OCOTかく語りき
「カタチが意識を作っている。」
まずヌーソロジーの基本テキスト:「シリウス革命」(半田広宣著 たま出版)から引用する。
コは著者の半田広宣氏
オは自称、冥王星経由のシリウス知生体のOCOT。
※※※引用開始
コ:僕らの意識にカタチがあるというのですか。
オ:はい、意識にカタチがあるというよりも、カタチが意識を作り出しているという言い方のほう
が正しいのではないかと思います。人間が持った意識とはカタチの反響です。タカヒマラにおける
定質とはカタチが持つ概念ですから。
コ:カタチが意識を作り出している…?つまり、意識は何らかの幾何学に由来するものだという
ことですか。
オ:はい、高次元空間における幾何学に由来しています。
コ:高次元空間における幾何学…それは、意識が高次元的な構造体だという意味ですか?
オ:はい、そのように申し上げているつもりですが…。
(半田広宣著「シリウス革命」p96.97)
※※※引用終了
カントは意識には先験的な構造があるとし、その構造を時間と空間と定式化した。その後ハイデガー
はこの時間と空間をより現象学的に還元して、エクスターティッシュ・ホリゾンタール(脱自的地平的)
な時間態とし、これを意識の基本的な形とした。そしてそれから後の時代は、我々の認識に様々な具体
的な構造があることを構造主義は主張してきたが、これは意識の中身、内部構造の具体的な吟味であっ
て、容器自体、入れ物自体の構造については残念ながら深く問われてきてはいない。その哲学の長期低
落傾向の時代にあって、OCOTはよりラディカルに「カタチが意識を作り出す」と語っている。そして
更に、「意識は高次元空間における幾何学に由来する」、としている。
このことを考えてみたい。
高次元空間の幾何学とはどういうことか。
まず、経験的直観的に分かりやすい低次元からスタートする。
2次元平面と2次元平面の出会いは1次元の線である。
3次元空間と3次元空間の出会いは2次元平面である。
であれば、4次元と4次元の出会いは3次元。3次元空間を知覚し、時間軸を生き、時間という虚軸的な存
在を自覚している我々は4次元意識体といえる。
数学的に純粋幾何学だと、次元の定義はシンプルだから、3次元から4次元に次元数をあげるのはいわ
ば機械的操作である。素人の私にも理解できるのは直交する新たな軸の設定ということ。これは2次元か
ら3次元への次元上昇でイメージしやすい。2次元の円は3次元で球になる。2次元の円はそのまま保存され
る。3次元の球は2次元では円である。球が2次元を通り過ぎる状況をイメージすると、まず二次元意識体
では、点が意識され、それがどんどん大きくなって、球の直径部分で最大の円になり、再び円が小さく
なって点となって消える。日常生活に追われている二次元意識体だと、そのうちこの突然現れる円にそ
れなりに対処する術を経験的に覚えることができる。広がった円もそのうち小さくなると経験的に予想
できるようになる。他方、生活に精神的に余裕のある二次元意識体はこの円現象について思いを巡らし、
3次元という虚軸を思いつく。そこに円の高次元体である球が存在し、それが二次元平面を通過している
ということを考え付くことだろう。
3次元においても物理学でも空間に対して時間軸をくわえる時には虚軸の追加をし、虚数単位のⅰを導
入している。この3次元を超える思考軸、時間を認識できているがゆえに我々は4次元的な意識体といえ
る。その我々が他者である4次元的な意識と出会うとき、両者の間には「物」という3次元の物体が立ち現
れる。OCOT語風に語れば、「ふたつの4次元意識は対象物の『表相』を出現させる」と言えるようにも
思う。
最もシンプルで抽象的な3次元の対象物は球である。しかし、球という表相も実は視覚的には知覚され
ているものではない。視覚的により正確には円である。より正確にいえば、二つの目から二つの位相差
をもった円がみえている。我々の場合この円が経験的な「記憶データ」により球へと構成されているよ
