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デヴィッド・O・セルズニック

2012-07-15 03:18:51 | 映画監督
デヴィッド・O・セルズニック

ハリウッド創生期に映画プロデューサーとして活躍した
ルイス・J・セルズニックの息子として生まれる。
タレント・エージェントとして活躍する兄のマイロンと共に
父親が経営する映画社で働きながら映画作りの基礎を学び、
18年の「絹の靴下」で16歳の若さで製作者としてデビュー。

父親の破産、23年には会社が倒産。
セルズニックは仕事を失うが、26年にMGM社に入社し、
脚本の監修を務め、やがて映画製作補佐として活躍する。
28年にはMGMのルイス・B・メイヤーの娘、
アイリーンと結婚するが、MGMの製作主任、
アーヴィング・G・タルバーグと「南海の白影」の撮影を
めぐり対立し、スタジオを飛び出す。その後パラマウント社で
助監督として働き、31年にはRKO社に移ってスタジオの
製作本部長に就任。ジョージ・キューカー監督を呼び寄せ、
キューカーのアドバイスを受けてハリウッドに招いた舞台女優、
キャサリン・ヘプバーン主演「愛の嗚咽」、「若草物語」などの
傑作を手掛け、モンスター映画の金字塔「キング・コング」や、
フレッド・アステアとジンジャー・ロジャース・コンビの
ダンス・ミュージカルなど娯楽映画のヒット映画も製作し、
成功を収める。33年、病弱のタルバーグの補佐を務める為、
MGMに戻り、「二都物語」、「アンナ・カレニナ」などの
古典小説の映画化から、ジョーン・クロフォードと
クラーク・ゲーブル共演のミュージカル「ダンシング・レディ」、
「晩餐八時」などを手掛ける。36年にはタルバーグ夫妻や兄、
マイロンの協力で、セルズニック・インターナショナルを設立、
「ゼンダ城の虜」、「スタア誕生」などのヒット作を発表。

36年、セルズニックは、マーガレット・ミッチェルの
「風と共に去りぬ」と出会い、5万ドルで映画化権を獲得。
事細かに指示するメモを何枚も送り、撮影現場に干渉する
セルズニックのやり方は関係者からは嫌われ、
主演女優探しは難航、監督と脚本家は幾度となく交代、
が、セルズニックは映画作りへの情熱と執念の全てを
この一本に注ぎ込み、2年半の歳月を費やし、
ヴィヴィアン・リークラーク・ゲーブルを主演に映画を完成。
映画は空前絶後の大ヒットを記録し、世界中でロングラン。
アカデミー賞では作品賞を含む8部門を制覇。

39年、セルズニックは、スウェーデンから呼び寄せた女優、
イングリッド・バーグマンを「間奏曲」のリメイク「別離」
に起用し、ハリウッド・デビューさせる。
翌年、イギリスからは映画監督、アルフレッド・ヒッチコック
を呼び寄せ、専属契約を結ぶ。ダフネ・デュモーリア原作の
「レベッカ」を監督させ、2年連続アカデミー作品賞を獲得。

44年にセルズニックは「風と共に去りぬ」の全権利を
MGMに譲渡、新人女優だったジェニファー・ジョーンズを
見出し、「君去りし後」を製作。私生活でもジョーンズに
夢中となったセルズニックは、彼女を主演に低予算の西部劇
「白昼の決闘」を企画。しかし、セルズニックの干渉主義が
災いし監督は交代し、製作規模は膨れ上がり西部劇の小品は
600万ドルの超大作に変貌、が、映画は批評家に酷評されるも
大ヒットを記録。しかし、契約下の俳優や監督を
他の映画会社に貸し出し利益を得るセルズニックの
経営方針や製作現場への極度の干渉主義は反感を買い、
誰もセルズニックとの契約を更新しようとせず、
映画の興行的な失敗作も続いて、多額の負債を抱え、
破産寸前までに追い込まれる。

49年、ジェニファー・ジョーンズと再婚し、
ハリウッドだけでなく海外にも活動の場を広げて、
イギリス映画「第三の男」やイタリア映画「終着駅」などの
古典的名作を共同制作。
57年、アーネスト・ヘミングウェイ原作「武器よさらば」
を製作。が、興行的に奮わず、これが最後の
製作映画となる。65年、心臓発作でこの世を去る。

第三の男(1949)
レベッカ(1940)
風と共に去りぬ(1939)
キング・コング(1933)


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