シフト3865

宇宙のシフトについて考える

意識のカタチについて -ヌーソロジーの空間と4次元超立体・正八胞体の関係―

2021-11-12 10:50:57 | Weblog

OCOTかく語りき

「カタチが意識を作っている。」

 

まずヌーソロジーの基本テキスト:「シリウス革命」(半田広宣著 たま出版)から引用する。

コは著者の半田広宣氏

オは自称、冥王星経由のシリウス知生体のOCOT。

 

 

※※※引用開始

コ:僕らの意識にカタチがあるというのですか。

オ:はい、意識にカタチがあるというよりも、カタチが意識を作り出しているという言い方のほう
 が正しいのではないかと思います。人間が持った意識とはカタチの反響です。タカヒマラにおける
定質とはカタチが持つ概念ですから。

コ:カタチが意識を作り出している…?つまり、意識は何らかの幾何学に由来するものだという
ことですか。

オ:はい、高次元空間における幾何学に由来しています。

コ:高次元空間における幾何学…それは、意識が高次元的な構造体だという意味ですか?

オ:はい、そのように申し上げているつもりですが…。

(半田広宣著「シリウス革命」p96.97)

※※※引用終了

 

 

 カントは意識には先験的な構造があるとし、その構造を時間と空間と定式化した。その後ハイデガー
はこの時間と空間をより現象学的に還元して、エクスターティッシュ・ホリゾンタール(脱自的地平的)
な時間態とし、これを意識の基本的な形とした。そしてそれから後の時代は、我々の認識に様々な具体
的な構造があることを構造主義は主張してきたが、これは意識の中身、内部構造の具体的な吟味であっ
て、容器自体、入れ物自体の構造については残念ながら深く問われてきてはいない。その哲学の長期低
落傾向の時代にあって、OCOTはよりラディカルに「カタチが意識を作り出す」と語っている。そして
更に、「意識は高次元空間における幾何学に由来する」、としている。

 このことを考えてみたい。

 

 

 

 高次元空間の幾何学とはどういうことか。

まず、経験的直観的に分かりやすい低次元からスタートする。

2次元平面と2次元平面の出会いは1次元の線である。

3次元空間と3次元空間の出会いは2次元平面である。

であれば、4次元と4次元の出会いは3次元。3次元空間を知覚し、時間軸を生き、時間という虚軸的な存
在を自覚している我々は4次元意識体といえる。

 

  数学的に純粋幾何学だと、次元の定義はシンプルだから、3次元から4次元に次元数をあげるのはいわ
ば機械的操作である。素人の私にも理解できるのは直交する新たな軸の設定ということ。これは2次元か
ら3次元への次元上昇でイメージしやすい。2次元の円は3次元で球になる。2次元の円はそのまま保存され
る。3次元の球は2次元では円である。球が2次元を通り過ぎる状況をイメージすると、まず二次元意識体
では、点が意識され、それがどんどん大きくなって、球の直径部分で最大の円になり、再び円が小さく
なって点となって消える。日常生活に追われている二次元意識体だと、そのうちこの突然現れる円にそ
れなりに対処する術を経験的に覚えることができる。広がった円もそのうち小さくなると経験的に予想
できるようになる。他方、生活に精神的に余裕のある二次元意識体はこの円現象について思いを巡らし、
3次元という虚軸を思いつく。そこに円の高次元体である球が存在し、それが二次元平面を通過している
ということを考え付くことだろう。

 

 3次元においても物理学でも空間に対して時間軸をくわえる時には虚軸の追加をし、虚数単位のⅰを導
入している。この3次元を超える思考軸、時間を認識できているがゆえに我々は4次元的な意識体といえ
る。その我々が他者である4次元的な意識と出会うとき、両者の間には「物」という3次元の物体が立ち現
れる。OCOT語風に語れば、「ふたつの4次元意識は対象物の『表相』を出現させる」と言えるようにも
思う。

 

 最もシンプルで抽象的な3次元の対象物は球である。しかし、球という表相も実は視覚的には知覚され
ているものではない。視覚的により正確には円である。より正確にいえば、二つの目から二つの位相差
をもった円がみえている。我々の場合この円が経験的な「記憶データ」により球へと構成されているよ
うに思われる。同様に、それはたとえば「リンゴ」として構成され、存在させられている。その意味で
我々が認識している物は3次元だけで存立しているのではなく、より高次な存在物である。これは「4次
元的存在」と呼べるだろう。

 

4次元的な存在を認識できているということは、私の能力のどこかに3次元立体を組み立てることがで
きる「より高次元な作業空間」があるということである。そして香りとか味とか歯ごたえとか様々な要素
を巻き込んで、リンゴは3次元の立体として知覚されている。様々な幾何学以外の要素を切り捨てて、
シンプルにモデル化すると、そこに残るのは球である。そのとき、切り取ってはいけないにも関わら
ず、通常切り取ってしまっているのが球の周りの空間であり、他者存在である。球の中心から宇宙の
果てまで、そして過去から未来に広がっている時空があって初めて球は「そのなかで」3次元の形を
維持し、知覚されている。この3次元からはみでた広がりは「4次元時空」と呼べる。目の前の3次元的
「図」としての球面の存在を認識させることができている次元が「図」に対する「地」、4次元時空
である。

 

 我々の意識のこの在り様は3次元立体を4次元に拡張した超立体として幾何学的には理解すること
ができる。正八胞体と呼ばれる4次元超立体がこれである。この文章に添付した動画は4次元超立体
を3次元に投影した図形である。これの3次元的な「見え方」を時間的に展開したものがウイキディ
アに動画として載っている。

 

どうしてこの時間的展開が重要かというと、図面化とは2次元化であるからである。4次元を2次元
に落とし込むにはもう1次元、時間軸をくわえないと、表現できないのである。

 

3次元の立体は2次元平面に投影できる。そしてこの2次元的投影図は普段我々が体験している目
に見える立方体なので、比較的容易に2次元投影図から立体をイメージできる。しかし、4次元超
立体の2次元投影となると2次元ダウンしているので直観化が容易ではない。2次元投影だけだと、
3次元的広がりと4次元的広がりが区別できないからだ。そこで、もうひとつ時間軸を展開軸として
援用しているのが4次元超立体の動態映像である。その時間的動態のひとこまひとこまが4次元超立
体の3次元的見え方である。一つのシンプルな4次元超立体が3次元投影されると、それぞれのコマ
のような立体として見えるということである。

 

 

 ウイキペディアで参照できる正八胞体の動態をよく見て見ると、分かりやすいのは内部の立体と
外枠の立体である。4次元超立体は実は立方体8つから出来ていると幾何学は語る。ここで立方体が
7つではなく8つであることに注目してほしい。中心の立方体が一つ。その周りの6面に張り付い
た立体が6つ。そしてその6つの外枠になっている立体がもう一つで、合計8つの立体。この8つ
の立体が「平等な空間」として直交的に結びついているのが4次元超立体。なので、その平等性を
確認するために一つの視点からだけでなく、別の視点からも見なければならい。そのためにその視
点変化を時間軸で次々に表現しているのが、ウイキペディアに載っている正八胞体の動態である。

 

 中心の立体は別の観点では周辺の6つのうちのひとつになり、また外枠の8番目の立体にもなる。
4次元意識体である我々は物を見ている時、中心の立体をその側面の立体から見るように見ている。
球であれば、一つの丸い円がみえている。その球の回りをぐるぐる回り上下にも移動すれば、6つ
の面を見ることができる。そしてその6つの「見え」を統一した球として対象を認識している。そ
のそれぞれの見え方である円の集約として「ひとつの球」として対象を認識している時、私の視点
は「外枠の8番目」の視点を採用している。これは、目の前にある丸い対象物を球と認識している
時の私はいわば宇宙の無限大の全体側に身を置いていることになる。

 

この8番目の外枠立体において、非常に重要なことがある。他の7つの立体には中身の空間がある。
では単なる「外枠としてだけの8番目」の空間には独自の固有の中身の空間はないのか?

 

外枠である8番目の立体において注目する点は他の7つの立方体は独自の空間を専有しているのに
対して、「外枠立方体には独自に占有する空間が一見、無いように思えるが、そうではない」とい
うところ。8つの立体は平等で、等価な立体であるのが4次元。正八胞体の動態を見ていて注目し
たいのは、中心に位置する「内部立体の内部空間」の動向である。中心にある立体の内部空間は最
初は固有の内部空間を持ち、次の時間(これは「別の視点」との比喩のことなのだが)には6つ
の周辺立方体のうちの一つになり、一つの面は「外枠」化する。そして次の瞬間、「最初に内部立
体の内部空間であった空間」は内部立体が外枠になった段階で、「外部空間」になっている。単な
る外枠ではなく、「外部空間全体」が彼の専有する固有の空間になっている。逆に言えば、外枠空
間の専有する独自空間は「他の7つの専有空間とダブったままで7つの専有空間を全部まとめた内向
きの空間」ではなく、無限大にまで広がっている外部のいわば全宇宙空間が内部空間となるという
ことである。これが重要な視点である。8番目の外枠としか思えていなかった立方体は単なる外枠
ではなく、残りの7つの空間を包み込んでいるもう一つの空間である。これが4次元超立体を認識の
形としている我々の4次元的な意識構造の実相である。4次元意識体にとっては宇宙空間もまた「内
部」の一部なのであり、内部でしかないのだ。

 

 分かりやすく例えるなら正八胞体において内部に見えている立方体(ここでは内部立体と呼んで
いる)の内部空間に青いガスを封入してみよう。その青い内部空間は次の瞬間には周辺の6つの空
間のうちのひとつになる。そして次の瞬間、我々が正八胞体を外から見ていたところの観測してい
た全空間が真っ青になる。そして次の瞬間にはまた青い空間は正八胞体の一つのいわば側面空間に
なり、そして次には再び内部空間となる。私が棲み込んでいる空間は透明な空間に戻る。

この8番目の立体の位置を認識した段階で、これがあくまでも4次元超立体の3次元投影図形だとい
うことを再確認したい。どういうことかといえば、内部立体と呼んだ「中心に見える立方体」は
我々が棲み込んでいるこの全宇宙の3次元を鳥観図として表現されている空間であるという点であ
る。本当は、この内部立体自体が単独のままで我々にとっては宇宙全空間なのだ。その意味では本
来4次元意識体である我々は外に見えている全宇宙空間の他に7つの宇宙空間にも同時に棲み込ん
でいるのだ。

となると、この全空間を取り囲む6つの立体は「どこ」にあるのか?これも比較的直観的理解が容
易とおもえるのだが、今度はこの6つの立体のうちのどれかを私の肉体が内部に棲み込んでいると
ころの宇宙空間と想像してみよう。そのときこの全宇宙空間の内面に存在している「内部立体」
とは我々の心の次元のことである。これは側面立体へと自分の位置(=意識の位置)を変換させた
ときに直観できる「見えない広がり」=心の位置であると考えることができる。私の棲む空間のど
こにも見えないが確実に存在が確認できる不思議な空間が我々の「内面」である。

 

これは物理学で言うところの時間軸と呼んでもいい場所だ。空間的にどこにも「無い」にもかか
わらず確実に存在が直観できる我々の内面のことである。この内面という表現は「面」というい
わば2次元的な比喩として外面の3次元空間との位置の違いを直観的に表現している。3次元の2次
元投影による理解である。

物理学ではこれを1次元の直線として表現している。しかし、この時間軸、物理的処理においては
1次元の虚軸(=虚数単位iをくわえた4番目の次元)として処理されているが、我々にとって過去
や未来とはそれ自体が実は空間として内面で表象される「過去の空間」であり、「未来の空間」
である。要は内面もまた3次元空間として表象され、直観化されている。その意味で、我々は虚軸
1次元の4次元座標軸を生きてはいない。むしろ4次元超立体が内面を切実に感じている我々にはよ
り実感に近く、かつ、実空間としてはどこにも空間化していない虚空間の内面性をより正確に表現
している。


色認識の実態からいえば、この全空間が青くなった時、おそらく認識主体の私からは正八胞体の7
つの空間が青の反対色であるオレンジ色の空間に変貌したように見えることだろう。色覚とはそう
できている。地の色は透明化するため、反対色の図がみえてしまう。これは葉が緑に見えるのは光
合成が緑の反対色であるオレンジの光を吸収してしまうことと似ている。光合成において必要とさ
れずに、反射したり透過したりしている色が緑。

 

この内部立体の二つの変貌、

  • 内部立体から側面立体への変貌

  • 側面立体から外枠立体への変貌

 

はおそらく、側面立体は他者視点、外枠立体は普遍視点とよべる視点の幾何学的な比喩だろうと
推測する。普遍視点とは私が自分を他者からみた他者として認識できているときという意味であ
り、これが②の側面立体から外枠立体への変貌・視点転換だろう。このとき、実は私は3次元を
離れて、4次元を生きている。その意味で、そもそも言葉の故郷は4次元である。これは2回の空
間の位置変化によって起こっている。あるいはこの2回がスピンの1/2、ヌーソロジーの特殊用語
である「変換」と「転換」にあたるのかもしれない。意識の進化においては私があなたのあなた、
他者の他者になる視点、この視点の空間化が重要なのではないだろうか。そして外枠立体が単に
内向きの7つの空間を取りまとめた状態のままの空間であると誤解し続ける限り、私はプラトン
のいう囚人のままなのだ。実はすでに常に私は3次元空間から離れて世界の色を変えることので
きる新たな空間に身を置いている。

