どのようなシステムであれ、そこから「無駄」を省けば、バタフライ効果によって(まわりまわって)、システムに大きなきしりが生じる可能性がある、というのはシステムの管理・保守・更新を行う人間が常に考慮しなきゃいけないリスク。芸術家も医師も技師も官僚も社長も、そこは少し似ていると思うな。
— えかきのルロアさん (@ruroa2) 2015年3月14日
「保守」という言葉は人により意味するところが大きく違いすぎるので、複数のテキストにまたがって同じ「保守」という単語が使われていても、それらが全て同一の意義・指示内容を示しているとは限らない(その他のあらゆる言葉にも言えることだけど)。
ただ、歴史を遡って、「保守(主義)Conservativism」ないしそれに類する思想がある程度まとまった形で提起されている文脈を参照すると、元々「保守」はそれ自体として自立的・自生的に産み出された概念装置ではなく、世界に対する人間の認識や働きかけを人為的かつ計画的にコントロールしていこうとする発想に対するカウンター概念として提起されたものであり、人こそ違えど提唱者の根底に共通して存在したのは、今様に表現するなら「バタフライエフェクトへの畏れ」の感覚だったのではないか、と思える。具体的には、デカルトの普遍主義に対するジャンバティスタ・ヴィーコの批判や、フランス革命とそれを支えた近代啓蒙主義に対するエドマンド・バークの批判あたりを念頭に置いているのだが。
そういう「保守」イメージを僕は持っているため、社会の現勢態を変更しようと考えて、その変更後のビジョンの原型として現勢態よりも時系列的に古く、今は現存しない社会構造等を参照する発想は、その原型が時系列的に古かろうが、僕の目には「保守」ではなくむしろ「革新」「革命」の発想に見える。
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