goo blog サービス終了のお知らせ 

浜松めぐみバプテスト教会

教会の近況や集会の様子などをお知らせします。

ジョン宣教師の説教

2013-05-03 | 日曜礼拝

先週の日曜日、4月28日の礼拝説教は

牧師がインフルエンザにかかってしまったため

急遽、牧師宅に滞在中だったジョン宣教師が

取り次がせて下さる運びとなりました。

新約聖書、第一コリント人への手紙1章10節から

「同じ言葉、同じ心、同じ志、同じ実り」という題をもって

説教をして下さったのですが

 

イエス・キリストの体である教会(信徒)が

それぞれの役割は違っていても

同じビジョン、目標をもって進んでいくことの大切さや

 

一つの体を構成する各器官が

それぞれに任されていることを

精一杯、果たしていくことによって

健康な体が作られていくことを教えられました。

 

神様がジョン先生を通して

今、浜松めぐみ教会に必要な糧を

語って下さったことを心より感謝いたします。

 

そして、とても急なことであったのにもかかわらず

快く、説教の奉仕にあたって下さったジョン先生にも

感謝を申し上げます

 


神に近づきましょう

2013-02-18 | 日曜礼拝

2月17日、日曜礼拝の説教は

「神に近づきましょう」という題で取り次がれました。

その内容を要約して、ご紹介いたします。

 

神様に近づいていくということは、祈ることです。

 

しかし、人間の常識と論理の中で、

目に見えない存在に祈る、対話するということは

ありえないこと、不可能なこと、むしろ愚かなことに

思えるのではないでしょうか。

よって、「祈る」ということはまず、生ける神様、イエス・キリストを

信じる信仰から始まるのです。

 

そして、イエス・キリストを信じて、神様に祈る人は

ただ「祈る」だけではなく、大胆に、確信をもって祈ることが出来るのです。

つまり、自分の祈りが決して拒まれることはない、神に聴かれないことがないという

確信の中で、畏れずに祈れるということです。

確信をもつということは、自信をもつことと同じだとも言えるのでしょう。

そしてその自信というのは、繰り返された「経験」によって得られるものなのです。

 

「信仰がなくしては、神に喜ばれることはできません。

 神に近づく者は、神がおられることと、神を求める者には

 報いてくださる方であることとを、信じなければならないのです。」

 

新約聖書、ヘブル11章6節のみことばです。

日本語の聖書には、「神を求める者」と訳されていますが

ギリシャ語で書いてある原文には、「神を熱心に求める者」と書かれています。

 

熱心に求める者に報いて下さる神様を体験することによって、

またその体験が繰り返されることによって確信(自信)をもつことができ、

より大胆に神様に近づいていくことが出来るようになるのではないでしょうか。

 

これらは全て、イエス・キリストを信じる信仰から始まります。

そして、クリスチャンにはもうすでにこのような信仰が与えられています。

そうであるのなら、信仰をもっているのなら、より熱心に神に近づいていきましょう。

熱心に求めた時に報いて下さる神を体験しましょう。

その体験は、私たちがもっと一生懸命に神様を求めるようにさせ、

それによって私たちは神様のことをより豊かに、より深く知ることができるのでしょう。

 


2013年2月3日、日曜礼拝

2013-02-05 | 日曜礼拝

2月3日、今月始めての日曜礼拝が捧げられました。

この日は 「教会は神の知恵を示す」 という説教題で

説教が取り次がれました。

 

内容を要約したものです

 

「教会」といったら多くの方は礼拝堂、つまり

「建物」を思い浮かべるのではないでしょうか。

でも聖書的に、「教会」という単語の意味は

建物はもちろんのことですが、

神様、つまり、イエス・キリストを信じる人々と

その集まりのことをいいます。

 

敷居が高いという、一般的な教会のイメージとは違って

教会というところは、実は、「弱い人」が集まるところであります。

社会から疎外されたり、注目されなかったり

経済的に豊かでなかったり、健康でなかったり

「弱い人」の中にはいろいろな意味が含まれると思いますが、

教会はこのような人々が来て、神様を体験して

「生まれ変わる」ところであります。

 

神様の知恵とは、

このような「弱い人」を作り替えて下さることであるのです。

 