そしてこの4次元超立体の時間展開動画において、内部立体から側面立体になり、外枠立体になる
動態が我々にはいわゆる空間の広がり(ハイデガーの時間態でいえばホリゾンタールな態度)、
無限性として直観されていると推測される。そして、その次のプロセスである外枠立体から側面
立体、内部立体の動態がいわゆる時間(ハイデガーでいえばエクスターティッシュな態度)として
直観されているのであろう。カントの超越論的哲学の用語でいえば、広がり(空間)と縮まり
(時間)と呼び変えることもできる。これは現代物理学では宇宙論と量子論と呼び変えられてそれ
ぞれが縄をなうように論理化され、観察されている。原子構造を調べてみたら、太陽系の構造と
にいていることが分かって、科学の世界ではこの偶然的な一致に驚かされるが、我々の意識構造
が4次元超立体的であることからする、必然的な相同性であろう。量子場も宇宙構造もどちらも
4次元超立体的こころの反映でしかない。その意味で、この宇宙空間に存在している全ての存在物
は私の分身なのだ。フッサール・ハイデガーと展開された現象学の流れを継いだメルロポンティ
があらゆる存在物は「肉」だといったのは、こういう意味であろう。天空に輝き続けている太陽
は私の心の中、いわゆる内面においても、輝き、私のこころの進化を照らし続けていることにな
る。

 

 

ヌーソロジーのテキストで言えば、「2013:人類が神を見る日」の冒頭で、OCOTが送ってきた
二重球の映像は、4次元立体の正八胞体を球で表しているように思う(前掲書p28)。ここでOC
OTが半田さんの脳に直接送り込んだイメージである「感性球」は二重構造の赤い球体と表現され
ている。球体のなかに同心円のもうひとつの小さい球がある映像である。周りが薄い色、中の球
が濃い色。
 関連部分を構造部分のみに注目して抜粋して引用する。

 

※※※引用開始

コ:赤みがかったオレンジ色に輝く半透明の二重構造の球体が見えます。

オ:これがシリウスから見たあなた方の世界です。今、あなたが見ているその球体は感性球と呼
ばれるものですが、(以下省略)(前掲書p28)

※※※引用終了

 

この二重構造の球体の外の球と内部の球は、正八胞体の外側の側面立体6個と中心にある内部立体
1個のことだろうと推測する。幾何学では3次元空間を立方体として表現し、4次元を正八胞体とし
て描いているが、この立方体を球に置き換えたのが、おそらくOCOTが半田さんの頭に直接送り込
んだ二重構造の球という図形ではないだろうか。OCOTはこれを感性球と呼んでいる。


OCOTによれば、この二重球体が進化すると二つ目の二重球が出現する。二つの内部球同志が点で
接しており、二つの外部球表面は相手側の二重球の中心と接している。目玉焼きの黄身部分が接触、
白身部分はお互いの中心に接しているイメージである。その説明部分を抜粋する。

 

※※※引用開始

オ:感性球と同じカタチをした緑色の球体が見えますね。この球体は感性球が完全に進化の方向を

持った状態を意味しており、球精神と呼ばれます。

コ:これらは一体何なのですか。

オ:今も申し上げたとおり、わたしたちから見たあなたがた自身です。地球意識が進化の方向を見

出した様子を高次元ホログラフィーとして映像化しているのです。

 (前掲書P29)

※※※引用終了

 

このOCOTの発言、ひとつの二重球が二つの二重球になる動態、あれは正八胞体である4次元を次元
上昇させて5次元化させるビジョンではないかと推測できる。そしてそのことが精神進化であって、
これがヌーソロジーの仕事だと語っているようにも思える。4次元意識から5次元意識へ。今の時代
に我々の課題になっている意識進化、意識のカタチの次元上昇ではないのだろうか。
この引用部分でのOCOTの発言で一つの二重球のときには「あなたがたの世界」と呼び、二つの二重
球のときには「あなたがた自身」と呼んでいる。この翻訳言語体系は半田さんの意識・無意識の内
にある言語体系により翻訳されたOCOT語とのことである。この使い分けはドイツ観念論哲学、特に
もカントの哲学を熟読した哲学者であれば、おなじみの使い分けである。「A」と「A自身」という
用語をカントはしっかり使い分けていた。このOCOTのように。「自身」が付くと次元が一つ上がる。

 

 

5次元意識体から見れば、私の棲んでいる宇宙空間の全体は私が目の前のリンゴを見ているのと同様に、
私の宇宙でしかないのだ。正八胞体の動態画像のとおり、目の前のリンゴは反転すると全宇宙空間と
化する。逆にいえば、この私の意識が棲み込んでいる4次元時空を一挙に結晶化させたのが目の前のリ
ンゴなのだ。初めての失恋で全世界が悲しみに沈むとき、目の前のリンゴは甘酸っぱい失恋の味になる。
そして真夏の草原もまた緑萌えることない悲しみの色で染まってしまう。我々はみなそんな時空に棲
み込んでいる。
 おそらくこの4次元意識の在り様をOCOTは「あなたの宇宙はすべて内部です。」と語っているの
はないか。すなわちOCOTは5次元の高みから我々の在り様を俯瞰している。

 

この4次元、5次元についてはOCOTは半田さんに非常に早い時期に情報提供している。

関連するやり取りを引用しておく。

※※※

半田:何なのですか、その位置の等化というのは。
OCOT:西暦1999年に予定されているわたしたちの調整作用です。位置の等化とは、人間の意識が次
元観察子ψ5領域に入ることを意味します。その時は人間の意識に5次元対称性の世界が見えてくる
でしょう。

OCOT:4次元認識をあなたがたが獲得するためには、まず、あなたがた自身の意識の位置を作り出さ
なくてはいけません。
―(中略)―

人間の内面においては4次元対称性を描像するのは不可能です。人間の意識の位置を発見するという
のは、人間の外面を発見することと同じ意味を持っています。

―(中略)―

人間の内面とは、あなたがたが外在と呼んでいる世界、人間の外面とは同じくあなたがたが内在と
呼んでいる世界のことを指します。

半田:内面が外在で、外面が内在?内と外が逆だということですか?

OCOT:本当の外宇宙というのは、あなたがちゃの心中の方向にある…とでも言っておきましょうか」

―(中略)―

半田:ちょっと、待ってください。ではわたしたちが現在、宇宙と呼んでいるものは何なのですか。

OCOT:すべて有機体の妄映です。

(前掲書p87~p91)

※※※

ここでの会話はこれまでここで書いている4次元超立体の第8番目の空間にかんする話題とすると、
だいぶイメージが掴めるように思う。4次元超空間の8つ目の空間は外宇宙として認識されている
が、4次元超立体の動態を参照するとイメージがつかめると思うが、一つ目の空間、内部立体と呼
んだ空間が反転しているだけで、ある意味同じ空間にすぎない。OCOTは第8番目の空間まで含
め「内在」と呼んでいて、これはすべて我々の思い込みにしかすぎない「妄映」だと指摘している。
彼(彼女?)はこの4次元超立体を越えた5次元に真の外在があり、そこが真なる宇宙だと語ってい
るように思う。OCOTが我々に獲得させ、見せようと試みている「意識の位置」とは4次元超立体で
いえば、
1番目の内部立体、
次の6つの周辺立体、
外枠立体、
のことであり、そしてその外枠立体の内部をも超えた5次元超立体の位置に相当する意識の位置の
ことであろう。

 

 すこし繰り返して書いてみよう。

 この意識の正八胞体構造=4次元構造は人間にとっては日々感じられることである。たとえば、島崎
藤村の千曲川旅情の歌を引用してみる。

 

小諸なる古城のほとり 

雲白く遊子(いうし)悲しむ

緑なす繁蔞(はこべ)は萌えず

若草も藉くによしなし

しろがねの衾(ふすま)の岡邊

日に溶けて淡雪流る

あたゝかき光はあれど

野に滿つる香(かをり)も知らず

淺くのみ春は霞みて

麥の色わづかに靑し

旅人の群はいくつか

畠中の道を急ぎぬ

      (島崎藤村作「千曲川旅情の歌」)

 

この彼の存在している全宇宙は彼の憂愁色に完璧に染まっている。我々は常に既に全宇宙を自分色に
染めてしまっている。これが正八胞体の8番目の空間の在り処である。OCOTが頑固に内部と言って譲
らない我々の棲み込んでいる「いわゆる外部」世界の実相である。

 

「人間が持った意識とはカタチの反響です。」

 

4次元の反響として私の意識は成立している。しかも普段は正八胞体の7つの空間の反響にのみ目がい
き、8番目の全宇宙時空の反響でもあることを忘却している。プラトンはこの「意識の8番を忘却した
巣籠り状態にある我々」を「牢獄の壁に映った影のみを見ている囚人」と例えた。ギリシャの賢人に
とっては全宇宙時空もまた私の意識の一つの専有空間であり、そこに起こっている全現象は私の意識
内現象でもあることを感じ取っていたのかもしれない。
 他者により対象化され物象化した自分の肉体を彫像としてリアルに創り上げることを時代精神とし
ていたギリシャ時代。芸銃的感性もさることながら、意識にとっては私の意識と無関係な現象など一
つもないことを哲学的に認識していた。そしてそれに加えて、その私の意識が立ち現れる8番目の時空
が同時に常に既に一挙に目の前の対象として結晶化していることをギリシャの哲人達は知っていたの
かもしれない。ソクラテスの「無知の知」はハイデガーだと「有限性の自覚」と翻訳されている。
「世界内存在」である我々は常に「有限なるもの」としての限界を自覚すべき存在者である。

 

我々は、互いの4次元時空を絡み合わせ、3次元の受肉せる「もの」を4次元から削り出し、析出させる。
そして、その「物」を共同で創り上げた他者の3次元的姿に自己をも封印し、他者により封印されラベ
ルを貼られた私の姿を想像的に析出させてしまう。他者はモノとなり、私も本来の4次元的認識・存在
主体から転落し、他者にとってのモノ、物象化してしまう。このとき、4次元意識体は共同で創り上げ
た「物」とともに、「者」として物象化してしまう。4次元意識体は3次元空間と1次元の時間への分裂
し、4次元から3次元的表相へと物象化してしまう。第8番目の空間は目に見えない瞬間の連続でしかな
い砂時計のような時間軸へと解体され、押し込まれてしまう。

 

意識が4次元の反響であるのは、存在自体が4次元的であるからでる。当然4次元以上の高次元かもしれ
ないが、意識への反映としては4次元として映じている。この4次元的な存在は、あの正八胞体動態の
動きのように、意識への反映としては3次元的には内部が外部、外部が内部になってしまう。原子構造
が太陽系構造に似ていたり、様々なフラクタル的相似でこの自然界が満ち満ちているのは、なんのこと
なく、4次元超立体を3次元化した断面、「3次元的空間的断面」を我々は認識しているからということ
になる。身体が宇宙の縮図だという神秘学的知見も、この4次元超立体の宇宙空間から言えば、当然の
ことになる。太陽系の惑星の動向が星占いとなって、人間の行動や性格に顕われるのも又当然のことに
なる。当然、太陽は私の内部においても燦然と輝き続けているはずである。否、4次元意識的に言うな
らば、そもそも天空もまた私の内部空間なのだから、現に太陽は私の内部で輝き続けていることになる。
存在は常に既に4次元超立体として在りつづけている。空が曇っていても、私の心の中の太陽は輝き続
けることができる。それは自分と隣人を暖めうるかもしれない。

 

 

この我々の意識構造が4次元超立体のカタチを反映したものであるとするOCOTのメッセージのインパ
クトは凄まじく、かつ理路整然と一貫している。そのためたとえば、こんな対話が起きたりする。

※※※

コ:太陽とチャクラは何か関係があるのですか。

オ:関係しているとはどういう意味ですか。それらは全く同じものです。

(前掲書p107)

※※※

 我々の身体の内部に7つあると言われている中枢機関であるチャクラが太陽と同じものとされている。
正八胞体動態の内部の立方体の位置に私の身体があるとき、それはチャクラとなっていて、その立方
体が8番目の外枠側の空間となったとき、それは太陽系の中心である太陽の姿を取るというのだ。いか
に劇的な認識と存在の変更を我々にもたらすか、そのインパクトは凄まじく、眩暈を覚える。

 

どうやら、もうすでに、「我々が3次元の牢獄に囚われて、1次元的に過去から未来に流れる刹那的時
間の連続を生きている」などという囚人の意識構造を持ち続ける時代は終わっているらしい。意識は
4次元的宇宙の時空構造を反映して、4次元的である。そもそも常識的にも時間が目には見えない1次
元的なものだという幻想は誤りである。なぜなら、私たちは秋の日に落葉する公園を歩むことができ
るからである。目の前の落ち葉から秋を知ることができるからである。言葉は3次元ではなく4次元的
存在であり、手のひらの2次元的な映像は3次元的厚みと葉の裏をも含み、春に芽吹き、夏に茂り、秋
に散って今ここにあることを私は直観的に認識している。私の意識は常に4次元意識として成立して
いる。葉のたどった「時」は1次元的な直線ではなく、常に4次元超立体の時熟せる空間においてあり
続けていた。過去という虚無も未来という虚無もそこには一瞬たりとも流れてはいなかったのだ。
我々はただただ常に4次元超立体でありつつ4次元の揺蕩うままに4次元を生きてきた存在である。

 

 

 

こんな本来は4次元超立体に生活している我々なのであるが、現在成立している通常の時間感覚は5
次元以上存在のOCOTからは「3次元的妄映」としてあっさりと分類整理されてしまっている。

 

我々が宇宙の時空に140億年という時間を刻んでいるのに対して、OCOTは

「あなたの棲み込んでいる宇宙はまだ6500年くらしか経っていない」

とあっさり語ってしまう。これもまたショッキングである。140億年という宇宙の歴史は人類である
「人間」の末世的妄想の一つの形態らしい。

 

この「妄想状態」を直観的に理解しようと思うと、「球面という3次元空間がベースになっている環
境に棲み込んでいる2次元生命体」に我々の意識のカタチを次元射像化・ディメンジョンダウンして
みればいいように思う。我々が高さを認識できない状態になったら、どうなるか?広さ狭さは認識
できていると仮定しよう。

