リアル

2016年11月21日 | 日記


 以前に宇多丸氏が、押井作品などでよく登場するテーマ性について「“何がリアルか”問題」として若干皮肉っぽく言及していたことがあったように記憶しているけど、そういう問題について思考する経験をまったく持たなかった人は、「俺の常識が世界の常識」というテーゼを微塵も疑うことはないのかもしれない。言い方を変えれば、カントが「物自体」として論じていたようなものを自分はしっかり認識しているし何故それをいちいち問題視するのかが理解できない、なぜなら自分が事実そのものを(物自体として)認識しているのは“自明”だからだ、といった感じだろうか。
 ただ、自分とは異なる様相で世界を認識している他者について想像するのは、言葉で言うほど簡単なものではなく、また仮に想像できたとしても、その認識の結果を生活の中で実践するにはまた別種のハードルがある。そして自身の生活防衛のために、あえてそのような想像が出来なかったかのような体で“傍観者”たることを選ぶ、ということもさして珍しくはない。僕自身についてもそれは言える。


リアルは地獄(Real is hell)

2016年11月18日 | 日記


 Gレコのクンタラ設定が面白いのは、単に被差別階級というだけではないところ。物語の舞台となるRG1014年代には、少なくとも公的・制度的には差別的な扱いが(ルイン・リーがガード候補生になれるくらいには)撤廃されているが、民心には差別感情が色濃く残っている。その感情が、社会の中でのクンタラに対する実質的な扱いや態度を、制度的な部分とは別の側面で強く規定している。
 一方でベルリの自由奔放なキャラ造型は、そういう伝統的な差別感情に縛られていないという形でも表現されている。クンタラ出身であることを強く意識させられながら育たざるを得なかったルイン(主にマスク時代)には、そんな飛び級生ベルリの“意識せずにいられる”自由さが、眩しくもあり妬ましくもあったんだろうな……などと思わせられる描写が、何だか妙に生々しくてリアルは地獄。


擬似記憶

2016年10月16日 | 日記
 久々に高校の敷地と教室の中で一日を過ごした。
 自分が通っていた学校ではないが、学校特有のスチール机や、全体的に什器がどこか古びている(大学や企業ほどには更新されない)感じ、また間近に迫った学園祭の告知ポスター等、何やら懐かしいような気分に浸ってしまった。
 でも、これは擬似記憶の典型のようなもので、そもそも高校の頃の自分には友と呼べる友など無く、母校に対する愛着などかけらもなく、当然学校行事に参加して楽しむ心性などかけらほども持ち合わせてはいなかった。ただ無為に時間を過ごして通り過ぎるだけの時間・空間、それが僕にとっての「高校」なのだ。
 埃っぽいテニスコートにも、生徒の作品と思しき学祭ポスターのイラストにも、少なくとも自分自身の出身校に対しては何一つ思い出など残していないはずなのに、僕の知らない時間と空間で僕の知らない誰かが過ごしてきた(そして今も過ごしている)同時期的な人生経験には、何故か奇妙な郷愁にも似た思いを抱く。これはいったいどうしたことか。

死者の“言葉”

2016年09月20日 | 日記

 死者の存在が遺された生者の中でどのように表象されたり取り扱われたりするのか、突っ込んで言うならどのように取り扱われる「べき」なのかについて、僕は基本的に語る言葉を持たない。それは個人レベルでは各々の死生観の問題であり、集団レベルでは(広義の)宗教の問題となろう。
 ただ、死者について語られる“言葉”や、時には死者の語ったこととして表象される“言葉”は、当然のことながら実際には全て生者によって語られる“代理人の言葉”であり、それが死者自身の思い(というものがあったとして)とどれくらい即離しているのかを知る術はない。そうした生者による死者の“代理”が、何らかの邪心に基づいているとばかりは言えないし、むしろ真正の哀悼の情に根差している場合だって多いだろう。むしろそのほうがずっと多いかもしれないと思う。
 だからこそ、死者の“代理人”となった者は、本来語られないはずの死者の“言葉”を今自分が死者の名において語っているという、自らの“語り”の屈折した状況について、その哀悼の情の真摯さ故にかえって盲目になりがちであるとは言えないだろうか。
 でも、だからと言って、そうした生者による死者の“語り”が端的に全否定される“べき”ものであるかと言えば、別にそうとも思わない、いや思えないのがややこしいところだ。死者の存在に対する構えとしてのある種の“信仰”抜きには、恐らく生者の世界の倫理すら成り立たなくなるだろう、とは思っている。ただ、その“信仰”の形がどうある“べき”かについて、一般的な回答を僕は持ち合わせていないし、そもそも一般的な回答が成立するか否かすらわからない。


