先日、NHKスペシャルで朝日新聞襲撃の赤報隊について扱っていたんだが
その中で右翼の代表者が「殺人ではなくて懲罰だ。」という主張に対して、NHKの記者は「受け入れ難い。」などという主観的形容詞を述べるに留まっていた
報道機関の、いち記者による主観的感想というものは論理的反論にはならず、意味がない
たとえ民主主義制度を振り回して多数決的に「受け入れ難い」という主観的感想を陳列しても、これではただの少数派排除にしかならない
重要なのは、何が論理的に間違っているか。それを明確にしていないことが最大の原因なのである
そもそも国家権力であろうと懲罰という暴力を用いて国民を抑圧するという現在の刑事司法制度そのものに合理性がないのである
国家単位で誤った制度を温存しておいて、右翼にだけ特別に懲罰を認めないというわけにはいかないのだ
これは米国の核抑止力が北朝鮮やイランの核開発を助長している構造と良く似ていて、北朝鮮からすれば核開発も「抑止力」であることに違いはないのである
もちろん人種や民族や国籍だけを論拠に、「日本人だけが正しい。」などという主張には最初から合理性はないのだが。単なる主観的感想に過ぎない「受け入れ難さ」だけを述べたところで、それは右翼の観点からすれば逆に「それこそが受け入れ難い」という感想しか出てこないだろう
これでは全く意味がない
個人の主観的好き嫌いを多数決にしただけでは、社会の持続可能性や安全性の向上にはつながらないのである
社会安全性や持続可能性を高めるために必要なのは、合理的根拠であり。合理的根拠もなしに主観的感想の多数決を民主主義制度の原理として強行するのは、民主主義を逸脱した大衆原理主義とも言えるものである
バカ主義と言っても構わない
本論はウケ狙いの大衆迎合ではないからだ
ナチスの勃興であっても、民主的に選択されたものであって。主観的感想だけで物事を判断する民衆しかいなかったからこそ、あの大惨事は引き起こされたのである
犯罪者を憎むことも主観である
相模原障害者施設やまゆり園虐殺事件の植松容疑者に対し、梅沢ナントカ的に「あんな奴はとっとと死刑にしちまえ。」的な短絡的感想を述べるのも自由ではあるが、それは論理的な社会安全性の向上にはつながらない主観感想でしかないことを認識しておく必要性がある
植松容疑者に限らず、通り魔やテロリストの行動というのは大多数のヒトにとって「受け入れ難い」ものである
だからといって、同じヒトである以上、全く脳機能自体が異なっていることが全ての原因であるという証拠があるわけでもなく、死刑という淘汰圧力でもかけておけば自動的に残虐行為がなくなる保証など全くないのである
そもそも、淘汰圧力で遺伝的に「進化」するためには、現在の死刑程度の淘汰圧力では不可能なのである
遺伝的な進化を促進するためには、むしろ国家権力自体が異常なまでの残虐性を発揮して国民の大半を死刑にするような条件でなければ遺伝的進化は促進されない
こうなると、一体何が異常なのかすらわからなくなってしまうのである
人為的に進化や変異を促すためには、断種政策が不可欠である
となれば、断種政策を認めるヒトの異常性は許容されるとでも言うのであろうか
つまり、人為的進化を促すことは最初から構造的に非合理なものであり。そもそもヒトという種の生物は過酷な自然界の淘汰圧力から逃れることによって、むしろ変異はあっても進化はもはや出来ないのであり。「死刑で進化する。」ことなど科学的には有り得ない妄想でしかない
もし、ヒトが遺伝的に進化するためには、先天的遺伝病を持って産まれてきた子供は片っ端から殺害することになるのである
もはや、その時点で人間性など紙屑同然である
ナチスや植松はそれを実行したのである
死刑などの刑法懲罰制度というのは、そのレベルの異常行動であると認識すべきである
「一つの重大事象の影には、無数の小さな事象が隠れている。」これは危険学や失敗学では有名な「ハインリッヒの法則」である
実際に殺人事件などの物理的加害事件に発展する以前に、優生学のような論理的に支離滅裂な理論が生物学界では満足な論理反証すらされていなかったという、生物学や哲学の怠慢があるからこそ、「殺人で進化や幸福が得られる。」などといった非合理な「お花畑」の発生を許してしまうのである
国立大学の教授や研究機関がバカであるというのは、もはや「ヒヤリ、ハッと。」レベルの事象ではなく、充分に重大事象だと言えるものである
生物学者達が「目的」と「結果」の明確な区別が出来ていれば、優生学に対する論理反証になっているにも関わらず。自分達の頭の悪さをごまかすために、「先天的行動習性から人間性が立証出来る可能性。」などという、論理的どころか原理的に不可能な「お花畑」ではぐらかすことしかしていないのは、もはやA級戦犯レベルの重大犯罪である
京都大学という権威性を畏れ、科学を逸脱した非合理な実証不能の観念を傍観放置する大衆やマスコミの頭の悪さも同罪である
全員がバカなら、バカの方が正義になるとでも思っているのであろうか
iPS研究所の論文不正問題も、山中を辞めさせるための松沢らによる陰謀なんじゃなかろうかと疑ってしまうレベルである
陰謀論なんてのは予想でしかないので証拠は特にないのだが
だとしても先にクビにするのは学長や松沢の方が先である