 

 球面に棲み込んでいる2次元意識からみれば、地平線は無限遠方だろう(と仮定する)が、水平線
のことを想像して、3次元からみれば、最も広く見えていてもその無限遠方は球の表面の半分のこと
だとと推測できる。その限界領域を見ようとして地面に直立する「時間軸という超越軸」を二次元意
識体は考え出したとしよう。二次元意識生命はその空想する能力によって、見えていない頭上高くに
思考を飛翔させる。高さという自分の日常世界には存在しない虚軸を彼は設定したことになる。その
大地と直交する虚軸を無限の高みにまで登らないと、球の半分の限界線は見えてこない。その直交虚
軸という時間軸に目盛りを刻み、ひと目盛り上昇するたびに見えてくる新たな地平が地上では「ひと
目盛りごとに同じ間隔で広がっている」としてしまえば、本来半球の広さしかない球表面は無限の広
さをもっていることになってしまう。そしてその直交時間軸の目盛りにしたがえば、球の半分の円周
を見渡すのに移動に要する時間は無限時間となる。平行線は有限時空では交わらないからである。結
局、時間虚軸を考えだした二次元意識体は無限に飛翔しなければ、彼の棲む二次元世界の果ては見え
てこない。

 

 これはアキレスと亀のたとえ話と同じである。アキレスと亀の間の距離を現成距離の半分になった
とき、またその半分になったとき、と分割していくと、どこまで計算してもアキレスと亀の距離はゼ
ロにならない。だからアキレスは亀を追い越すことができない、というパラドックスである。俊足の
アキレスが亀を追い越すときに、その「距離が半分になることを一つの目盛り」とすると、アキレス
が亀を追い越すのは無限の目盛り基準の物差しが必要になる。どこまで半分にしても残りの半分は残
り続けてしまう。それと同じ種類の妄想を現代科学は採用してしまっているのかもしれない。1次元
的に無限に伸びる虚軸時間とはおそらくそんな妄想ではないのだろうか。因みにアインシュタインは
矢を前方に放てば、いつかその矢は後から戻ってくるんじゃないかと、仮想していたらしい。実に示
唆的なイメージである。

 

 とはいえ、140億年と6500年の隔たりには唖然となるが、OCOTが語っている宇宙とはいわば「我々
の宇宙」であり、我々が生きている先の正八胞体の8番目の空間の成立が6500年前ということらしい。
我々が全存在と決めつけているこの全宇宙はつい最近成立したものだという。確かに「私の観ている
宇宙は私の肉体的誕生と同時に4次元空間として私の意識に成立しているものであって、それが私の
肉体の死とともに消滅するだろう」ということはそれはそれとして容易に想像できる。いわゆる主観
的な宇宙のことである。我々は主観的な宇宙の他に、客観的な宇宙の存在を当然のことと想定して生
きている。

 

OCOT情報から受ける印象を簡単に例えるなら、科学が追求してきているこの物質的宇宙は太陽がリ
セットボタンをおしてから成立しているものだということらしい。ただし、このリセットボタンの
凄いところは、リセットとともに量子場自体がリセットされるため、物質的存在がすべてリセット
されてしまうということ。そのリセット時点から時間は未来方向と過去方向に無限大で展開するこ
とになる。その過去方向の時空範囲がいまのところ140億年ということになっていると考えればいい。
なんのことはない我々は「井の中の蛙大海を知らず」の蛙だということだ。あなたの棲み込んでい
る井戸は6500年前に太陽によって設定されたものですよ、とOCOTは優しく語りかけてくれているら
しい。そして我々が全てと思っている物質宇宙は我々の意識と同様に有限で、その周りには「真な
る外部」が非物質的な状態で存在しているとのことである。

 

 現代の量子論的にも数式的には時間の方向性は対称的である。未来へも展開するし、過去へも展開
する。物理学に属する量子論では、過去へむかう時間軸は無視している。これは二次方程式で虚数解
がでているような感じである。解は数学的にはでてくるが、物理学では無視するということ。なんと
都合のいい話だろう。かつてのキリスト教の免罪符のような都合の良さを覚えてしまう。

 未来と過去に時間軸が発展するのであれば、未来がまだ曖昧な存在でしかないように、過去もすで
に完璧に岩のように動かないわけでもないことになる。だからOCOTに言わせれば、アンモナイトも
恐竜も「実在」したのではなく、ある時刻に押されたリセットボタン開始によって成立した過去方面
への「存在の存在者化」の一環でしかないということになるらしい。これはこれで理解可能ではある。
映画撮影開始とともに、未来へ向けたシナリオが展開するように過去へ向かうシナリオも展開しはじ
める。しかしその映画フィルムに刻まれるのは映画のクランクインの段階で作られているシナリオに
そった未来であり、過去である。要はそのシナリオがどう3次元展開するのか。シナリオ作家は現実の
過去は単に参照しているだけ。関ケ原の戦いをなかったことにすると、映画自体がリアルさを欠くか
ら一応関ヶ原の戦いが過去にあったことにするシナリオにしているだけである。

 因みにこの映画で例えるなら、OCOT情報による覚醒期とはシナリオ作りの時代だし、調整期とは作
ったシナリオの撮影時期ということになる。我々の時代はシナリオ撮影がラストに差し掛かって、実
際に撮影してわかった様々な情報を回収してまた新たなシナリオを作る段階に入るところになる様子。
俳優陣は次の作品にふたたび登場するか、次は制作側に回るか、大道具係になるのかとか、振り分け
になる様子。
 ま、言うまでもなく、この私の考え方とてそれ自体がいつでも私の自己宇宙における妄想かもしれ
ないのだが。

 

 江戸時代の庶民もこの世を浮世と感じていたらしいから、現代人も自分の経験知によって創られる
宇宙をひとつの浮世として観ていくことが肝要なのだろう。これはフッサールが学問の領域で現象学
的還元と呼んだ態度を江戸の庶民は知だけでなく生活そのものとして現象学的還元を生き、そこに自
らの生の意味を根拠づけていたことになる。素晴らしい日本の伝統だろうと思う。フッサールの現象
学を発展させたハイデガーが「存在と時間」を書くことになるが、彼が「世界内存在」と概念化した
アイデアの元は日本の茶道だという研究も日本にはあった。茶道の「世に処す」という概念がモデル
ではないかという説もあるが、頷けるところがある。日本人は伝統的に現象学的還元を日常化してい
た「浮世」を生きた人々でもあった。

 

 アインシュタインの着想のように、3次元球面表面に棲み込んでいる2次元意識体が目の前に向け
て長距離走行の矢を放つと、矢は背後から帰ってくる。この事実は3次元の球面を認識できる3次元意
識体からは自明なのだが、地面に直交する空想の時間軸に捕らわれた囚人から考えれば、無限にその
矢は走り続けて、決して帰っては来ないことになる。

 アキレス妄想から目覚めて、さっさと目前の亀を追い越せ、とOCOTはギャラリーから声援してい
るということだろう。その時節が到来しているらしい。

 

 最後にOCOTからのエールを一つ

 

※※※引用開始

その時あなたがたはそれこそ自分自身が宇宙の全存在物そのものであることを身をもって感覚化することでしょう。

 

(「2013人類が神を見る日」p176)

※※※引用終了

 

 

(画像はウイキぺディアの正八胞体の動態画像を引用。ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AD%A3%E5%85%AB%E8%83%9E%E4%BD%93)


正八胞体について

2020-11-16 10:06:43 | Weblog



4次元超立体を3次元の時間的鳥瞰にしたものがこの正八胞体動画である。内側の立方体と外側の立方体が次々に入れ替わっているように見える。内側の立方体がこころと呼ばれている部分で、外側の立方体が宇宙と呼ばれている部分である。両者は4次元超立体の部分的な見えである。三次元空間と第4の次元軸としての時間軸との関係はこの正八胞体として直観的に理解できる。


道元とヌーソロジー -「而今の山水は、古仏の道現成なり」の量子論 あるいは「山河」はなぜ名曲なのか-

2020-10-12 08:34:14 | Weblog

はじめに

今回のテーマについて語る前に、ひとつ歌を引用する。というのも、今回のテーマを語るとき訪れる予感はこの歌と共振し、我々の心に深く響いてくるからである。小椋佳作詞の「山河」である。

人は皆 山河に生まれ 抱かれ 挑み

人は皆 山河を信じ 和み 愛す

そこに 生命をつなぎ 生命を刻む

そして終には 山河に還る

 

顧みて 恥じることない 足跡を

山に 残したろうか

永遠の 水面の光 増す夢を

河に浮かべたろうか

愛する人の瞳に 愛する人の瞳に

俺の山河は美しいかと 美しいかと。

♬(小椋佳作詞「山河」より)

山河は視覚的に美しく、心地よく、それは倫理的美しさの規範ともなっている。視覚的絵画的美とは空間的な美である。他方、倫理的美とは生き方の美であり、時間軸を含んだ動的美である。薬師寺東塔に「凍れる音楽」という表現が相応しい如く、山河には生き様という時空連続体の4次元的な美が相応しいとされてきている。

この自然観、山河への思いは日本においては普遍的である。小椋佳の「山河」が強く支持され愛される国。この伝統のもと、道元の正法眼蔵にある唯一の「経」、「山水経」の冒頭の句は覚者の言葉として直観的に受容されている。

「而今の山水は、古仏の道現成なり」

我々の心に真理を予感させるものとして響くこの言葉を、情緒の次元から論理の次元へもたらすことをこの小論では目指している。そしてそれと同時に、現代の科学的論理の到達した究極的な論理的式を情緒的内実をもった式として味わうことを目指している。この無謀ともいえる冒険の旅を背後から照らしつづけてくれるのは、「山河」を愛する情緒的実感である。この実感を手放さず、最後まで目をとおしていただけることを願う。

この「山河」が道元の「山水経」の導入に相応しいとの直観の源泉のひとつは

「永遠の 水面の光 増す夢を河に浮かべたろうか」

の部分。「永遠の水面の光」とは道元のような宗教家、神秘家やその研究者にとっては有名なイメージで、それは没我の境地で展開される意識内容、魂が還る意識の全体性、宗教家だと神からの恩恵、啓示など、意識の究極、超越的境位を表すイメージである。そして量子場理論ではディラックの量子の海のイメージでもある。

そしてもうひとつ「愛する人の瞳」。これは作詞者ご本人にも意外な解釈となると思うが、「愛する人」は「私が愛している人」だけではなく、「愛」を「する」人と解釈してみたい。そう解釈すると、「愛をする存在」とは愛の究極的なイメージ、「無私的な一方的恩寵」を絶えることなく放射しつづけるもの、とも読める。それはまさに太陽のイメージが相応しい。この解釈だと、「愛する人の瞳に 俺の山河は美しいか」という問いかけは、「太陽にとって地球は美しいか」という究極的なイメージになる。このスケールにまで「山河」を広げると、それは道元の「山水経」のスケールに一致する。そしてそのスケール感をもつと、そこから量子場の普遍性と「シリウスから冥王星経由で地球に届けられたというチャネリング情報、OCOT情報」の究極性への微かな予感を聴きとることができるかもしれない。

 

今回テキストとして考察するのは3つ。

道元の主著「正法眼蔵」における唯一の経典、「山水経」。

量子論における金字塔、ディラックの量子条件。

そして現代に降ろされた超越的なOCOT情報。

 

3つの現代の知的課題テキスト。これを同時に読み進めると、ホログラフィックな立体像が現れてくる。

ディラックの量子条件については量子論の専門家吉田伸夫氏が著書でこう評している。

「ディラックが導いた量子条件③は、現代物理学の神髄である。これまでに人類が書き記した関係式の中で、エントロピーを表すボルツマンの関係式S=klogWと並んで、単純にして深遠の極みと言えるであろう。正直な話、この量子条件に秘められた真の意味を理解できる人間が地球上にいるとは思えない。量子力学に見られるさまざまな不思議が、ここに凝縮されているのだ。」

(吉田伸夫著「光の場 電子の海 新潮社 P107」)

 

そして半田広宣氏がヌーソロジーとして精力的に読み解いているOCOT情報はまさに吉田伸夫氏が「地球上にいるとは思えない」と表現しているとおり、情報源がシリウスの知生体OCOTである。その情報は難解の枠を飛び越えて、異様、異貌であり、我々の常識を砕くインパクトがある。たとえば、古生物として地下から発掘されるアンモナイトの化石は生けるアンモナイトの化石ではなく、アンモナイトは地上に生存したことなどない、と語る。そして人類の歴史は1万年より短いと語る。

 

しかし、これらの現代の難解テキストを3つ、並べてみると、たとえば、ディラックの量子条件は、「真の意味を理解できる人間は地上にはいない」のかもしれないが、地上を越えた知性からの知的光により、その意味の片鱗を垣間見させてくれるように思う。そしてそこで見えてくるホログラフィックな概念群は道元の山水経をも照らし出し、より明確な像を見せてくれる。まさにそれぞれの全体を見ることのできない断片を複数重ねると全体の輪郭がより明確になってくるホログラムのようだ。

 

 

「山河」が与えてくれる感動、情緒的共感。この情緒は道元の山水経にも共鳴し、「山河」はまさにお経のように、概念的理解なしでも我々の体に染みこんでくる。そしてこの歌詞にある「永遠の 水面の光」はディラックが見せてくれる「量子の海」へと我々をいざなう。その海面の下にはOCOT情報の語る異貌なる存在が広がっている。名曲には我々の全身全霊を一挙に全存在の時空と共鳴させる響きがある。この「山河」が心に響くように、今回のテーマがこころに何らかの共感を残しますように‥‥

 




