死者の“言葉”

2016年09月20日 | 日記

 死者の存在が遺された生者の中でどのように表象されたり取り扱われたりするのか、突っ込んで言うならどのように取り扱われる「べき」なのかについて、僕は基本的に語る言葉を持たない。それは個人レベルでは各々の死生観の問題であり、集団レベルでは(広義の)宗教の問題となろう。
 ただ、死者について語られる“言葉”や、時には死者の語ったこととして表象される“言葉”は、当然のことながら実際には全て生者によって語られる“代理人の言葉”であり、それが死者自身の思い(というものがあったとして)とどれくらい即離しているのかを知る術はない。そうした生者による死者の“代理”が、何らかの邪心に基づいているとばかりは言えないし、むしろ真正の哀悼の情に根差している場合だって多いだろう。むしろそのほうがずっと多いかもしれないと思う。
 だからこそ、死者の“代理人”となった者は、本来語られないはずの死者の“言葉”を今自分が死者の名において語っているという、自らの“語り”の屈折した状況について、その哀悼の情の真摯さ故にかえって盲目になりがちであるとは言えないだろうか。
 でも、だからと言って、そうした生者による死者の“語り”が端的に全否定される“べき”ものであるかと言えば、別にそうとも思わない、いや思えないのがややこしいところだ。死者の存在に対する構えとしてのある種の“信仰”抜きには、恐らく生者の世界の倫理すら成り立たなくなるだろう、とは思っている。ただ、その“信仰”の形がどうある“べき”かについて、一般的な回答を僕は持ち合わせていないし、そもそも一般的な回答が成立するか否かすらわからない。


 ……以上のことは、少し前にネット上で見かけた事象について思いを巡らせたものだが、変に個人攻撃のように取られたくもないので、誰かに訊かれたらガンダムAGEの話だと答えることにしておこう。



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