うに思われる。同様に、それはたとえば「リンゴ」として構成され、存在させられている。その意味で
我々が認識している物は3次元だけで存立しているのではなく、より高次な存在物である。これは「4次
元的存在」と呼べるだろう。
4次元的な存在を認識できているということは、私の能力のどこかに3次元立体を組み立てることがで
きる「より高次元な作業空間」があるということである。そして香りとか味とか歯ごたえとか様々な要素
を巻き込んで、リンゴは3次元の立体として知覚されている。様々な幾何学以外の要素を切り捨てて、
シンプルにモデル化すると、そこに残るのは球である。そのとき、切り取ってはいけないにも関わら
ず、通常切り取ってしまっているのが球の周りの空間であり、他者存在である。球の中心から宇宙の
果てまで、そして過去から未来に広がっている時空があって初めて球は「そのなかで」3次元の形を
維持し、知覚されている。この3次元からはみでた広がりは「4次元時空」と呼べる。目の前の3次元的
「図」としての球面の存在を認識させることができている次元が「図」に対する「地」、4次元時空
である。
我々の意識のこの在り様は3次元立体を4次元に拡張した超立体として幾何学的には理解すること
ができる。正八胞体と呼ばれる4次元超立体がこれである。この文章に添付した動画は4次元超立体
を3次元に投影した図形である。これの3次元的な「見え方」を時間的に展開したものがウイキディ
アに動画として載っている。
どうしてこの時間的展開が重要かというと、図面化とは2次元化であるからである。4次元を2次元
に落とし込むにはもう1次元、時間軸をくわえないと、表現できないのである。
3次元の立体は2次元平面に投影できる。そしてこの2次元的投影図は普段我々が体験している目
に見える立方体なので、比較的容易に2次元投影図から立体をイメージできる。しかし、4次元超
立体の2次元投影となると2次元ダウンしているので直観化が容易ではない。2次元投影だけだと、
3次元的広がりと4次元的広がりが区別できないからだ。そこで、もうひとつ時間軸を展開軸として
援用しているのが4次元超立体の動態映像である。その時間的動態のひとこまひとこまが4次元超立
体の3次元的見え方である。一つのシンプルな4次元超立体が3次元投影されると、それぞれのコマ
のような立体として見えるということである。
ウイキペディアで参照できる正八胞体の動態をよく見て見ると、分かりやすいのは内部の立体と
外枠の立体である。4次元超立体は実は立方体8つから出来ていると幾何学は語る。ここで立方体が
7つではなく8つであることに注目してほしい。中心の立方体が一つ。その周りの6面に張り付い
た立体が6つ。そしてその6つの外枠になっている立体がもう一つで、合計8つの立体。この8つ
の立体が「平等な空間」として直交的に結びついているのが4次元超立体。なので、その平等性を
確認するために一つの視点からだけでなく、別の視点からも見なければならい。そのためにその視
点変化を時間軸で次々に表現しているのが、ウイキペディアに載っている正八胞体の動態である。
中心の立体は別の観点では周辺の6つのうちのひとつになり、また外枠の8番目の立体にもなる。
4次元意識体である我々は物を見ている時、中心の立体をその側面の立体から見るように見ている。
球であれば、一つの丸い円がみえている。その球の回りをぐるぐる回り上下にも移動すれば、6つ
の面を見ることができる。そしてその6つの「見え」を統一した球として対象を認識している。そ
のそれぞれの見え方である円の集約として「ひとつの球」として対象を認識している時、私の視点
は「外枠の8番目」の視点を採用している。これは、目の前にある丸い対象物を球と認識している
時の私はいわば宇宙の無限大の全体側に身を置いていることになる。
この8番目の外枠立体において、非常に重要なことがある。他の7つの立体には中身の空間がある。
では単なる「外枠としてだけの8番目」の空間には独自の固有の中身の空間はないのか?
