大リーグボール1号、2号は、青雲高校時代からの親友、伴宙太の献身的な影の努力があって誕生した。飛雄馬は脚光を浴びたが、伴は日陰の存在のまま。伴は自分はそれでいいのだという。しかし、中日コーチ、星一徹が伴の才能を見越して、巨人から引き抜こうとする。
伴はそれを友情に水をさすひどい行為だと思い、飛雄馬の姉、明子に相談する。しかし、明子から帰ってきた言葉は厳しいものだった。
「青春には 決して安全な株を買ってはならない」
詩人、ジャンコクトーの言葉を伴に差し上げるという。伴は、自分は中日行きへの抵抗は野球界引退を覚悟しての行為であり、安全な株ではないという。しかし、明子はいう
「中日に移籍して、飛雄馬と対決するより、じっと友情とやらを抱いているほうが居心地がいいことは事実でしょう。居心地のいい ぬるま湯から抜けだそうとしないこと、すなわち安全な株を買っているともいえるわ」
その言葉は伴を直撃した。無意識にあった、自分の甘さを打ち砕かれた。一徹が「なぜ遠回りを選ばん」といって飛雄馬を殴り飛ばしたように、明子は伴を叱咤した。
あまりのショックに、動揺した伴は、勢いで、それまで胸に秘めていた明子への恋心を告白しようとする。しかし、明子はそれを制していう。
「まだ青春の門の外でさまよっている大きな坊やが、そんな告白だけ青年並みにしてはおかしいわ」といって、街の中にさっていく。
「あなたに道を踏み間違えてほしくない一心からですから、ゆるして、伴さん・・」と心でつぶやきながら。
「若い頃の苦労は買ってでもしろ」昔はよく言われた言葉だ。言われると反発心を感じると同時に、心のどこかではその通りだと思ってしまう。
我々が大学生だった頃はすでに、多くの学生は貧乏ではなかった。まあ、今の学生のようにワンルームマンションに住んでいるようなやつはほとんどいなかったがな。四畳半一間、トイレ、炊事場は共有、風呂は銭湯と決まっていた、わけではないが・・わしはそうだった。
もっと昔、普通に生活することが苦労だった頃に比べれば、普通にしていれば、それほどの苦労はなかった。でも苦労することで人は鍛えられるのだというような風土がかすかに残っていたのも事実だ。まあ、やせ我慢をバネにしていただけかもしれないが。
豊かでない、不自由であることが、何も人間の成長に必須の物ではないだろうし、そういう苦労は時代の問題であって、今の時代と比べても意味はなく、ましては今の若者にそれを求めるのは筋違いだ。
今は、買ってでも苦労しろなどという言葉は死語だろう。それを支える文化がないのだ。買ってでた苦労の果てに、安定した社会があれば、そこに入っていくために頑張ろう、今の内に苦労して自分を鍛えておこうという話も成立する。しかし、今の時代、そんな苦労をした果てに何があるのか、楽してもうける、悪いことをしてでももうけたやつが勝ち組だとされる時代に、そんな言葉は空虚だ。
心は言葉に支えられ、言葉は文化に支えられ、文化は歴史に支えられる。歴史は人の意志や考えとは違い、流れである。どうしてそうなったのか、後付の説明はできても予測はできないし、今あることの本当の理由はわからない。
今の歴史的流れ、文化の中で、どうやって、若者が頑張る気持ちになる言葉を作り出すのか。その苦労の向こう側に安定した社会を保証できない今、どんな言葉が心を支えることができるのか。霊的な言葉に頼るのはあまりにも情けないだろう。現世の問題は現世の言葉で支え合うべきだ。
教条的に、念仏のように、ただ勘違いで、「昔は~」「人間というものは~」と言い古された言葉を発する大人はたくさんいる。しかし、その言葉はうつろで、若者の心に響くことはない。
それに変わる、若者の心に響く、フレーズは何なのだろう。若者の不幸は、耳障りな言葉を押しつけられることではない。心に響く言葉がないことだ。
我々は、言葉を取り戻すことができるのだろうか、いや、取り戻さなくてはならないのだ。