新約聖書の1コリント1章27節にはこのようなことが書いてあります。

 

「しかし神は、知恵あるの者をはずかしめるために、

 この世の愚かな者を選び、強い者をはずかしめるために、

 この世の弱い者を選ばれたのです」

 

これは、神様ご自分の栄光のためであり

ご自分が生きておられることをお示しになるためであり

神様と共に歩む人生がどのようなものなのかをお示しになるためであるのです。

そしてこれらのことが、教会と共にいて下さる神様の「証」となるのです。

 

「私とあなたの民とが、あなたのお心にかなっていることは、

 いったい何によって知られるのでしょう。

 それは、あなたが私たちといっしょにおいでになって、

 私とあなたの民とが、地上のすべての民と区別されることに

 よるのではないでしょうか。」

旧約聖書の出エジプト記33章16節のことばです。

 

私たちの人生そのものが、神様が共にいて下さる、

今も生きておられる「証」になることを祈り求めましょう。

神様の教会なる私たち一人一人が、神様に出会い、体験して

神様によって作り替えられることを期待していきましょう。

そして、そのような私たちの人生を通して

イエス・キリストのことが、多くの人々に伝わっていくことを祈りましょう。

 

 

 


2013年1月27日、日曜礼拝

2013-01-28 | 日曜礼拝

今月最後の日曜礼拝が行われました。

 

「キリストの計りがたい富」という題で取り次がれた説教に耳を傾け

イエス・キリストが与えて下さる「富」とは何であるかを教えられました。

この世の価値観でみた「富」とは、

いわば、財力、名誉、社会的地位のようなものかもしれない。

一方、聖書でいう「富」とは、知恵であり、愛であり、望みであることと

どうしてこれらのものが私たちにとって益となるのかについて、深く教えられました。

 

みことばを通して、改めて、私たちが目を向けるべきところを教えられ、

イエス・キリストのよって生かされていることに気付かされました。

 

そして、今月からは、月のいちばん最後の日曜日に

「愛餐会」というお食事会が行われることになり、

礼拝後には美味しいお食事を囲んでの

楽しい交わりの一時を過ごしました

 

聖書には、イエス様が奇跡を起こして

たくさんの人々を食べさせて下さったり、

弟子たちに朝食を用意して下さったり、

「共に食事をする」場面が多々登場します

 

心理学的にも、一緒に何かを食べる、共に食事をすることによって

人は、心が開かれた状態になりやすく、

より楽しく、より深く、相手と交わることができるんだそうです

 

めぐみ教会でも、月に一度、皆さんでお食事をしながら

良い交わりの時間が持てればと思います

 

残念ながら、写真を撮ることはできませんでしたが

たくさんのごちそうを頂きました。

愛餐会のためにご協力して下さった皆様に

感謝を申し上げます。

 

そして、1月の最後の主日礼拝ということで

礼拝後には誕生会の時間を持ちました。

今月にお誕生日を迎えたのは、小学生のS君。

皆さんで 「君は愛されるため生まれた」 という曲を歌って、

また、一緒に祈りを持って、S君を祝福しました。

 

次の日曜礼拝でも、みことばによるたくさんの恵みと励まし、

また、楽しい交わりを期待します。

皆様のこの一週間の歩みにイエス・キリストの

お守りと祝福がありますようにお祈りいたします。


クリスマス礼拝、祝会の練習

2012-11-25 | 日曜礼拝

今日は11月最後の日曜礼拝がありました。

 

礼拝堂のクリスマス飾りは来週にやる予定ですが

講壇やドアなど、少しだけ飾りをつけてみました。

 

そして、今日の礼拝の後はクリスマス礼拝のときの祝会のために

子ども達が歌や楽器の練習をしました

いちばん小さいグループ、年少さんの子どももマラカスとリコーダーを頑張りました

 

小3の男の子グループもメロディオンとリコーダーを担当します

 

練習が終わったら、あのお菓子が食べられるかな?と思っているのでしょうか

 

みんな楽しく練習をすることが出来ました。

クリスマス礼拝までもう少し練習をして

祝会の時には皆様の前で披露です

 

今年も楽しい祝会になりそうです