伴、一徹コンビに打ち砕かれるはずだった、大リーグボール2号は、一徹の一筋の情によって失敗に終わり、皮一枚でつながった。
しかし、次なる的は花形満!花形もまた消える魔球の秘密を100%見抜いていた。「青い虫が青葉にとまる」・・それを意外な方法で攻略した。打ち気がないと見せかけておいて、意表をついた一本足打法・・花形は何もしていない、しかし、飛雄馬が動揺して、高く上がるはずの足が上がらなかった。そのため、ボールは完全な青い虫にならず、消えることはなかった。球道の見えるボールを渾身の力で打ち込んだ打球はみごとホームランとなった。
ダイアモンドを走る花形。飛雄馬は完全に放心状態となり、誰の命もないままマウンドを降りるのだった。ショックを通り越え、虚脱してしまったのだ。
「しょせん、プロ野球をやる器ではない寸足らずの非力なチビが、ガキの頃からスパルタ親父にたたかれ、無理に無理を重ね、限界を一日延ばしにしてきたが・・・・・限界が・・・きた!
大リーグボール1号だの2号の消える魔球なんて考えてみれば野球の邪道だ、堕落だ。
本当の野球とは・・・
でっかいやつが、力の限り投げこむボールを、でっかいやつが思いっきりぶったたく!どでかいグラウンドせましとでっかい男たちが地響きをたてて駆けめぐる・・・
おれは野球を、バッテリー間だけの小手先だましの手品に堕落させた!手品師なんて、タネが割れちまえば最後。もう、およびじゃない
タネが割れても、まだ舞台にしがみつく手品師はピエロに成り下がる、悲しきピエロ、その名は飛雄馬・・・・
ふっふふふ・・・・プロ入り以来、手品師とピエロを往復しながら野球をやってきたが・・・おれの青春に野球はなにをもたらしたか?
父親は敵、親友も敵、ゆくえ不明の姉 いや損得勘定なんかどうでもいい
とにかく・・・つかれた!」
このあたりから、一気にストーリーの方向性は破滅に向かっていく。根性でハンディキャップを乗り越えていくはずの少年漫画は、いくら頑張っても、報われない、それでも最後まで逃げずに破滅していくという滅びの美学に突入していく。
これが梶原自身の人生、親子関係の投影であることは明らかである。
少年漫画に、なぜこんな悲劇を延々と続けなければいけなかったのか・・・しかし、この時代、このストーリーはそれほど違和感なく受け入れられたのではないだろうか。
真の悲劇が日常展開されている現在、このような暗い漫画は見あたらない。受け入れられないだろうし・・逆に、高度成長に浮かれ、昭和元禄と言われ始めた時代に、その現実と裏腹にこういう話が受け入れられていた。
物事には二面性がある、良いことがあれば悪いことがある、光があれば影がある。それはそれでしょうがない、それが現実だという思いが自然に人々に受け入れられていた。それだからこそ、情けもあり、優しさもあり、とことん人を追い詰めるようなことはしなかったのではないか。
影の文化を否定し、光だけをもてはやし、きれいきれいに向かっていった文化は今ついに、目に見えて破綻し始めた。もはや過去に帰ることはできないが、我々の心の中には、光と影のバランスが秘められているはずだ。
希望は絶望の中にある。絶望に耐えることの中にしか希望はないのだと思う。