○古市憲寿:ふるいち のりとし
どうも古市憲寿が怪しい。
やたらと「世間的に受け入れられるかどうか。」にばかり執着し、主体的な意見というものが全く出て来ない。
単にその場限りに相手と話を丸めているだけで、主体的見解というものが全くないのではないか。
なにやら偉そうに上から目線で他人を評価しているが、その基準が常に「世間的に受け入れられるかどうか。」であって、理論的合理性を評価しているわけでも何でもない。
世間的成功が得られそうかどうかで行動が決定していれば、世間の顔色を窺う大衆迎合に過ぎず。自律的な社会的責任判断には全くならない。
こういった文科系大衆観念に迎合しておけば、大衆人気も得られるのかも知れないが、あまりに迎合的で自律した主体的意見というものが見られず。社会学者として無責任である。
ナチス政権下のドイツにおいて、「世間的に成功しそうかどうか。」を基準にしていればナチズムの問題点に対する反論にならないのは必然である。
現状世間そのものの間違いを指摘批判するためには、現状世間における「世間的成功。」を基準にしていては問題解決にならないのは当たり前の話である。
古市は現状世間に対する具体的で論理的な分析も批判も持っておらず、その場限りに相手と話を丸めて善人を装っているだけにしか見えない。
何せ養老孟司のようなオカルトを、オカルトとして認識出来なかった多数大衆が、古市の異常性を認識出来ないとしても何ら不思議ではない。
古市当人に自分が無責任であることの意識があるとは限らない。むしろ自分が無責任であることを認識していないからこそ、無責任に話を丸めて姑息に迎合しているだけであり。社会学者が世間に迎合して成功する手口手法ばかりを追求しているというのは単なる大衆迎合であって、社会学者としての社会的役割を全く果たしていない。
社会の不公平を問題にするのであれば、不公平によって「世間的には成功していない。」ことが問題なのであって。不公平という原因自体を無視して、結果的な成功だけを基準にするというのは、不公平という社会問題に対する論理的原因究明にもならず、当然対策にもならない。
古市がやたらと言う「○○は今の社会でも受け入れられそうだ。」などという評価方法は、現状世間における大衆迎合可能性の予測を述べているだけであって、問題に対する論理的な分析には全くなっていない。
論理的分析が全く介在しない社会学って、一体何ですか。
学問っていうのは理論的に問題を明確化することによって、具体性ある対策に結び付くからこその価値であって。その場限りに「世間に受け入れられそう。」かどうかを基準にするというのは、学問としての分析、学問としての社会的役割を全く果たさない怠慢に他ならない。
「楽しそうにしていると、人は集まる。」などという話も、「楽しそう。」かどうかを判断基準にしている時点で気分の問題、大脳辺縁系の感情の問題にすり替えており、論理的に正当かどうかの判断には全くなっていない。
「人が集まる。」というのも現状世間における「結果」に過ぎず、現状世間において人気があるかどうかと、論理的に正しい「目的」行動選択であるかどうかとは無関係な話である。
社会学者が現状世間に迎合することばかりに意識を奪われていれば、社会学が世間の問題点を論理的に認識出来ないのは必然的結果である。
現状の日本社会には問題がある。問題のある社会において「上手くゆく。」ことが、問題自体の解決になる訳ではない。
この基本的構造原理を無視して、「上手くゆくかどうか。」を基準に上から目線で他人を評価するというのは、むしろ社会の問題点を助長することにはなっても、改善することには貢献しない。
文科系大衆観念者というのは、養老孟司のように多くのヒトが知らぬ間に人気を得ているものである。キチンと論理的に検証しないと、こういったオカルトによって社会の問題点というのは簡単に撹乱されてしまうものなのである。
これを平たく言えば、「バカ」と言う。
バカは問題解決能力がありません。
無能なんですよ。
わかっているんですかね。
東京電力の社内において原発の危険性を指摘することが「上手くゆくんですかねぇ。」などという基準は論外である。
「上手くゆくかどうか。」というのは、「やるべき正当性」の論証には全くならない。
社会学というのは社会の問題点を論理的に分析し、対策を立てることが社会的役割であり。そこに「上手くゆく。」かどうかはどうでもよい話である。
温室効果ガス削減が「上手くゆくんですかねぇ。」などという基準でやるやらないの判定を下すようなものではない。
ヒトの多くがバカで、こうした文科系大衆観念から逃れられないとしても、「言わなくて良い。」基準には全くならないのである。
おそらく古市本人は、それを問題だとすら認識していないであろう。それこそが大問題なのである。それは養老孟司やオウム真理教の教祖のオカルト性と全く同じ構造だからである。
振り込め詐欺師の被害者が、「自分だけは絶対に大丈夫だと思っていた。」のと同様で、「大衆迎合の何が悪い。」的な観念を振り回しているからこそ、社会学が社会学としての社会的役割を一向に果たさないのである。
今のマスコミには、もっと注意力を持って他人の話を分析する必要性がある。単なる大衆人気取りだけで垂れ流しをしておいて、「メディアリテラシー。」の一言で責任逃れをして良いわけがない。
注意力を持って論理的分析を行うことが、意識の本質である。この注意力とはどこから来るのかといえば、主体的意志によって促されるものであって。抽象化された「エサ」(脳への報酬)に対する条件反射的思考だけでは、問題の本質を認識することは出来ない。
キャリア官僚が「年寄りは死ね。」的なツィートをしたらしいが、学力の高さというのは人間性や人間としての知能の高さの証明には一切ならない。本当に社会にとって要らない奴が誰なのかを、一度も考えたことのないバカでもキャリア官僚にはなれるのが現在の教育システムなのである。