外枠である8番目の立体において注目する点は他の7つの立方体は独自の空間を専有しているのに
対して、「外枠立方体には独自に占有する空間が一見、無いように思えるが、そうではない」とい
うところ。8つの立体は平等で、等価な立体であるのが4次元。正八胞体の動態を見ていて注目し
たいのは、中心に位置する「内部立体の内部空間」の動向である。中心にある立体の内部空間は最
初は固有の内部空間を持ち、次の時間(これは「別の視点」との比喩のことなのだが)には6つ
の周辺立方体のうちの一つになり、一つの面は「外枠」化する。そして次の瞬間、「最初に内部立
体の内部空間であった空間」は内部立体が外枠になった段階で、「外部空間」になっている。単な
る外枠ではなく、「外部空間全体」が彼の専有する固有の空間になっている。逆に言えば、外枠空
間の専有する独自空間は「他の7つの専有空間とダブったままで7つの専有空間を全部まとめた内向
きの空間」ではなく、無限大にまで広がっている外部のいわば全宇宙空間が内部空間となるという
ことである。これが重要な視点である。8番目の外枠としか思えていなかった立方体は単なる外枠
ではなく、残りの7つの空間を包み込んでいるもう一つの空間である。これが4次元超立体を認識の
形としている我々の4次元的な意識構造の実相である。4次元意識体にとっては宇宙空間もまた「内
部」の一部なのであり、内部でしかないのだ。
分かりやすく例えるなら正八胞体において内部に見えている立方体(ここでは内部立体と呼んで
いる)の内部空間に青いガスを封入してみよう。その青い内部空間は次の瞬間には周辺の6つの空
間のうちのひとつになる。そして次の瞬間、我々が正八胞体を外から見ていたところの観測してい
た全空間が真っ青になる。そして次の瞬間にはまた青い空間は正八胞体の一つのいわば側面空間に
なり、そして次には再び内部空間となる。私が棲み込んでいる空間は透明な空間に戻る。
この8番目の立体の位置を認識した段階で、これがあくまでも4次元超立体の3次元投影図形だとい
うことを再確認したい。どういうことかといえば、内部立体と呼んだ「中心に見える立方体」は
我々が棲み込んでいるこの全宇宙の3次元を鳥観図として表現されている空間であるという点であ
る。本当は、この内部立体自体が単独のままで我々にとっては宇宙全空間なのだ。その意味では本
来4次元意識体である我々は外に見えている全宇宙空間の他に7つの宇宙空間にも同時に棲み込ん
でいるのだ。
となると、この全空間を取り囲む6つの立体は「どこ」にあるのか?これも比較的直観的理解が容
易とおもえるのだが、今度はこの6つの立体のうちのどれかを私の肉体が内部に棲み込んでいると
ころの宇宙空間と想像してみよう。そのときこの全宇宙空間の内面に存在している「内部立体」
とは我々の心の次元のことである。これは側面立体へと自分の位置(=意識の位置)を変換させた
ときに直観できる「見えない広がり」=心の位置であると考えることができる。私の棲む空間のど
こにも見えないが確実に存在が確認できる不思議な空間が我々の「内面」である。
これは物理学で言うところの時間軸と呼んでもいい場所だ。空間的にどこにも「無い」にもかか
わらず確実に存在が直観できる我々の内面のことである。この内面という表現は「面」というい
わば2次元的な比喩として外面の3次元空間との位置の違いを直観的に表現している。3次元の2次
元投影による理解である。
物理学ではこれを1次元の直線として表現している。しかし、この時間軸、物理的処理においては
1次元の虚軸(=虚数単位iをくわえた4番目の次元)として処理されているが、我々にとって過去
や未来とはそれ自体が実は空間として内面で表象される「過去の空間」であり、「未来の空間」
である。要は内面もまた3次元空間として表象され、直観化されている。その意味で、我々は虚軸
1次元の4次元座標軸を生きてはいない。むしろ4次元超立体が内面を切実に感じている我々にはよ
り実感に近く、かつ、実空間としてはどこにも空間化していない虚空間の内面性をより正確に表現
している。
色認識の実態からいえば、この全空間が青くなった時、おそらく認識主体の私からは正八胞体の7
つの空間が青の反対色であるオレンジ色の空間に変貌したように見えることだろう。色覚とはそう
できている。地の色は透明化するため、反対色の図がみえてしまう。これは葉が緑に見えるのは光
合成が緑の反対色であるオレンジの光を吸収してしまうことと似ている。光合成において必要とさ
れずに、反射したり透過したりしている色が緑。