インド哲学には「宇宙には始まりと終わりがあり、その周期を呼吸のように繰り返している」とする存在観が古来よりある。

シリウスを発信源とするOCOT情報でも同様の生成消滅する宇宙を語っている。そして現代にシリウスが干渉した理由を「現在の宇宙の終わりの告知」としている。一つの宇宙が終わる段階はこの情報では「最終構成」と呼ばれている。

 

最終構成という時節がなぜ巡りくるのか、を説明するためにOCOTは降りてきた。その軌跡が半田広宣著「2013:人類が神を見る日」であり、「シリウス革命」であり、一連の著作である。

インド哲学から発展してきた仏教にも、始まりそして終わり、また始まる宇宙の円環的時間構造が取り入れられている。そしてこの円環する宇宙は道元の正法眼蔵にも採用されている。しかし、道元の正法眼蔵はいまだに難解な書であり、そのなかの「山水経」の解釈は特にも曖昧なままである。

そして、現代、やっとこの山水経を理解するツールがそろってきた。それは量子場理論であり、OCOT情報をテキストとするヌーソロジーである。そして両者をつなぐ哲学基盤となっているのがハイデガーである。

 

道元の存在認識を理解するうえで参考になるのはヌーソロジーの覚醒期と調整期が巡る存在周期の考え方である。

実際、

「あなたがたの歴史に残っている宗教的知識というのは、覚醒期における変換人の知識がベースとなったものです。」(シリウス革命 p57)

とのOCOTの直接的言及もある。

では、量子場理論とヌーソロジーをツールにすると、山水経はどう解釈されるか。

まずは山水経の原文、冒頭部分を引用する。

 

 

 

而今の山水は、古仏の道現成なり。

ともに法位住して、究尽の功徳を成ぜり。

空劫已然の消息なるがゆへに、而今の活計なり。

朕兆未萌の自己なるがゆへに、現成の透脱なり。

山の諸功徳高広なるをもて、乗雲の道徳、かならず山より通達す。

順風の妙功、さだめて山より透脱するなり。

 

 

用語解説をしてみる。

而今:いま

法位:法としてのあり方

究尽の:究極の

空劫已然の消息:

 仏教の宇宙観は 

1成劫:宇宙が生成して生物が出現する時期

2住劫:宇宙が安定して存続する時期

3壊劫:宇宙が壊れていく時期

4空劫:一切が亡くなった虚無の時期

となっている。だから直訳すれば、「空劫已然の消息」とは「前の宇宙が消える以前」ということになる。

活計:いきいきと活動していること

朕兆未萌:朕兆はきざし。未萌は萌える前。

 

次に直訳してみる。

 

現在の自然環境というのは、古い時代の覚醒者の達成した成果が現成しているものである。

山にしろ水の流れにしろ、かつての覚醒者の究極的な功徳が生成したものである。

今の宇宙が成立する以前の情報であるため、現在の活動の基になっている。

「自己」が潜在的状態で活動しているため、現成している存在の背後にある。

山が持っている様々な「功徳」は高く広いため、雲に乗って訪れる「道徳」は山から発せられたものである。

風に乗って訪れる「妙功」は山から発せられる存在が背後にある。

 

といったところだろうか。

追記が必要な単語がある。

透脱:

「朕兆未萌の自己なるがゆへに、現成の透脱なり。」は透脱の定義とも読める。「現成」とは「自己」が発現したものであり、まだ「自己」が発現していない兆し、萌えである状態が「現成の透脱」である。要は現成の「透明で、超越論的な根拠」を指し示している言葉であり、ハイデガーが時間の本質とした「エクスターティッシュホリゾンタール」のことである。透脱の透はホリゾンタールな開けの空けのことであり、脱とはエクスターティッシュな脱自のことである。ハイデガーが「存在と時間」で論じたように、意識を成立させている自己、その自己の成立以前の超越論的根拠は、意識として現象化しているこの世界の現成がもつホリゾンタール(地平的=透)で、エクスターティッシュ(脱自=脱)な時間性である、と道元は語っているように読める。ハイデガーの言葉を借りるなら、「而今の山水」として現成しているこの現象世界とは自然的に人類史的に「時熟した」ものである、と道元は言い放っている。

 

山水経の冒頭の4文は「而今の山水」の説明であり、その説明の根拠、観点が示されている。その際の4つの理解軸は2×2の論理を採用している。

2文づつの対になっていて、量子場理論で言われる双対構造と同形である。

概念化して抽象化するならば、対原理は「動くもの」と「動かざるもの」のことで、一対は時間的なこと、空間的なこと、でありもう一対はエネルギー的なこと、場的なことと言える。この2×2構造である。「山河」でいえば河と山のことである。この対構造は存在の基本分節であり、ハイデガーの「存在と時間」の概念枠を使うなら、「動くもの」とは未来・到来性=エクスターティッシュなるもののことであり、「動かざるもの」とは過去・既在態=ホリゾンタールなことのことであり、神秘学・宗教的な概念枠でいえば、光と愛、エネルギーと愛のことである。道元の言葉でいえば、脱と透、即ち彼が「透脱」と表現したのはこの根本的な存在・意識構造のことであろう。

具体的に語れば、

 

1対目:

「而今の山水は、古仏の道現成なり。

ともに法位住して、究尽の功徳を成ぜり。」

 

而今の山水を「道」という開かれた空間とし、「功徳」という時間的なもの、と説明している。

 

もう1対目:

「空劫已然の消息なるがゆへに、而今の活計なり。

朕兆未萌の自己なるがゆへに、現成の透脱なり。」

 

而今の山水を「而今」のエネルギー根拠としたのが「活計」であり、「透脱」はその量子場理論が場と呼ぶところの場の特性を語っている。

 

 

要は道元は目の前に展開している存在の全体を、

「時間的空間であり、空間的時間である。その根拠は量子場であり、その量子場とは場のエネルギーであり、エネルギーの場である。」

と語っている。時間と空間の本質的な同一性を語っている点ではアインシュタインと同値である。因みにこの時間と空間というカントの感性形式の枠の解体と再生を目指したハイデガーは「存在と時間」においてこの時間をエクスターティッシュ、空間をホリゾンタールとして、時間性の一元論へと現象学的に還元している。そしてこの「エクスターティッシュ、ホリゾンタール」との「時間性」へのハイデガーの洞察は、同時代に発展した量子論の文脈でいえば、光と呼ばれている現象が電磁波として理解され、この電磁波とはエクスターティッシュな電場と、ホリゾンタールな磁場の融合された存在とされている。この意味で言えば、ハイデガーが時間と空間の共通の根とした「時間性」とは光の事だったのである。「初めに光ありき」の聖書文化のしからしむるところともいえる。そしてこのハイデガーが後期には「言葉が存在の棲家」と深化するが、これもまたハイデガーが「初めに言葉ありき」の聖書文化の申し子だったからともいえる。アインシュタインにしろハイデガーにしろ、量子論にしろ、それぞれ、難解であるが、これとて、我々が日常的に使っている言葉、光や愛、河や山を丹念に精緻に理解しているだけとも言えるし、逆に愛や光、山河として了解されている我々の言語空間の根本分節をそれぞれの探求する領域においてこれほどまでに丹念に精緻に理解しようとする誠実さに最大の敬意を払いたい。そしてそれと同じ境位を見ていた日本の先達、道元の叡智的到達点にも深く頭を垂れたい。後期ハイデガーが語るように、まさに言葉は存在の棲家である。

 

因みに量子場理論というときに私が想定しているのはディラックの量子条件定式後の量子論の達成状況を念頭においている。とはいえ、ひとまず、道元の山水経のこの冒頭部分とイメージが近いのはシュレーディンガーの波動方程式段階での量子理解の方だろう。なぜかといえば、波動方程式においては自由電子の位置と時間を求める際に利用されている数式の変数部分は

px-Et

であり、

x:位置

p:運動量

E:エネルギー

t:時間

の4つの基本概念から構成されている。

この4つを道元は

 

x=古仏の道

p=究尽の功徳

E=而今の活計

t=現成の透脱

 

と概念づけ、名づけていると推測することが可能だ。透脱はハイデガーの時間性のこととの先の推測がここでも示唆される。

 

後半の2文は 雲のようにおぼろげながら確実に見えている道徳は山からの明確な通達であり、その行動がベクトルを定めるときに耳をすまして聴きとる「風の声」もまた山からの見えざる通達である、と語っている。実はこの境位はハイデガー後期の思想をすでに先取りしている。仏教の知的伝統が色濃い京都学派がハイデガーに傾倒する理由もこの辺にあると私は推測する。

この4つからなる双対概念装置を位置と運動量の1対とq数の関係に整理したのが、ディラックの量子条件である。この位置(x)と運動量(p)について、通常の数であれば、xp=px の交換法則が成立している。この交換法則が成立しない「非可換な数」をディラックは導入した。これはq数と呼ばれている。具体的な数ではなく、数式で表される抽象的な数である。ディラックはハイゼンベルグが不確定性関係を表すために導入した行列やシュレディンガーが導入した波動関数をq数を表現する数式として統合した。そして、この非可換なq数の交換積の差(px-xp:pもxもq数)が現象世界開闢のスタートだとディラックは鮮やかに示した。その際「現界」と「幽界」を変換する装置が虚数単位「i」である。(逆にえば、xp=pxを当然の前提として営まれている我々の日常からはこの等式がなりたたない量子論の世界は理解が困難であるということである。)

この点を具体的に説明してみたい。

量子が粒でも波でもない量子なのだ、ということを端的に示したのが、ディラックの量子条件といわれる式である。

 

これは  px-xp=h/2πi

という極めてシンプルな式である。

 

この式においても

x:位置

p:運動量

である。

あとは

h:プランク定数 連続的な波動が不連続な粒になる最小の単位

π:円周率(パイ)

ⅰ:虚数単位

である。この式を満たすxとpが量子として現象してくるということである。このxとpがq数と呼ばれる「数」である。

 

ここでπが式に登場するのは実に神秘的であり、かつ理解の切っ掛けにもなる。

というのもπといえば、最もシンプルで周知の式は 円周(L)と半径(r)の関係

L=2πr

である。

この直観的に分かりやすい形に習って、ディラックの量子条件をちょっと変形すると、

 

h=2πi(px-xp)

 

となる。

これから容易に直観的に見えるのは 半径(r)が

r=i(px-xp)

である円の円周の長さがhということ。

「非可換的な位置と運動量を掛け合わせた積の差(px-xp)に虚数iをかけたもの」が半径になっている。この半径である長さが回転した円周Lが現象の最小単位(h)だといことである。実に美しい。このシンプルで美しい式は存在と非存在の関係、いわば現界と幽界の関係を語っている。日本の量子理論を牽引した二人の巨頭、湯川秀樹の晩年のテーマは現象世界の最小単位である「素領域」であり、朝永振一郎の著書の標題は「スピンはめぐる」である。粒から成り立つ現実世界の最小単位プランク数(h)を構成しているものは実的実体の回転(単純なスピン)ではなく、i(px-xp)という虚的なもの幽界的なもの、「もののけ」の「めぐり」である。ディラック方程式は「素領域においてめぐっているもの」を鮮やかに定式化している。「もの」を構成している「もののけ」を定式したのがディラック方程式である。

 これを先の道元の概念で置き換えてみると、

 

p:究極の功徳

x:古仏の道 

と、置き換えることができるかもしれない。これの可否はもう量子場理論を説明しつつ道元本人に聞くしかないのだが。さて、どう問うか。たとえば、

「究極の功徳と古仏の道が織りなす非可換な交換積の差を半径とした構造が幽界には存在し、それが「虚数界と実数界の変換装置であるⅰ」により現象界へと降りて来て、その「差」が回転してできる円の軌跡、それが泡のように立ち現れているのがこの衆生世界ということでしょうか?」

とでも語れば、道元との対話が成立するのかもしれない。

 

この非可換な関係が現象界として立ち現れてくるということになる。究極の功徳といえば、日本では西田幾多郎の著書「善の研究」の「善」という概念が連想される。西田幾多郎の言葉を使うなら、究極の功徳とは究極の善のことである。この「究極の善」と、今我々が存在している世界を成立せしめている「古仏の道」、この2者の非可換な関係によって現象は現象界に送り届けられてくるということになる。道元が山水経で語ろうとした風景は量子場理論の完成を待たなければ深い理解がえられない境地であったことになる。

 

 この道元の境位をヌーソロジーはどう語るのか。ヌーソロジーにおける「究極の功徳」とは「場」でいえばオリオン、「力」でいえばノウスであろう。そしてそれに対置されるのは場で言えばプレアデス、力でいえばノスと推測される。だから、「古仏の道」はプレアデス的な関わりをもって現象してくることになる。「古仏」という場、「道」という力で。この対で分析すれば、道元のいう「究極の功徳」の方は、「究極」という「場」、「功徳」という「力」ということになる。

 

このオリオンとプレアデスの関係は、OCOT情報は「タカヒマラ」と呼ばれている。このタカヒマラとは

 

「およそ存在と呼べるもの、そのすべてを送り出している宇宙精神のシステムのようなもの」

「素粒子から銀河に至るまで、あなた方に観測されるすべての現象世界は、このタカヒマラにおける共鳴波動として存在させられている」

(2013:「人類が神を見る日」 p68)

 

と語られている。

 究極の功徳と古仏の道が織りなす根源的な差異を動因としてその「距離」が半径となる円がプランク定数となってぐるぐると巡り、螺旋的に高まりながら、あらゆる現象が現象化していく。その相貌を道元も量子論もヌーソロジーも語っている。

 

 ディラックの量子条件の美しさが提示する存在の神秘を道元は座禅というツールによって悟っていたのだろう。我々がカミオカンデの巨大水瓶装置によって素粒子の挙動を捉える800年も前のことである。このカミオカンデ、飛騨(ヒ・ダ=日田=太陽と地球)の神岡町の山深くに造った巨大な地下人口湖である。これもまた現代における「山水」、「而今の山水」であり、「山河」なのだ。

