる時と、流れる時と、

人は誰もが 山河を宿す。

 

         (小椋佳 「山河」より)


OCOT情報によれば、今地球に存在している山河は、ムーやアトランティスと呼ばれている時代の終わり即ち「最終構成」において、その時代に存在した人類が到達した意識が現成したものということになる。道元の山水経の冒頭

 

「而今の山水は、古仏の道現成なり」

 

とは、こういう意味と解釈できる。まさに「歳月は 心に積まれ、流れ、山を創り、河を描いている」。とするならば、今の時代を生きている我々のこころの中には次の時代の山河が宿されていることになる。これが「人は誰もが 山河を宿す」の意味となる。

「山河」、味わい深い曲である。それはお経のように深遠な真理を我々のこころに刻む。道元の「山水経」と小椋佳の「山河」は心の深淵においてひとつの詩(うた)として存在しているということである。

 

今回の道元の山水経の解釈にもう少し厚みを付けるために、もう一人の知的巨人を西洋から援用する。ルドルフシュタイナーである。彼の著作から引用する。出典はOCOT情報の理解を生涯の仕事としている半田広宣氏の著「シリウス革命」の61ページである。

引用開始…

「私たちは今日まわりに光の世界を見る。何百万年か前、それは精神の世界だった。私たちは自らのうちに精神の世界を抱えており、これが何百万年後かに光の世界になるだろう。…‥そして、世界になろうとしているものに対する大きな責任感が私たちの中に湧き上がる。なぜなら、私たちの精神的衝動が後に様々な輝く世界になるからである。」

       R/シュタイナー:「Truth Wrought Words」

引用終了…

 

「私たちは自らのうちに精神の世界を抱えており」とのシュタイナーの一節は「山河」の「人は誰もが 山河を宿す」と同値であろう。それが見えてくると、シュタイナーの文章と小椋佳の「山河」が見通している心象風景は一致してくる。

 

歳月は 心に積まれ 山と映り

歳月は 心にながれ 河を描く

そこに積まれる時と、流れる時と、

人は誰もが 山河を宿す。

 

顧みて、恥じることない

足跡を山に 残したろうか

 

地上の自然の客観的な存在は人類の知的活動の結果として創造されてくることになる。仮に神がこの世の創造主ならば、神は我々の意識活動を媒介として世界を創造しつづけていることになる。宇宙の創造的進化の最先端は私のこの「思い」なのだ。「恥じることない足跡を山河として残すことができるのか」という問いをシュタイナーは

「世界になろうとしているものに対する大きな責任感が私たちの中に湧き上がる。なぜなら、私たちの精神的衝動が後に様々な輝く世界になるからである。」

と語っている。

こうやってみてくると、「山河」において

「愛する人の瞳に 俺の山河は美しいかと。」

と歌っている主体(俺)とは愛する人の瞳=太陽 に対して「俺の山河」を語るもの、であり、要は地球がこの「山河」を歌っているということになる。地球とはその意味で太陽の自己認識の場なのだ。即ち、より美しくありたいと意志しているのは太陽ということになる。

 

 

さて、駆け足で、3つの難解なテキストをホログラフィックに展開してみた。

最後に、日本的直観の粋として山水経と「山河」を再度、並べておく。目をつぶって、眼前に展開している現在上映中のプラネタリウムの夢から醒めて、ホログラフィックな直観に心を澄ますと、二つの断片はひとつの4次元的な実体として予感されてくることだろう。そして「山河」は現在におけるお経として、歌い継がれていくことだろう。

 

而今の山水は、古仏の道現成なり。

ともに法位住して、究尽の功徳を成ぜり。

空劫已然の消息なるがゆへに、而今の活計なり。

朕兆未萌の自己なるがゆへに、現成の透脱なり。

山の諸功徳高広なるをもて、乗雲の道徳、かならず山より通達す。

順風の妙功、さだめて山より透脱するなり。

 

  -道元 山水経-

 

 

歳月は 心に積まれ 山と映り

歳月は 心にながれ 河を描く

そこに積まれる時と、流れる時と、

人は誰もが 山河を宿す。

 

顧みて、恥じることない

足跡を山に 残したろうか

永遠の水面の光 増す夢を

河に浮かべたろうか

愛する人の瞳に 愛する人の瞳に

俺の山河は美しいかと。美しいかと。

 

 -小椋佳 作詞 「山河」-