この内部立体の二つの変貌、
- 内部立体から側面立体への変貌
と
- 側面立体から外枠立体への変貌
はおそらく、側面立体は他者視点、外枠立体は普遍視点とよべる視点の幾何学的な比喩だろうと
推測する。普遍視点とは私が自分を他者からみた他者として認識できているときという意味であ
り、これが②の側面立体から外枠立体への変貌・視点転換だろう。このとき、実は私は3次元を
離れて、4次元を生きている。その意味で、そもそも言葉の故郷は4次元である。これは2回の空
間の位置変化によって起こっている。あるいはこの2回がスピンの1/2、ヌーソロジーの特殊用語
である「変換」と「転換」にあたるのかもしれない。意識の進化においては私があなたのあなた、
他者の他者になる視点、この視点の空間化が重要なのではないだろうか。そして外枠立体が単に
内向きの7つの空間を取りまとめた状態のままの空間であると誤解し続ける限り、私はプラトン
のいう囚人のままなのだ。実はすでに常に私は3次元空間から離れて世界の色を変えることので
きる新たな空間に身を置いている。
そしてこの4次元超立体の時間展開動画において、内部立体から側面立体になり、外枠立体になる
動態が我々にはいわゆる空間の広がり(ハイデガーの時間態でいえばホリゾンタールな態度)、
無限性として直観されていると推測される。そして、その次のプロセスである外枠立体から側面
立体、内部立体の動態がいわゆる時間(ハイデガーでいえばエクスターティッシュな態度)として
直観されているのであろう。カントの超越論的哲学の用語でいえば、広がり(空間)と縮まり
(時間)と呼び変えることもできる。これは現代物理学では宇宙論と量子論と呼び変えられてそれ
ぞれが縄をなうように論理化され、観察されている。原子構造を調べてみたら、太陽系の構造と
にいていることが分かって、科学の世界ではこの偶然的な一致に驚かされるが、我々の意識構造
が4次元超立体的であることからする、必然的な相同性であろう。量子場も宇宙構造もどちらも
4次元超立体的こころの反映でしかない。その意味で、この宇宙空間に存在している全ての存在物
は私の分身なのだ。フッサール・ハイデガーと展開された現象学の流れを継いだメルロポンティ
があらゆる存在物は「肉」だといったのは、こういう意味であろう。天空に輝き続けている太陽
は私の心の中、いわゆる内面においても、輝き、私のこころの進化を照らし続けていることにな
る。
ヌーソロジーのテキストで言えば、「2013:人類が神を見る日」の冒頭で、OCOTが送ってきた
二重球の映像は、4次元立体の正八胞体を球で表しているように思う(前掲書p28)。ここでOC
OTが半田さんの脳に直接送り込んだイメージである「感性球」は二重構造の赤い球体と表現され
ている。球体のなかに同心円のもうひとつの小さい球がある映像である。周りが薄い色、中の球
が濃い色。
関連部分を構造部分のみに注目して抜粋して引用する。
※※※引用開始
コ:赤みがかったオレンジ色に輝く半透明の二重構造の球体が見えます。
オ:これがシリウスから見たあなた方の世界です。今、あなたが見ているその球体は感性球と呼
ばれるものですが、(以下省略)(前掲書p28)
※※※引用終了
この二重構造の球体の外の球と内部の球は、正八胞体の外側の側面立体6個と中心にある内部立体
1個のことだろうと推測する。幾何学では3次元空間を立方体として表現し、4次元を正八胞体とし
て描いているが、この立方体を球に置き換えたのが、おそらくOCOTが半田さんの頭に直接送り込
んだ二重構造の球という図形ではないだろうか。OCOTはこれを感性球と呼んでいる。
OCOTによれば、この二重球体が進化すると二つ目の二重球が出現する。二つの内部球同志が点で
接しており、二つの外部球表面は相手側の二重球の中心と接している。目玉焼きの黄身部分が接触、
白身部分はお互いの中心に接しているイメージである。その説明部分を抜粋する。
※※※引用開始
オ:感性球と同じカタチをした緑色の球体が見えますね。この球体は感性球が完全に進化の方向を
持った状態を意味しており、球精神と呼ばれます。
コ:これらは一体何なのですか。
オ:今も申し上げたとおり、わたしたちから見たあなたがた自身です。地球意識が進化の方向を見
出した様子を高次元ホログラフィーとして映像化しているのです。
(前掲書P29)
※※※引用終了
このOCOTの発言、ひとつの二重球が二つの二重球になる動態、あれは正八胞体である4次元を次元