 

道元が山水経で語ろうとした風景は量子場理論の完成を待たなければ深い理解がえられない境地であったことになる。

近代の西洋的科学思考が練り上げた量子場理論の概念構成を東洋の思想家は独自の概念で練り上げ、現象の本質に迫っていた。哲学はギリシャ以来、言葉の言い換えにしかすぎない。

あるいは「新たな言い換えによってみえてくる新たな世界を告げるもの」であり続けている。

しかし、「空劫已然の消息」の意味は量子場理論だけでは理解できない。これにはインド哲学の伝統がベースになっている。一つの宇宙の誕生から消滅、そして再びの誕生というそれこそ空前絶後のスペースオデッセイのベースがまず必要である。

しかし、それだけでは

而今の山水は、古仏の道現成なり。

空劫已然の消息なるがゆへに、而今の活計なり。

も理解不能である。これを理解させてくれるのがヌーソロジーの一連の知的努力の結晶である。

まず、「而今の山水は、古仏の道現成なり。」をOCOTはどう語っているのか。

「仏性とは確かに人間が認識の完全化を起こすことを意味しますが、それは決して正体不明のものではありません。実はこの力を生み出すことが新しい太陽系の創造と深く関係しているのです。-中略- あなたは宇宙創造という言葉を聞くと、すぐに物質的なイメージで宇宙を生み出すことを考えてしまっています。しかし、あなたが物質・エネルギーと呼ぶものと、あなたがた自身の意識とは、ある巧妙な空間構造の中で一体となって動かされているのです。

」(人神p160)

「現在、あなた方が認識している物質的宇宙はアトランティス人達の意識進化の結果として生まれた反映のようなものだということです。

-中略-

あなた方がミクロ世界に見ている素粒子や原子のスピン構造は、アトランティス人たちの次元上昇の意識によって作り出されたスピン、つまり定質の射影のようなものだという意味でお話しています。-中略-現在、アトランティス人の意識はオリオンに入り、真実の人間の意識として働かされています。」

(シリウス革命p120)

 

このシリウスからのOCOT情報のインパクトは凄まじい。道元が古仏と表記した存在をOCOT情報はアトランティス人としている。ここは実は少し正確に言えば、アトランティス人のなかで、物質世界を卒業していった存在が古仏ということになる。卒業できなかった留年組が現在人類の肉体的祖先ということになる。道元は冥界にあって、この現代の知の最先端をどうみているのだろうか。

 

「而今の山水は、古仏の道現成なり」

 

量子場理論もなくOCOT情報もない鎌倉時代、西暦1200年代に相当する末世の日本にあって、この一文を刻んだときの道元には存在の神秘はどのようにみえていたのか。先達への感謝は先達を越えて「古仏の道」を明らかにしていくこと。牛歩にも価値はあると信じたい。


道元は鎌倉時代の曹洞宗の教祖であり、日本における宗教・哲学の代表的な思想家である。その道元が主著「正法眼蔵」で

「而今の山水は、古仏の道現成なり」

と語っている。「現在の生態系は先哲が歩んだ道が現実化したものである」とのテキストが現代の知の最先端からどう読み解けるかを前回少し書いた。当時の国内の最高知識人が海外留学を経て帰ってきて、その後、彼がいうこの発言を当時の人々はどう受け止めたのだろうか。色即是空は直観で理解できるが、空即是色は知力で空を色づけないとわかったことにはならない。

 

では、「古仏の道」はどのようにして「而今の山水」となるのか。これを理解するときに現在使えるツールは少ないし、おそらくこれまでその意味射程を解説した文章も今の時代では少ないだろう。「古仏の道」という意識的なものが、「而今の山水」という物理・化学・生物・地学的な自然科学的存在と「成る」プロセスを語る既成学問は皆無だからだ。

近代学問の流れはむしろ、自然科学的なプロセスによって意識が成立しているとするパラダイムで進んできている。意識的精神的な現象を物理化学的法則に還元して理解することに近代科学はひた走ってきた。道元のテーゼは逆である。精神的なものが物質を形成していると宣言している。

この道元の宣言の理解において重要なのは意識と物質の相互関係、両者を一元論的に語る論理構築である。この一元論を精力的に展開しているのが現代ではヌーソロジーであり、その理論的なバックボーンはOCOT情報である。

シリウスが情報源とされるこのOCOT情報のインパクトは凄まじい。どの程度に凄まじいか。

 

ここ数百年我々は天動説から地動説へと知の枠組みを切り替えてきた。そして、動かざること山の如しの山、不動の大地が現代科学的知見ではすさまじい速さで宇宙を移動していることになっている。

およそ4百年前まで人類は地球の周りを太陽が回っていると思っていた。それが現在では地球は球形で、赤道付近では時速1600kmの速さで自転しており、太陽の周りを時速10万km(秒速30㎞)で公転しており、その太陽は天の川銀河において秒速240㎞で移動しているという科学的知見となっている。仮に4次元時空において1秒「自分だけ」「時間軸だけ」移動すると、地球は240±30㎞遠くに行ってしまっていることになる。地球成層圏の厚みは10キロオーダー、地球内部だと200キロ内部へ移動したらマントル対流層なので、1秒の時間のみの移動は命取りになる。我々は寝ても覚めても地球にしがみついていないといけない存在になってしまっている。仮にタイムマシンに乗る時には充分取説を読まないと非常に危険だということ。いずれ時間的には138億年前のビックバンで発生した宇宙で、45億年前に発生した地球に住んでいることになっている。これが現代自然科学が提示する我々の時間的位置である。

 

他方、OCOT情報が示す人類の位置は全く違う。天動説から地動説へのパラダイムチェンジにあるいは匹敵するような世界観をあっさりと情報提示していて驚きである。とはいえ、一昔前に天動説を誰もが疑わなかったように、今では誰も地動説を疑わないが、こういった知の枠は時代によって逆転してきている。これを振り返れば、そのうちOCOT情報が常識になる時代がきてもおかしくはない。認識枠切り替え時期の人々「だけ」がしばし右往左往し,口角泡飛ばす議論をする「だけ」のことなのかもしれない。OCOT情報が示しているのは、ある意味、地動説から天動説への回帰ともいえる。その意味では前回の天動説から地動説へのインパクトを相殺する程度のインパクトともいえる。

 とはいえ、OCOT情報が告げている今回の知のパラダイムシフトにおいて現代科学的知識が染みこんだ頭が受け入れがたい変化が幾つかある。そのうちの一つは宇宙の歴史スパンである。前回の「天動説から地動説のパラダイムシフト」においては、太陽の恒久性や大地の永遠性については問題とされなかった。昔から太陽は天に輝き、大地も久遠と呼べるタイムスパンで安定していることに疑問はなかった。その半恒常的な太陽と地球のどっちがどっちの周りをまわっているかというだけの議論だった。

他方、OCOT情報は現在の物理的次元が始まったのはわずか6500年前だという。これは驚異的な情報である。

数百年前から、宇宙時空連続体に占める我々の場所は天動説から地動説で一挙に地球という小さな球になったが、その代わりに人類は広大な宇宙スペースを手に入れた。

他方、今回OCOT情報が提示している世界像においては、空間軸に続き、今度は時間軸が一挙にタイトなものになってしまうらしい。この時間的な肩身の狭さを受け入れる時、こんどはどのような広がりをもつ次元を我々は得ることができるのだろうか。

前の地動説においては、我々はマクロ的には広大な宇宙時空間の座標軸を獲得し、ミクロ的には原子構造を覗き込む思考枠を獲得した。他方、今回獲得することになる新たな次元軸は物質と意識を包括する存在階層次元である。OCOT情報によれば、その座標軸はタカヒマラと呼ばれ、オリオンとプレアデスの2極により張り渡され、シリウスによって媒介されている。

 

我々が現在使っている無限大時空と無限小時空という二極の認識の枠組みが今度は「オリオン的なもの」と「プレアデス的なもの」という全く異質な認識枠に切り替えられる。

具体的には、現在の自然科学においては「物質に寄生虫のごとく張り付いているものでしかない意識」をよりまっとうな扱いで見直し、むしろこれまで「物質と呼ばれてきた存在」を「意識の特殊な形態」とみなすことになる。半田さんの言葉を借りれば、これまでは物質が「幅」をきかせてきたが、これからは「霊」がその「奥行き」で物質を包み込んでしまう。

この認識・存在のパラダイムシフトについてOCOT情報はこう語っている。

 

 

※※※引用開始

コ:六千五百年先の未来には、世界は全く違ったものになる‥‥・ということは、そのときに、僕らが現在、物質世界と呼んでいるものは、すべて消滅するということですか。

オ:はい、付帯質の力の反映、つまり人間の意識が創り上げてきた創造物は全て消え去ってしまうでしょう。しかし、もはや物質という概念は、その時の変換人の意識には存在していません。変換人たちにとっては、視覚に映し出されている物質よりも、それらを生み出している空間構造の方に意識が傾いていますから。-中略-

定質の働きによって、物質は空間の不要物となります。変換人の意識においては物質と意識の関係が、丁度あなたがたとは正反対になっているということです。

コ:ということは、アトランティス人たちもそれと同様の体験をしていったということですか。

オ:もちろんです。今からあなた方が経験することと同様にことが、約1万3千年前から始まったとお考え下さい。その時期を契機に彼らの意識はプレアデスから、シリウスへと進化していったのです。

コ:なるほど‥‥そして、彼らがオリオンに到達した紀元前四千五百年頃、プレアデスに現在の人間が生まれてきた‥‥つまり、そういう筋書きですね。

オ:はい、全くその通りです。

  (「シリウス革命」p577~578)

※※※印象終了

 

 

簡単に言えば、道元のいう古仏とは、ここでいうアトランティスであり、オリオンに到達した意識体によって、現在の地球環境が現成したということになる。


道元を理解することは、西洋哲学的文脈でいえば、近代科学の危機を乗り越えようとして現れた現象学の一つの到達点、ハイデガーの存在の時間分析(還元)の思惟の発展形としてOCOT情報を理解することでもある。具体的にはハイデガーは存在の根拠として「時間性」を位置づけ、その時間性について「エクスターティシュホリゾンタール」という還元結晶を析出させた。そのハイデガーの思惟が到達した成果を引き継ぎ発展させること。即ち、具体的には、エクスターティッシュを無限小ベクトル、ホリゾンタールを無限大ベクトルと読み替えていくことになる。

前段でこんな頭の柔軟体操をしてから、OCOT情報を見ていくことにする。

ヌーソロジーのアポリア、長期タイムスパンと長距離空間、要は長時空問題、これ一つの解釈法は

「我々の認識とOCOTでは、ミクロとマクロが逆転しているので、長時空のマクロは超微細のミクロに反転してしまうので、観測困難なミクロとなっている」

として理解する方法。しかしこれは観測できないだけなのではないか?という問題を孕む。もうひとつは存在論的解釈。最終構成時に時空の再定義が行われるとする理解。これはOCOT情報では正当な理解らしい。

後者について、考えてみる。参考文章を引用する。

 

 

引用開始※※※※

コ では銀河系とは何ですか。

オ 前次元において生まれた力の変換作用と転換作用の反映の次元です。生命を作り出すための力の抽出のようなものでしょうか。

コ 生命を作り出す‥‥‥?銀河系と地球の生命が何か関係があるのですか。

オ もちろんです。銀河系が無ければ、生命は存在することができません。

引用終了※※※※

(半田広宣著「シリウス革命」P194-195より引用)

 

 

OCOTは自然科学的な意味で「銀河系がなければ地球もなく、地球もなければ、地球上の生命もない」ということを語っているわけでは決して、断じて、「ない」。

我々の身体を構成している細胞のひとつひとつと天の川銀河は密接な関係を維持しているとOCOT情報は語っていると思われる。

 

無限とはそもそも超越である。端的にそれは経験できない。無限大と無限小、ともに経験できないが、この超越軸を我々は空間認識におけるベースとして採用している。認識の図地構造における地、これは無限大と無限小のベクトルによって開かれている。この二つの超越軸をOCOT情報は同一存在とみなす存在・認識枠を提示している。だからOCOT情報にとっては銀河系と細胞構造は同じ存在となり、単に人間への見え方が違っているだけだということになる。

これは認識の図地構造の話なので、それはそれでいいとしよう。

他方、時間軸への改変は異様なものに映る。いかに異様であるか、骨子を引用する。

 

 

※※※引用開始

コ では、アンモナイトとは何ですか?

オ -中略-レムリア人たちが生命を失ったときの次元です。

コ どういうことですか、生命の力を失うと言っても、アンモナイトは生物ですよ。

オ いいえ、アンモナイトは生物とは呼べない次元に存在しています。

コ 確かに、今は生きてはいませんけれど、化石として残されていますが‥‥。

-中略-

オ ‥‥‥どのようにお答えしておきましょうか‥‥アンモナイトが生物として、この地上に存在したことなど一度もなかったということです。

コ え?‥‥どういうことなのでしょうか?現に地層の中から化石が発見されていますが。

オ 生物の死骸が化石になったという考え方はまちがっていると言っているのです。地層とはタカヒマラが交替化を行った次元の投影です。化石とは次元の交替化が作り出されたときに生み出された次元です。アンモナイトが実際に存在したのではありません。

-中略-

コ ‥‥?‥‥では、恐竜はどうなるのですか‥‥恐竜もいなかったということですか?