 ……以上のことは、少し前にネット上で見かけた事象について思いを巡らせたものだが、変に個人攻撃のように取られたくもないので、誰かに訊かれたらガンダムAGEの話だと答えることにしておこう。


こち亀

2016年09月19日 | 日記

こち亀:きょう発売のジャンプで最終回 作者・秋本治が両さんに「休ませてあげよう」(2016/9/17)

 長寿マンガ「こちら葛飾区亀有公園前派出所(こち亀)」が、17日発売の「週刊少年ジャンプ」(集英社)42号で最終回を迎え、約40年にわたる長期連載に幕を下ろした。最終回では「40周年記念 復活キャラ大発表会」と題して、レアなキャラクターが登場しているほか、連載の裏側も語られている。同号では秋本さんの偉業に対して「ONE PIECE」の尾田栄一郎さんら連載陣から寄せられたメッセージも掲載。同日には最終回が掲載されているコミックス最終200巻も同時発売された。
 「こち亀」は1976年から一度も休載せずに連載され、同号で作者の秋本治さんは連載終了にあたり、「あの不真面目でいい加減な両さんが40年間休まず勤務できたので、この辺で有給休暇を与え、休ませてあげようと思います」「読者のみなさま、本当に長い間ご愛読ありがとうございました」と思いをつづっている。
……
 「こち亀」は、東京の下町を舞台に、並外れた体力を持ち、人情味あふれる警察官・両津勘吉が巻き起こす騒動を描いたギャグマンガ。コミックスの累計発行部数は1億5000万部以上。コミックス最終200巻で、最も発行巻数が多い単一マンガシリーズとしてギネス世界記録に認定された。テレビアニメシリーズが1996~2004年に放送されたほか、人気グループ「SMAP」の香取慎吾さん主演でドラマ化、実写映画化もされた。

http://mantan-web.jp/2016/09/17/20160916dog00m200014000c.html

 物心ついた頃には既に……というほどではないにせよ、少年漫画が僕の生活の身近なところに入り込む頃には、「両さん」はいつの間にか当たり前のようにそこにいたと思う。ただ週刊誌を毎週追いかける生活はしていなかったので、本編についての話は単行本経由で知るか、学校等で出る話題の中で何となく知るかといった感じだった。いちばん熱心に読んでいたのは、単行本で言えばだいたい20~50巻くらいのあたりで、作中新登場キャラでいえばたぶん「麻里愛」登場のあたりからあんまり読まなくなったような記憶がある。なぜ読まなくなったのは自分でもよくわからないけれど、しばしば語られる作風の変化のせいでもあるだろうし、もっと単純に僕のほうの嗜好の変化に由来するものかもしれない。



こち亀:40年間支持された理由 時代に合わせて柔軟に変化(2016/9/18)

 ……
 しかしなぜ「こち亀」は40年も続いたのか。一つは「時代に合わせて変化した」ことだ。連載スタート当時、「こち亀」は主役の両さんこと両津勘吉は天丼を盗み食いした猫に銃を乱射し、道を聞く民間人を怒って追い返す荒くれ者だった。
 本作も秋本さんも、当時のジャンプの中では「新人」に過ぎなかったから、「ドーベルマン刑事」など豪快な連載誌のカラーに合わせたのだろう。それが、60巻以降はめっきりソフトになった。21世紀に入ってからは、銃を発砲しているコマを見つけるほうが難しい。
 (略)……
 さらに、この中でキャラの「選抜」も行われている。初期の中川は第1話に出てきたあとしばらく出ない「単発キャラ」だったが、後にレギュラーに抜てき。逆に両津の良き相棒だった戸塚はガラが悪かったせいか、途中から消えてしまった。それにネットやPC話があるたびに出てくるハイテク一家「電極家」など、テーマごとの面々もおおむね決まっている。豊富なキャラの投入ないし整理により、時代に合わせて作風をチューニングしてきたのだ。
 (略)……
 「こち亀」がただギャグだけに徹していたなら、とっくに作品の寿命は尽きていたはずだ。日常を破壊する爽快(そうかい)感や豊富な雑学ネタ、ハイテクやホビー、人情噺や家族といった要素を貪欲に取り込み、「長期連載に耐えうるシステム」を作り上げていったから、マンガ家志望者が殺到する「週刊少年ジャンプ」という苛烈な“戦場”で40年もの歳月、ゆうに親子2世代を超えた支持を勝ち得たのだ。
 ……