上昇させて5次元化させるビジョンではないかと推測できる。そしてそのことが精神進化であって、
これがヌーソロジーの仕事だと語っているようにも思える。4次元意識から5次元意識へ。今の時代
に我々の課題になっている意識進化、意識のカタチの次元上昇ではないのだろうか。
この引用部分でのOCOTの発言で一つの二重球のときには「あなたがたの世界」と呼び、二つの二重
球のときには「あなたがた自身」と呼んでいる。この翻訳言語体系は半田さんの意識・無意識の内
にある言語体系により翻訳されたOCOT語とのことである。この使い分けはドイツ観念論哲学、特に
もカントの哲学を熟読した哲学者であれば、おなじみの使い分けである。「A」と「A自身」という
用語をカントはしっかり使い分けていた。このOCOTのように。「自身」が付くと次元が一つ上がる。
5次元意識体から見れば、私の棲んでいる宇宙空間の全体は私が目の前のリンゴを見ているのと同様に、
私の宇宙でしかないのだ。正八胞体の動態画像のとおり、目の前のリンゴは反転すると全宇宙空間と
化する。逆にいえば、この私の意識が棲み込んでいる4次元時空を一挙に結晶化させたのが目の前のリ
ンゴなのだ。初めての失恋で全世界が悲しみに沈むとき、目の前のリンゴは甘酸っぱい失恋の味になる。
そして真夏の草原もまた緑萌えることない悲しみの色で染まってしまう。我々はみなそんな時空に棲
み込んでいる。
おそらくこの4次元意識の在り様をOCOTは「あなたの宇宙はすべて内部です。」と語っているの
はないか。すなわちOCOTは5次元の高みから我々の在り様を俯瞰している。
この4次元、5次元についてはOCOTは半田さんに非常に早い時期に情報提供している。
関連するやり取りを引用しておく。
※※※
半田:何なのですか、その位置の等化というのは。
OCOT:西暦1999年に予定されているわたしたちの調整作用です。位置の等化とは、人間の意識が次
元観察子ψ5領域に入ることを意味します。その時は人間の意識に5次元対称性の世界が見えてくる
でしょう。
OCOT:4次元認識をあなたがたが獲得するためには、まず、あなたがた自身の意識の位置を作り出さ
なくてはいけません。
―(中略)―
人間の内面においては4次元対称性を描像するのは不可能です。人間の意識の位置を発見するという
のは、人間の外面を発見することと同じ意味を持っています。
―(中略)―
人間の内面とは、あなたがたが外在と呼んでいる世界、人間の外面とは同じくあなたがたが内在と
呼んでいる世界のことを指します。
半田:内面が外在で、外面が内在?内と外が逆だということですか?
OCOT:本当の外宇宙というのは、あなたがちゃの心中の方向にある…とでも言っておきましょうか」
―(中略)―
半田:ちょっと、待ってください。ではわたしたちが現在、宇宙と呼んでいるものは何なのですか。
OCOT:すべて有機体の妄映です。
(前掲書p87~p91)
※※※
ここでの会話はこれまでここで書いている4次元超立体の第8番目の空間にかんする話題とすると、
だいぶイメージが掴めるように思う。4次元超空間の8つ目の空間は外宇宙として認識されている
が、4次元超立体の動態を参照するとイメージがつかめると思うが、一つ目の空間、内部立体と呼
んだ空間が反転しているだけで、ある意味同じ空間にすぎない。OCOTは第8番目の空間まで含
め「内在」と呼んでいて、これはすべて我々の思い込みにしかすぎない「妄映」だと指摘している。
彼(彼女?)はこの4次元超立体を越えた5次元に真の外在があり、そこが真なる宇宙だと語ってい
るように思う。OCOTが我々に獲得させ、見せようと試みている「意識の位置」とは4次元超立体で
いえば、
1番目の内部立体、
次の6つの周辺立体、
外枠立体、
のことであり、そしてその外枠立体の内部をも超えた5次元超立体の位置に相当する意識の位置の
ことであろう。
すこし繰り返して書いてみよう。
この意識の正八胞体構造=4次元構造は人間にとっては日々感じられることである。たとえば、島崎
藤村の千曲川旅情の歌を引用してみる。
小諸なる古城のほとり
雲白く遊子(いうし)悲しむ
緑なす繁蔞(はこべ)は萌えず
若草も藉くによしなし
しろがねの衾(ふすま)の岡邊
日に溶けて淡雪流る
あたゝかき光はあれど
野に滿つる香(かをり)も知らず
淺くのみ春は霞みて
麥の色わづかに靑し
旅人の群はいくつか
畠中の道を急ぎぬ
(島崎藤村作「千曲川旅情の歌」)
この彼の存在している全宇宙は彼の憂愁色に完璧に染まっている。我々は常に既に全宇宙を自分色に
