言外のニュアンス

2016年09月07日 | 日記

SF作家山本弘氏、映画「君の名は。」の天文学的描写ミスを指摘する(ネタバレ無し)(Togetterまとめ)


 元の話は別に作品全体を批判してるんじゃなくて、全体的にはいい作品だけどここはちょっと、くらいの話なんだよね。ただ、その「ここはちょっと」の部分の語気(?)が非常に強いせいで、なんだかコメントが余計な紛糾の嵐の中へ突入している。
 で、そんなコメント欄を眺めながら、本筋とは関係ないところでつらつらと思ったこと。


 語られている内容とその語り口の語気やニュアンスには直接の論理的繋がりなんてないんだから気になるならスルーしろ、って言い方も成立しないわけじゃないけど、実際のコミュニケーション実践においては発言の意味論的な内容とその表現様態が必ずしもきっちり切り分けられるとは限らない。こうしたことは、なにもコミュニケーション構造を細かく分析したことがなくても、日常的にはほぼ全ての人が漠然と認識し、また自分でも実践しているはずだ。
 細かな語気の強弱で相手の感情のありかを推し測り、それと発言内容とを総合して、相手はこの発言によってどのような意図を伝えようとしているのかを解釈していくのは、日常的なコミュニケーションの場ではありふれたことであり、「言葉の意味内容だけからみればAだけど、言葉の分量や語気から推測される語りのウェイトの置き所を勘案すると、恐らくBという発言意図なのではないか」という推量などよくあることだ。「よろしく」という、言葉尻だけを見れば単なる挨拶言葉だって、被告側暴力団員が裁判員に対して言ったとなれば、発言者と聞く側が今社会的にどういう立場にあるかという、言葉の意味論的内容に含まれない発言を巡る周辺状況を勘案して、たちまち脅迫的意味を含んだ“声かけ”事案という扱いになる。それを「相手が言っていないことを勝手に読み取るマン」扱いにするのは、コミュニケーションの実践的な有り様を理解していないか、あるいは理解していてもニュアンス解釈を無視した方が自分にとって都合がいいのでわざと「言葉の意味内容だけを見ろ、他は見るな」と主張しているかのどちらかだろう。
 この種の言外のニュアンスを利用した応用技(?)として、言語に現れる表面的な意味内容以外のところでのみ、相手に自分の意志を伝達するというコミュニケーション様態もあって、例えば「腹芸」のように、言質を取られないような形で意志を伝えるというものもある。こうしたコミュニケーション様態は、メッセージの送り手が「受け手は語句の表面的な意味内容に現れてない“真意”を解読してくれるだろう」と期待する時に発せられる。受け手がその解釈を見誤る可能性だってないわけではないが、それは言語解釈そのものにだって多かれ少なかれ付きまとうものだ。
 先ほどから悪い例ばかり出しているが、もっぱら言語外のニュアンス等にのみ依拠したコミュニケーションは、形を変えれば映画などで時折見かけるような、具体的な言葉に出さずに相手に愛情などを伝える“粋”な意志疏通につながることもある。「何でもかんでも台詞で説明しようとするんじゃねえ! 特に邦画のあれとかこれとか!」みたいなことは宇多丸師匠の映画評などでも時々聞かれる言葉だ。
 人間のコミュニケーションなんて、語句の意味内容にのみ現れる部分では収まらない多面的要素をいくらでもはらんでいるし、明確に意識しているか否かは別として、僕たちの日常的なコミュニケーションの中にもその多面的要素はごく普通に入り込んでいる。その要素を分析的に切り分けること自体には意義があっても、「言葉の上で明示されていないのでその言語外ニュアンスは無かったものと見なす」という判断は、あるいは「そのように見なすべきだ」という規範的判断は、少なくともコミュニケーションの実践的側面について考える場合には非現実的かな、とは思う。



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