Ende;
どうも古市憲寿が怪しい。
やたらと「世間的に受け入れられるかどうか。」にばかり執着し、主体的な意見というものが全く出て来ない。
単にその場限りに相手と話を丸めているだけで、主体的見解というものが全くないのではないか。
なにやら偉そうに上から目線で他人を評価しているが、その基準が常に「世間的に受け入れられるかどうか。」であって、理論的合理性を評価しているわけでも何でもない。
世間的成功が得られそうかどうかで行動が決定していれば、世間の顔色を窺う大衆迎合に過ぎず。自律的な社会的責任判断には全くならない。
こういった文科系大衆観念に迎合しておけば、大衆人気も得られるのかも知れないが、あまりに迎合的で自律した主体的意見というものが見られず。社会学者として無責任である。
ナチス政権下のドイツにおいて、「世間的に成功しそうかどうか。」を基準にしていればナチズムの問題点に対する反論にならないのは必然である。
現状世間そのものの間違いを指摘批判するためには、現状世間における「世間的成功。」を基準にしていては問題解決にならないのは当たり前の話である。
古市は現状世間に対する具体的で論理的な分析も批判も持っておらず、その場限りに相手と話を丸めて善人を装っているだけにしか見えない。
何せ養老孟司のようなオカルトを、オカルトとして認識出来なかった多数大衆が、古市の異常性を認識出来ないとしても何ら不思議ではない。
古市当人に自分が無責任であることの意識があるとは限らない。むしろ自分が無責任であることを認識していないからこそ、無責任に話を丸めて姑息に迎合しているだけであり。社会学者が世間に迎合して成功する手口手法ばかりを追求しているというのは単なる大衆迎合であって、社会学者としての社会的役割を全く果たしていない。
社会の不公平を問題にするのであれば、不公平によって「世間的には成功していない。」ことが問題なのであって。不公平という原因自体を無視して、結果的な成功だけを基準にするというのは、不公平という社会問題に対する論理的原因究明にもならず、当然対策にもならない。
古市がやたらと言う「○○は今の社会でも受け入れられそうだ。」などという評価方法は、現状世間における大衆迎合可能性の予測を述べているだけであって、問題に対する論理的な分析には全くなっていない。
論理的分析が全く介在しない社会学って、一体何ですか。
学問っていうのは理論的に問題を明確化することによって、具体性ある対策に結び付くからこその価値であって。その場限りに「世間に受け入れられそう。」かどうかを基準にするというのは、学問としての分析、学問としての社会的役割を全く果たさない怠慢に他ならない。
「楽しそうにしていると、人は集まる。」などという話も、「楽しそう。」かどうかを判断基準にしている時点で気分の問題、大脳辺縁系の感情の問題にすり替えており、論理的に正当かどうかの判断には全くなっていない。
「人が集まる。」というのも現状世間における「結果」に過ぎず、現状世間において人気があるかどうかと、論理的に正しい「目的」行動選択であるかどうかとは無関係な話である。
社会学者が現状世間に迎合することばかりに意識を奪われていれば、社会学が世間の問題点を論理的に認識出来ないのは必然的結果である。
現状の日本社会には問題がある。問題のある社会において「上手くゆく。」ことが、問題自体の解決になる訳ではない。
この基本的構造原理を無視して、「上手くゆくかどうか。」を基準に上から目線で他人を評価するというのは、むしろ社会の問題点を助長することにはなっても、改善することには貢献しない。
文科系大衆観念者というのは、養老孟司のように多くのヒトが知らぬ間に人気を得ているものである。キチンと論理的に検証しないと、こういったオカルトによって社会の問題点というのは簡単に撹乱されてしまうものなのである。
これを平たく言えば、「バカ」と言う。
バカは問題解決能力がありません。
無能なんですよ。
わかっているんですかね。
東京電力の社内において原発の危険性を指摘することが「上手くゆくんですかねぇ。」などという基準は論外である。
「上手くゆくかどうか。」というのは、「やるべき正当性」の論証には全くならない。
社会学というのは社会の問題点を論理的に分析し、対策を立てることが社会的役割であり。そこに「上手くゆく。」かどうかはどうでもよい話である。
温室効果ガス削減が「上手くゆくんですかねぇ。」などという基準でやるやらないの判定を下すようなものではない。
ヒトの多くがバカで、こうした文科系大衆観念から逃れられないとしても、「言わなくて良い。」基準には全くならないのである。
おそらく古市本人は、それを問題だとすら認識していないであろう。それこそが大問題なのである。それは養老孟司やオウム真理教の教祖のオカルト性と全く同じ構造だからである。
振り込め詐欺師の被害者が、「自分だけは絶対に大丈夫だと思っていた。」のと同様で、「大衆迎合の何が悪い。」的な観念を振り回しているからこそ、社会学が社会学としての社会的役割を一向に果たさないのである。
今のマスコミには、もっと注意力を持って他人の話を分析する必要性がある。単なる大衆人気取りだけで垂れ流しをしておいて、「メディアリテラシー。」の一言で責任逃れをして良いわけがない。
注意力を持って論理的分析を行うことが、意識の本質である。この注意力とはどこから来るのかといえば、主体的意志によって促されるものであって。抽象化された「エサ」(脳への報酬)に対する条件反射的思考だけでは、問題の本質を認識することは出来ない。
キャリア官僚が「年寄りは死ね。」的なツィートをしたらしいが、学力の高さというのは人間性や人間としての知能の高さの証明には一切ならない。本当に社会にとって要らない奴が誰なのかを、一度も考えたことのないバカでもキャリア官僚にはなれるのが現在の教育システムなのである。
Ende;