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書き逃げアンドロイド。

副交感神経が優位になるような写真が好き。

○無責任。

2018年10月07日 12時10分37秒 | 意識論関連
「意識というのは共通性を徹底的に追求するものなのです。その共通性を確保するために言語の論理と文化、伝統がある。」

養老孟司は先天的本能習性として「同調や共感に安心や満足を感じる。」ことを述べているのであって

この文脈における「意識」とは無意識な先天的行動バイアスのことで だからこそ養老の結論は「安心して同じを求めれば良い」などという主観的気分の問題に話がすりかわるのである

東電社内において「同じ」を追求した結果 揃いも揃って津波に対する脆弱性を放置したことは「意識の問題」ではなく 気分感情が促す同調迎合性バイアスに「無意識に流された結果」に他ならない

学級内でイジメが発生していても「皆と同じように傍観放置しておけば安心」なのと同様に安心であることは安全性の論証とは何の関係もないばかりか むしろ安全性を阻害する大きな要因になるのである

「意識」というものの本質を論理的に認識していないからこそ養老の口車に乗せられてしまうのであって 養老の著作は科学論理的な根拠に基づいた理論ではなく 大衆迎合的な詐欺ペテンにしかなっていない

養老がやたらと言いたがる「脳化社会」云々の話も これは理論ではなくて養老の主観的な実証不能の観念でしかないのだが 養老の著作を読んだ大多数の大衆マスコミはこれを論理的根拠に基づいた理論か何かだと勝手に錯覚妄想して信じ込む

養老は相手がバカだとみなせば「禁煙と書かれた看板の前でタバコを吸う、ほら俺は脳化されていない。」などという支離滅裂な事を平気で言い出す そして相手はバカなので「なるほど、そうですね。」などと短絡安易に同調する

「電車やバスばかりを利用しているから脳化する」とも言っているが 養老自身は電車もバスも利用するのであって徒歩や自転車を多用しているわけではない

具体的に脳化がどのようなものであるのかを理論的に説明している件はなく それがどのような害をもたらすのかも説明せず どのように回避するのかも一切説明などしていない

にも関わらず 大衆やマスコミの大多数は脳化の観念を鵜呑みにして何の疑問も持つことはない

養老の「脳化」の観念が実際に何かの役に立つかと言えば 何の応用性も存在していない

養老の著作を読んだ者は 論理的理解をすっ飛ばして観念的に「丸め込まれ」ることで気分的に満足安心しているだけなのである

「わからないなら、わからないなりに、わかったとする。そういうわかりかたもあるのかと思ってもらえれば幸です。」

論理的理解とは別に ヒトという種の生物は観念的に満足安心したことを「わかった」と形容することがある

ヒステリックに怒鳴り散らしている相手に対して「わかった、わかった、そんなに言うなら謝るよ。」などと丸め込まれる時に言う「わかった」というのは観念的に迎合しているだけで論理的理解とは全く別のものである

養老が促しているのは論理科学的な理解ではなく 観念的な同調迎合であって 科学を逸脱して論理的根拠のない実証不能の観念の世界へと誘っているのである

養老が「客観的事実などない。」と説明している内容は 個人の主観的好き嫌いと客観的論証をすり替えているだけであって 科学的客観性を無視したオカルト観念でしかない

個人の主観的好き嫌いは「主観的な現実」でこそあれ 客観的な論理証明とは関係のない話であるのだが 大多数の大衆マスコミはこれが区別できずに養老の論法を漫然と無意識に鵜呑みにしてしまう

そして「日本人の住むのは本来、八百万(やおよろず)の神の世界です。ここには、本質的に真実は何か、事実は何か、と追求する癖がない。それは当然のことで、「絶対的真実」が存在していないのですから。これは、一神教の世界と自然宗教の世界、すなはち世界の大多数である欧米やイスラム社会と日本との大きな違いです。」などと称して あたかも論理的な真理の追求が間違いで それをしない癖がある日本人こそが正しく優秀であるかのように誘導するわけです

こうした論法によって大多数の大衆マスコミは気分的に安心満足することによって 科学的論理検証を簡単に放棄するようになる

刑事事件の捜査や検察の検証において絶対的真実を追求しないから冤罪が起きるのであり 原発が暴走した原因を究明できなければ有効な再発防止策は構築できない 養老の論法を鵜呑みにすれば「科学捜査は要らない。」という話になってしまうのである

そもそも客観的事実を否定しておいて科学的客観性もへったくれもあったものではないし 科学者としてデクノボウにも程がある

養老は「昨日の自分は、今日の自分ではない。」と称して言っている内容をその場限りにコロコロと変えてきます

「万物は流転する。」などという屁理屈を持ち出して言っている内容の論理整合性は一切責任を持たない

嘘つきというのは言っている内容の全てが嘘なわけではなく 他人を騙す時には最初は本当のことを述べておいて肝心な部分だけ嘘を混入させて騙すのであって 言っている内容が全て事実と異なる話であれば嘘であることは誰にでもわかるはずである