染めてしまっている。これが正八胞体の8番目の空間の在り処である。OCOTが頑固に内部と言って譲
らない我々の棲み込んでいる「いわゆる外部」世界の実相である。
「人間が持った意識とはカタチの反響です。」
4次元の反響として私の意識は成立している。しかも普段は正八胞体の7つの空間の反響にのみ目がい
き、8番目の全宇宙時空の反響でもあることを忘却している。プラトンはこの「意識の8番を忘却した
巣籠り状態にある我々」を「牢獄の壁に映った影のみを見ている囚人」と例えた。ギリシャの賢人に
とっては全宇宙時空もまた私の意識の一つの専有空間であり、そこに起こっている全現象は私の意識
内現象でもあることを感じ取っていたのかもしれない。
他者により対象化され物象化した自分の肉体を彫像としてリアルに創り上げることを時代精神とし
ていたギリシャ時代。芸銃的感性もさることながら、意識にとっては私の意識と無関係な現象など一
つもないことを哲学的に認識していた。そしてそれに加えて、その私の意識が立ち現れる8番目の時空
が同時に常に既に一挙に目の前の対象として結晶化していることをギリシャの哲人達は知っていたの
かもしれない。ソクラテスの「無知の知」はハイデガーだと「有限性の自覚」と翻訳されている。
「世界内存在」である我々は常に「有限なるもの」としての限界を自覚すべき存在者である。
我々は、互いの4次元時空を絡み合わせ、3次元の受肉せる「もの」を4次元から削り出し、析出させる。
そして、その「物」を共同で創り上げた他者の3次元的姿に自己をも封印し、他者により封印されラベ
ルを貼られた私の姿を想像的に析出させてしまう。他者はモノとなり、私も本来の4次元的認識・存在
主体から転落し、他者にとってのモノ、物象化してしまう。このとき、4次元意識体は共同で創り上げ
た「物」とともに、「者」として物象化してしまう。4次元意識体は3次元空間と1次元の時間への分裂
し、4次元から3次元的表相へと物象化してしまう。第8番目の空間は目に見えない瞬間の連続でしかな
い砂時計のような時間軸へと解体され、押し込まれてしまう。
意識が4次元の反響であるのは、存在自体が4次元的であるからでる。当然4次元以上の高次元かもしれ
ないが、意識への反映としては4次元として映じている。この4次元的な存在は、あの正八胞体動態の
動きのように、意識への反映としては3次元的には内部が外部、外部が内部になってしまう。原子構造
が太陽系構造に似ていたり、様々なフラクタル的相似でこの自然界が満ち満ちているのは、なんのこと
なく、4次元超立体を3次元化した断面、「3次元的空間的断面」を我々は認識しているからということ
になる。身体が宇宙の縮図だという神秘学的知見も、この4次元超立体の宇宙空間から言えば、当然の
ことになる。太陽系の惑星の動向が星占いとなって、人間の行動や性格に顕われるのも又当然のことに
なる。当然、太陽は私の内部においても燦然と輝き続けているはずである。否、4次元意識的に言うな
らば、そもそも天空もまた私の内部空間なのだから、現に太陽は私の内部で輝き続けていることになる。
存在は常に既に4次元超立体として在りつづけている。空が曇っていても、私の心の中の太陽は輝き続
けることができる。それは自分と隣人を暖めうるかもしれない。
この我々の意識構造が4次元超立体のカタチを反映したものであるとするOCOTのメッセージのインパ
クトは凄まじく、かつ理路整然と一貫している。そのためたとえば、こんな対話が起きたりする。
※※※
コ:太陽とチャクラは何か関係があるのですか。
オ:関係しているとはどういう意味ですか。それらは全く同じものです。
(前掲書p107)
※※※
我々の身体の内部に7つあると言われている中枢機関であるチャクラが太陽と同じものとされている。
正八胞体動態の内部の立方体の位置に私の身体があるとき、それはチャクラとなっていて、その立方
体が8番目の外枠側の空間となったとき、それは太陽系の中心である太陽の姿を取るというのだ。いか
に劇的な認識と存在の変更を我々にもたらすか、そのインパクトは凄まじく、眩暈を覚える。
どうやら、もうすでに、「我々が3次元の牢獄に囚われて、1次元的に過去から未来に流れる刹那的時
間の連続を生きている」などという囚人の意識構造を持ち続ける時代は終わっているらしい。意識は
4次元的宇宙の時空構造を反映して、4次元的である。そもそも常識的にも時間が目には見えない1次
元的なものだという幻想は誤りである。なぜなら、私たちは秋の日に落葉する公園を歩むことができ
