時のうてなに立ちて風を感ず。

To the happy few (Henri Beyle)

民主主義の裏の顔

2022年10月28日 | 民主主義
民主主義の反対は?
民主主義の反対は共産主義でも社会主義でもありません。それは、民主主義の仕組みや制度ではなく、民主主義の本質を考えれば自ずと正解に辿りつくはずです。そう、民主主義の本質とは主権在民です。主権者である国民の自由で正しい意志が国の運営に正しく反映する事です。
そうは言っても、抽象的過ぎて、現実の社会とどう結びつくのか分かりませんね。少し具体的に考えてみましょう。ここで中心となる柱は主権者としての国民です。民主主義は、良い主権者が求められます。愚かな主権者ばかりでは衆愚政治に堕する事になります。
良い主権者とは、民主主義社会に生きる一人の人間として、主権者の役割を果たすことのできる人のことです。主権者の意志が国の舵取りをするのであるならば、主権者にはそれなりの良識と能力とを具えている事が必要です。選挙権が18歳になるまで得られ無いのはこの為でしょう。
民主主義は、国民の意志が国の舵取りをするという本質から、これこそが民主主義の形であると云う定まった正解を持ちません。それは、時代の流れによって変化してゆく社会の舵取りをするのに適している原理であると云う一面も在りましょう。しかし、時代や社会の変化に対応することが容易にできると云う事は、悪しき変化もまた容易になるのです。民主主義それ自体には、善し悪しの価値基準も判断基準もありません。それは国民自身が決める事なのです。
さて、民主主義には決まった形の正解が無いとは言っても、必要なものはあります。良い主権者を培い育てる為の公教育制度。世の中の出来事や変化を、主権者である国民に正しく伝える為のメディア。この二つが民主主義を支える柱なのです。これらが 民主主義が要請する役割から外れてしまえば、民主主義は機能しなくなり形骸化してしまいます。

民主主義と共産主義との関係について上記を踏まえて考察してみます。民主主義には様々なものが在ります。議会制民主主義、社会民主主義、自由民主主義、等々。これらは民主主義と云う基本の原則を、実際の社会に制度として組み上げる為に、加えられる理念や手法と合わさった考え方です。ここでは、民主主義と云う基本理念のみに焦点を当てます。
まず、民主主義は、国の主権と云う権利構造を規定するものです。そして、共産主義は、財の所有関係を規定すると考えられます。つまり、これら二つの主義は、それぞれ異なった分野を規定しており、互いに排他的な関係では無いのです。共産主義であり、民主主義でもある事が理論としては可能なのです。共産主義は民主主義の対極の概念では無いことが分かります。
それでは、民主主義社会の民主主義が機能しなくなるとどうなるのでしょうか。それは、民主主義を支える柱である教育或いはメディアのいずれか、もしくはその両方が、民主主義の要請する役割を果たさなくなった時でありましょう。クーデターなどで社会を強制的に改変する事も挙げられますが、ここでは言及しません。
さて、民主主義を支える柱の一つである教育に求められる役割はたくさん在ります。基本的には、この社会で生きていく上で必要な知識と良識とを学び、一人前の社会人として生活できる能力を獲得する為に教え学ぶ場所であり、同時に、良識ある主権者を育てる場でも在りましょう。
教育は、即時性ではなく その果実が実るのは何年も先になります。今何か変更しても、その結果が出るのは変えた事を忘れた頃かも知れません。この意味で、文科省をはじめ教育に携わる人々は、今現在と同時に何年も先の未来を見据えていなくてはなりますまい。
1970年頃、日本は学生運動が大変盛んだったのです。これを嫌った政府与党は、大学の自治を弱体化させて文部省(当時)の管理を強め、さらに、学生が政治に関心を持たないように様々な施策を講じたのです。その結果が今日の社会ではありますまいか。貧困化が進み子供食堂が全国で6000箇所もある(必要だから)のに、政府から聞こえてくるのは防衛費の増額や、敵基地攻撃能力のような話ばかりです。それでも大きなデモなどの社会運動は見受けられないようです。つまり、1970年頃からほぼ半世紀を経て、政府と文科省の目論見は見事に達成されているのです。今日、主権者教育は形骸化しており、民主主義を担う為の主権者教育は本来のあるべき姿からは程遠いと言えるのでは無いでしょうか。
もう一つの民主主義を支える柱のメディアについては、日本だけでなく、欧米のメディアもほとんど完全に一部権力者の道具となっており、主権者である国民を操作する為のツールに成っています。主権者国民は正しい認識が出来ず、結果として正しい判断をする事が出来ないのです。しかも、人々は自分が間違った判断をしているとはその時は分からないのです。思いもかけない結果が押し寄せて来て初めて気が付くのです。現在、国民の主権はずいぶんと封じられてしまっているようです。
民主主義を支える柱である教育とメディアが正しく機能しない時、専制政治、扇動政治が現れ、その行きつくところはファシズムかも知れません。多くの国民がネオナチの支配するウクライナを知らずに応援しているのですから。もちろん、国は知っていますが。