オ はい、そのようなものが生物として存在したことなど一度もありません。

※※※引用終了

(「シリウス革命」p557~559)

OCOT情報は明確にアンモナイトや恐竜などの化石が「この地上に」生物として存在していたことを否定している。では何物か。6,500年前に「この世界」がスタートしたときに、生ける生態系として「動結晶化」せずに、死せる化石として結晶したもの、と語っているように解釈できる。

結局、6500年以前の歴史についての研究はそれ以降についての歴史学・自然科学とは全く別の、いわば「交替化」学という学問領域でなされるべきものだとOCOT情報は告げている。分かりやすい言葉に言い換えるなら、いわゆる進化論、古生物学は生「物」学ではなく、「生命」の構造化の歴史の反映だということ。その意味で古生物学は生物学ではなく生命学であるということになる。だから、別に古生物学が積み上げてきた知識・データは無意味なものではなく、生命の構造化・高次化の仕組みを理解する貴重な学術成果だということ。物質ベースにだらだらと展開された「数十億年の物質的生物体の歴史の断片」ではなく、生命という実体が生命を構造化し、自己認識してきた生ける歴史学となる。「3次元空間+1次元的時間軸」という直線的な時間の妄想からより洗練され、流動する4次元時空・4次元空間の自己組織化の在り様を認識する4次元生命科学へと古生物学はシフトアップする。それは蝉が地下生活を終え、羽化したイメージに似ている。

 

細胞が定期的に分裂して増殖するように、我々がそこに棲み込みつつ、我々自身でもある生命実体も定期的に分裂するらしい。その分裂周期が1万2千年という意外なほどの短さと、OCOT情報は語っている。通常の体細胞分裂は縦や横や上下という同一空間内での分裂であるのにたいして、この生命実体の分裂は、いわば現幽軸での分裂と呼べるような奥行的分裂となり、一方の細胞は上位次元にシフトアップしていく。もう一方はシフトダウンして現界に出現する。

この生命実体の細胞分裂の起こったのが、直近だと6500年前くらい前だとOCOT情報は告げている。それがあまりにも最近のことなので、驚きである。前回シフトが起きたのがアトランティス時代。その際にプレアデスサイドに出現した世界が今の我々の存在している地球。その時にシフトアップした存在のなかにOCOTもいるとのこと。

今から6500年前に新たに出現した「この時代」において、生命実体のマクロ方向に見えてきているのが銀河系であり、ミクロ方向に見えているのが細胞。6500年前から新たな時空がスタートしていて、現代の自然科学的な一次元的時間軸を採用して推測すると、過去方向には宇宙開闢のビックバンが想定されてくる。地下には「これまでの生命実体のなかで、生ける地上の生態系とならない様々な相」が化石となって大地化し、地層化ている。だからアンモナイトも恐竜も6500年前にはじまった現在の物質界には生命体として存在したことはない。あるいは、彼らの原型となった存在は今の物質世界に先行するいつかの世界においてその当時の生命実体であったのかもしれない。その歴史モニュメントが地下に形作られている。その存在的な「先行性」が物質的な反映として古さの兆候を身にまとっていて、それを現代の科学者は生命の歴史として直線的時間軸の上に整列させることができている「だけ」のかもしれない。しかし、その古代生物たちすべては、生命実体からの情報により6500年前に地層として作られたいわば「レプリカ」なのだ。この時間軸妄想からの目覚めがもたらす異様な相貌のインパクトは凄まじい。

 

こういった知のパラダイムチェンジによって我々は何を得、何を失うのか。

アインシュタインの提案にしたがって時間を第4の次元と設定すれば、そしてOCOT情報との整合性をはかるとすれば、およそ1万2千年程度のスパンで周期的に訪れる時間軸のなかで、前の最終構成から「今の次元」は開始していて(今からわずか6千年程度しか経過していないとのこと)、そこから第4の物理次元軸としての時間軸の設定が再スタートし、過去と未来へとその物理化学的タイムラインが広がっているというイメージになる。だからアンモナイトの化石が物理的時間軸上では3億年前に位置するのはそれはそれでOK。その仮定された時間ポイントにそれが配列されるというだけなのだ。いわばプラネタリウムの星空がスクリーンに投影されて広がっているようなものだろう。そもそも時間軸が未来へ「のみ」無限に伸びるというのは誤解でしかないでしょうから。過去時間軸も伸びる。そしてそのどちらも妄想的な反映、妄映にしかすぎないともいえる。寝そべってプラネタリウムに興じているうちに、我々はそれが天球に投影された光にしかすぎず、その光源は枕元、頭の後ろにある無数の孔と唯一の光源光であることを忘れてしまっているらしい。ギリシャ時代のプラトンが人間の認識について、洞窟に壁を向いて縛られ、壁に映る影だけを存在だとおもっている囚人にたとえていた。昔から我々は洞窟の壁にうつる妄映を見続けているらしい。
そして、その現在上映中のプラネタリウムの上映時間がそろそろ終了するらしい。

そのアンモナイトの3億年スケールを通り越して、物理的時間軸は宇宙開闢の瞬間まで伸びていく。おそらく、過去からの結果によって現在があるという因果的時間軸もまた、物理的時間軸からする幻想の一つなのだろう。未来の「結果」から現在が規定されてくることを別にアインシュタイン的時間理解は否定しない。だから我々が空間を移動可能なように、時間軸の移動が可能な知生体が存在すれば、11時に東京で落ち合う時空を設定すると、10時30分頃に大宮で上り新幹線に乗っているのは、その11時という未来からの設定の「結果」となる。

しかし、このOCOT情報が告げる最終構成関連情報の展開は「存在」ということ自体の独自の再定義をもたらす。具体的には6千5百年前に再スタートした時空は存在とされるが、その時空ポイント以前に開かれいるように見える地球の歴史は単なる反映であり、生命存在とは言えないらしい。道元のいう「而今の山水」の「而今」にはそういった思いが籠められていたのだろうか。道元にはこの存在の相貌はどこまで見えていたのだろうか。

ここで、全体のまとめの意味で、冒頭に引用した「山河」の二番を引用する。

 

歳月は 心に積まれ 山と映り

歳月は 心に流れ 河を描く

そこに 積まれる時と、流れる時と、

人は誰もが 山河を宿す。

 

         (小椋佳 「山河」より)


OCOT情報によれば、今地球に存在している山河は、ムーやアトランティスと呼ばれている時代の終わり即ち「最終構成」において、その時代に存在した人類が到達した意識が現成したものということになる。道元の山水経の冒頭

 

「而今の山水は、古仏の道現成なり」

 

とは、こういう意味と解釈できる。まさに「歳月は 心に積まれ、流れ、山を創り、河を描いている」。とするならば、今の時代を生きている我々のこころの中には次の時代の山河が宿されていることになる。これが「人は誰もが 山河を宿す」の意味となる。

「山河」、味わい深い曲である。それはお経のように深遠な真理を我々のこころに刻む。道元の「山水経」と小椋佳の「山河」は心の深淵においてひとつの詩(うた)として存在しているということである。

 

今回の道元の山水経の解釈にもう少し厚みを付けるために、もう一人の知的巨人を西洋から援用する。ルドルフシュタイナーである。彼の著作から引用する。出典はOCOT情報の理解を生涯の仕事としている半田広宣氏の著「シリウス革命」の61ページである。

引用開始…

「私たちは今日まわりに光の世界を見る。何百万年か前、それは精神の世界だった。私たちは自らのうちに精神の世界を抱えており、これが何百万年後かに光の世界になるだろう。…‥そして、世界になろうとしているものに対する大きな責任感が私たちの中に湧き上がる。なぜなら、私たちの精神的衝動が後に様々な輝く世界になるからである。」

       R/シュタイナー:「Truth Wrought Words」

引用終了…

 

「私たちは自らのうちに精神の世界を抱えており」とのシュタイナーの一節は「山河」の「人は誰もが 山河を宿す」と同値であろう。それが見えてくると、シュタイナーの文章と小椋佳の「山河」が見通している心象風景は一致してくる。

 

歳月は 心に積まれ 山と映り

歳月は 心にながれ 河を描く

そこに積まれる時と、流れる時と、

人は誰もが 山河を宿す。

 

顧みて、恥じることない

足跡を山に 残したろうか

 

地上の自然の客観的な存在は人類の知的活動の結果として創造されてくることになる。仮に神がこの世の創造主ならば、神は我々の意識活動を媒介として世界を創造しつづけていることになる。宇宙の創造的進化の最先端は私のこの「思い」なのだ。「恥じることない足跡を山河として残すことができるのか」という問いをシュタイナーは

「世界になろうとしているものに対する大きな責任感が私たちの中に湧き上がる。なぜなら、私たちの精神的衝動が後に様々な輝く世界になるからである。」

と語っている。

こうやってみてくると、「山河」において

「愛する人の瞳に 俺の山河は美しいかと。」

と歌っている主体(俺)とは愛する人の瞳=太陽 に対して「俺の山河」を語るもの、であり、要は地球がこの「山河」を歌っているということになる。地球とはその意味で太陽の自己認識の場なのだ。即ち、より美しくありたいと意志しているのは太陽ということになる。

 

 

さて、駆け足で、3つの難解なテキストをホログラフィックに展開してみた。

最後に、日本的直観の粋として山水経と「山河」を再度、並べておく。目をつぶって、眼前に展開している現在上映中のプラネタリウムの夢から醒めて、ホログラフィックな直観に心を澄ますと、二つの断片はひとつの4次元的な実体として予感されてくることだろう。そして「山河」は現在におけるお経として、歌い継がれていくことだろう。

 

而今の山水は、古仏の道現成なり。

ともに法位住して、究尽の功徳を成ぜり。

空劫已然の消息なるがゆへに、而今の活計なり。

朕兆未萌の自己なるがゆへに、現成の透脱なり。

山の諸功徳高広なるをもて、乗雲の道徳、かならず山より通達す。

順風の妙功、さだめて山より透脱するなり。

 

  -道元 山水経-

 

 

歳月は 心に積まれ 山と映り

歳月は 心にながれ 河を描く

そこに積まれる時と、流れる時と、

人は誰もが 山河を宿す。

 

顧みて、恥じることない

足跡を山に 残したろうか

永遠の水面の光 増す夢を

河に浮かべたろうか

愛する人の瞳に 愛する人の瞳に

俺の山河は美しいかと。美しいかと。

 

 -小椋佳 作詞 「山河」-

 

 

 

 




重力について

2018-04-23 09:21:07 | Weblog

重力について
  -原意識 現象学 量子論 OCOT情報 ラー文書についてのメモ-

20世紀になって、哲学では現象学、物理学では量子論が非常に大きな知の地殻変動を

もたらした。この二つの潮流は人類史においては実は同質の潮流だろうと推測するが、

同時に語られることはあまりない。この20世紀地球上での知的イベントが、太陽系規

模と自称されるチャネル情報2つ(冥王星経由のOCOT情報と金星スタートの「ラー文

書」)からどのように見えてくるのか、メモしてみたい。アカデミックで華やかな二

つの潮流(現象学と量子力学)と、それとは対照的に難解で超含蓄でレアな知的分野

でありつつ、普遍的な知である科学についてもラディカルに言及する二つの深層海流

(OCOT情報とラー文書) を対比してみたい。

 

1 現象学的還元と量子場

現象学と量子論についての時代をまず見ておく。

1905年 アインシュタイン 光量子の発見

1911年 フッサール「厳密な学としての哲学」として現象学がスタート

1921年 フッサール「内的時間意識の現象学」

1925年 シュレーディンガー「波動方程式」

1926年 ディラック「量子条件の定式化」

1927年 ハイデガー「存在と時間」

1949年 後期ハイデガー「四方域」

二つの学問が主にヨーロッパにおいて同時に展開していることが確認できる。

現象学的還元とは単純化すれば「もの」を「こと」に還元し、それを意識における現象

にまで還元することである。同時代、物理学の世界では全ての物質が量子場の振動に還

元された。

フッサールは「こと」を「もの」からいったん切り離し、純粋な「こと」=意識という

現象を丹念に吟味することにした。その方法論を学んだハイデガーは「意識」の基本的

構造を代表的著作「存在と時間」においてシンプルに抽出した。それはハイデガーの哲

学用語では「エクスターティッシュホリゾンタール(脱自的地平的)な世界内存在」で

ある。これはOCOT情報に翻訳すれば、シンプルに負荷・対化・等化と読める。ハイデ

ガーは「負荷」を「エクスターティッシュ・脱自」と言葉化した。これは「エク」脱・外

へと「スタンス」立・存・持続・存在 の合成語である。数学物理学ではベクトル的な概

念である。1次元ベクトル(エクスターティッシュ)が2次元ベクトル平面化し(ホリゾン

タール)、世界という3次元ベクトル立体となっている(In der Welt sein)とも理解できる。

この意識の基本動態をハイデガーは師匠であるフッサールの現象学的還元の手法によって

抽出した。そしてこの還元によって見えてきた意識の基本構造を「時間性」と呼び、当時の

人間が考えている根本的な「存在の意味」とした。これがハイデガーの前期思想である。

現象学からスタートしたハイデガーはその哲学思索の後期になると「四方域」という存在

分節を導入する。これは「天・地・神的なるもの・死すべきもの」の4分節である。これは

概念的にはOCOT情報における「定質・性質・反性質・反定質」の4分節に相当するとする

のが知的には生産的であろう。

2 意識と重力

この、現象学により「生ける時空」についての考察を哲学が深めている時代、量子論は量子

場理論として完成の歩を進めている。とはいえ、量子場は電磁力、弱い力、強い力、重力の

4つのうちの3つ(電磁場、弱い力、強い力)を統合した段階である。残りの重力の量子化

は数学的に困難で、いまだスタンダードな理論として決着していない。これは数学的困難さ

であると同時に実験・検証の困難さにも起因している。

OCOT情報では人間の認識論的存在論的(=現象学的)階層構造を次元観察子(ψ)と呼んで

いる。物理学の4つ力はOCOT情報における次元観察子ψに対応させることができ、以下のよ

うになる。

ψ1,2,3,4 電磁力

ψ5,6 弱い力

ψ7,8 強い力

ψ1~ψ8の反映 重力 

ψ1~4については、ψ1、ψ2は時空、ψ3,4は電磁力とも語られている。ψ1~8の反映が

重力とされているが、相対論が空間の歪みとして定式化した狭義での「重力」はψ1,2の

時空に基本的な根を持っていると考えることができる。この狭義の「重力」はψ1,2とも

解釈できるだろうと私は想定している。「シリウス革命」P420によれば、重力はψ1からψ8

まの反映とされてはいるので、あくまで私の推測でしかないのだが。

この点、原典を引用しておく。

※※※引用開始

問5 自然界にはなぜ四つの力(電磁力、弱い力、強い力、重力)しか存在しないのか。

回答 次元観察子の構造に働く力がψ1~4(電磁力)、ψ5~6(弱い力)、ψ7~8(強い力)、

それとこれらの反映である重力(プレアデスの外面方向の力)の四種類しか存在しないから。

(「シリウス革命」p420)

