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浜松めぐみバプテスト教会

教会の近況や集会の様子などをお知らせします。

説教の奉仕

2013-08-25 | 日曜礼拝

8月18日の日曜礼拝の説教は

聖契神学校の神学生の方が取り次いで下さいました。

 

とても熱心にみことばを語って下さって

どうもありがとうございました。

 

毎日聖書を読んで、神様と交わる時間を持つ大切さについても

ご自分の経験に照らしながら、語って下さって

良い刺激、チャレンジを受けた一時でした。

 

そして、めぐみ教会の信徒のために

デボーションができる本も数冊送って下さり

ありがとうございました。

 

これをきっかけに、

めぐみ教会のみんなが

毎日のデボーションを通して

より豊かな神様の恵みにあずかることが出来ることを

祈っていきたいと思います。

 

貴きご奉仕を心より感謝いたします。

 


キリストのない人の姿

2013-06-08 | 日曜礼拝
6月2日、日曜礼拝の説教です。
 
 
*キリストのない人の姿* 
 
エペソ4:17-19
「そこで私は、主にあって言明し、おごそかに勧めます。
 もはや、異邦人がむなしい心で歩んでいるように
 歩んではなりません。
 彼らは、その知性において暗くなり、彼らのうちにある無知と、
 かたくなな心とのゆえに、神のいのちから遠く離れています。
 道徳的に無感覚となった彼らは、
 好色に身をゆだねて、あらゆる不潔な行いを
 むさぼるようになっています。」
 
 
キリストのない人々の本質はどのようなものであるか。
今日の聖書箇所、エペソ人への手紙4:17-19はそれについて語っています。
 
 
聖書でいう罪とは、キリストを信じない、受け入れていないことを意味しています。
従いまして、キリストのない人々は罪人とも言えます。
では、罪の中で生きている人々の本質はどのようなものなのでしょうか。

まず、聖書はキリストを信じない人々の歩みに関して教えてくれています。
彼らはむなしい心で歩んでいると記しています。
むなしいということは空っぽだということです。
何も残らないことです。
何も残らないので、その心は満たされることがありません。
常にむなしいです。何をしても満たされることがないのです。
 
一所懸命に努力し、いろいろなものを手に入れながら、
一見、成功したかのように見えますが、
心のどこかに穴が開いているようなむなしさがある、
これがキリストのない人々の姿であります。

このむなしさを満たすためには、
一度、満たされたら、なくなることのないもので
満たされること以外に方法はありません。
 
人にとって、なくならないものとは何でしょうか。
聖書は、この世のすべてのものは過ぎ去っていくのだと教えています。
私たちの目に見えるすべてのものはなくなるのです。
そして、永遠なるものは神様以外はないと教えています。
神様こそが、永遠の命であります。
 
しかし、キリストのない人々はこのことに気が付きません。
むしろ、気が付くことができないと言った方が良いかもしれません。
 
聖書は、キリストのない人々は、その知性が暗くなり、無知になって、
かたくなな心のゆえに神の命から離れていると教えています。
つまり、何が本当に必要であるかが、
わからなくなっているということです。
本当に求めるべきものを求めないまま、生きているということです。
 
聖書のある個所には、このような御言葉が記されています。

「わたしの民は二つの悪を行った。湧き水の泉であるわたしを捨てて、
 多くの水ためを、水をためることのできない、こわれた水ためを、
 自分たちのために掘ったのだ。」(旧約聖書エレミヤ2:13)

水を求めるのであれば、泉があるところに行くことが大事です。
しかし、人々は泉を捨てて、自分たちの力で水ためを掘ろうとしています。
しかもその水ためはこわれたもの、底抜けのものであります。
水ためですが、水をためることができないのです。
このような状態であるのがキリストのない人々の姿だと聖書が教えています。

水が得られないゆえに、土が固く乾いていくように、
命の泉を捨てた人々の心は乾いて固くなっていきます。
そのゆえ、乾いた土が砂漠のように命のない土地となるように、
人の心もかたくなになり、神の命から離れてる、
しかも、とても遠く離れてしまうのです。

そして、神の命から遠く離れているため、無感覚になり、
彼らは神以外の、神が嫌うものや行いに自分たちの身をゆだねて、
むさぼるように不潔なことを行っているのです。

これは悪循環であります。
キリストのない人々はむなしさのゆえに
常に自分たちを満たしてくれる何かを求めています。
しかし、彼らの知識が暗くなり無知になっているため、
本当に求めるべきものが何であるかがわかりません。
それゆえ、彼らの心は神の命から遠く離れるようになります。
それが、無感覚な心になり、
ついには神が嫌うことをむさぼるように行ってしまいます。
しかし、神が嫌うことは彼らの心を満たすことができなく、
彼らは以前よりもひどく、むなしさで苦しんでしまいます。
またそれで、他の何かを求める・・・・・という悪循環です。