http://mantan-web.jp/2016/09/18/20160915dog00m200052000c.html

 いずれにせよ、僕がまだ読んでいなかった頃から僕がもう読まなくなった後まで、『こち亀』はずっと続いていった。その読まなくなった時期に、1996年からTVアニメ版が8年間放送されていたが、興味の離れていた僕はほぼまったくと言っていいほど見たことがなく、先日連載終了に合わせて放送された単発スペシャル版のアニメに「懐かしい」という声が多数見受けられたことに、ちょっと不思議な感慨を覚えたりもした。少なくとも一時期はかなり好んで読んでいたはずの作品ではあるけれど、これだけ展開が長期間に渡れば、単に場所が違うだけでなく時代もまた違うところで、同じ作品の異なる部分を、僕とは異なる形で好んでいた人がたくさんいて、そういう人たちが愛する『こち亀』は、たぶん僕の中で愛されていた『こち亀』と、名前も原作者も同じなのにまったく違う存在なのだろう。それもまた『こち亀』の孕んだ豊かさなのかもしれない。



共有資産

2016年09月12日 | 日記

アニメ評論家の藤津亮太氏、2ch系まとめブログにWeb連載記事の全文を無断転載され抗議へ(Togetterまとめ)
2ch記者「Webに公開された情報は利用者全員の共有資産です。そんなに見られて恥ずかしい文章ならパスワードかけて会員限定記事にして下さい」(Togetterまとめ)


「ばっかでー」の一言で済ませてもいい話ではあるんだけど、件の人物が草創期から今までずっと2chをネット上の活動の主拠点にしていたらしいと聞いて、何だか胸の奥にざわっとした感触を覚えるところもある。
 例の“2ch記者”が2chを活動拠点(というのも大げさな表現だけど)として利用し始めたらしい15~6年前は、まだまだインターネットの商用利用が本格的に始まるよりずっと前の時代であり、ネット全体が善かれ悪しかれ有志的(ボランタリー)に運用されていた時期と言っていいだろう。当時もやはり、厳密に捉えれば著作権問題やその他の法的問題に引っ掛かるような書き込みは2ch上に多数存在していたが、利用者の絶対数の少なさ故にネット経由の情報拡散がまだ大きな力を持っていなかったことや、ネットの商用利用が拡大・普及する前で権利上の利害の衝突が(現在に比べたら)比較的大きな問題になりにくかったこと等の要因で、同種の問題がほぼ看過されがちであった。
 そうした空間で自らのネット上の作法を作り上げただけでなく、その後のネット利用の普及と商用利用の一般化という環境の変化に適応することなく(その必要性を感じることなく)今日までやってこれたのは、果たして“2ch記者”にとっては幸福だったのか不幸だったのか。“誰にも縛られたくないと逃げ込んだこの夜に 自由になれた気がした15の夜”なんて歌もあるけれど、彼にとってはそんな気分のまま居続けられたであろうネット上の空間こそがニライカナイ(琉球神話の「常世の国」)そのものだったのかもしれない。


 ところで、僕がこの話題に、冒頭で書いたようなざわっとした感触を覚えたのは、恐らく例の人物が2chに出入りし始めた時期からそれほど遠からぬ頃、外部テキストのコピペのような直接著作権問題に絡む話ではないものの、精神性(?)においてどこか似通った2ch上の流行に乗っかっていたことがあるからだ。
 平たく言えば、AA系の板における「虐」ネタのことだ。当初は散発的なレスの一部に過ぎなかった虐AAは、だいたい2002年に入った頃から急速に板全体に拡大して、あちこちで自治議論なども交わされたが、その中で何となくコンセンサスとして定着したのが、明らかなコピペ以外は管理者削除対象にならないというものだった。このコンセンサス自体は今考えても妥当なものだろうとは思うが、当時の虐ネタには元々虐ネタではないものを虐ネタに改造したものなどもあり、これは削除対象となる「コピペ」には含まれなかった。これは文字テキストの組み合わせにより手軽に製作・複製・改造が可能であり、それ故キャラクター自体の独自意匠が曖昧であるというAAキャラの特性に即した方針であるが、結果的にはあらゆるものが虐ネタ化していくという流れの一助にもなったように思う。
 このコンセンサスの根底にあった基本的な考え方は、僕なりに表現するなら、AAキャラは特定の個人によって使用が独占されない共有の資産であり、それ故に単純コピペ以外の表現については共有資産の正当な使用の一環として、掲示板の運営の妨害と見なされるべきではない、といった感じだろうか。その発想からのつながりで、そんなに虐ネタ改造されるのが嫌なら自前の個人サイトにでも引きこもってろ、2chにAAを描くからには自分の望まぬ方向に改造されるリスクくらい覚悟しておけ、といった趣旨のレスもたまに見かけたように思う。
 先ほどの「ざわっとした感触」は、当時しぃやちびギコを純粋にかわいい愛玩キャラとして愛でていた人たちからは間違いなく“虐殺厨”として見られていたであろう、あの頃の僕自身のやや形を変えた鏡像を見たような気がしたからなのかもしれない。