例えば「純粋嘘つき」という人物がいると仮定します この「純粋嘘つき」は嘘しか絶対に言わないので たとえ自分にとって損になるとしても命に関わることであっても常に嘘しか言わないので 彼の言っている内容が全て嘘であることは簡単に判明するし 彼に何かを質問したら「常に嘘である」と判っていれば騙されることもない

現実の詐欺師ペテン師というのは他人を騙すために嘘と真実をないまぜにし「もっともらしい嘘」でなければ他人は騙せない

 ◇追記:養老は「イスラム社会と日本との違い」とは言っているが どちらが正しいなどといった結論や判断は一切していない そもそもが論理的根拠に基づいた分析ではないので結論も判断も最初からないし 出来もしないのだが 読者は自分に都合の良いように観念的な「解釈」をすることで気分的に安心満足しているだけで 誰一人として論理的に理解も分析もしていないのである



「意識は同じを求める。」のはなぜか

それは「皆同じだと安心。」だからである

こうした安心というものは先天的バイアスが作り出すものであり欲求欲望という先天的に決定している自己選択不可能な無意識に過ぎない

先天的に同じものを求める性質は 同調性や多数派迎合性によって「同じではない者」を差別排除する原因でもある

逆に 多数派がバカなら自分もバカでも「恥ずかしくはない」とも思うことで気分的に安心することも出来る

それに対して論理科学的な真理の追求による論理的安全性というものは これらの気分的バイアスに左右されることなく構築されるべきものであり 安全性に関わる知識の共有と多数派同調バイアスが促す観念的共感共鳴とは全く異なるものである

養老は自分にとって都合良く観念的な共感や共鳴をするよう誘導するために 科学論理的な安全性に関わる知識共有と話をすり替えているのである



「型、形式」「カッコイイには普遍性があります。」といった話も 実際には論理的普遍性の証明ではなく 「個人が主観的にカッコイイと思うもの」自体は全然普遍性がない

そもそも「カッコイイ」というのは主観であって 客観的普遍性を証明出来ない

ヒトには普遍的に「個人的な好き嫌い(カッコイイと思うもの)が存在している」ということを指して「普遍性があります」と言っているに過ぎないのである

ヒトという種の生物が普遍的に何かを「カッコイイ」と思う現象は普遍的に見られるものだが 何に対して「カッコイイ」と思うのかには普遍性がない上に そもそも主観的な好き嫌いに過ぎない「カッコイイ」をどんなに集めてきても客観的な普遍性の論証にはならない

これ むづかしいかしら?

学校みたいに金を支払って学位学歴という抽象化された「脳への報酬」なしに理解しようと思う奴はいないのかしら

主観的に好きであることを どんなに多数派と共有したところで 主観的な好き嫌いが客観的論理証明にすり替えられるわけではないでしょ

「生駒ちゃんがかわいい」という主観的な好きをどんなに多数派で共有したところで 「生駒ちゃんは普遍的にかわいい」ことの論理的証明にはならないでしょうが

「型、形式」や「カッコイイ」といいう主観的観念というものは 客観性を持った論理的証明には最初から使えないものであって 山極壽一京大学長が「ゴリラの威嚇が相撲の型と似ている」ことをどう主観的に思っても科学的に何かを証明したことには全くならないのである

それを どんなに多数のバカなマスコミ関係者と共有しても同じことである



養老に限らず個性批判論者に共通する論法があって それは「個性=身体=世間的成功」だけを議論の俎上に乗せてくる

個性というものがどうして世間的成功に結びつかなくてはならないのであろうか

世間的成功を「多くの人」が望んでいるからといって 世間的成功に結びつかないものは個性としては意味がないとでも言うのだろうか

世間的成功というのは そもそも他人との比較における結果であって 主観的に好きな純粋行為とは関係がなく 個性尊重において最も重要なのは主体的意思を認識し 自ら尊重することによって自律的な社会安全性にも配慮が働くようになることである

世間的成功というのは あくまで「その社会における結果」に過ぎないので 成功するかどうかは何の保証もない

たとえ先天的に何かの能力に突出していたとしても それが評価報酬などの世間的成功に結びつかない場合もある

たとえ大多数の観念に迎合していても世間的に成功する保証など何もないのである

人間性にとって最も重要なのは「自律的な社会的責任判断選択」が出来ることであって どんなに多数派から評価されていても やっている本人が主観的に純粋に好きなことでなければ評価が失われたり 思ったように得られなかったりした場合に無責任な行動に走ってしまったのではどうにもならない

世間的な成功だけを求めるのであれば 養老のように無責任にオカルト観念で大衆を丸め込んでおいても構わないことになる だが それによって論理的な安全性の追求がおろそかになってしまったのでは話にならない

目先の気分的安心満足によって自律的な論理検証性を失っておいて 他人にだけ社会的責任を追求するのは無責任にも程がある



Ende;
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