このような悪循環から抜け出す方法を聖書が教えてくれています。

「わたしが与える水を飲む者は誰でも、決してかわくことがありません。
 わたしが与える水は、その人の内で泉となり、
 永遠のいのちへの水が湧き出ます。」

このように聖書は本当に求めるべきものが何であるかを教えています。
キリストのない人々のような歩みには希望がありません。
いつも渇き果てた姿しかありません。
しかし永遠のいのちへの湧き水であるキリストを信じ、
受け入れる人々は決して乾くことがない、常に満たされる、
潤った人生になることを聖書が約束しています。
 
イエス・キリストを信じましょう。
 
これこそが私たちの唯一の希望であります。
この泉が私たちの内にあって
永遠に乾くことのない、潤された者として
ともに歩むことを願い求めます。


成長しましょう

2013-05-20 | 日曜礼拝
5月19日、日曜礼拝の説教内容です
 
成長しましょう エペソ4:14-16

命あるものは必ず成長します。
命があると言いながら成長しないことは、
本当の命がそこにはないことを意味します。
私たちは聖徒として神様に選べられ、信仰によって命が与えられている者です。
従いまして、命あるものとして聖徒は成長する必要があります。
 

聖書は、聖徒がいつも子供のような状態にとどまっていることを望んでいません。
子供が成長して大人になっていくように、
聖徒も信仰において成長するように勧められているのです。
 
しかし、聖徒の成長においてそれを妨げるものがあります。
聖書が意味する「子供」とは、
教えの風に吹きまわされること、波にもてあそばれることを指します。
教えの風や波は、人の悪だくみと人を欺ける悪賢さによるものです。
このようなものが聖徒の成長を妨げるのです。
 
人の悪巧みや人を欺ける悪賢さによる教えの風というのは、
聖書の真理に反するこの世のすべての動きとも言えるでしょう。
また、時代をけん引する力ある魅力的な思想、哲学、文化など
様々な社会の動きとも言えるでしょう。
 
このような流れに合わせないと、
常に時代に遅れた人、愚かな人のような扱いをされるかもしれません。
しかし、聖徒にとって一番大事なことな聖書の教えです。
時代や場所を超えて変わらない真理である聖書の教えこそが
聖徒を聖徒としてしっかり成長させてくれるのです。
 
今日は、本当に多くの場面において
聖書の教えを無視するような動きが平然として現れています。
時には聖書の真理が誤っているかのような錯覚もします。
このような世の動きがすべての人々をより賢く、
最先端を走っているように見せかけています。
 
この優れている世の動きに対して私たち聖徒はどのように対応すべきでしょうか。
一番大事なことはこの世の動きの中心にある考え方が
神様を認めているかどうかであります。
 
いくら素晴らしいものであってもその中心的な考え方が
創造主で絶対主である神を否定するものであるならば、
その動きは聖徒を吹きまわすものであります。
その動きに調子を合わせて行くと聖徒として成長は難しくなります。

従いまして、このような動きに調子を合わせないことが
大事になってくるのでしょう。
しかし、調子を合わせないようにすると
今度は大きな波が迫ってくるように試練、苦難が私たちを襲うかもしれません。
しかし、このような波を恐れる必要はありません。
この波を恐れることが成長を妨げることであります。
このような波こそが、聖徒がより聖徒らしく成長できるように
力を与えてくれるのです(第1ペテロ4:12-14)。

このような妨げを避けることは、成長していく上で行うべき消極的なことですが、
聖書は、より積極的なことも私たちに勧めています。
それは、愛をもって真理を語ることです。
 
ここでまず大事なことは、真理を語るということです。
真理、それはもちろん聖書の御言葉です。
それは、神様が創造主であること、すべての人は罪を犯していること、
罪からの唯一なる救いはイエス・キリストの十字架の贖いを信じること、
このイエスは神であり、人であること等などをはっきりと示している聖書のことばです
 
真理を語るということは、真理の上に立つ、真理をつかむこととも言えます。
聖徒は真理を互いに語り合うこと、それによって互いに励まされ、
成長出来る力を得るのです。
聖徒は、聖書の真理を語ることによって
聖徒としてのアイデンティティがより確実になります。
 
つまり自分がどういう者であるかがよりはっきりとされるのです。
そして、それは自分のかしら、自分の主人が誰であるかを
より鮮明に教えてくれることになります。
 
体はかしらの指示を受けて動きます。
かしらの指示通り動かない体は健康な体として存続することができません。
聖徒として、イエス・キリストが救い主であること、
また、それを信じる者には確かな希望と約束が与えられていることを互いに語り合い、
キリストの身丈により近く成長していきましょう。
 
ここで、真理を語る態度として愛をもって語ることが次に大事なことです。
真理を語ることは常にイエス・キリストを表すことであります。
真理を教えて頂いたこともイエス・キリストの恵みの故です。
 
従いまして、自分が真理を知っているからといって
傲慢な態度や人を無視するような態度は望ましくありません。
真理を語るからこそより愛をもって、謙遜さをもって語る必要があります。

