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書き逃げアンドロイド。

副交感神経が優位になるような写真が好き。

迎合。

2013年09月28日 15時04分47秒 | 意識論関連
○多数派迎合性の事後正当化。

 言語コミュニケーション能力の発達過程において、親の顔を見ない子供は言語会話の発達が遅い傾向があるそうだ。

 親などの他者の顔色を窺う性質があることによって、共通言語の学習が進むそうで。親の顔色をあまり見ない子供は共通言語の学習が遅れることになるそうだ。

 ヒトという種の生物は、他者の顔色を窺う習性があり。他者のご機嫌取りを行うことで生物的な社会形成習性を発揮するようになる。

 言語学習能力の速度の観点だけから見れば、あたかも他者の顔色を窺うことの方が優位であるかの如く見えるであろうが。言語学習の速さだけが人間としての知能ではないことは明らかである。

 言語などのシンボル抽象化能力を、短絡的に人間性の論証であるかのように近年までは平気で論じられていたが。言語はヒト特有に発達した能力であるとは言えるが、それが短絡的に人間性の論証になる根拠は全く存在しない。

 ヒトが言語を学習する際に、他人の顔色を窺う性質によって学習速度が速まるからといって、言語学習速度が速ければ知能が高いとか、人間性が優れているといった根拠は全く存在しない。

 やたらと良く喋る癖に、言っている内容はほとんど何もない奴など珍しくはない。振り込め詐欺師や養老孟司などが典型であろう。

 言語学習において、その速さの優位性を導き出す要因としての、「他人の顔色を窺う性質。」というのは。逆にイジメや差別迫害においては多数派同調性の大きな要因となるのは明らかである。

 多数派と同じではないことを根拠に、多数派で同調して差別をする習性というのは人間としての知能ではない。

 多数派に同調しないことは、イジメにおいての「イジメられる原因」の一つではあるが。それなら同調しないことで多数派のご機嫌取りにならないことが、イジメて良いことの根拠になるであろうか。

 イジメというのはイジメる方の多数派迎合性、多数派のご機嫌取りを優先してしまうという、多数派の異常性が根本原因である。

 ヒトの多くは「多数派である。」というだけで、多数派の方が一方的に正常であると決め付ける習性がある。そのため、少数派の方を「治療」することばかりを考えるようであるが、これは大きな間違いである。

 ヒトが多数派や権威といった上下関係を妄想し、権威や多数派に対して異常性を「感じない」のは、ヒトの先天的欠陥である。

 異常であると「感じない」のは、それが気分的に安心で満足だからであり。これこそがヒトから論理検証性を喪失させる先天的習性である。

 「感じることが出来ない」のであれば、認識出来ないことが正当化出来ると思うかも知れないが。これもまた大嘘であり、自発的に論理検証しないからこそ異常性を認識出来ないだけであって、構造原理的に認識不可能性が証明されている訳でも何でもないのである。

 「ヒトは自分や多数派の異常性を認識することが難しい。」とは言えるかも知れないが、構造原理的に認識不可能性が立証されている訳ではない。

 犯罪において、加害者と被害者のどちらが悪いかを論ずることに意味などない。にも関わらず、イジメに関しては被害者の多数派迎合性の欠落を原因であると言い張るバカは少なくない。

 「イジメられる方にも、原因がある。」としても、そのことが悪いわけではない。にも関わらず、多数派の異常性の方を無視して、少数派の方を治療することしか考えないというのは、明らかに多数派であることを根拠に多数派を正常と見なしているからである。

 イジメる方の多数派迎合性という異常性を、単に言語学習速度を根拠に正当化して良いわけがないのである。

 ヒトという種の生物は、神が「目的」のために作り出した完全無欠の存在ではない。偶発的に生存に適したという「結果」に過ぎない存在であり、先天的欠陥が存在することは別におかしなことでも何でもないのである。




 時折、「ヒトは一人では生きられない。」などと称して、これを根拠に多数派迎合性を正当化出来たと錯覚したがるバカも少なくはない。哲学者の多くはこんな奴ばかりであろう。

 だからこそ「生存自体に意味などない。」と言っているのである。生存することを根拠に多数派迎合性が導き出す結果までをも正当化しようとするのは、単なるキチガイに他ならない。

 生存だけは憲法でも保証されているにも関わらず、死ぬ自由については犯罪扱いするというのはおかしな話である。

 イジメ差別迫害や過重労働で自殺する者だけに死ぬ自由が存在しているのは不公平であり、全ての者に死ぬ自由がなくてはならない。

 死ぬことが「怖い」のは勝手であるが、怖いなどという気分感情を根拠に義務権利を放棄して良い根拠には全くならない。

 死ぬ自由を論ずることを、文科系大衆観念的に拒絶するのも勝手であるが。これを短絡的に冷酷であると言い張るのは身勝手というものである。現状における社会の不公平を放置することの方が実際にははるかに冷酷であることを、多くのヒトは認識していないだけであるからだ。




Ende;
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