Ende;
その中で右翼の代表者が「殺人ではなくて懲罰だ。」という主張に対して、NHKの記者は「受け入れ難い。」などという主観的形容詞を述べるに留まっていた
報道機関の、いち記者による主観的感想というものは論理的反論にはならず、意味がない
たとえ民主主義制度を振り回して多数決的に「受け入れ難い」という主観的感想を陳列しても、これではただの少数派排除にしかならない
重要なのは、何が論理的に間違っているか。それを明確にしていないことが最大の原因なのである
そもそも国家権力であろうと懲罰という暴力を用いて国民を抑圧するという現在の刑事司法制度そのものに合理性がないのである
国家単位で誤った制度を温存しておいて、右翼にだけ特別に懲罰を認めないというわけにはいかないのだ
これは米国の核抑止力が北朝鮮やイランの核開発を助長している構造と良く似ていて、北朝鮮からすれば核開発も「抑止力」であることに違いはないのである
もちろん人種や民族や国籍だけを論拠に、「日本人だけが正しい。」などという主張には最初から合理性はないのだが。単なる主観的感想に過ぎない「受け入れ難さ」だけを述べたところで、それは右翼の観点からすれば逆に「それこそが受け入れ難い」という感想しか出てこないだろう
これでは全く意味がない
個人の主観的好き嫌いを多数決にしただけでは、社会の持続可能性や安全性の向上にはつながらないのである
社会安全性や持続可能性を高めるために必要なのは、合理的根拠であり。合理的根拠もなしに主観的感想の多数決を民主主義制度の原理として強行するのは、民主主義を逸脱した大衆原理主義とも言えるものである
バカ主義と言っても構わない
本論はウケ狙いの大衆迎合ではないからだ
ナチスの勃興であっても、民主的に選択されたものであって。主観的感想だけで物事を判断する民衆しかいなかったからこそ、あの大惨事は引き起こされたのである
犯罪者を憎むことも主観である
相模原障害者施設やまゆり園虐殺事件の植松容疑者に対し、梅沢ナントカ的に「あんな奴はとっとと死刑にしちまえ。」的な短絡的感想を述べるのも自由ではあるが、それは論理的な社会安全性の向上にはつながらない主観感想でしかないことを認識しておく必要性がある
植松容疑者に限らず、通り魔やテロリストの行動というのは大多数のヒトにとって「受け入れ難い」ものである
だからといって、同じヒトである以上、全く脳機能自体が異なっていることが全ての原因であるという証拠があるわけでもなく、死刑という淘汰圧力でもかけておけば自動的に残虐行為がなくなる保証など全くないのである
そもそも、淘汰圧力で遺伝的に「進化」するためには、現在の死刑程度の淘汰圧力では不可能なのである
遺伝的な進化を促進するためには、むしろ国家権力自体が異常なまでの残虐性を発揮して国民の大半を死刑にするような条件でなければ遺伝的進化は促進されない
こうなると、一体何が異常なのかすらわからなくなってしまうのである
人為的に進化や変異を促すためには、断種政策が不可欠である
となれば、断種政策を認めるヒトの異常性は許容されるとでも言うのであろうか
つまり、人為的進化を促すことは最初から構造的に非合理なものであり。そもそもヒトという種の生物は過酷な自然界の淘汰圧力から逃れることによって、むしろ変異はあっても進化はもはや出来ないのであり。「死刑で進化する。」ことなど科学的には有り得ない妄想でしかない
もし、ヒトが遺伝的に進化するためには、先天的遺伝病を持って産まれてきた子供は片っ端から殺害することになるのである
もはや、その時点で人間性など紙屑同然である
ナチスや植松はそれを実行したのである
死刑などの刑法懲罰制度というのは、そのレベルの異常行動であると認識すべきである
「一つの重大事象の影には、無数の小さな事象が隠れている。」これは危険学や失敗学では有名な「ハインリッヒの法則」である
実際に殺人事件などの物理的加害事件に発展する以前に、優生学のような論理的に支離滅裂な理論が生物学界では満足な論理反証すらされていなかったという、生物学や哲学の怠慢があるからこそ、「殺人で進化や幸福が得られる。」などといった非合理な「お花畑」の発生を許してしまうのである
国立大学の教授や研究機関がバカであるというのは、もはや「ヒヤリ、ハッと。」レベルの事象ではなく、充分に重大事象だと言えるものである
生物学者達が「目的」と「結果」の明確な区別が出来ていれば、優生学に対する論理反証になっているにも関わらず。自分達の頭の悪さをごまかすために、「先天的行動習性から人間性が立証出来る可能性。」などという、論理的どころか原理的に不可能な「お花畑」ではぐらかすことしかしていないのは、もはやA級戦犯レベルの重大犯罪である
京都大学という権威性を畏れ、科学を逸脱した非合理な実証不能の観念を傍観放置する大衆やマスコミの頭の悪さも同罪である
全員がバカなら、バカの方が正義になるとでも思っているのであろうか
iPS研究所の論文不正問題も、山中を辞めさせるための松沢らによる陰謀なんじゃなかろうかと疑ってしまうレベルである
陰謀論なんてのは予想でしかないので証拠は特にないのだが
だとしても先にクビにするのは学長や松沢の方が先である
Ende;