最後に聖徒として成長していくことは、
キリストの体であるひとり一人がバランスよく成長していくことです。
皆が同じようには成長できません。
 
それぞれの力量に合わせて成長していきます。
力量にふさわしく成長していくことによって、
体は全体のバランスを保つことが出来ます。
これこそが愛のうちに建て上げられることなのでしょう。
 
ひとりだけが成長していくのではなく
体全体が成長していくことです。

神様は私たちに命を与えて下さいました。
命があるということは必ず成長できるという約束でもあります。
この約束を信じて、もはや子供ではなく、
この世のどのような流行りや試練にも負けずに
祝福の約束である聖徒としての成長が出来るように、
互いに愛をもって真理を語ることを心がけましょう。
そして、常に成長出来る聖徒として日々歩むことを祈っていきましょう。


教会の有益

2013-05-15 | 日曜礼拝

5月12日、日曜礼拝説教は

新約聖書、エペソ人への手紙4章12~13節から

「教会の有益」という題をもって取り次がれました。

 

聖書本文です。

「それは、聖徒たちを整えて奉仕の働きをさせ、キリストのからだを

 建て上げるためであり、ついに、私たちがみな、信仰の一致と

 神の御子に関する知識の一致とに達し、完全におとなになって

 キリストの満ち満ちた身たけにまで達するためです。」

 

聖徒は最初から清い者ではありません。

罪の中で汚れている人々を神様がイエス・キリストによって

お選びになった者を意味しています。

従いまして、聖徒はこれから成長していく必要があります。

整えられる必要があるとも言えるでしょう。


聖徒として成長する目標はとこにあるのかというと、

イエス・キリストの身丈まで達することです。

つまり、イエス・キリストのようになるということです。


この聖徒の成長のために、キリストは私たちそれぞれに賜物を与えてくださり、

ふさわしい働きができるようにしてくださっています。


聖徒としての働きは、最初から立派なものにはなりません。

 

最初は寝ていることしかできなかった赤ちゃんが

足をばたばたさせて、寝返りをうてるようになり、

腕を使う練習をして、はいはいすることができるようになり、

歩くようになってから、走ることができることと同じように

 

聖徒も、信仰をもってからは

このような奉仕の訓練をすることによって

成長していくことができるのです。

 

今、自分ができる働きが何があるか考えてみると、

聖徒として、救われたものとして喜びを感じながら

できる働きはたくさんあるはずです。


代表的には祈ること(教会、教会の聖徒たち、家族のためなどの祈り)と

礼拝を捧げること、(これは神様への奉仕であります)賛美をすることなどがあります。

これ以外にも様々な働きがありますが、

このすべての働きは私たちを聖徒として成長させてくれます。

そして、キリストの体を建て上げることにもなります。



このようなことを通して、

聖徒は神の御子を信じる信仰と知識の一致に達することができ、

イエス・キリストの身丈まで成長することができます。

聖徒にとってイエス・キリストのようになるということは最高の祝福であります。

それこそが聖徒が目指すべき到達点であります。



しかし、このような聖徒の成長は教会から離れては期待できません。

教会はイエス・キリストの体であります。

体の各器官が体の成長とともに完成されていくように

聖徒の成長もイエス・キリストの体である教会につながってこそ得られるものです。

 

いくら素晴らしい賜物があったとしても、

例えば器用な手を持っているとしても、体につながっていなければ

その器用な手は全く手としての働きができないように

聖徒の賜物は教会につながっているからこそ意義あるものになります。

 


聖徒のすべての人生は神様のためのものです。

聖徒としての本当の祝福、

成長も神様の教会につながることによって与えられるものです。

このような教会の有益を、

聖徒となっている私たちが自分のものにできることを願います。

 


イエス・キリストの賜物の量りに従い

2013-05-05 | 日曜礼拝

今日の日曜礼拝説教は

新約聖書、エペソ人への手紙4章7~11節から

「イエス・キリストの賜物の量りに従い」という題で

取り次がされました。

 

体の各器官の名前、役割がそれぞれ違うように

イエス・キリストの体である教会の一人一人も

神様から与えられたそれぞれの賜物が必ずあること、

 

また、たくさんの違う部品が集まって1台の車になることにたとえて、

人間の目には、大事、もしくは大事でない部品があるようにみえるかもしれないけど、

1台の車を完成させるためには、どんなに小さい部品もなくてはならない

大切なものであることのように

 

私たち一人一人も教会にとって、必ず必要な大切な人だと

いうことを教えられました。

 

そして、自分の賜物は何であるか、

教会で果たすべき自分の役割は何であるかを

神様に尋ねながら歩むことの大事さをも教えられました。

 

礼拝後には、以前めぐみ教会の礼拝に参加されていたS様ご夫婦が

久しぶりにお見えになり、交わりの時間を持てましたことを感謝します。

 

浜松めぐみ教会では

毎週の日曜日、午前10時45分から12時くらいまで

主日礼拝を捧げています。

 

クリスチャンでない方、

聖書をお持ちでない方、

小さいお子さんをお連れの方、

どなたでも歓迎いたします。

 

お気軽に足を運んでみてください