るからである。目の前の落ち葉から秋を知ることができるからである。言葉は3次元ではなく4次元的
存在であり、手のひらの2次元的な映像は3次元的厚みと葉の裏をも含み、春に芽吹き、夏に茂り、秋
に散って今ここにあることを私は直観的に認識している。私の意識は常に4次元意識として成立して
いる。葉のたどった「時」は1次元的な直線ではなく、常に4次元超立体の時熟せる空間においてあり
続けていた。過去という虚無も未来という虚無もそこには一瞬たりとも流れてはいなかったのだ。
我々はただただ常に4次元超立体でありつつ4次元の揺蕩うままに4次元を生きてきた存在である。
こんな本来は4次元超立体に生活している我々なのであるが、現在成立している通常の時間感覚は5
次元以上存在のOCOTからは「3次元的妄映」としてあっさりと分類整理されてしまっている。
我々が宇宙の時空に140億年という時間を刻んでいるのに対して、OCOTは
「あなたの棲み込んでいる宇宙はまだ6500年くらしか経っていない」
とあっさり語ってしまう。これもまたショッキングである。140億年という宇宙の歴史は人類である
「人間」の末世的妄想の一つの形態らしい。
この「妄想状態」を直観的に理解しようと思うと、「球面という3次元空間がベースになっている環
境に棲み込んでいる2次元生命体」に我々の意識のカタチを次元射像化・ディメンジョンダウンして
みればいいように思う。我々が高さを認識できない状態になったら、どうなるか?広さ狭さは認識
できていると仮定しよう。
球面に棲み込んでいる2次元意識からみれば、地平線は無限遠方だろう(と仮定する)が、水平線
のことを想像して、3次元からみれば、最も広く見えていてもその無限遠方は球の表面の半分のこと
だとと推測できる。その限界領域を見ようとして地面に直立する「時間軸という超越軸」を二次元意
識体は考え出したとしよう。二次元意識生命はその空想する能力によって、見えていない頭上高くに
思考を飛翔させる。高さという自分の日常世界には存在しない虚軸を彼は設定したことになる。その
大地と直交する虚軸を無限の高みにまで登らないと、球の半分の限界線は見えてこない。その直交虚
軸という時間軸に目盛りを刻み、ひと目盛り上昇するたびに見えてくる新たな地平が地上では「ひと
目盛りごとに同じ間隔で広がっている」としてしまえば、本来半球の広さしかない球表面は無限の広
さをもっていることになってしまう。そしてその直交時間軸の目盛りにしたがえば、球の半分の円周
を見渡すのに移動に要する時間は無限時間となる。平行線は有限時空では交わらないからである。結
局、時間虚軸を考えだした二次元意識体は無限に飛翔しなければ、彼の棲む二次元世界の果ては見え
てこない。
これはアキレスと亀のたとえ話と同じである。アキレスと亀の間の距離を現成距離の半分になった
とき、またその半分になったとき、と分割していくと、どこまで計算してもアキレスと亀の距離はゼ
ロにならない。だからアキレスは亀を追い越すことができない、というパラドックスである。俊足の
アキレスが亀を追い越すときに、その「距離が半分になることを一つの目盛り」とすると、アキレス
が亀を追い越すのは無限の目盛り基準の物差しが必要になる。どこまで半分にしても残りの半分は残
り続けてしまう。それと同じ種類の妄想を現代科学は採用してしまっているのかもしれない。1次元
的に無限に伸びる虚軸時間とはおそらくそんな妄想ではないのだろうか。因みにアインシュタインは
矢を前方に放てば、いつかその矢は後から戻ってくるんじゃないかと、仮想していたらしい。実に示
唆的なイメージである。
とはいえ、140億年と6500年の隔たりには唖然となるが、OCOTが語っている宇宙とはいわば「我々
の宇宙」であり、我々が生きている先の正八胞体の8番目の空間の成立が6500年前ということらしい。
我々が全存在と決めつけているこの全宇宙はつい最近成立したものだという。確かに「私の観ている
宇宙は私の肉体的誕生と同時に4次元空間として私の意識に成立しているものであって、それが私の
肉体の死とともに消滅するだろう」ということはそれはそれとして容易に想像できる。いわゆる主観
的な宇宙のことである。我々は主観的な宇宙の他に、客観的な宇宙の存在を当然のことと想定して生
きている。
OCOT情報から受ける印象を簡単に例えるなら、科学が追求してきているこの物質的宇宙は太陽がリ
セットボタンをおしてから成立しているものだということらしい。ただし、このリセットボタンの
凄いところは、リセットとともに量子場自体がリセットされるため、物質的存在がすべてリセット