保守

2016年09月08日 | 日記

「保守」という言葉は人により意味するところが大きく違いすぎるので、複数のテキストにまたがって同じ「保守」という単語が使われていても、それらが全て同一の意義・指示内容を示しているとは限らない(その他のあらゆる言葉にも言えることだけど)。
 ただ、歴史を遡って、「保守(主義)Conservativism」ないしそれに類する思想がある程度まとまった形で提起されている文脈を参照すると、元々「保守」はそれ自体として自立的・自生的に産み出された概念装置ではなく、世界に対する人間の認識や働きかけを人為的かつ計画的にコントロールしていこうとする発想に対するカウンター概念として提起されたものであり、人こそ違えど提唱者の根底に共通して存在したのは、今様に表現するなら「バタフライエフェクトへの畏れ」の感覚だったのではないか、と思える。具体的には、デカルトの普遍主義に対するジャンバティスタ・ヴィーコの批判や、フランス革命とそれを支えた近代啓蒙主義に対するエドマンド・バークの批判あたりを念頭に置いているのだが。
 そういう「保守」イメージを僕は持っているため、社会の現勢態を変更しようと考えて、その変更後のビジョンの原型として現勢態よりも時系列的に古く、今は現存しない社会構造等を参照する発想は、その原型が時系列的に古かろうが、僕の目には「保守」ではなくむしろ「革新」「革命」の発想に見える。


言外のニュアンス

2016年09月07日 | 日記

SF作家山本弘氏、映画「君の名は。」の天文学的描写ミスを指摘する(ネタバレ無し)(Togetterまとめ)


 元の話は別に作品全体を批判してるんじゃなくて、全体的にはいい作品だけどここはちょっと、くらいの話なんだよね。ただ、その「ここはちょっと」の部分の語気(?)が非常に強いせいで、なんだかコメントが余計な紛糾の嵐の中へ突入している。
 で、そんなコメント欄を眺めながら、本筋とは関係ないところでつらつらと思ったこと。


 語られている内容とその語り口の語気やニュアンスには直接の論理的繋がりなんてないんだから気になるならスルーしろ、って言い方も成立しないわけじゃないけど、実際のコミュニケーション実践においては発言の意味論的な内容とその表現様態が必ずしもきっちり切り分けられるとは限らない。こうしたことは、なにもコミュニケーション構造を細かく分析したことがなくても、日常的にはほぼ全ての人が漠然と認識し、また自分でも実践しているはずだ。
 細かな語気の強弱で相手の感情のありかを推し測り、それと発言内容とを総合して、相手はこの発言によってどのような意図を伝えようとしているのかを解釈していくのは、日常的なコミュニケーションの場ではありふれたことであり、「言葉の意味内容だけからみればAだけど、言葉の分量や語気から推測される語りのウェイトの置き所を勘案すると、恐らくBという発言意図なのではないか」という推量などよくあることだ。「よろしく」という、言葉尻だけを見れば単なる挨拶言葉だって、被告側暴力団員が裁判員に対して言ったとなれば、発言者と聞く側が今社会的にどういう立場にあるかという、言葉の意味論的内容に含まれない発言を巡る周辺状況を勘案して、たちまち脅迫的意味を含んだ“声かけ”事案という扱いになる。それを「相手が言っていないことを勝手に読み取るマン」扱いにするのは、コミュニケーションの実践的な有り様を理解していないか、あるいは理解していてもニュアンス解釈を無視した方が自分にとって都合がいいのでわざと「言葉の意味内容だけを見ろ、他は見るな」と主張しているかのどちらかだろう。
 この種の言外のニュアンスを利用した応用技(?)として、言語に現れる表面的な意味内容以外のところでのみ、相手に自分の意志を伝達するというコミュニケーション様態もあって、例えば「腹芸」のように、言質を取られないような形で意志を伝えるというものもある。こうしたコミュニケーション様態は、メッセージの送り手が「受け手は語句の表面的な意味内容に現れてない“真意”を解読してくれるだろう」と期待する時に発せられる。受け手がその解釈を見誤る可能性だってないわけではないが、それは言語解釈そのものにだって多かれ少なかれ付きまとうものだ。
 先ほどから悪い例ばかり出しているが、もっぱら言語外のニュアンス等にのみ依拠したコミュニケーションは、形を変えれば映画などで時折見かけるような、具体的な言葉に出さずに相手に愛情などを伝える“粋”な意志疏通につながることもある。「何でもかんでも台詞で説明しようとするんじゃねえ! 特に邦画のあれとかこれとか!」みたいなことは宇多丸師匠の映画評などでも時々聞かれる言葉だ。
 人間のコミュニケーションなんて、語句の意味内容にのみ現れる部分では収まらない多面的要素をいくらでもはらんでいるし、明確に意識しているか否かは別として、僕たちの日常的なコミュニケーションの中にもその多面的要素はごく普通に入り込んでいる。その要素を分析的に切り分けること自体には意義があっても、「言葉の上で明示されていないのでその言語外ニュアンスは無かったものと見なす」という判断は、あるいは「そのように見なすべきだ」という規範的判断は、少なくともコミュニケーションの実践的側面について考える場合には非現実的かな、とは思う。