※※※引用終了

実際量子論においても、重力と量子場の統合においては、重力と時間と空間をどう定式化す

るかが課題になってくる。

量子場理論と重力の統合は量子論と一般相対性理論との統合でもある。アインシュタインは重

力を空間の歪みとした。

ψ3~ψ8までに相当する3つの基本的な物理的力が量子論において量子場として統合されたこ

とになる。残っているのは量子論でいえば、重力、OCOT情報ではψ1,2である。

OCOT情報では重力はどう定義されているか、引用する。

―重力とは何ですか

「中心を持つ力に働く顕質」

OCOTファイル19891122

OCOT情報での次元観察子ψ1,2の定義は、ミクロからマクロに向うベクトルが次元観察子ψ1で、

マクロからミクロに向うベクトルが次元観察子ψ2である。この次元観察子ψ1、ψ2において時空

が開闢している。

この冥王星経由で提示されている次元観察子という概念は実にシンプルにシャープにハイデガーの

「存在と時間」の概念装置を置き換えてしまっていて見事である。OCOT情報では、ハイデガーが

「エクスターテイッシュ・ホリゾンタール」と語った意識分析を「ミクロからマクロへのベクトル」

=ホリゾンタールとし、「In der Welt sein」と語った意識分析をマクロからミクロへのベクトル」=

エクスターティッシュとし、次元観察子ψ1と次元観察子ψ2としている。このように、冥王星という

太陽系最外縁にある鏡を使うと、シンプルに我々の意識構造が見えてくるらしく、OCOT情報が提示

する次元観察子は実に便利なツールである。シリウス起源のこのツール、我々の太陽系と天の川銀

河の中心意識を結ぶ役割をはたしているらしいシリウスからの強烈な目覚ましコーリングである。太

陽の提供する揺り籠からそろそろ目覚めよ、とのことらしい。

このψ1、ψ2は要は中心を持つベクトルであり、重力とは「このψ1,2を開闢させている力に働く顕

質」と解釈可能である。顕質とは、充てられた漢字から推測すると、OCOT情報における「観察精神」

に近い抽象度を持っている概念と推測される。いわば、観察精神が主観サイドであれば、顕質は客観

サイドである。このことから、重力とはψ1,2において働いている「意識化するもの」、「原意識」

と呼べるもの、であり、意識化される力と推測したい。

この原意識であるところの重力がもつ「顕質」がψ3.4の意識が働く場を用意しているのではないか。

重力という空間内部で働く力が意識という空間の外部から空間を見つめる機能を生み出している。し

かもこれは時空自体を開闢させる根源性を持っているように思える。天文学的に例えるなら銀河系で

ある。

たしかに銀河系とは銀河中心という構造中心を持っている。重力とは銀河中心のもつ機能であり、銀

河中心によって出現させられている恒星においても働いている。こうみてくると、物理が語る重力と

は銀河系というひとつの巨大な根源的な意識系を顕現させているノエシスのノエマ的側面=性質であ

り、まさに、「重力とは中心をもつ力に働く顕質」のことである。

そしてこの重力をOCOT情報は「ψ1~ψ8の反映」としている。このψ1~ψ8はOCOT情報では「元止

揚」と呼ばれている。一般的には止揚とは対立するものを統合させることである。ではもっとも原初

的に対置される二つの合体とな何か。これは存在論的には明確である。端的に1とゼロの合一状態で

ある。したがって原止揚とは被造物の原型のことであり、人、もしくは人間であり、銀河系そのもの

の事である。その意味で、元止揚とは銀河でありひとでもある。銀河とはヒト、あるいは人間のこと

になる。銀河とは巨大な身体のことである。あるいは身体とは銀河が顕現したものである。銀河とは

アンドロポスのこと、あるいはアンドロポスとは銀河のことになる。1とゼロの等化したものとは生

命のことであるから、銀河もひとも生命の究極形ということになる。

こう見てくると、

重力とは「中心をもつものに働く顕質である。」

という定義と

「重力はψ1からψ8まの反映である。」

との関係が理解されてくる。

重力として立ち現れてくる存在の根源、いわば実数世界の重力を産んでいる虚数界の「原重力」と

は銀河中心を成立させているものであり、人間の命を成立させ、人間の認識を成立させているもの

である。それを命と呼んでもいいだろうと思う。生命とは1とゼロを等化して銀河や人を客体化さ

せている原理である。

この推測をする際に参考になるチャネル情報がある。「ラー文書」と題されるチャネル情報である。

これについて少し解説する。

重力と意識の関係について参考になるのは1984年出版の本、ドン・エルキンズ、他著「ラ-文書」

である。これは凄い本である。著者は4つの学位をもち、機械工学、物理、工学の大学教授で、

ボーイング社の機長でもあるという。理系の学術的なバックボーンがある。そのため、質疑応答の

内容が論理的に充実している。関連部分を少し引用する。情報源はラーと名乗る意識体である。金

星をベースとして進化した意識体とのことで、エジプト時代に人類に関与し、その関与が地球人類

に与えた影響について、責任を感じている様子である。チャネラーはカーラ・L・ルカートという女

性で、図書館学で修士号を取得している。

宇宙創造のスタートについてラー文書は以下のとおりとしている。

 

※※※

ラー文書

NO1段階

「創造されたもののなかで最初に知られたものは無限です。無限は創造されたものです。」

(原文:The first known thing in the creation is infinity. The infinity is creation.)

No2段階

「無限が気づきを得たのです。これが次の段階です。」(Infinity became aware. This was the next step.)

NO3段階

第3段階については、訳せば

気づきは「無限のフォーカス」を「無限エネルギー」に導いた。

「Logos」 あるいは 「Love」と呼ばれる存在。「intelligent infinity」(知的無限)とも呼べる存在。

「気づき・意識」原理としての無限の焦点化。

となるが、参考に原文を引用しておく。

「Awareness led to the focus of infinity into infinite energy.

You have called this by various vibrational sound complexes, the most common to your ears being

“Logos” or “Love.”The Creator is the focusing of infinity as an aware or conscious principle called by

us as closely as we can create understanding/learning in your language, intelligent infinity. 」

(ドン・エルキンズ他著「ラー文書」P254)参照

※※※

ここで出てくるfocus と infinity は量子場理論にでてくる局在と非局在に似ている。

ラー文書における「創造の第3段階」を量子場理論に変換すると、「意識が無限的広がりをもつ場

を量子化し、そこから無限のエネルギーが生まれてきた」「創造主は場を量子化し、それが意識

原理であり、意識の源は知的無限と呼ぶことができる存在である」といった理解ができる。

以下、この「フォーカス」を、OCOT情報でいう「中心をもつ力」の「中心をもつ」ということだ

ろうと推定して、思考をすすめることにする。こちらの情報源は金星経由ということで、太陽系に

おいては地球より太陽に近い惑星からの情報で、太陽に近い分、冥王星という鏡とはまた違った穏

やかな語り口で、我々に語りかけてくれている。金星経由と冥王星経由の違いはわかりやすくいえ

ば、太陽系中心意識をベースとする母性的女性原理の金星と、べつにうちの太陽だけがすべでは

ないとする父性的男性原理の冥王星である。これは地球にとっての両惑星と太陽の位置を見れば、

一目瞭然。太陽系における惑星関係とて、所詮は家庭における人間関係と同形である。

ラー文書における第1段階と第2段階とOCOT情報のψ1、ψ2の比較は実に興味深い。OCOT情報

においてマクロ化とされ空間とされているものがラー文書では無限とされている。そしてOCOT

情報でミクロ化、中心へ向かうベクトルとされているものがラー文書では気づき、意識とされ

ている。そしてこの意識は我々がロゴスや愛と呼んでいるものであり、それはラーは「知的無限」

とよべるものだとしている。

OCOT情報だと、重力は「中心を持つ力に働く顕質」である。相対論における空間に発生する

「歪み」をOCOT情報は「中心を持つ力」としている。この概念的近接性は明確であると私には

思われる。顕質とは観察精神や意識のベースになっているものと読み替えることが可能だろう。

ψ3,4は電磁場であり、意識活動の場であるから、そのψ3,4のベースになっているψ1,2は中心

をもつ空間であり、そこは重力場ということになる。だから、ラー文書でロゴス、愛、知的無限

とよばれているものの別名が物理における重力と考えられることになる。

ラー文書が「気づき」と概念化したものは相対論における「歪み」であり、OCOT情報における

「中心を持つ力の顕質」であろう。

ラー文書の特徴的な概念は「歪み」である。ラー文書においては意識活動とは歪みであり、偏差、

差異と呼べる偏りが意識の本質とされている。この歪みについてはラー文書における宇宙創造の

次の段階である第4番目の説明の中に出てくる。解釈が難しい文章なので、まず英文を引用する。

 

The next step is an infinite reaction to the creative principle following the Law of One in one of its

primal distortions,freedom of will.

(次の段階は創造原理に対する無限なる反応である。それは一なるものの法に導かれる。そして一

なるものの法の根本的な歪みのうちの一つが自由意志である。という訳になるだろうか。あまり

自信はないが。OCOT情報で翻訳すれば、最初の負荷に対する対化となるだろう。「一なるもの

の法の根本的な歪みのひとつ」が「自由意志という歪み」だとラー文書は語っている。)

この distortionはラー文書に頻出する語彙である。ラー文書ではこの「歪み」は決して否定的な

ものとされていない。文化とはひとつの歪みなのであり、それはそもそもラー文書が個別意識自

体を「歪み」と捉えているからだと推測する。

アインシュタインは重力を空間の歪みとした。ラー文書においては歪みが意識現象における根本

的な要素とされている。「具体的な意識内容」は「一なるものの法に生じる歪み」である。重力

と意識発生の密接な関係をラー文書はかたっていると私には思える。

意識を成立させているものが重力だとすると、どうなるのだろうか。

重力場とは我々にとって最も身近なのは地球重力圏である。地球についてはOCOT情報は観察精

神と呼んでいる。意識活動の根底において意識を支えている「原意識」とは地球の重力であり、

地球という観察精神(=意識)ということになる。また、衛星である月も重力源の一つであるか

ら意識を構成する要素となることになる。

そしてもうひとつ身近な重力の源は太陽である。意識の源が重力であるのなら、我々の意識は

地球意識であると同時に太陽意識である。地なるものと天なるものが我々の意識の基本的な領

野をなしているということである。現象学のハイデガー後期の詩学的哲学の語る四方域の二つ、

天と地である。となるとハイデガーの四方域とはOCOT情報で変換すれば、ψ1,2 が天と地で

あり、ψ3,4が「神的なるもの」であり、それ以降のψ5~9が「死すべきもの」と分節できる。

このψ5からψ9までの次元観察子はOCOT情報では電子にはじまるフェルミオン粒子が構成され

てくる次元であり、まさに「物」の世界である。ハイデガーはこれらを「死すべきもの」とし

たことになる。

天文学的に言えば、太陽重力圏は、より広範な天の川銀河の重力圏に存在するローカルな重力

圏である。その意味では我々の意識は天の川銀河に属する巨大意識系のなかに位置する一つの

ローカルな意識現象ということになる。天の川銀河を創り出している重力場を一挙に局所化し

て、我々は地球に棲んでいる。より正確に言うならば、天の川銀河の重力圏と太陽の重力圏と

月の重力圏と地球の重力が一挙に量子化された局所として私の意識は、日の光あふれる昼は地

上の風景を眺め、夜は月明かりの下で天の川銀河の星々を眺めている。

意識の母胎が重力であるとの認識が我々に与えるインパクトは鮮烈なものとなる。意識の故郷

は地球であり、太陽であり、天の川銀河となるのだから。銀河系という中心をもつ存在が意識

の母体であり、銀河系とは「ひとつの自由意志」のこと。そしてその銀河の原意識からの歪み

(=偏差)が我々の意識であり、私という自由意志主体のことである。銀河系の重力圏から離

れことがで来たとき、我々は新たな銀河となる。スターメイカーという意識の境位に立つこと

ができたということだ。

そうなると、占星術は太陽系内に存在する複数の重力圏(=惑星)が意識に与える影響を分析

する天文学の一種ということになり、将来は量子重力場天文学の一分野になってしまうという

ことである。将来の星占い師の資格試験には一般相対性理論の理解が加わるということになる。

死ぬと人は星に帰るという。意識の源が重力であるとすれば、この言い伝えには深遠な意味が

あるのかもしれない。我々は生きていようが死んでいようが、意識がある限り、地球の重力と

月の重力と太陽の重力と天の川銀河の重力に支えられている。否、個としての意識が消えても

それぞれの重力圏は意識の母として広く、永く存在しつづけている。死後、我々の意識は地と

天に回帰しているのだろうか、あるいは天にも属さず地にも属さぬものとして月の重力圏で次

の受肉を待っているのかもしれない。因みにOCOT情報は死んだ後の意識がどこにいくかについ

て「新しい次元を生み出すための力として月の中に貯えられるということです。」(「シリウ

ス革命」P325)という謎のようなメッセージを伝えてきている。これによれば、「月に帰る」

のはかぐや姫だけではないということになる。

地球意識との歪み(=偏差)がない意識の境位に至ると、次は太陽意識との歪みが意識内容と

なって、思考対象となるのだろう。そして太陽意識との歪みない意識の境位に至る時、今度は

銀河系の数ある恒星意識が他者として意識されてくることになる。その銀河系の星々を理解で

きるようになると、いよいよ天の川銀河の中心意識との歪みが意識内容となる。そして天の川

銀河の意識が対象化されて意識内容となるとき、我々は天の川銀河の重力圏を対象化でき、新

たな銀河主体となる。スターメイカーの境位だろう。それがどれほどの透明性を持つのか、地

球の重力圏において、地上にあって、太陽を仰いでいる限り、推測することは不可能なのだろう。


「銀河鉄道の夜」を創作した宮沢賢治を産んだ岩手はもうひとり文学の天才を産んでいる。石

川啄木である。彼には

不来方のお城の草に寝ころびて空に吸われし十五の心

という歌がある。

透明な空をみつめた十五歳の彼の意識は地球の重力圏を離れ、月の重力にいざなわれたのかも

しれない。因幡の白うさぎが棲む大気と水の衣をはぎ取られた月。それは遥か太古に地球の重

力圏を脱し宇宙へと旅立とうとした意識が留まっている重力域である。

画像はアンドロメダ銀河 写真出典
https://plaza.rakuten.co.jp/gingaharuka/diary/200909070000/


時空の織姫

2017-07-01 11:42:12 | Weblog
時空の織姫


存在の基本分割の筋目を4とするのか7とするのか、両者の等化原理を考えていたら、半田さんがタイムリーにツイートしてくれた。今度出版されるシュタイナー本でその辺について言及があるかもしれない。あるいはあるらしい。期待したい。