されてしまうということ。そのリセット時点から時間は未来方向と過去方向に無限大で展開するこ
とになる。その過去方向の時空範囲がいまのところ140億年ということになっていると考えればいい。
なんのことはない我々は「井の中の蛙大海を知らず」の蛙だということだ。あなたの棲み込んでい
る井戸は6500年前に太陽によって設定されたものですよ、とOCOTは優しく語りかけてくれているら
しい。そして我々が全てと思っている物質宇宙は我々の意識と同様に有限で、その周りには「真な
る外部」が非物質的な状態で存在しているとのことである。
現代の量子論的にも数式的には時間の方向性は対称的である。未来へも展開するし、過去へも展開
する。物理学に属する量子論では、過去へむかう時間軸は無視している。これは二次方程式で虚数解
がでているような感じである。解は数学的にはでてくるが、物理学では無視するということ。なんと
都合のいい話だろう。かつてのキリスト教の免罪符のような都合の良さを覚えてしまう。
未来と過去に時間軸が発展するのであれば、未来がまだ曖昧な存在でしかないように、過去もすで
に完璧に岩のように動かないわけでもないことになる。だからOCOTに言わせれば、アンモナイトも
恐竜も「実在」したのではなく、ある時刻に押されたリセットボタン開始によって成立した過去方面
への「存在の存在者化」の一環でしかないということになるらしい。これはこれで理解可能ではある。
映画撮影開始とともに、未来へ向けたシナリオが展開するように過去へ向かうシナリオも展開しはじ
める。しかしその映画フィルムに刻まれるのは映画のクランクインの段階で作られているシナリオに
そった未来であり、過去である。要はそのシナリオがどう3次元展開するのか。シナリオ作家は現実の
過去は単に参照しているだけ。関ケ原の戦いをなかったことにすると、映画自体がリアルさを欠くか
ら一応関ヶ原の戦いが過去にあったことにするシナリオにしているだけである。
因みにこの映画で例えるなら、OCOT情報による覚醒期とはシナリオ作りの時代だし、調整期とは作
ったシナリオの撮影時期ということになる。我々の時代はシナリオ撮影がラストに差し掛かって、実
際に撮影してわかった様々な情報を回収してまた新たなシナリオを作る段階に入るところになる様子。
俳優陣は次の作品にふたたび登場するか、次は制作側に回るか、大道具係になるのかとか、振り分け
になる様子。
ま、言うまでもなく、この私の考え方とてそれ自体がいつでも私の自己宇宙における妄想かもしれ
ないのだが。
江戸時代の庶民もこの世を浮世と感じていたらしいから、現代人も自分の経験知によって創られる
宇宙をひとつの浮世として観ていくことが肝要なのだろう。これはフッサールが学問の領域で現象学
的還元と呼んだ態度を江戸の庶民は知だけでなく生活そのものとして現象学的還元を生き、そこに自
らの生の意味を根拠づけていたことになる。素晴らしい日本の伝統だろうと思う。フッサールの現象
学を発展させたハイデガーが「存在と時間」を書くことになるが、彼が「世界内存在」と概念化した
アイデアの元は日本の茶道だという研究も日本にはあった。茶道の「世に処す」という概念がモデル
ではないかという説もあるが、頷けるところがある。日本人は伝統的に現象学的還元を日常化してい
た「浮世」を生きた人々でもあった。
アインシュタインの着想のように、3次元球面表面に棲み込んでいる2次元意識体が目の前に向け
て長距離走行の矢を放つと、矢は背後から帰ってくる。この事実は3次元の球面を認識できる3次元意
識体からは自明なのだが、地面に直交する空想の時間軸に捕らわれた囚人から考えれば、無限にその
矢は走り続けて、決して帰っては来ないことになる。
アキレス妄想から目覚めて、さっさと目前の亀を追い越せ、とOCOTはギャラリーから声援してい
るということだろう。その時節が到来しているらしい。
最後にOCOTからのエールを一つ
※※※引用開始
その時あなたがたはそれこそ自分自身が宇宙の全存在物そのものであることを身をもって感覚化することでしょう。
(「2013人類が神を見る日」p176)
※※※引用終了
(画像はウイキぺディアの正八胞体の動態画像を引用。ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AD%A3%E5%85%AB%E8%83%9E%E4%BD%93)
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