仮面ライダーカブト

2016年08月31日 | 日記

 劇場版仮面ライダーカブト「GOD SPEED LOVE」公開から丸十年と聞いて、久々に見返していた。平成ライダー映画の中でははっきり言って下から数えたほうが圧倒的に早いような人気の無さだけど、僕は妙に気に入っているんだよなぁ。確かにいろいろ出来の良くない部分もあるし、TV本編の前日譚を目指しつつ結果的にTV本編と話が直接つながらなくなった等の問題もあるけど、カブトにおける“ヒーロー性”がどのあたりに置かれているのかはわかりやすい(TV本編だけだと多少わかりにくい)。
 主人公・天道総司の傲岸不遜なキャラの印象が強すぎるのであまりピンと来ない感じもあるけれど、カブトにおけるヒーロー像って決して「目立ってなんぼ」のものではなく、むしろ人目につかないところで万人が生きていける基盤(インフラ)を整備・維持するタイプのヒーローとして作中世界では位置付けられている。この点はTVでも劇場版でも基本的に共通していて、ワームとのメインバトルが誰の目にも止まらないクロックアップ状態の中で行われていることに加えて、劇場版では「天道が7年前の大破局から世界を救ったことを知る者は誰もいない」というプロットの根幹部分に現れている。そしてTV版では、天道がしばしば強調する「天の道」が、作中では実際にどうやって、どういう方向に向けて追求されているのかを追っていけば、「天の道」とは実際には共存のために人目につかないところで行われる「地ならし」のようなものであると、なんとなくわかるようにはなっている。


追体験

2016年08月28日 | 日記

 ここのところ、デヴィッド・ボウイやクイーンといったあたりの昔の曲を好んで聴くことが多い。世代的にはリアルタイムで接していてもおかしくはないけれど、当時はそれほど興味がなかったのでまったく聴き馴染んでいない曲ばかりだ。例え世間的には有名な曲であっても、そうした音楽は僕にとっては“新しい曲”そのものだ。でも、僕と同世代の他の人にとっては、きっと遠い記憶の中に霞みつつある“懐メロ”になるのだろう。
 以前、見たことがない昔の地方CM動画をしばしば好んで眺めていたことがあるのも、恐らくこれと似たようなものだろう。あの頃、自分が生きていた空間とは違うところで、同じ時代に繰り広げられていた別の人生・別の世界・別の文化を、遅かりし今になって少しでも垣間見たくなるという欲望。
 もちろん、今からそうした文物を追体験したところで、同時代にリアルタイムで同じ文物を体験した人と同じ人生を、今から得られるわけではない。その文物が当時世間的にヒットしていたものであればあるほど余計に、そうしたものを摂取した時の感慨を、今の僕は他の誰とも分かち合うことが出来ず、たった一人で自分の中に消化していかなければならない。その奇妙な孤独感が、何故かほんの少しだけ心地よくも感じられる。

David Bowie/Pat Metheny - This Is Not America (Promo Clip)