Natalia Lafourcade - Alma Mía

国民に寄り添った政治を希求する

2022年10月18日 | 考察メモ

欧州の混乱は大きい
思っていたよりも世界は急激に変化している。東スラブ紛争の嵐に吹き煽られて、さまざまなものが表に現れている様です。
この冬を目前にして、欧州の人々はエネルギー危機を身近に感じて不安を募らせている。いくつもの国で、政府に対する抗議デモが起きています。
メディアの操作にもかかわらず、
人々は理解し始めます。
ウルスラ・フォン・デア・ライエンが
悲惨さと飢餓をもたらしたということです。
ヨーロッパ人は、
ゼレンスキーのために
飢えて凍りつきたくありません。
 EUは解体しなければなりません。
(機械翻訳)

ポーランドは紛争を口実にしてウクライナ西部を支配下に置こうとしている。また、ドイツに対し、今頃になってWWⅡ時の戦時賠償請求を突き付けているのです。ドイツを弱体化させ、欧州の主導権を狙っていると観る向きもあります。
ドイツは大変厳しい状況になっている。ロシアへの制裁を続けていることで、ロシアからの安価なエネルギーが入手できなくなっています。ノードストリームが破壊されてしまった為、たとえ制裁を解除したとしても、すぐに天然ガスを得るのは困難になってしまいました。製鉄などのエネルギーを多量に必要とする産業は、ドイツ国内での操業が困難となり、将来の見通しも不透明である為、国外への移転を検討し始めている。350万のドイツ企業の内100万社以上の企業が危機的状況に瀕しており、これからさらに増えるだろうとも言われているようです。
欧州各国の国民が、この混乱や不安に悲鳴を上げているにもかかわらず、EUや各国の首脳陣は、有効な対応をしていません。国民の生活よりも、ロシアに対する制裁やウクライナへの軍事援助を優先しているのです。

ウクライナの戦況
クリミア大橋爆破テロ以降、新しい局面を迎えている。今年の2月24日に始まったロシアによる特別軍事作戦は、ウクライナ軍によるクレンジング(虐殺)から、ロシア系住民を解放する為に、自軍に多くの犠牲を払いながらも、民間人に最大の配慮をした作戦行動を遂行している。少し前の発表では、ロシア軍6000名、ウクライナ軍は凡そその10倍以上の命が失われています。ロシア国内でのテロなどもあって、国民や軍上層部の一部には、歯がゆく思う向きもあるようです。クリミア大橋爆破テロに対する報復攻撃は、次の段階に進んでいます。攻撃目標はウクライナ全土に及び、軍事、通信、エネルギーのインフラが攻撃対象になっています。ただ、米国やNATO がイラクやリビア、シリア、などでやって来たような、住民もろともの無差別絨毯爆撃ではなく 、攻撃対象へのピンポイント爆撃のようです。ミサイルやイランから輸入技術供与?のドローンShahed-136 などが使用されていると思われます。ロシア当局は、攻撃はこれからも継続されると言っています。

米国の中間選挙
つい数日前、バイデン大統領の取り巻きに『ウクライナでロシアが戦術核を使用することは大したことではない。戦術核は戦略核と異なり通常爆弾に毛が生えたようなものだ。使用するなら選挙前に使用してもらいたいところだ』との発言が在ったと云う。まあ、ロシアは核兵器を使用せずとも、ウクライナ全土のインフラを破壊するだけの能力が有ります。核を使う意味も理由もありません。しかし、今ロシアは戦時であり、核兵器が使われた場合の備えも出来ているはずです。ウラジオストックから出航した潜水艦部隊も、すでに所定の場所にスタンバっているとのことです。ここで注目すべきなのは、国の中枢に近い人間が、戦術核とは言え、核兵器の使用を選挙の道具として考えている事です。いったん使用すれば、報復の連鎖で全面核戦争になってしまう事は容易に考えられる事です。イギリスの首相にも、核のボタンのその重大な重さを感じさせない発言もありました。ドイツの首相の『有権者がどう思ってもウクライナを支援する』との発言もそうです。現今の西側の支配層は押し並べて、国民に寄り添った政治というものがその頭から抜け落ちてしまっているように思われてならないのです。


Handel aria "Ah, mio cor, schernito sen"

Nathalie Stutzmann