半田さんのツイートを引用すると
※※※引用開始
今回、シュタイナーとのコラボをやって、シュタイナーが存在をつねに四つのステージに分けて思考していることを知った。1、2、3、4と進んだら、今度はそこから3、2、1と降りてくる。つまり、1、2、3、4、3、2、1、というように。4が中心となって、7のシステムを作っている。

これはシュタイナーの存在論を貫く根本的な原理と言ってもいいものだ。例えば、私たち人間の自我の構成であれば、物質体、エーテル体、アストラル体、自我、というのがこれに当たる。
※※※印象終了

なるほど。要はウロボロスの蛇の体長を4センチにするのか7センチにするのかの違いでしかないらしい。

太陽系はプレアデスが7の原理で作ったと言われたりする。他方、創造主の創造原理は4だと言われたりする。
この4と7の違いは上昇と下降、上昇と浸透の切り替えポイントをどこに置くかの違いらしい。もしかすると銀河規模だと4、太陽系規模だと7なのかもしれない。銀河規模よりも太陽系規模はひとつ、浸透度合いが高い。進化の裏面は創造だから、メビウスリングの4センチまでを表と定義するか、7センチまでを表とするかの違い。メビウスリングの全体構造を理解・等化できてしまえば、どうでもいい話になる。要はいつ、どこで、誰に対して語るかのシチュエーション、その意味では仏教のいう方便である。

この課題が意識に上ったのは、「デマルケレポート」「デマルケ氏のアブダクション情報」を再読したためだ。(「超巨大「宇宙文明」の真相」ミシェル・デマルケ著 徳間書店)
このなかで、デマルケ氏をアブダクションした存在は創造原理を「4つの高次の力」と語っている。私なりに強引に翻訳すると、この4つは、
第1の力 物質原理
第2の力 エーテル体原理
第3の力 アストラル体原理
第4の力 分霊原理
と翻訳できそうだ。
シュタイナーの4つとほぼ重なる。というか、シュタイナーチックにデマルケレポートを読むとこう解釈できる、と言った方がより正確だろう。
そしてこの第4の力が非常に面白い。基本テキストに比較的忠実にこの第4の力をまとめると、こうである。
※※
第4の力
創造主は物質界を通して精神的な体験を求めた。この体験を得るために、聖霊は自分の霊の一部分を物質的存在に具現化させようとした。これを行うために第4の力を求めた。
この領域では、宇宙の法則が適用される。第4の力は聖霊が想像したことの全てを実現しなければならない。そこで、聖霊の無限小の部分を人間の体に挿入した。
※※

で、この第4の力はハイアーセルフとしてそれ以外の3つの力で創造された領域に浸透していく。要は1,2,3,4、3,2,1 である。このいわば銀河系規模の浸透の下り道を創造の新段階として展開すれば、太陽系規模の1,2,3,4,5,6,7、のプレアデス原理となる。地球人からみれば、だだっ広い空間となっている4原理の銀河時空を、時間的原理7つで折り紙にすると、空間的により狭い太陽系が出来上がるということだ。
こういう折り紙細工を考えたのはもしかすると、織姫・こと座系の知生体グループなのかもしれない。時空の織姫。美しく見事な折り紙細工。だからこの太陽系という7原理の折り紙を開くと、4原理の銀河系の紙に還元されてしまう。そしてこの折り紙技術は太陽系という折り紙細工をもう一度折り返して、地球の生態系という折り紙作品を作り上げている。得意のフラクタル技術を駆使して、この入れ子細工は細胞構造までも作り上げている。このフラクタルな折り紙細工を一挙に串刺しにする視点を持つと仮定されるのが創造主1者となるが、その分け御霊、分霊を宿す我々は折り紙をひとつ開いて、一つ組み立てて、その技術に驚嘆するのが仕事らしい。

童はむかしからこの自らの運命を、幼い時期から刷り込むかのように、楽しげに繰り返し歌ってきた。「むすんで、ひらいて、ひらいて、むすんで、また、ひらいて、手を打って、その手を・・・・」

写真はマトリョウーシカ人形の写真を以下HPより借用
http://health-food-bev.kao.com/visceralfat/1615/


意識と電磁場2 -記憶の場所ー

2013-11-04 09:45:58 | Weblog

あの人、光ってるねえ、とか、オーラがあるねえ、とか、日常でよく話題になる。
意識活動の指標として電磁波が使えるということは、脳科学の常識。電磁波の中
のごく限られた波長域の光しか通常は意識化できていない。しかし、その感知範
囲はあくまで統計処理的に客観化されているものであって、瞬間的に今、私がど
ういった感知範囲で相手を見ているかを示してはいない。したがって、相手の意
識活動から発せられる電磁波=光の束をどう感知しているかは時間的に変動する
し、場所によって変動するし、各人の感性によって変動する。これは実に常識的
な話である。



記憶の場所については脳科学の一つのテーマだ。脳神経系のネットワークのなか
にパターンとして記憶されているのではないか、といった仮説も提示されている。
これはこれである種の真相に近づいているようにも思う。記憶の物質的基盤は何
なのか?コンピューターのメモリーチップのようなハード的基盤を持っているの
か、といえば、多分そういったハード的基盤に依存した記憶もあるだろう、とは
思う。
しかし、ふとしたきっかけで、30年以上もまえの高校時代にバレーで突き指した
指先の痛みの記憶を思い出すことがあり得るが、その記憶は脳神経ネットワーク
のどこかにデータとしてハード的基盤をもって保存されていたのだろうか?
 他方、量子場理論など、素粒子物理学が科学的厳密さをもって積み上げてきて
いる体系によれば、意識活動の根拠は電磁波にあり、その電磁波の実体は時間軸
を一つの自由度をもって実在している。電磁波の根拠にあっては未来も過去も一
つの任意の座標点でしかない。肉体が前後に移動できるように、電磁波は未来と
過去に広がっている。
 頭脳の襞の奥の奥は量子場的な時空連続体に直結している。ここをハード的記
憶基盤と呼ぶのか、ハード的基盤なしの情報源と呼ぶかは、光が粒なのか波なの
かという前世紀の議論に退化することだ。光は波でありつつ粒である。
 私によみがえった指先の痛み、それは36年前の意識活動に刻まれた情報を意識
の本体である電磁波の海原から拾い出してきた記憶断片ではないのだろうか。
 とすれば、アルコールという概念から想起されてくるイメージは、数年ぶりに
味わうアルコールの過去記憶からの情報断片かもしれないし、明日という未来軸
と共鳴して一体化している電磁波からの予感情報かもしれない。
 昨日の記憶でさえ、すでに内臓ハードディスクの容量を溢れてオーバーフロー
して思い出せないと思えるような小さな頭脳に、半世紀分の膨大な画像動画デー
タが蓄積されつづけていると考えるのか、最近のクラウドコンピューティングの
ように、ネットワークの巨大記憶装置から呼び出していると考えるのか。近年の
量子物理学の進展によれば、どちらととらえるかは単なる趣味の問題になってい
る。意識活動の基盤となっている電磁波は我々の宇宙全体に空間的にも時間的に
も満ち満ちていて、そこには距離の制約も時間の制約もないらしい。そういう科
学的常識の世界に我々はどうも生きているようだ。

そしてこの電磁波の海から記憶を引き出して、脳の通常意識活動の領域にまで引っ
張り上げ来る感応装置は多分、水であり、その水を構成している水素原子だろう。
なにせ水素原子は最もシンプルな分子で、もっともシンプルな量子体である。そ
れは電磁波のちょっとした動きを感知することから、人体の画像診断装置として
使われているほどである。その意味で、機能的磁気共鳴画像(ファンクショナル
MRI)の開発を手掛けている中田力氏の研究が期待される。

アルコールがなぜ意識活動に影響を与えるのか、中田氏によれば、アルコールが
水に溶けて大脳に侵入して水の量子的振動に影響を与えるからということになる。
アルコールがいかに大脳に作用して意識活動に影響を与えるか、この実験は日々
人類によって実証されている。


意識と電磁場

2013-11-03 22:36:37 | Weblog

意識と水素の関係はこれから理論展開が必要な分野です。ここで重要なのは量子力学、量子場理論の動向です。意識活動と脳波の相関性は現代では自明化しています。この脳波すなわち電磁波と意識の関係がキーになると思います。

(因みに半田広宣氏の著書「2013:人類が神を見る日」には
「 電磁場(光)とは人間の意識が生み出されているところです
      シリウスファイル:19910805    」
があります。)

この関連で押さえておく必要のあるところを一般向け入門書から引用します。
出典は、講談社ブルーバックの「場の量子論とは何か」(和田純夫著)です。

 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
「我々が通常電磁波とよんでいるものは、一つの光子ではなく、無数の光子の集団です。」
(前掲書 P61)

「共存度の分布(つまり波動関数)でも、‥(中略)・・・共存度は、どの状態が存在するのかという存在確率をあらわすのではなく、実際に複数の状態が共存しているようすをあらわすものです。したがって、共存度には確率という概念よりも実質的な意味があります。」
(前掲書P62)
「このような光子の集団が、従来の電磁波の実体なのです。19世紀には、光も含めて電磁波は、電場と磁場の波だと考えられていました。しかしそれは結局、光子という粒子の集団であることがわかりました。そして電場と磁場というのは、光子という粒子のもつ、ある二つの性質をあらわしたものになっていることもわかりました。くわしくいえば、光子の共存度の時間的変化(共存度を時間で微分したもの)、および空間的変化(共存度を空間座標で微分したもの)がそれぞれ電場と磁場に対応します。」
(前掲書P62)

    ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
          
4次元時空連続体における光子の集団の動きが電気の流れや磁場の変化として現れている。意識活動の指標として観測できる脳波は、したがって、意識活動という光子集団の動向を計測していることになる。この光子集団は脳で集中的に処理されているが、その信号のスタートは全身にある神経細胞であり、その神経細胞に刺激をもたらす全身の細胞群である。緑茶の味わいや蕎麦の味覚は大脳で処理されてはいるが、その大脳内部に味の正体があるわけではなく、舌や喉に張り巡らされた細胞ネットワークが感知した「緑茶」や「蕎麦」こそが味の正体である。
同様に、腹が据わった人物とか、心が痛む、という表現のもつ豊さ。我々は全身でもって生きて感じているわけであって、脳の情報処理だけが生きているわけではない。相手の心を感じ取るセンサーは自分の心(心臓?)にある可能性を決して否定してはいけない。

4次元時空連続体に源をもつ我々の意識活動が過去の記憶や未来の予知をどこからくみ取るかと言えば、4次元時空連続体として定式化されている波動関数的量子場からである。その数式においては、すでにない過去といまだ到来していない未来は時間軸は変換可能な存在である。すくなくとも、我々の意識活動は過去に開かれていると同様に、未来にも開かれている可能性は否定できないことになる。


蜘蛛の糸の如く

2013-10-14 11:13:56 | Weblog
蜘蛛の糸はよくよく目を凝らしてみないと見えないことがある。糸がみえないと、蜘蛛は空中に静止しているように見える。夜空の星々と同じ。蜘蛛がそうであるように、夜空の星々、否、日中の星々もそれと地球との間に張り巡らされた糸は見えにくいだけで、ある種の感覚を研ぎ澄ますと、そこに張り巡らされた関係が見えてくるのではないだろうか。その関係が古来星座やその物語として語り継がれている。

蛆虫もまた

2013-03-08 05:48:43 | Weblog
風になって、草原を移動。羊の群れ。子羊が勢い余って柵から飛び出て、川に落ちた。溺死して、死体が水たまりに浮かび、蛆虫が分解作業にはいる。頭蓋骨の眼窩から出てきた蛆虫。彼も神の子、私の前世、私の一部。とのイメージ。

謹賀新年

2013-01-07 05:07:01 | Weblog
新銀河創成
蝶の如く、対称に、フラクタルに